職員M様の企画投稿作品です

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Dear

借りていたアパートの一階がカレー屋だった。

長いハットにコックコート。如何にもな風貌の店員と、異国のラジオが響く店内。

外まで香るスパイスの香りを余所に、鉄骨の階段を登る。

ふと見上げると、三階の廊下に明かりが点いていた。

人感センサーのはずだ。自動で点いて、気を利かせた頃に消えるやつ。

住人を待ち構える、やけに気の利くセンサーがあったりするものなのだろうか。

階段のてっぺんで、お隣さんの部屋が暗いのが見えた。

ほとんど留守で、部屋にいるのを見たことは数えるほどしかない。

やけに重い鉄扉を開けると、廊下は、やはり誰かを待ち構えているように明るく照らされていた。

突き当りの玄関ドアで、鍵を回す。

真っ暗で、気の利かない自分だけの空間に入る。

頼りなのは記憶だけ。それでも、自信のある足取りで。

カラのペットボトルを蹴り付けながらキッチンを超え、自室へ。

壁に手を伸ばし、スイッチを押す。

 

チカチカチカ

 

瞬きするように灯りが目覚める。

音の鳴らない時計が記すゼロの数字が目に入って、妙な現実感に襲われた。

スーツのジャケットをハンガーにかける。バッグを置くのとほとんど同時に、スラックスを脱ぎ捨てた。

 

こつん

 

ハンガーが落ちる。

青い針金のハンガー。赤青緑、カラフルの十二本組の中で、こいつだけ、バグったゲームみたいに物理法則がおかしくってよく落ちる。

落ちるのには、それなりの理由があるのだけれど。

ハンガーラックにかけてやって、エアコンとパソコンの電源を入れる。

 

くるくるくる

 

ハンガーが回るのが見えて――

 

こつん

 

「ただいま」

誰もいない部屋にそう呟くと、チカチカチカと、蛍光灯が明滅した。

 

 

 

時間を忘れた頃に、明日の自分を労っておもむろにシャツとパンツを脱ぐ。

スイッチを入れると、パッと点いた浴室の電気を睨んで、煮え切らないシャワーの水を浴びると眠気が吹き飛んだ。

浴室を出て、目についたのは脱ぎ捨てたスラックスと、落ちっぱなしのハンガー。

面倒くさい。

そう思って、電気の点いた部屋で横になる。

 

 

相談したいことがあるから、本日いらっしゃらないかしら

営業先のご婦人から連絡があったのは、朝の早い時間だった。

昔気質で背格好も言動も貫録のあるご主人とは裏腹に、婦人はのんびりとしたところがある。

箱入り娘だからだろうか。

しっかりとした拵えの割烹着は、よくある白のものではなく、会う度に違う種類の花が咲いている。

わざわざ発注しているのだとか。

時代錯誤な気もするが、これはこれで可愛らしくて洒落ている。

しょっちゅう私のことを呼びつけては、私の普段の昼食よりも高価な茶菓子と、お茶を手際よく振る舞う。

相談というのも、ご近所付き合いがとか、娘夫婦がだとか、十中八九、金にならないものばかりだったが、温厚で、嘘もつけず、感情を隠すことが苦手な人柄は付き合いやすく、不快でもなかった。

焼き物の湯呑みも、茶菓子を載せる杉の皿も、私のために用意されたものだと言う。

イメージに合わせて、わざわざ購入したとか。

初営業をかけた日から、三日後には用意されていたのを覚えている。

変わった人だなという風にしか思わなかったが、「お仕事の辞められる時は、差し上げますから」などと言うので、本当に変わっているのだなと思った。

これが自然体なのか。

私にそこまでの価値があると感じているのか。

それすらも理解不能だ。この婦人の腹の底を明かすために、私はこの場に座っているのかもしれない。

「どうぞ、お召し上がりください」

手のひらをこちらに向ける仕草が、腹を向けて見つめてくる猫みたいだった。

「……いただきます」

仏像に似た姿勢と、微笑。膝の上で軽く握った手がテーブルに伸びるまで、それを続けるのが、脅迫めいて少し怖かった。

当の本人には、なんの悪気もないのだろうが。

青緑の底には立つことを知らぬ茶葉の残滓が、くらげのようにふよふよと浮いていた。

 

チカチカチカチカ

 

四度。目眩かな。

なにせ朝から営業に商談にと、なにも口に入れてない。

胸焼けしそうなくらいにぎっしり詰まった小豆に食欲が湧くはずもなかった。

「ごめんなさい。少し、席を外します」

いつになく早口で言うと、早足で婦人は応接間を出た。

少し経って戻った婦人からは、線香の匂いがした。

「主人の兄が亡くなってから、よくあるんです。こういうことが」

私から聞くまでもなく、冗談めいた口調で婦人が言う。

確かに、よくあることだ。よくあることながら、婦人のこういう純真な部分には気味悪さを感じることがある。

「気を悪くしたら、ごめんなさい」

子どものする悪戯のように、婦人が言う。

「お構いなく。よくあることですから」

小豆の甘さの抜けない舌を回して、私がはっきりとそう言うと、婦人は上品な仕草で口元に手を当てて、目を丸くしていた。

気味が悪いのは、私も一緒か。

 

 

 

チカチカチカ

 

アパートの向かいのスナックで働く若い子と、カレーの匂いが漂う中で、暇をつぶしていた。

煙草を出すと、自動で火が点く。

アパートの廊下がしきりに主張するのが見える。

ブレーキランプ五回ほどロマンチックさがないのが残念でならない。

「人が待ってるから帰らなきゃ」

「彼女? でも、部屋の電気点いてなかったけど」

指差して見せると、彼女は察して顔をしかめる。

「やば。あれはやめた方がいいよ」

惜しむらくは、これが一般的な反応だろう。

「やめたいのはやまやまなんだけどね。生憎、腐れ縁なもんで」

「ふぅん。まあ、いつでも遊びにきてよ。シフト送っておくから」

薄暗い店内へ戻る彼女を見送った後、廊下の窓を見上げると、主張の激しかった照明は煙草の火よりも長く灯り続けている。

「はいはい。今行きます」

 

 

 

しばらく経って、、転職をきっかけに引っ越すことにした。

身体の不調も、理由としてあった。

気に入ったものだけ新居に持って行こうと仕分ける。

思いのほか多い書籍類にわずらわしさを感じたが、捨てる気にもなれなかった。

仕事ばかりでろくに友達付き合いもしていなかったから、人間関係もリセットだ。

気晴らしに読んでいなかった本を開くのも悪くない。

擦り切れたスーツを、なにも思わずにゴミ袋に詰める。

食器や洋服は、貰い物が多いように感じた。労働環境は考えさせられるものがあったが、悪くない付き合いをしてこられた証拠だろう。

捨てるのは忍びなかったが、一貫性がないのも気に喰わない。

断捨離だ。

そう言い聞かせることで、簡単に自分を変えられると思っていたのかもしれない。

寿司屋の大将から貰った湯呑みを割れ物の袋に放る。

「……ああ、湯呑みか」

婦人へ挨拶には伺ったが、「妻は病気で入院中だ」としかめ面の主人から聞いた。

まあいいさ。今手元にあったところで、どの道捨てるだけだ。

気持ちを入れ替えたところで――

 

こんこんこん

 

隣の部屋の玄関を叩く音がした。インターホンがついているだろうに。

ただの勧誘だろうと思ったが、次に聞こえたのは件の婦人の声だった。

「ごめんください」

ドアを開けると、普段とは違う装いの婦人がそこにいた。

向き合っていたのは、お隣さんの玄関とだが、やはり留守だったようだ。

「ああ、やっぱりこちらにいらしたのね」

「ええと、どうして」

「お別れのご挨拶にと思いまして。立ち話もなんですから、外でお茶でもいかが?」

笑みを絶やさない婦人はやはり気味が悪かった。

 

すぐ傍の、これまた少しお高い喫茶店で、興奮気味に語り始めた。

婦人はたまたま私の通う病院に入院していた。

たまたま私を見かけて、若いのに具合がよくないのかと気になって後をつけたら、たまたま住所を特定した。

その矢先に、たまたま主人から退職の話を聞いたものだから、無礼を承知で訪ねてきたら、たまたま私が家にいて――いや、この婦人のことだからたまたま私が留守でもそこに居座ったろう。

「とてもよくしてくれたから、どうしても最後にお話しがしたくって」

頬に手を当てて、寂しげに婦人は言う。

「まあ、ありがたいことではありますが……」

「それと、スジは通さなきゃと」

似つかわしくない言葉を口にした婦人から、半ば押しつけるように風呂敷に包まれたそれを受け取る。

「でもそんな、わざわざ」

「いいのよ。処分のために、お寺に行って、お焚き上げしてもらうのも面倒じゃない」

あっけらかんとした婦人に、返す言葉が思い浮かばなかった。

死ぬわけじゃあるまいし。

 

 

 

新居で段ボールを開けると、布団にくるまれて、忘れようもない風呂敷が出てきた。

例の湯呑みと皿だ。

さすがにバチが当たりそうで、捨てようとは思えなかった。

もう呪物の類いに近い。クローゼットの奥に、そっとしまう。

身の回りのものの色はなるべく統一するようにした。カラフルでは、組み合わせに困る。

洋服を整理しようと、届いた宅配便の山から、ハンガーを引っ張り出すと、異変に気付いた。

私が買ったのは白一色の針金の十本組で、その中に青のものが混入していた。

なんと、おまけつき。余計なことを。

早くも新生活のコンセプトが崩壊したわけだが、誰かのためのものがあってもいい。

そう、前向きに捉えることにした。

ハンガーラックにそいつをかけて、指でそいつを回す。

 

くるくるくる、――こつん

 

何を期待したのか、昼間にも関わらず照明をつけてみる。

真新しいLED照明は真面目なよくできるタイプで、オレンジから青みがかった白色、常夜灯までリモコン一つで切り替え可能。睡眠タイマーつきで、非の打ち所がない。

八つ当たり気味に灯りを消して、荷物の整理に取りかかる。

 

最後に、新調したモニターを箱から出してデスクに置く。隣に前から使っていたものを並べると、なんとなくこれから一人でもやっていけそうな気がした。

夕食になにを食べようかと、スマートフォンでフードデリバリーサービスに新しい住所を打ち込む。

 

チカチカチカ

 

前の家から持ってきたモニターが明滅した。

なんだ、いるじゃないか。


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