「もういい、口利きたくない」
そう言いながら荷物を背負い、椅子を立つ。
「好きにしろよ。俺だって口利きたくねぇから」
翼は俺にそういうと、もう目を合わせてこなかった。
感情に任せて俺は足早にその場を立ち去った。帰り道のことはよく覚えていない。気が付いたら家に着き、スマートフォンを来客用の座布団に放り投げてベッドに転がりこんでいた。
こんな大喧嘩は初めてだった。きっかけは些細なことで、普段なら笑って済ませる翼のからかい文句に俺が頭にきてしまったからだった。頭の冷えた今となっては後悔ばかりが募っている。
謝らないといけない、そう分かっていてもスマートフォンに手を伸ばせなかった。翼に拒絶される恐怖が心を支配していた。
起きていたくなくて俺はベッドから立ち上がり、冷蔵庫の中にあった一番度数の高い酒を取り出して一気に呷った。ベッドに戻ってしばらくすると、頭がボーッとして瞼が重くなってきた。
意識を失う刹那、今日の事が何も無かった世界に行けたらいいのにと、ふとそう思った。
目が覚める。心地よい微睡みに覚醒しかけた意識が負けそうになった。
家のチャイムが鳴らされたのはそんな時だった。寝起きの頭にチャイム音が響く。めんどくせぇ、と考えていると、再びやかましい音が鳴った。
俺はベッドから立ち上がった。酒に頼って寝たせいだろうか、重心が前のめりに引っ張られるようで定まらなかった。フラフラしながら俺は玄関に到着すると、扉の向こうにいる誰かに話しかけた。
「はい、どちら様?」
違和感に気が付く。上擦ったにしては声が高かった。声変わり前のようだった。喉に手が伸びて触りかけた直後、扉の向こうから声が返ってきた。
「私だよ。翼ー」
翼という言葉に意識が一気に覚醒した。だがそれと同時に俺は混乱した。女性の声だったからだ。口ぶりからして俺とある程度親しそうな雰囲気があるが、俺には「つばさ」なんて名前の親しい女性に見当が無かった。
「は、はい」
恐る恐る、俺は玄関の戸を開いた。開いた先にはパステルカラーのオシャレな服を着た同い年くらいの女性が立っていた。彼女の顔を見て思わず息を呑む。可愛らしい顔立ちに親友の面影があった。
「あれ? 瑞希もしかして寝起き?」
翼と名乗った女性が俺の名前を呼んで首を傾げてきた。俺の頭の中で現実とは思えない直感が駆け巡る。
翼という女性は不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 顔洗ってきたら?」
ハッとして洗面台の前へと走り、鏡に写る自分自身を見た。
見慣れた俺の顔……の面影がある女性の顔がそこに写っていた。
「コーラだけでよかったの?」
自身の注文を乗せたお盆をテーブルに置きながら翼が俺に聞いた。
「うん、ちょっとね」
慣れない声で翼に答えた。
俺と翼は行きつけのファストフード店へ来ていた。翼曰く、今日俺は彼女と遊ぶ約束をしていたらしい。混乱する頭で着慣れない服に着替え、何故か使い方が理解できた化粧道具で軽く化粧を施せた自分を褒めてやりたかった。
翼が心配そうな顔で聞いてきた。
「本当に大丈夫? ソワソワしてるし」
「あ、うん大丈夫。落ち着かないのは服とか化粧とか、後はその、ずっとあったものが無いからというか……」
「何か無くしたの?」
「ううん、気にしないで!」
すると、翼は手元にあったハンバーガーを私の方に差し出した。苦笑しながら彼女が口を開く。
「やっぱり何か食べなよ。私の照り焼きワック半分あげる」
「いや大丈夫だって。お腹は空いてない――」
そこでお腹が鳴った。起きてから何も食べてないので当然だった。遠慮気味なのは周囲が余りにも記憶と違い戸惑っているからだ。ここまで来る最中に気づいたが、どうやら自分の周りにある物が所々で記憶とは反対の物に変わってしまっていた。今差し出されているハンバーガーの包み紙だって、見慣れた「M」のロゴは「W」になっている。
俺のお腹の音を聞いて、翼は勝ち誇ったような顔をした。
「先食べていいよ」
「……いただきます」
照り焼きワックの味は、俺のよく知っている味のままだった。
「それで、どうしたの?」
俺が半分食べ終わった所で、翼は質問してきた。半分になった照り焼きワックを翼に返し俺は口を開いた。
「信じられるような話じゃないんだけど、いい?」
「どうぞ」
微笑みながら翼が先を促してくれた。俺は自分の状況全てを翼に話した。
「……なるほどなるほど」
一通りの顛末を話終えると、翼は何度も頷いてから言葉を続けた。
「不思議な話だけど、素敵な話だね」
「どういうこと?」
「別の世界でも、親友になれるんだなーって」
翼はニコリと笑った。当事者としては笑える状況ではないのだが、この世界でも翼が親友でいてくれた事は確かに嬉しかった。実際自分の胸の内を打ち明けられたことで大分楽になった。
「さて、それでは瑞希くん」
今まで呼び捨てだった翼が俺をくん付けで呼んできて少しドキリとした。
「何?」
「結局、瑞希くんは男の子の私にどうしたい訳?」
「仲直りできたらって」
「何をそんなに悩んでるの?」
「拒絶されるのが怖くて。……翼はもし同じ状況になったら、俺のこと許してくれるかな?」
「ふむ……」
翼は考え込むように腕を組む。しかしすぐに顔を上げ、荷物を持って椅子から立ち上がった。
「よし、予定通り遊びに行こう!」
明るく言う翼に俺は戸惑った。
「え? ど、どういうこと?」
「いいからいいから。今日中には質問に答えるからさ。今は喧嘩のことは一回忘れて。楽しく遊ぶことだけ考えて。ね?」
翼の意図は正直よく分からなかった。ただ、適当な事を言っていないことも分かっていた。翼はこういう時にふざけるような奴ではない事を俺はよく知っていた。
「分かった」
「よし、じゃあ行こう!」
俺も荷物を持って席を立ち上がる。そこで「あ!」っと翼が思い出したように口を開いた。
「どうかした?」
俺が聞くと、翼はニヤニヤとした嫌な笑い方でこちらを見た。
「いやぁ? 瑞希くんからしたらこれ、デートだなぁって」
途端に顔が燃え上がるように熱くなった。
「いやー、楽しかった!」
河川敷の帰り道を翼と並んで歩いていた。翼の持ったぬいぐるみの入ったビニール袋がカサカサと揺れている。
言われた通り、俺は今日一日を楽しんだ。実際自分の常識と真逆な事に出会うのがとても面白かった。クレーンゲームは上に置かれた景品を下から引っ張り出す様式だったし、俺の好きな洋服店は白い四角に赤い文字のロゴとなっていた。手に下げた茶色の紙袋にもそのロゴが入っている。赤い文字の「ユニシロ」とはこりゃいかに。
「瑞希くんも楽しかった?」
俺はすぐに頷いた。
「うん。すごく楽しかった」
「そか、良かった良かった」
隣を歩いていた翼はそう言うと、少しだけ歩を早めて私の前に立った。
「どうしたの?」
「質問の答え。瑞希くんが謝ってきたら、間違いなく私は受け入れるよ。というか、私も謝らなきゃーってなってるから、早めに言ってくれると嬉しいな」
悪戯っぽく笑う翼に俺は重ねて聞いた。
「どうしてそう思うの?」
「瑞希くんが想像してた瑞希くんそのままだったから。だから向こうの私もそのまんまなんだろうなって。こんな感じで大丈夫かな?」
俺は翼に頷いた。十分な答えだったし、そもそも今日一日のおかげで、既にほぼ吹っ切れていた。
「ありがとう。元の世界に戻れるかも分からないんだけど、ちゃんと仲直りするよ」
「うん! 向こうの私にもよろしくね。ていうか、元の瑞希を返してくれないと困るんですが?」
「早急に帰れるよう努めるので許してください」
茶番っぽく頭を下げて見せると、翼もそれに乗ってわざとらしく胸を張った。
「よろしい。頑張りたまえ。……なんてね!」
翼がまたニコリと笑う。今日一日いてよく分かった。目の前にいる翼も元の世界の翼も、笑った時の顔は本当によく似ていた。
それからもう少し二人で歩いて、別れ道に来たところで俺達はそれぞれの帰路に着いた。さよならの後、翼は唐突に俺を呼び止めた。手に持ったビニール袋を掲げて翼は言った。
「ぬいぐるみありがとう! 真剣な顔してる瑞希くんかっこよかったよー!」
翼の明るい笑顔は、夕日と同じくらい眩しく感じた。
目が覚める。窓の外から太陽の光が入ってくる。俺は飛び起きて洗面台へと向かった。見慣れた男の俺が鏡に写っていた。
「流石に夢だよな」
呆れたように鏡の中の自分が笑う。だが、とてもいい夢だった。夢の中の翼に感謝して、俺は部屋へ戻り座布団の上のスマホを手に取った。翼とのチャット欄を開き、シンプルに今の気持ちを入力して送信した。
『昨日はムキになってごめん。文章だけじゃなくてちゃんと謝りたいから電話してもいいかな?』
俺はスマートフォンをベッドへ放り投げ、それからシャワーでも浴びようかと背を向けた時だった。
スマートフォンが着信を知らせた。まさかと思いスマートフォンを手に取ると、翼のアカウント名が表示されていた。
「もしもし、翼?」
通話を開始し、俺がそういった直後だった。
「瑞希ごめん!」
いきなり翼は俺に謝ってきた。聞き慣れた男性の声だった。
「いや、俺もごめん。俺がムキになったから」
「いや、そもそも俺がお前の事をからかい過ぎた。これからマジで気をつける」
「……じゃあ、今回はお互い様って事で終わりにしよう」
「……分かった。ありがとうな。今日も暇? 良かったらマックで昼食べようぜ」
マックという響きについ笑ってしまった。
「どうした?」
「ごめんごめん、分かった。じゃあマック集合な。ちょっと面白い話もあるから向こうで話すよ」
「お、実は俺も不思議な話があってさ、向こうで俺も話すわ。じゃあまた後でな」
そう言って俺達は通話を終えた。ふぅ、と一息ついて、俺は天井を見上げて独りごちた。
「ありがとな、翼」
俺は一人で笑い、今日着ていく服を見繕う為にクローゼットを開いた。
クローゼットの真ん中に、「ユニシロ」のロゴが入った紙袋が置いてあった。