アドルフ・ヒトラーはオーストリアに生まれた。
父親は小卒で、以降は独学で上級税吏にまで昇りつめた人物だった。その成功体験があったせいで、父親は家庭内でも家庭外でも権威主義的で自信家な人物だった。
性にも奔放だったらしく、アドルフには兄弟姉妹が沢山いたが、内向的な彼女は兄弟姉妹ともあまり活発に交流することは無く、家の中では基本一人で過ごすことが多かった。
『彼女』と言ったように、アドルフは女性だ。
女に生まれたのにアドルフと言う名前は変だ、と周囲の人は口を揃えて言ったが、アドルフもアドルフの父も耳を貸さなかった。
自分の名前には、何か意味がある筈だ、と。アドルフは物心がついて間もなく、そう確信していたのだ。
アドルフの母親は改名したっていい、と何度となく彼女に持ちかけた。だが、彼女は首を決して縦に振らなかった。
特別な理由も無く、漠然とした確信だけを抱いて、アドルフはその日を待った。
転機はアドルフが小学校に入学したばかりの頃だった。
父親が定年退職を迎え、老後資金の運用を見据えて、田舎町に屋敷と農場を買ったのである。
生まれて初めて経験する引っ越しであった。
父親との仲は可もなく不可も無く。父親の在宅が基本になったことで、娘可愛さのあまり干渉される機会が増えたことはアドルフにとっては嬉しくないことだった。
新しい環境での生活には怯えと期待が半々であったが、それでも小学校への入学が新しい転機になるだろうという確信がアドルフにはあった。
小学校へ入学して間もなく、その日は来た。
小学校の帰り道。道端に呆然と座り込んでいる青年を見つけたのである。かなり年上に見える。困っている様だった。
アドルフは自分が決して聖人君子などではなく、寧ろ捻くれた性分を隠し持っていることにとっくの昔に気づいていた。
だが、この日は何だか気まぐれが働いて、それでつい、青年に声を掛けてしまったのである。
「なにかお困りですか?」
田舎道で、途方に暮れていた青年はアドルフの方を振り向いた。
見れば、変哲の無い男に見えた。特徴がない顔と言えばいいのか、嫌味の無い顔と言えばいいのか。兎に角、あまり見かけない顔立ちだった。
モンゴロイドにも見えるし、白色人種にも見えなくもない。肌は白い。澄み切った碧眼である。だが髪は真っ黒だった。
細身の中肉中背といったところか。全体的にすらりとしている。身に着けている衣服は、いやに古臭い。昔話の騎士道物語に出てくる騎士付の従者のような出で立ちだった。
怪しい奴め。素直にそう思った。
けれど、なぜだろうか、余所者に対する不快感も、見做し外人に対する警戒心も湧かない。
不思議。
視線に気づいた青年は立ち上がった。
青年はアドルフをしばし見つめていたが、自分を見上げるアドルフの好奇の視線に観念して、口を開いた。
話を聞いたところによれば、彼は気が付いたらこの場所に立っていたらしい。
前後の記憶がサッパリ消えており、どうしてここに立っていたのか、どうしてこんなへんてこな格好をしていたのかすら、とんと覚えがないという。
青年は当然ながら住む場所もなく、頼るツテさえないのだという。
一瞬、棄てられた子犬のような顔をして、アドルフの視線に気づいてすぐさまひっこめた。青年はアドルフの元から去ろうとしているのがわかった。
アドルフは青年の手を取り、言った。
「屋敷には、まだ空き部屋があったはず」
だから、着いてこいと言うのだ。アドルフは青年の手を引いた。
上手く言い表せないが、アドルフはこの青年が去っていくことに、足場が崩れる様な恐怖を抱いたのだ。利益が確約された先物取引で囲い込みを敢行する様な、決然とした高揚が胸中に湧いたのである。
青年はアドルフにお礼を言い、アドルフは満足げに彼の謝意を受け取った。
歩幅に差のある二人の影が、ゆらゆら揺れながら帰り道を辿った。
結論から言って、青年はアドルフの家で暮らすことになった。
得体の知れない不審者を連れてきたことに、アドルフは厳格な父親からの大目玉を覚悟していたのだが、青年の話を聞かされた父親は、日ごろの厳格さを忘れた様に青年を歓迎した。
それは母親も、アドルフの兄弟姉妹たちも同じだった。薄気味悪さを感じる程に、青年はほんの僅かな時間の間に、ヒトラー家の一員として認められたのである。
不気味なほどに好意的に青年を迎え入れる家族を見ても、アドルフはまるで違和感を覚えなかった。寧ろ、誇らしささえ感じながら、青年を浴室へと案内した。
旅の汚れをすっかり落とした彼を主賓に据えて、その日の晩餐は豪勢なものが用意された。
長いテーブルの、本来なら家長が座るべき場所に青年が招待されて、青年から見て左右の席に両親が座り、青年の真向かいの席にアドルフが座った。
アドルフは祝日や祭日でも食べられないような豪華な夕食に舌鼓を打った。親切はするものである。
厳格な父親の前では、本来ならば晩餐の時こそがもっとも静かな時間である。だのに、家族は上から下まで青年に興味津々であり、アドルフの兄弟姉妹は勿論、母と父でさえ青年の話を聞きたがった。
青年は自分の生まれや育ちについて何一つ覚えていなかったが、引き換えに歴史について恐ろしく詳しく、まるで実際にその目で見て来たかのように話してくれた。
晩餐はいつになく賑やかになった。はしゃぐ子供たちを、父は一度もぶたなかった。愛用の鞭を取り出す素振りさえ見せず、声を荒げて叱責することもなかった。
優しい声音で「子供は早く寝なさい」と言うと、片付けを母に任せてから、青年に秘蔵の酒まで振舞いだした。
アドルフは驚天動地の出来事に揺さぶられて、父親の人が変わってしまったのではないかと疑ったが、その疑念も長続きしなかった。楽しそうに青年と語らう父親の横顔は、見たことが無いほど穏やかなものであった。人が変わっていたとしても、これは善い方向に代わってくれたのやもしれない。
どうか父親が明日には元通りに、なんてことにはなりませんように。そう、アドルフは願いながらベッドに上がった。
次の日も、その次の日も、父親は変わらなかった。父親も母親も、前よりうんと穏やかになり、子供達に優しくなった。
父親の農園も、青年を家に迎えた次の日から軌道に乗り出して、日に日に、ヒトラー家の食卓は豊かになっていった。
アドルフは誰に聞いた訳でもなく、自分と家族に降ってわいたような幸運が、青年のお陰であることを疑っていなかった。
小学校の高学年に上がったある時、アドルフは同級生からいじめを受けた。
女のくせにアドルフなんて男の名前なのは変だ、というのが理由だった。
アドルフは反論しなかった。変だというのは事実だったからだ。自分の名前が変なのは自分でも理解しているのだ。けれど、どうしても違う名前にするのは、それこそ変な気がしたのだ。
帰り道を一人でとぼとぼ歩いて帰った。母や兄弟から大丈夫かと聞かれても、アドルフは答えない。
夕食が賑やかなものに変わってから早数年。アドルフはふと青年に声を掛けた。
「私の名前をどう思う?」
夕食後の穏やかな時間、この家に住み着いてから働きもせずにのんびりと暮らすことを許されている青年は、アドルフの質問に対して誰に憚ることなく答えた。
恐らく、歴史に名を遺す人の名前だったような…気がする、と。
続けて、彼は善し悪しはともかく、忘れられない名前だ、と。そう言った。
アドルフは、それだけで納得した訳ではなかったが、ずっと抱えていた問いの答え合わせが出来たような気がした。
今はそれでいいことにして、アドルフは青年に礼を言った。
学校でのアドルフに対するいじめは次第に陰湿になった。
名前をからかわれても、自信に満ち溢れて堂々としているアドルフが気に喰わない同級生たちの仕業だった。
名前を理由に虐めても、これ以上はアドルフを傷つけられないことに気がついた同級生たちは、今度は噂に聞いたヒトラー家の居候について囃し立て始めた。
曰く、居候の癖に働きもしないで食っちゃ寝て暮らしている奴がいる、とのこと。ヒトラー家は洗脳されているか、母親が青年にぞっこんに違いない、とのこと。
アドルフは気の毒な子、と言う扱いを受けるようになった。
アドルフは言い返さなかった。だって、彼が働かずに食っちゃ寝をして暮らしているのは事実だったからである。
母親が彼にぞっこんなのも間違いない。だが、それを言えば自分も、兄弟姉妹も、父親でさえも彼にぞっこんである。
アドルフが内向的なのも虐められる理由になったが、父の農園が上手くいったお陰で、この田舎では飛びぬけて裕福になったことに対する妬みや嫉みも理由になったのだろう。
アドルフは癇癪を起さなかったが、それでも家族や青年のことが貶められたことに腹が立っていた。
理路整然と言って聞かせてやることも出来たが、アドルフはそれよりも、もっと確実で効果的な方法を思いついた。
彼女は虐めっ子たちを呼び出すと、これから彼に会わせてやると言って、子供たちをぞろぞろ引き連れて家に帰った。
おかえり。ただいま。
出迎えてくれたのは彼だった。
アドルフは振り返り、虐めっ子たちに言った。
「さぁ、彼に直接言いたまえよ」
次の日から、アドルフは誰にも虐められなくなった。それどころか、虐めっ子たちはアドルフと大の仲良しになったのである。
居候の身分で働きもせずに食っちゃ寝するとは何事だ、とは言えずじまい。彼に会い、彼を見て、彼の声を聞いた途端に、虐めっ子たちはアドルフに我先にと謝りだした。
悪かった。自分が間違っていた。これからは仲良くして欲しい。
口々に言われた言葉をアドルフはすんなり受け入れた。次の日から、放課後は元いじめっ子達を連れて屋敷で遊ぶのが習慣になった。勿論、基本はいつでも暇な青年も一緒である。
青年は子供達にも大人気であった。男の子も女の子も、アドルフを羨ましがった。アドルフは子供達から向けられる羨望の視線に、恥じつつも快感を覚えていた。
アドルフは小学校を卒業し、ギムナジウムに向けて勉学に励んだ。
青年は相変わらず働かずに家にいる。父の農園は順調に業績が伸びており、アドルフは経済的には何の心配も無く学業に励める環境にあった。
アドルフは決して勉強が得意ではなかったし、実際好きではなかったが、自分の興味関心があることに関しては誰にも負けないくらいにはなれるという自負があった。
その時の彼女にとって、一番の関心の対象は如何に青年と離れずにこの先も暮らしていけるか、という事であった。
アドルフは勉学に励む傍ら、両親に相談し、なんとか青年を自分の下宿先で生活させてほしいと訴えた。
両親の反応は、それは自分たちが決めることではない、という事だった。アドルフの願いは青年の気持ち次第だという事だ。
その旨を受けて、彼女は素直な気持ちを青年に伝えた。
「私についてきて欲しい」
青年はまるでさも当然だと言うように、初めからそのつもりだったと答えた。アドルフは安堵と歓喜のあまり青年に抱き着いた。青年は危なげなく彼女を抱きとめると、落ち着くまで背中を撫でてやるのだった。
時が経ち、アドルフは然したる困難にも見舞われずにギムナジウムに合格した。女であるという性別の壁も、学校関係者を青年に会わせればいともたやすく乗り越えられた。本来ならば関係者以外は立ち入り禁止の宿舎であるとも、それが女子寮であろうとも、青年が責任者と一言二言話しただけで、例外的に許された。
実家からは使い切れないほどの仕送りが届いていたが、特筆すべき支出といえば、青年と二人で寝る為に少し大きいサイズのベッドを買った程度で、余った金には手を付けずに青年に預けてしまった。
授業が始まるとあまり時間を取れなくなるからと、学校が始まる前の最後の休日に、アドルフは青年と一緒に学校の周囲を散策したりして楽しんだ。
アドルフは、今更ながらに青年のことがかけがえのないもののように思われたが、あまりにも当たり前すぎて、改めてそんなことを考える自分に疑問を感じる程だった。
この先もずっと、青年が隣に居てくれる限り、自分の幸福は続いてくれる。アドルフは子供の頃に抱いた確信に、実に良く似た感慨を抱いたのだった。
月日が経つのはあっという間で、アドルフは問題なくギムナジウムを卒業し、次なるは大学を見据えて勉学に励んでいた。
だが、ギムナジウムに通いつつ、休日を利用して青年と共に見聞した様々な事柄の中でも、彼女に特に強い影響を与えたものがあった。
芸術である。
オペラであったり、音楽であったり、荘厳な建築物であったり、伝統的な絵画であったり、理想化された古典的な彫刻であったり。アドルフの興味関心はその方向に、殊更に強く惹きつけられたのである。
アドルフは勉学に対する熱意が、まるっきり芸術に対する熱意へと転換されていくのを感じていた。
しかし、かといって突然、進路を美術アカデミーに変更したいと言ったからといって、両親は許してくれるのだろうか。アドルフの脳裏には幼い頃の厳格な父の姿が甦っていた。
悩みあぐねて、眠れない日が続き、勢い余って青年に事の次第を打ち明けてみると、彼から提案されたのは里帰りだった。
一旦里帰りしてみて、腰を落ち着けて両親と相談するべきだ、というのが彼の提案であった。
アドルフは彼の言葉に素直に従って、懐かしい田舎の屋敷へと帰った。
「父さん、母さん、私は芸術家になりたい。絵描きになりたいんだよ」
アドルフは両親に淡々と告げた。彼女にとって、人生で一番大きな覚悟のいる決断だった。そうに違いなかった。
アドルフの言葉を聞いて、母と父は困惑顔だった。ダメか。アドルフは不安に押しつぶされそうになって、盗み見るように隣に座る青年の顔を伺った。
青年はいつも通り、背筋が伸びていて、泰然自若としていて、見守るような穏やかな眼差しをしていた。
彼は基本的に、アドルフと両親との間の問題には口出ししたりしないのだが、この日ばかりは違った。
彼ははっきりと、「僕が付いていくから、大丈夫です」と言った。
アドルフはこの数年間、毎日欠かさず青年と寝起きを共にして暮らしてきた。だが、家にいた頃と同様に、彼が働いているところなど一度として見ていない。
だというのに、彼の言葉には絶対的な安心感と、納得せざるを得ないような説得力があった。
彼の表情には憂いなど一匙も無く、彼の言葉には虚飾も虚栄もありはしない。断固たる自信と、有無を言わさぬ権威が、その言葉には滲んでいる様だった。
彼の言葉が流れを変えた。両親は相好を崩し、ゆっくりと鼻から息を吐いてから、アドルフが美術アカデミーに進学することを認めてくれた。
翌日、屋敷から遠ざかるアドルフと青年の姿が見えなくなるまで、両親は見送ってくれた。
新しい下宿先が決まると、アドルフはその日から狂ったように絵を描き始めた。
有難いことに実家からは変わらず仕送りがあった。アドルフは自分の都合で進路を変えたのだからと、自身の覚悟を示すためにも要らないと言ったのだが、青年を養えるようになってから言えと両親に叱られただけだった。たしかにそれは御尤も、ならばと仕送りを丸ごと青年に預けた所、彼は食料と画材を買って来てアドルフに返すのだった。
絵の勉強を始めると、意外にも彼の存在が以前にも増して大きな影響を与えるようになった。
彼は全ての絵に詳しい訳ではなかったが、特定の画家についてはどんな学術書よりも精細な知識を披露した。
とりわけレオナルド・ダ・ヴィンチとフィンセント・ファン・ゴッホ、葛飾北斎などについては好き嫌いや口癖、性感帯まで知悉しているのだった。
大学に通っても、学術書を紐解いても知り得ない知識がどうして彼の口から語られるのか、アドルフには想像もつかないことだった。だが、アドルフは不思議と彼の言葉のどれ一つをとっても、それが真実であるという事に疑いを持つことは無かった。先ほど挙げた不思議の理由を、強いてあげるとするならば、それは青年が青年だからとしかいいようがなかった。そして、それだけで全てを満たせることに彼女は一片の不思議も感じていないのである。
試験の日まで、アドルフと青年は毎日のように画題を求めて駆けずり回った。あちこちの歴史的な建築物のデッサンをとり、町行く人々の人相を写し取り、オペラとクラシックを貪るように鑑賞した。
そして試験当日の前日に、課題として提出する最後の一枚となる、肖像画を完成させた。モデルに選んだのは、言うまでも無く青年だった。他の何よりも、他の誰よりも、最も普遍的に美しいと思う画題を選んだつもりだ。
アドルフは万感の思いを込めて試験に臨んだ。
試験の結果が届いた。刻まれた文言をアドルフが読み上げた。
「美術アカデミーは貴女を歓迎いたします」
アドルフは歓喜の声を上げて、青年に抱き着いた。青年は彼女を受け止めると、踊るようにくるりくるりと回ってみせた。彼もまた喜んでいるのだ。
アドルフは興奮に裏打ちされた全能感に突き動かされる様に、彼に抱き着いたまま、その身体をベッドに押し倒した。
「明日からは、私が貴方を養います」
アドルフはそう言って青年の唇を奪った。歯が当たったのはご愛嬌だ。
彼女は幸せだった。自分はきっと世界で一番の幸せ者だろう。そう信じて疑わなかった。
熱が引いても高揚感は無くならなかった。それが嬉しくって、彼女は隣でまどろむ青年に静かに身を寄せるのだった。
美術アカデミーに通い始めてから、アドルフは毎日のように青年の絵を描いた。
飲み物を飲む青年、食事をする青年、靴を脱ぐ青年、帽子を被る青年、服を着る青年、自転車をこぐ青年、傘をさす青年、買い物をする青年。色々な彼を描いた。
彼以外の画題も、課題として出されれば過不足なく描いた。情熱を込めて、真剣に描いた。だが、彼を描く時ほどの、使命感のような、法悦のような感覚を得ることは出来なかった。
商品としての自分の絵画に対しても、彼女はあまり気が乗らなかった。
アドルフが絵を描き、その絵を青年が道行く人に売るのだが、青年の手に掛かれば絵が売れない日はなかった。
しかし、どんな絵の売れ行きが良くても、アドルフが描いた肖像画だけは、どうしても手放せなかったのである。
言い値で買うと言われても、頼むから譲ってくれと言われても、アドルフは呪いを掛けられたように頑なだった。自分でも信じられないくらいに。
それでも、二人の生活は次第に安定し、若手の画家としては考えられないほどに裕福な生活が出来るようになっていた。
アドルフが描き、青年が売る。決して高値ではなかったが、自分の絵に対して、売り物として立派な価値を付けて貰えることは彼女にとって例えようもない喜びだった。
だが、アドルフには一つ悩みがあった。
君の絵には革新性がない。
美術アカデミーで言われた教授からの何気ない一言だった。
アドルフは芸術に関して学ぶことを惜しまなかったという自負がある。だが、自分に芸術分野を牽引するだけの革新性が、天才性があるか、と問われれば「否」と答えざるを得ないだろう。この分野について、学びを深めれば深める程、アドルフは自分が決して天才ではない、という事実に気づかされる気がした。
それは冷たい現実であった。アドルフにとって、初めて経験する挫折だと言ってもいいだろう。
自分の生まれ持っての何を以てしても、自分の出来得る限りの努力を以てしても、それは決して塗り替えられない現実として彼女の前に立ちはだかったのである。
アドルフは急速に身体から熱が引くように、自信と高揚感が失われていくような感覚に打ちのめされていた。
それは芸術に対する失望と言うよりも、寧ろ、自分自身に対する失望だった。
アカデミーという権威に対する反抗心と同じくらいに、自分自身が掲げた芸術家の理想像に対する懐疑の念が湧き上がったのである。
自分は今、ちゃんと芸術家として存在しているのだろうか、という不安が彼女を襲った。
食べる為に絵を描いている自分と、より高尚な何かの為に絵を描いている自分と、その二つの虚像の間で、実像が行ったり来たりを繰り返していたのだ。
そうあってほしい。けれど、現実にはどっちなのか。
些細な事であっても、アドルフにとっては重大な違いだった。
芸術屋なのか、芸術家なのか。
彼女のプライドに関わる問題だった。
悩みあぐねた彼女が流れ着いた先は、やはり青年だった。
アドルフは問うた。
「私は芸術家なのだろうか、それとも芸術屋なのだろうか」
彼は答えた。
「自分も含めた誰かの為に描いた絵があるのなら、君は芸術家だ」
青年はそう言って、部屋のいたるところに飾られた自身の肖像画を指差した。
「君は一枚だって僕の絵を売らなかったじゃないか。それは、あの絵がお金じゃない、誰かの為に描かれた何よりの証拠じゃないか」
青年の言葉一つで、アドルフの悩みは綺麗さっぱり溶けてなくなった。
「君の言う通りだ。私は何を悩んでいたんだろう」
彼女は照れたように微笑んだ。
あの日、私は本当の意味で芸術家になれたのだ。
もしも、彼の肖像を一枚だけ手放したとして、その絵が私の名前を歴史に刻むことになろうとも。
決して、私は彼の絵を手放しはしない。
それは私が、私を一人の芸術家として尊重すればこその誓約なのだ。
いつか時代が廻り、遺された私の平凡な絵画が評価される日が来たとしても、そこには彼の肖像画だけはあってはならない。
私自身が彼に誇れる一人の芸術家として大成するにあたって、彼の力を借りるわけにはいかないのだ。
あの日から、長い年月が流れた。
彼と出会ってから、もう何十年経っただろう。私達は共に同じ時間を生きてきた。
私の人生は、田舎道で途方に暮れていた彼に声を掛けたあの日に始まったのだ。あの日から、私の人生は躍動を始めたのだ。
全てが順風満帆だった。挫折もあったかもしれないが、彼が隣に居れば何も怖くは無かったのだ。
必ず道は開けるという確信を、彼の存在が私に与え続けてくれた。
彼は、年をとらなかったな。
出逢った時から変わらず、ずっと若く、美しいままだった。
彼のお陰か知らないが、私もまた、老いることを知らない様に、若いままだ。
髪は黒く、肌艶は衰えることなく、足腰は丈夫なままだ。絵筆を持つ指先の感覚も、年々洗練されていくばかりだ。
命を使い切ることができる、という感覚が湧いて来る。それは喜びでもあり、同時に畏れでもある。
人知を越えた、何か大きな力が、この身に宿されているような全能感がある。それは素晴らしいことだろう。
だが、今となっては、それは余りにも空虚なものなのだ。
彼は死んだ。
サラエボでオーストリアの皇太子夫妻が暗殺されたのがきっかけだった。
数発の弾丸が世界を地獄に変えてしまった。
人類が初めて経験する総力戦が幕を開けた。
不景気とインフレが日に日に悪化し、若い男は皆兵士として前線に送られた。
戦時下ということもあり、私の絵は売れなくなったが、父の遺産が莫大だったお陰で私と彼が飢える心配はせずに済んだ。
マルクの価値が暴落する前に財産の大半をドルと貴金属に換えて、私と彼はアメリカに亡命することを決めた。
このままでは、彼が戦争に奪られてしまう。そう思ったから。
けれど、私達がドイツを脱出するよりも早く、彼が徴兵された。
彼は終始落ち着いていて、抗うことはなく、徴兵を受け入れていた。
私は彼を前線に送らない為なら、いくらでも払うと言ったが、彼はそれを頑なに拒んだ。
彼はその時が来たのだと言ったが、それが何を意味するのか私には理解できなかった。理解したくもなかった。
次の日の朝、彼は入営のために家を出た。
「楽しかった」と彼は言った。
私は「いかないで」と言った。
彼の背中が遠ざかっていく。手を伸ばすが届かない。
彼は振り返らなかった。
それが、彼を見た最後の瞬間だった。
数か月後、彼が消息不明になったという便りが届いた。
涙も出なかった。遺品は何一つ帰ってこなかった。
より詳細な情報を送ってくれと、軍人に賄賂を握らせたが、西部戦線で敵の塹壕を制圧するべく突撃を敢行した際に、跡形も無く消えてしまったという情報しか得られなかった。
認識票も見つからず、骨の欠片も、手足すらも見つからなかったのだ。
私の彼は綺麗さっぱり消えてなくなってしまった。まるで、最初からそんな人はいなかったかのように。
私は途方に暮れて、それから、余り思い出せないけれど、とにかく生きていた。
何度も、彼の絵を描こうとしたけれど、彼の顔ははっきりと覚えているのに、絵筆を握る手が動かなかった。
彼の絵だけが描けない。何万回と描いた彼の容貌を、絵の具に載せて、キャンバスの上に吐き出すことを、他ならぬ私自身が拒んでいる様だった。
いままでは、毎日だって、彼がいた。目の前に彼がいて、彼を見て、穴が開くほど、目に焼き付ける様にして、彼のことを描いていた。
彼は穏やかで、優しくて。いつも難しいことを深刻に考えすぎて悩んでしまう私の事を助けてくれた。私は思い込みが激しい所もあるから、彼の存在は有難かった。彼は私の抱える問題を、いつだって簡単なものに換えて仕舞うのだ。私の苦しい現実を、楽しいものに換えてくれるのだ。
私にとって、彼の存在はかけがえのないものであり、余りにも長く永く、変わらずにあり続けたものだったのだ。
当たり前すぎて忘れていたのかもしれない。彼は不思議な人で、どんなものにも、誰からも愛された人だった。
私はそんな彼を独り占めしていることが嬉しくて、幸せだったのだ。
彼が全ての中心にあって、それは揺ぎ無かったから、彼の不思議に疑問を抱くことすらなかった。
老いもしない肉体は、きっと最期の最期まで彼の隣で美しくあるためなのだと考えていたし。彼の魅力の前には誰だって膝をつきたくなるものだと考えていた。
それは確かに事実だったけれど、同時に、きっといつかは彼が、彼が本来あるべき場所に還る時が来るかもしれないとも、そう思っていた筈なのだ。
私は神を信じていない。神が居ようがいまいが、私にとってはどうでもいいことだった。
私にとって、彼こそが常に希望だった。生きる意味として、ただそこに存在しているだけで、斯くあり続けたのだ。
今まで、無尽蔵に思えていた彼と言う存在は、最早、絵画として昇華させることもままならない程に、枯渇していた。
無数の彼の肖像の中に封じ込めた、彼の存在の証左は、もはや続編を紡ぐことも能わず。
今や、唯唯、定命の身の上である私の心身の中にのみ保管されているのだ。
愛情と同様に、その記憶は限りある物のように想えて、私は色と線として抽出することすら憚られるのである。
私の芸術は死んだ!
私は自分が死ぬ一日前に、彼の存在の証左、その全てを焼かねばならない。
彼の存在を、永遠のものとするべく、私は私の全てを灰にするのだ。
憧憬も、性愛も、情熱も、神秘も、権威も。
あるべくして宿された、私が私の為に描いた絵画を、私は私の為に焼くのである。
私と彼との間には、終ぞ子供が出来なかった。
私が産めない身体だったのかもしれない。でも、もうどうだっていい。
戦争が終わって、ドイツはレモンの種が泣くまで賠償金を支払わされることになった。
際限なく虐め抜かれれば、例えどんなに自分が悪いと理解していても、やりかえしたくなるものだ。
反抗心や復讐心を植え付けるように、周辺国がドイツを痛めつければ痛めつける程、ドイツ人はドイツ国内で自分よりも更に弱い者を虐めるようになる。
アメリカに亡命しようと考えていたけれど、先日呼んだ記事で気が変わった。
アメリカの自動車王がユダヤ人の危険性を唱えていた。
ユダヤ人の危険性?
そんなものはまやかしだ。
危険じゃないものを、危険だと言い続ければ、きっと本当に危険になってしまう。
ユダヤ人と言う言葉を、便利な道具にしている奴らが沢山いるのだ。
ユダヤ人と言う言葉は、時と場合によってはドイツ人になり、アメリカ人になり、日本人になり、イギリス人になり、フランス人になり、インディアンになり、黒人になり、黄色人種になり、中国人になり、スペイン人になり、ポルトガル人になり、ロシア人になり…都合の好いように使い古されていくのだ。
政治も戦争も、私は大嫌いだ。
皆嘘つきで、皆人殺しで、皆無責任で、皆恥知らずだ。
彼はどうして死んでしまったのだ。彼が一体何の罪を侵したというのだ。
いいや…彼が罪を犯したはずはない。
だとすれば…私が何か罪を犯したのだろうか。
もし、そうなのだとすれば、それはどれほどの大罪なのだ。
私には、私以外の事はわからない。私ではない、私の事などわからない。
私から彼を取り上げる以上のことが、この世に存在しない以上、私は確かに罰を受けた。この上なく重大な罰を。
嗚呼、だが、どうして私なのだ。
私の知らない私よ、どうか間違わないでくれ。
私の知らない私よ、どうか彼を知ってくれ。
願わくば、彼を喪う以上の悲しみを教えてくれ。もしも、この上があるというのならば。
私は下宿を引き払い、両親と、兄弟姉妹と、あの素敵な青年と一緒に暮らした、田舎の屋敷へと帰ることにした。
死ぬまでそこで静かに暮らそう。
耳を塞げ。声を殺せ。瞳を閉じろ。
私は記憶の中の彼を見つめることで忙しい。
そうして、私は善い人間の目にも、悪い人間の目にも留まることなく、残りの日々を生きるのだ。
例え、再び世界が間違うことがあるとしても、それは私の与り知らぬことである。
補足・あとがき
主人公…絶対に働かないという断固たる決意のもとで英霊になった男。ランダムイベントで強制転移する稀人。転移の度に自分に関する記憶を失っており、いつでもどこでも新鮮な気持ちでヒモ生活をエンジョイしている。鈍感ではないが、特別賢いわけでもなく、感覚と運を頼りに生きている。物欲はそこまで強くなく、感覚は庶民派だが貰えるものは貰うし、三代欲求を満たすことには余念がない。何もせずとも死ぬほど貢がれる天性のヒモ。地球を除くありとあらゆる星々から愛されている。剪定事象と特異点を無自覚に量産し、剰え彼には因果律も抑止力も通用しない。半ば人理を私物化しており、地球にとっては憂鬱以外の何者でもない。
パラメータ
筋力 E 耐久 E
敏捷 E 魔力 E
幸運 EX 宝具 EX
宝具 不明
ランク 不明 種別 不明
レンジ 不明 最大補足 不明
効果 加害者に罪悪感を抱かせて自害させる。
*基本的には害されることがない為、宝具が発動されることはまずあり得ない。
ユニークスキル
・拒否権
…干渉(抑止力・修正力・因果律を含む)を拒絶する。自身の存在に関連する記録・記憶は所有者の生死に関わらず抹消されない。
(*ゲーム的には自分以外の味方全体に対して全状態異常と全デバフ無効、全バフ一定値加算のパッシブスキル)
・心身不可侵
…何からも害されない。
(*ゲーム的には自分に対してダメージ無効のパッシブスキル)
・運命星の加護
…全行動に補正。無制限に好意を集め、貢献に応じて周囲に好い影響を与え続ける。
(*ゲーム的には行動毎に自分以外の味方の全パラメータに対して一定値を加算するパッシブスキル)
・不埒の代償
…最適なタイミングで発生するランダムイベントにより強制転移、且つ直前までの自身に関する記憶を抹消される。
(*ゲーム的には行動毎に乱数(最大100)が生成、加算され、合計の値が基準値(3ターン保証)を超えたら即死する。彼が死ぬと全英霊が強制クラスチェンジ(アベンジャーまたはバーサーカー)する。尚、パッシブスキルは自身の死後もゲーム終了まで累積の上で効果を継続する)