白く濁った水の中にいるような気分だった。すべてが曖昧で、靄の中をかき分けるように歩き続けていた。ふと意識が浮上して、光がまぶしく目を刺した。見れば周囲は切り拓かれていてどこか南米のプランテーションを想起させた。灰色の男は思った。「まただ」と、「また、ここにきてしまった」と。遠くに門が見えた。門構えは立派だが、ところどころ錆びれているのが遠目にも分かった。その門の奥には庭園があり、噴水があり、そして大きなお屋敷が建っていた。男はこれまでにも、ここに幾度となく足を運んできた。目的はここに、自らが押し込んだ女に逢うためだった。女が息災にしているのか、確認も兼ねていたが、ほとんど男の一方的な自己満足であると、男は考えていた。
足元を見ると、靴は泥だらけで、自慢の灰色のコートもひどく汚れていた。全身泥と埃に塗れていた。ずっと、はるかコロンビアの密林の奥地から歩き続けてこの地までたどり着いたらしい。帰りの飛行機にも乗らずに。男は濃い疲労を感じていたが、それ以上に、ロアナプラで待たせてあるレヴィに対して億劫になるほど強い罪悪感を感じていた。感じてはいたが、彼の足は最早と言うなかれ、常と同じように言うことを聞かず、赴くままに荘園を抜けて一路お屋敷へと向かって進んでいた。男の足はわざと大きな足音を立てながら歩いていた。彼女に気が付いてほしいと思っていたのかもしれない。このお屋敷に勤めている唯一の女中…メイド…である、ロベルタという女に。
「三か月ぶりかな、友よ。ようこそ。また会うことができて嬉しいよ」
「……」
ちょうどお屋敷の門をまたいだところで、男のことを出迎えてくれたのはこの館の主である壮年の男性と背の高い女中だった。クラシカルなヴィクトリアンメイドの洋服を身に纏った、隙のない立ち居振る舞いの女中が、男の来訪を歓迎する主人と男のやりとりを黙って見守っていた。泥だらけの客人に嫌な顔一つ見せずに、両手を広げて歓迎してくれたのがディエゴ・ラブレス…著名な南米の貴族家の現当主であると同時に、やや傾き加減のこの家を篤実な人柄で背負っている一人の立派な丈夫である。ディエゴの脇に黙って立っているのが、例のロベルタというわけだ。灰色の男はロベルタに一瞥を遣ると、実に淀みない所作でディエゴと抱擁を交わした。仕立ての良いディエゴのセーターとスラックスが一緒になって泥だらけになってしまったが、彼は友人の来訪を心の底から喜んでいる様子で、服の汚れなど気にしたそぶりを見せなかった。
「また世話になるよ。今回は三日くらいかな」
「もっと長くいてくれてもいいんだよ?」
「いやいや、僕はガルシア君に嫌われているからね。あんまり長居はできないよ」
「…ガルシアも、もうそんな年頃かね」
抱擁を終えると、ディエゴと少し話しながら屋敷の中を歩くのが恒例行事なのだが、灰色の男の言葉にディエゴが目を丸くした。穏やかな顔だが、まさか愛息子が友人に隔意を抱いていたなんて、と驚いている様子だった。男は少し微笑んで、跡取り息子の勘は正しいことを付け足した。
「彼の感覚は正しいよ。ディエゴが不用心なだけさ」
「そうでもないよ。だから、こうして安心できる友人を二人置いておくんだからね」
「知らぬ間に、厄介を運び込んでないといいんだが…」
「安心したまえ、君の仕事は確かなものだ。今のところ、君のおかげで私たちは平穏に暮らせているよ」
「そうだといいんだが」
そこでディエゴとの話は終わった。「あとはロベルタに任せよう」そう言って、ディエゴは服を着替えることもなく農園の方へと顔を見せに行ってしまった。残されたのは灰色の男と、この家の唯一のメイドであるロベルタだけだった。ロベルタは野暮ったい眼鏡のレンズのせいで目元が非常に伺いにくいが、それでも優しい目をしているのが男にはわかった。ディエゴは行ってしまったのだし、もう気持ちを抑えておくのも限界だったのだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
どちらからともなく言い合った。西部劇でよく見る撃ち合いの決闘じみた、完璧な間の取り方だった。かっちりと嵌め込まれるように、二人の声は被せあうこともなく、互いの奥の方へと浸透した。
「お召し物を替えましょう。でも、まずはお風呂でおくつろぎになって下さいまし。旅の疲れをしっかりと取ってから、それからお夕食にしましょう。お夕食で何をお話しされるのか考えておいてくださいませ。旦那様も長旅だった貴方とのお話を楽しみにしておいでですから」
「長旅と言っても…ほとんど覚えていないんだけどね。でも、話せることなら大分あるよ。ワニやヘビなら色々と見た記憶があるし、なんだったら光る虫だって見たんだからね…あとは、気を付けてないと何を食べてここまで来たんだったか忘れちゃうな…別にこの話はいいか、折角の美味しいご飯が不味くなりそうだもの」
「あら、それならわたくしがいつも若様にして差し上げているお話と大差ありませんわね…光る虫なら私だって、わたくしだってたくさん見る機会がありましたから」
「違う違う、僕が言ってるのは日本で見た蛍の話だよ。ピュンピュン飛び交う蛍光緑だったり赤だったりする奴じゃない」
「あらそうでしたか…それは失礼いたしました。ついつい、貴方とは慣れない口調でお話しているものですから」
「いつも通りに話してごらんよ。ガルシア君だって聞いちゃいないよ」
「…それでも、でございます。もうすこしだけ待っていて下さいませんか?もう少しでお風呂のあるお部屋に着きますから」
「君は、律儀だなぁ」
「それだけが取り柄ですもの」
ロベルタは口元に微笑を浮かべながら男を風呂場へと案内した。柔らかい笑みには、遠い海まで漁に行って戻ってきた亭主を出迎える女房が浮かべるような安堵の色が濃く表れていた。それは噛み締めるような儚い微笑みだった。ロベルタが前を行くせいで、男には彼女の背中しか見えない。けれども、鍛えられた彼女の背中を透かして見るように、男には彼女の温かい微笑みの意味が伺えた。それは冬に凍えた指先をストーブで炙る時のようにじわじわと広がっていく。その温もりを二人だけが確かに感じるのだった。二人は軽口を、二人の基準では軽口を交わしながら風呂のある部屋に一緒に入っていった。まだ風呂は沸いていない。これから沸かすのだ。沸かすまでの間が、二人の逢瀬の時間にはちょうどよかった。これも、お屋敷に来るたびに繰り返されてきたことだった。いつも通りの出来事だった。
服を脱ぐと、灰色の男は意外と瘦せ型に見えた。ひょろりとしていて、短躯である。顔は整っていて、こうして裸になると途端に加護欲を擽る甘い所在なさげな面持ちをしていた。儚げな容貌とは裏腹に、この肉体には恐るべき力が備わっていたが、そのことを知るのは彼の相手になったことのある者か、彼の隣で彼の仕事を目撃して生き残ることができた幸運か、はたまた不運なものだけである。対して、服を脱ぎ、眼鏡を外した、女中の身体は鍛え上げられていて、まさしく機能美に充ちていた。ほんの僅かな余分な贅肉も無く、しかし、肉は柔軟でいて、肌と髪からは女性的な匂いが薫った。体のあちこちに傷があるという点においてのみ、彼と彼女は重なって見えた。二人は互いの身体をゆったりと揺すりながら、じっくりと言葉を交わした。
「今回はどうしたの?」
「仕事の帰りに、えっと、気が付いたらここにいたんだよ」
「いつも通りね…寂しくなったのかしら」
彼女が小首をかしげると、黒く長い艶やかな髪が揺れた。三つ編みにしてあった長い長いそれは、今は解かれて好き放題に男の肌に汗と水気を吸って張り付いていた。彼は彼女の問いに真面目腐った顔で答えた。
「うん。きっとそうだ」
「私のことが恋しくなったのね」
「うん。そうなんだ」
そこまで聞いて、逆の方へ首をかしげて見せた女が言った。
「また…誰かを待たせてるのね」
「海の向こうでね」
「酷いひと」
彼にまたがっていた彼女は体を倒した。手を男の両脇につくと、仰向けの彼の顔を真正面に見据えて、垂れる黒髪の中に男のことを独占するようにして彼女は耳元で囁いた。肌が密着して燃えるように熱かった。汗が混じりあい、彼の鼻先を彼女の髪の匂いが擽った。
「でも赦してあげる。貴方はそうできているんですもの。だから、そうやって生きるしかないんだわ」
「…そういうもの、なのかな」
決めつけるように彼女は言った。そうに違いない。そうでなくては困るといった風に。彼はそのことに素直に頷きながらもどこか遠くを見つめていた。彼女はそのことに気が付いて、男の頬に頬をそっと寄せた。それから目を閉じると、祈るように耳元でつぶやいた。
「そういうものなのよ。だから、この場所に来たら、私のもとに来たら、余計なことは何も考えなくていいの」
「うん。余計なことは、何も考えないよ。だからほら、こうしてる。君と」
男の意識は確かに、今、彼女のものだった。彼女は満足げに笑みを深くして、牙を剥き出して彼の首に舌を這わせた。誘惑するように舌を這わせると、肌を磨くように舐めずりながら言った。
「ええ、それでいいの。貴方は私に甘えていればいいの…この場所は、貴方が守ってくれているこの場所でなら…貴方の罪は赦される。貴方の罪は濯がれる」
「でも、キレイになったら、君と逢えなくなるじゃないか」
「だから、また汚れてちょうだい…その時は、またこうして私の身体で洗ってあげるから」
彼女はじっとりと粘つく目で男の顔を伺い見た。何と言われてもいい。何と返されてもいい。それでも、今だけは私のものだ、と心の中で言い聞かせながら。しかし、見えた男の顔は、見たことのないものだった。わずかな緊張をのぞかせるそれは、彼女に正気を取り戻させるのに十分だった。
「…」
「どうしたの?」
彼女に問われて、彼は気まずそうに言った。
「…遠くから足音がする」
「…そうね」
耳を澄ませてしばらくすると、確かに足音が聞こえた。革靴の底が硬い床をたたく音だった。広いお屋敷に暮らしているのは当主ディエゴとその息子ガルシア、それから女中のロベルタだけだった。足音は軽快で、大人のどっしりとした足取りとも違って頼りない印象を受けるものだった。十中八九、まだ高校にも上がっていないガルシアだろう。
「軽い足音だ。ガルシア君かな」
「…そうみたいね」
わざわざロベルタに引き戻すために、ガルシアの名前まで出したというのに、彼女の動きは止まらなかった。頬と頬はぴっとりとくっついたまま。肌は瞬間接着剤で繋げられたみたいに微動だにせず、密着して熱交換を絶え間なくしていた。
「君を探してるみたいだよ」
「そうかしら?」
二人の超人の耳には「ロベルタ、どこにいるの?」という声がはっきりと聞こえる距離になっても、ロベルタは現れない。彼は痺れを切らしたように彼女にひそめた声ではっきりと耳打ちした。
「君の名を呼んでいるじゃないか」
「私の名前?」
「あぁ…」
頬を密着させたまま、スライドさせるように彼女の顔が動いた。彼の下唇を、逃がさないとばかりに噛み、舌で舐りながら食む彼女の顔は恍惚としていた。
「ふふふ…今の私はロザリタなのよ?」
「ああ…」
「貴方は、私のもとに帰ってきたの…三か月ぶりに」
「ああ」
「長かったわ…でも、よかった。貴方が無事で。貴方が、また私の元を訪れてくれて…また、汚れてくれた…ねぇ、ひどぉい女でしょう?」
ガルシアの足音は何事もなく遠ざかっていった。最初からわかりきっていたような、自信に充ち溢れた顔でロザリタは彼の唇を奪った。唇が離れてから、彼は目を細めながら感慨深げに言った。
「そうだな、君はひどい奴だ…」
「ふふふ…あはは…でも、貴方のほうがよっぽどひどぉいのよ?貴方が私にしたこと、覚えているわよね?」
「覚えているよ。今だって、ずっと同じじゃないか。たまたまその時は君だったんだよ」
「そうよね…貴方は仕事で、私は女だった。貴方は女子供を撃たない人で、私はどうあっても撃たれないまま…」
ロザリタはぶるりと身を震わせた。泡の乗った肌には鳥肌が立っていた。耳まで赤く紅潮していた。彼女は興奮していた。キューバ仕込みの暗殺術、破壊工作術のことごとくを男によって片手間に片づけられた時の感慨を思い出して、ただそれだけで達したのだ。何度となく、それこそ何度かは自ら進み出て射線に入ったにもかかわらず、男は彼女を撃たなかった。右に投げられ、左に投げられ、転がされ、組み敷かれて、何度も放流された。そのたびに頭をこねくり回して、どうすればこの男を殺せるのか寝る間を惜しんで考えた。食うものも食わずに考えた。そしてすべてを実践し、見事にすべてにおいて上をいかれた。すべてを凌駕されて、すべてを打ち破られた。またしても組み敷かれて、一言「弱い」。それだけ。それだけで彼女の自信も忍耐も使命感も、何もかもを洗い流してしまった。ロザリタは泣いた。恥も外聞もなく泣き喚いた。「どうして死んでくれない?」「どうして私は弱い?」「どうしてそんなに強い?」のかと。男は答えて曰く、「僕にもわからない」とまた一言ぶっきらぼうに言うだけだった。そこでようやくロザリタは自分が今までしてきた何もかもを思い出して、別の涙を流した。戸惑う男の胸に顔をうずめて、赤子のように泣いた。行き止まりだった。もう何のためにも戦えなかった。ロザリタは死んでいた。戦士として、兵士として、もう使い物にならなかった。男はそんなロザリタを今の家まで連れてきてくれた。偶然にも、ロザリタも知らない人ではないディエゴの庇護のもと、彼女はロベルタとして暮らしている。今は普通の女中として。男はそれ以来、折を見てはロベルタのもとを訪れては、ロザリタがロベルタになる前に最後に男にそうしたように甘えるのだ。死んだはずのロザリタを呼び戻して、介抱するように。互いに傷を慰めあうように、汚れを濯ぎに来るのである。ロベルタの今を生きる意味が、そこにはある。
「あれだけ命を狙ったのに撃たれないまま、それどころかすべての手を躱して片手で転がす始末…猫みたいに弄ばれたわ…忘れもしない」
「弄んでないよっ…軽く撫でただけさ」
そう言って男は彼女の頬を撫で、頭を撫で、髪を手櫛でゆっくりと梳いた。時間に押し流されることもなく、彼と彼女は感傷を共有していた。
「もっとひどぉいわね、くふふ…ふふ…あの時は、遊ばれてると本気で思ったの…でも、貴方は本気だった」
「うん。本気だった。本気で殺すつもりじゃなかった」
彼があっけらかんと言うので、彼女は首を振った。
「違うわ…そうじゃない」
「じゃあ、なんだっていうんだい?」
「本気で、向き合ってくれたんだって、そう、思ったのよ」
「…それも、本気だったよ」
彼が目を泳がせてそう言うと、粘つく視線は一変して、心底愛おし気な瞳が彼に降った。どうしようもなく愛らしいものを見る目だった。それが彼にはこそばゆかった。
「ふふふ、貴方の場合、どうして自分がこうも何度も襲われてるのか本気で悩んでいたものね」
「日記を書くくらいには参っていたよ」
「読んだのよ、あなたの日記。下手な字が綺麗に並んでて、ちょっと涙が出るほど笑ったわ」
「ひどいや、真面目に書いてたのに…君の所為なのに」
「…そう、私の所為。だから、気にしなくていいの。何も心配いらないわ」
ロザリタは彼の鼻先を吸うように口づけると、彼の身体をまた、何度も揺すぶった。彼は深い息を何度か吐いて、彼女はその度に手で優しく彼の頭を撫でてやった。汗をぬぐってやり、それからゆっくりと風呂に入れてやると、もうちょうどよい時間になっていた。
「さぁ、お客様、ご当主様がお待ちでございます。若様も首を長くしてお待ちですよ?」
風呂上がりにディエゴのお古を着せられた彼を伴って、彼女は食卓まで案内する道すがらにそんなことを言った。彼は首をすくめて、「若様が待っているのは君だけだよ」と全く真っ当なことを言ったのだが、そのことが却って彼女の笑みを深くした。
食卓は思ったよりも賑やかなものだった。流石にロベルタは給仕のために立っていたが、ガルシアがこれ見よがしに「これもおいしいよ」とロベルタにスプーンで餌付けをしてはディエゴに叱られていたから、実際のところは四人で食卓を囲んだようなものだった。食事の会話はほとんどディエゴとガルシア、ディエゴと男、ディエゴとロベルタによるもので占められていて、男がロベルタと話そうとすれば必ずと言っていいほどガルシアが男の声に声を被せて話の腰を折った。そのたびにディエゴからはしたないとガルシアに注意が飛ぶので、ガルシアとロベルタとの会話も長くは続かないのだった。
「相変わらず、本当に三人きりなんだなぁ」
「ははは、本当にそうかな?今日は四人きりだと思うが。それに、最近は敷地からレアメタルが出てしまってね…日本からもはるばる客人が来るくらいには賑やかだよ」
「レアメタルで使用人をもう一人雇えるくらいになればいいな」
彼のは全くの軽口だったのだが、その言葉には意外と真実味があったせいか、ガルシアが大きな声を出した。
「僕はロベルタだけでいい!」
ディエゴは慣れ始めていたのか、これを驚くでもなく穏やかな口調で窘めた。ディエゴは終始穏やかな感触で、晩餐を素直に楽しんでいる様子だった。そしてそれは男も同じだった。久しぶりのまともな食事に、彼の胃袋も喜んでいたのだ。よって、ガルシアの敵意がこもった視線もなんのそのであった。
「ガルシア?それじゃあロベルタが大変だろう?」
「そうだけど…」
ガルシアの憤懣やるかたない様子を見て、ここでメイドのレンズがきらりと光った。
「私が二人分の働きをすればよいのでございます」
ロベルタがそう言うと、ガルシアはすかさず彼女のことを擁護する。
「もうロベルタは三人、いや十人分くらいは頑張ってるよ!あっ…ごめんなさい」
流石に大声を出しすぎたと自覚したのか、男が何をするまでもなく独りでに沈静したガルシアを横目に、場を締めるようにディエゴがこう言った。
「それでも、事業が軌道に乗ったら考えてみよう。なに、ロベルタがいなくなるわけじゃない。ロベルタにはずっといてもらいたいからね」
ディエゴの言葉にガルシアは特別な意図を何ら感じずに素直に頷いた。だが、男とロベルタは食後に何か用事があるのだろうと察しつつ、何食わぬ顔で頷き、食卓を後にしたのだった。
食後、ディエゴの部屋に憚ることもなく入り込んだ灰色の男を前に、部屋の主であるディエゴは使い込まれて柔らかくなった革のソファに身を沈めて彼のことを待っていた。
「食後にどうだい?二人で」
そう言って出されたのは上等のブランデーだった。彼は「話を聞いてから」と言うと、椅子に腰かけずにディエゴが話し始めるのを待った。
「ふむ…レアメタルが出た話はしたと思う。その件で少しね…」
ディエゴの話はこうだ。ラブレス家の所有する土地からレアメタルが産出されることが明らかとなると、その利権に目を付けた麻薬カルテルから立ち退くようにと迫られているのだという。彼は「具体的にはどこの」と尋ね、ディエゴは「マニサレラカルテルだと向こうは言ってるよ」と答えた。ディエゴの言う向こうとは、ベネズエラの然るべき情報組織や官憲の中にある伝手のことをいっているのだろうことは明らかだった。灰色の男は二度、三度、浅く頷いて見せた。それから椅子に腰かけてブランデーを催促するのだった。
「ふ…もう解決した気になってしまう私は悪い人間なのだろうか」
彼のグラスにブランデーを注ぎながら、ディエゴはふとそんなことを言った。彼はそのことに首をかしげて、「実際のところはそんなもんさ」と的外れなことを言ったのだった。
灰色の男はラブレス家で三日ほど過ごすと、何事もなかったかのように消えた。文字通り、朝起きたらいなくなっていたのである。そして、その日のうちにディエゴの伝手からマニサレラカルテルがラブレス家のレアメタルから手を引いたという情報が届けられた。詳細はまだ不明なようだが、カルテルはレアメタルどころではなくなったことだけは確からしい。なんでも、幹部が次から次へと入れ替わるような暗殺劇があちこちで勃発したのだという。
後日、ディエゴがこの時のことを彼に尋ねると、「仕事の予約を一度に消化した」らこんなことが起こったのだと言ったとか。
そうでなくとも、ラブレス家に灰色の男が出入りしていることを知ったカルテルがこの荘園に手を出すことは二度となかったのだが、そのことを知る者はカルテルの生き残りを除いて一人もいなくなってしまったとさ。