―アリストテレス(哲学者)
夕焼けに照らされた海の上を、時折白い波が現れては消える。地を這うように下から吹き上がる風は夏だというのにずいぶんと冷たい。
ふわりと浮き始めたスカートの端を手で軽く押さえて、四十院神楽は背をそらしながら深呼吸を一つした。視界に海は入っている。だが、潮の匂いはほとんどしない。距離がずいぶんと離れているからだろう。視覚と嗅覚で微妙なずれがある。果たしてここから見える風景は本物なのか。ひょっとしたら今自分が立っている場所は曖昧なのかも、と妙に可笑しくなる。
放課後にIS学園―インフィニット・ストラトスの専門教育機関であり、人工島をまるまる一つの全寮制の学園として作られた巨大な島―の敷地内で海を眺められる場所へわざわざ足を運んでいるのは、臨海学校を終えて戻ってきた今、海という場所の名残をもっと近くで感じたいからだろうか。あるいは、校外実習の行動を著しく制限された事に対しての、ほんのちょっとした反発からなのか。すると、眼の前にある安全柵というものは元来の意味以上のものがあるのかもしれない。
再び、風が吹き上がる。さっきのそれよりも冷たい。気分転換だからといって、ここに居続けるわけにはいかない。ルームメイトに心配をかけたり、あるいは見回りの先生に見つかってはことだ。
踵を返す。展望が180度変わる。帰ったら大浴場で体を休めて、それから今日の授業の復習と可能なら明日の予習もしよう。もしかしたら途中で飽きてしまって、ルームメイトとやくたいもない雑談をするかもしれない。
そんなとりとめもない事を考える彼女の視界に、一つ、違和感が混ざった。
後々から考えれば、そこで見落さなかった事、足が止まった事は不運だったのかもしれない。歩き慣れた道に紙くず一片落ちていたら面倒さが上回ってそのまま素通りする、その程度の違和感に過ぎなかった、はずだった。
手すりの隙間から見えた岩、そこに苔ではない何かがへばりついていた。同じように思考にへばりついた違和感を拭えず目を凝らす。今までの思考は瞬く間に吹き飛び、柵から身を乗り出す。距離にして50メートルほどだろうか。いくつかの斜面を下った先、波打ち際の岩肌に間違いなく人がうつ伏せで倒れていた。全身を見えこそすれど、動く気配はまるでない。気を失っているのだろうか。そして、その足元に、波が寄せては返している。
胸の高さほどの柵はとうに飛び越え、神楽は斜面を駆け下りる。いくら人工的に造成されたとはいえ、本来人が通る事を想定していない草むらは、踏みつけるといくらかぬかるんでいる。そういえば、昨日は朝からずっと土砂降りが続いていたなとこの時になって思い出したが、そんな事は今の彼女にとってどうでも良いことになっていた。
「……大丈夫ですか?!」
神楽は岩肌にある『それ』、つまりは一人の少女に駆け寄る。漆黒の髪が肩まで十二分にかかり、うすいグレーのジャージを身に着けている。一見快活そうな身なりだが、少女のまぶたは閉じられ、神楽の声に反応する様子はまるでない。
あたりを見渡す。幸い、波は思っていたより穏やかだ。流される心配は無い。意を決して頷くと、体をゆすってやる。手のひらには体温を感じ、僅かな呼吸音が耳に入ってきた。いくらか安堵するもののどう見てもただ事ではない。上着のポケットよりスマートフォンを取り出すと、あらかじめ登録しておいた番号に電話をかける。
『こんな時間にどうしました、四十院さん』
「す、すみません。山田先生。でも、その。緊急事態です。女の子が倒れていて。学園の生徒じゃないと思うんです。それで、声をかけても返事がなくて」
『え、ええ? その、もう少し詳しく教えてもらえませんか』
職員室への電話でいち早く応答してくれたのは山田真耶で助かった、と神楽は思った。これでもし、織斑千冬が出たとなればかえって萎縮してしまっていただろう。電話口の先で困惑している真耶の姿を容易に思い浮かべながら、神楽は自身と、現場の状況を説明する。IS学園の敷地内に、身元不明の人間が流れ着いている、と。
『……わかりました。すぐに向かいます。先生が到着するまで少し離れた場所で待機していてください』
通話の始めには戸惑っていた声色も、告げられた非常事態を重く見たのだろう。指示を返す頃には淀みないものとなっていた。
夕日が沈みかけてあたりはわずかに暗くなってきている。ただでさえ悪い足元で、バランスを崩そうものなら危険だ。通話の中で自身もまた冷静さを取り戻しつつあった神楽は、果たして真耶の指示通りに一旦そばにあった芝生の方へと足をかける。
「……うん? なにか、光った」
ふと、視界の片隅にちらつく眩しさを感じた。目で追うと、少女の背中に金属質の小さな何かが乗っていた。今にも滑り落ちそうなそれを、半ば無意識の内に神楽は手に取る。手元にもってきてそれをよくよく見れば、銀が格子状に編み込まれた指輪のように見える。表面はつるつるとしていて、表裏のどこにも打刻のないそれは、ハンドメイドのアクセサリーのように思えた。
「う……うぁ……」
呻くような、か細い声が耳に入ってきた。反射的に神楽は小さな悲鳴を上げる。少女が僅かに目を開けている。瞳は震えているが、視線は自分へと向けられているのだと気づくのに、そう時間はかからない。
「あ、あの。大丈夫ですか」
たった今指示された内容などまるで忘れて、改めて声をかける。今度は、少女の顔を覗き込みながら。しかし、少女は返事を返す事なく数度唇を震わせたところで再びまぶたを閉じて伏せてしまった。
結局、それから数分も経たず救護班を連れた山田真耶が姿を見せ、少女は程なくして医務室へと担ぎ込まれる事になった。神楽はというと、その際に少女を発見した経緯を話す事となり、加えて緊急を要する救助行為とはいえ当人が危険な行動を取っていた事は明らかであった点によってこってりと絞られ、自室に戻ったのは日が沈みきった頃となっていた。
◇
翌日のクラスの話題は、神楽の救出劇の事で持ち切りとなった。授業の合間合間で彼女の周りに人が集まり、一体昨日は何があったのかと問われ続ける。無論、その殆どが賑やかしでしかない事は彼女も分かっていたが、かといって答えられる内容などまるで持ち合わせていない。
一方で、自身も事の続きを知りたいと思うのは至極当然の事だった。放課後になりようやく熱量がおさまり始めた頃、用事があるから、とその場を逃げるように教室を後にする。
「あ、織斑先生。昨日のことなんですけど」
目的の相手は、思いのほかすぐに見つかった。
織斑千冬は、神楽の呼びかけに対し少し驚いた様子で歩を早める。その様子に、なんとなくだが神楽は彼女もまた目的は同じである事を察する。
「……その事だが。そうだな、ついてきてくれ。例の人は今は医務室にいる」
一呼吸あって、千冬はそれだけ言うと神楽と並んで歩き始めた。道中、いくつも聞きたい事があったが見上げた先にあった暗い表情を見てしまうと、喉元まで来ていた言葉は引っ込んでしまう。すると、ばつの悪い間を感じ取ったのか、千冬の方から口を開いた。
「どうにも妙な事になっている。四十院を探していたのも、そういう訳だ」
いまいち要領の得ない内容に、はぁ、とまるでため息のような気の抜けた返事がごく自然と神楽の口からこぼれる。
果たして会話と呼べる出来事はこれだけだった。医務室の前に到着すると、失礼する、と千冬の重い声が廊下にかすかに響き、そして、扉が開いた。
一歩踏み出せば、消毒薬といった類の独特な臭気が鼻をつく。室内には真耶と、隅のベッドに横たわる少女の姿があった。神楽が昨日見た時と同じように、少女のまぶたは閉じられたままだ。
「この身元不明者が昨日医務室に運び込まれた時から、ずっとこんな様子だ。だが、心音や脳波等に異常はない。深く眠っている状態という事らしい。
その上、身元がわかるような所持品はなし。まさに着の身着のまま。意識が戻らねば何者なのかわかりようがない。念の為、発見現場のあたりを調べてみたが結果は芳しくなかった。四十院の方で、発見当時に何か気がついた事は無かったか?」
千冬より、淡々と状況を説明される。
神楽はただ頭を振り、真耶に軽く会釈をしてから少女の顔を改めて覗き込む。照明に照らされ、昨日よりもその表情をはっきりと見て取れた。眉は釣り上がり気味に整えられ、唇はやや薄いが血色が良い。鼻のあたりには薄っすらとそばかすが浮いている。自分と同じぐらいの年齢なのだという印象を受けた。
そして、額と頬にガーゼが貼られている以外は目立つところもなく、土埃といった汚れを拭き取られた顔色はずいぶんときれいになっている。視線を上げてベッド周りを一瞥する。点滴といった類のものも無い。なるほど説明の通り身体の異常というのはどこにもないのだろう。
「あ、あの。四十院さん」
だが、わずかな沈黙と思考は真耶の一声でにわかに止まった。何事かと振り返ると、千冬と真耶の両者ともに目を丸くしていた。誓って、自分は何もしていないというのに、お前は今、何をしたのかと顔に書いてあるようだった。そして、彼女らの目線の先が自身へ向けてのものでない事に気がつくと、ゆっくりとその先を見やる。
先ほどまでただ横たわっていた少女の瞳が確かにそこにあって、じっとこちらを見ていた。その表情に陰りはなく、ただあるがままに眼の前の風景を眺めている。音もなければ気配もまるで無かった。まるで、突然スイッチでも入って動き始めましたと言わんばかりの調子に、たまらず「わっ」と小さな声を上げてしまうのも、無理もないだろう。
「ええと、こんにちは」
「あぁ、こんにちは」
神楽の戸惑い混じりのあいさつに対し、しかしながら少女は今まで眠っていたとは思えないほどの明朗な声色で応える。千冬も真耶も、少女の反応が事実かどうか確認するようにお互いの顔を見合う一方で、神楽だけはほっと旨をなでおろしながら更に言葉を続けた。
「あ、私は四十院神楽。IS学園の一年生。ここはIS学園の医務室で、君が敷地内で倒れてるのを私が見つけたの。運んでもらったのはここにいる山田先生と織斑先生なんだけどね。具合はどう? どこか痛くない?」
「大丈夫だ」
「そっか、良かった。ね、君。名前は?」
「……俺は」
と、ここで少女の言葉が詰まった。見た目とはやや不相応な男勝りの言葉遣いを残して。それから視線を外し、しばし唸るような声を漏らしてから再び顔を上げ、神楽の瞳をじっと捉える。それから、唇をわずかに震わせた。その様子は、明らかに周辺を警戒している。
「分からない。どうして俺はこんなところに? 俺はこの学園の人間なのか?」
少女の疑問に、神楽は喉を締め付けられるような感触を覚えた。その言葉を、そっくり当人に返したいという気持ちをどうにか締め付ける事が出来たが、その代償は息苦しさと、僅かな痛みだぅた。
「……正直なところ、IS学園敷地内で身元不明者が見つかったケースは初めてだ。この場合の対応については私達だけではさすがに決められないな。一般的には警察に行方不明者の届け出をするとか考えられるが……身元のわかる何かがあれば、せめて……」
「あ、あの。ちょっと待ってください」
唸る千冬の言葉に、ようやく神楽の頭が回転する。はっとなってスカートのポケットをまさぐった。そこから取り出されたのは、昨日少女を見つけた際に手に取っていた銀の指輪だった。たった今に至るまで、情報の渦の勢いによってずいぶんと遠くに弾き飛ばされていたのだ。
それは、きらきらと光り金属のように見えるが、なるほどその存在を忘れてしまいかねないほどに軽い。見た目の印象と実際の印象が少しずれているように思えた。そんな指輪を全員の視線が集まる中、少女に差し出す。
「昨日君を見つけた時、君の背中に乗っていたの。もしかしたら君のかな」
少女の視線が指輪と神楽の顔とを行き交う。しかし、戸惑いはここだけだった。上体を起こし、一つ頷いた少女の手にそれが渡る。そして、外面と内面をいくらか目視すると、実に手慣れた様子で左手の親指へと通した。窓から差し込む光で、なおさらチカチカと白く反射する。
「貴方が見つけてくれたのか、それで、持っていてくれたのか」
「うん。とってもきれいね」
「……きれい、か。嬉しいな」
「あまり見かけないアクセサリーみたいだけど、どこで買ったの? そういうのがわかれば、きっと」
少女の顔が綻ぶ。警戒心をあらわにした険しい表情が消えた、だが。
「ああ。これはISだ。俺の、ISだ」
あまりにも唐突に、そして、自然と発せられた少女の発言に、神楽の背後で、千冬が声を詰まらせた。真耶は口をあんぐりと開けながら少女の右手首を凝視する。神楽はというと、たった今少女から返ってきた返答をうまく飲み込めずにぽかんとしてしまう。
一体、今、この少女は何を言ったか。そうだ、IS、と言った。全く包み隠す様子も無く淡々と。静かな医務室で、今、会話しているのは自分と少女だけ。聞き間違いなど起こりようもない。そこまで冷静に状況の判断がつくというのに、彼女の言葉に対して理解が追いつかない。改めて自身に問いかける。彼女は今、なんと言った?
一方で、少女もまたにわかに切り替わった空気に対し、唖然とする。そして、神楽達の表情を一瞥し言葉を続けた。
「一つ、質問させてくれ。インフィニット・ストラトス。IS。それで、いいよな。ISという言葉は多分、色々な言葉の意味でもあると思う。例えば、be動詞のisとか。あとは、そうだな、情報システム。Information Systemとか。
でも、今ここで話しているのはインフィニット・ストラトスの事。それで合っているよな」
「え、ええ。合ってる」
「貴方達は皆、これを持っていないのか? IS学園といったが、ここはISに関係する施設じゃないのか?」
少女が重ねて困惑気味にこう尋ねてくる。神楽は小さくない目眩を覚えながらも、少女の発言に自身が覚えている知識を返した。
「えっと、ISは篠ノ之博士が作って、そのコアは世界には467個しかなくて、だから私達はもっていない、の。授業では、学園で管理しているのを使っていて」
しどろもどろになりながらなんとか絞り出した言葉のなんと頼りない事か。眼の前の少女に事実をきちんと並べられているのかすらあやふやな心地に、神楽は背中が痒くなる感触を覚える。
幸いなのは、少女もまた同じ反応を見せていた事だ。視線があちこちと動き、言葉をひねり出そうとしては唾を飲み込む。ようやく回り始めたであろう会話の歯車が途端に噛み合わなくなり、破綻してしまった事はもはや誰の目にも明らかだった。
「……ひとまず意思疎通が取れる事はわかった。念の為、明日はここで簡易的な検査を受けてもらおう。その手の専門性については任せて欲しい。今後の対応については……そうだな、改めてこちらでも相談する時間をくれ」
短いため息と共にこぼれた千冬の言葉が、どこか他人事のようであった。
―日常とは、果たしてどういうものなのだろうか。神楽はこの時、どうしてかそんな事を考えた。記憶の無い、行倒れの少女。その少女を助けた事は、きっと、とても珍しい出来事だ。それまで地続きだった日常に大きな変化が加わった。
だが、そもそもそれは目に見えぬもの、触れることも叶わぬもの。その存在を決める事は出来ない。にも関わらず、それに変化があったと、まるでもとの形がはっきりと存在していたかのように扱う事はきっと表現として正確ではないのだろう。そして、それを非日常と表現するという事も。どちらも、確かに現実としてそこに存在しているのだから。
つまり、これは始まり。言葉で表現するにはきっと正しいものではない、不可『視』議たる何かの上で四十院神楽が舞う物語の、始まり。
囃子の音が、彼女のそばまで近づいていた。
まえがきは活動報告にて