神楽は狭間に奉る   作:debac

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第十一話 どうか覚えていて欲しい 

 

 

 筆記用具と、事前に記入しておくように言われていた提出用書類。スマートフォンと周辺機器。そういった物をまとめた持ち物は、お気に入りの白い肩掛け鞄一つに収まるぐらいになった。一息ついてから、壁掛けの時計に目を向ける。いつもの就寝時間よりもまだ早い。眠る前に明日の準備のと最後の確認の時間を作ったつもりだったけど、やっぱり気持ちが急いでいたみたいだ。

 

 私――四十院神楽――は明日、IS学園に入学する。IS学園は全寮制だから、毎日を過ごす場所が大きく変わる。と言っても、丸々引っ越しという訳じゃない。IS学園で必要な日用品は向こうでいくらでも揃う。それ以外でどうしても必要な私物は先に学園宛てに送った。だから、明日の入学にあわせて持って行く荷物は見ての通りほんのわずかになった。

 

 一旦、鞄を机の上に下ろす。その脇に、アイロンをかけてピシッと整えられたIS学園の制服が広がっている。私はそれを手に取って立て鏡の前に立ち、薄いピンクの寝間着の上から自分の体に合わせて当てた。白を基調として黒い襟口に赤いラインの制服を、明日から私は身につける。これが、私がIS学園の生徒だって証明してくれる。初めて試着した時は、自分が全く違う人になったみたいでドキドキした。今もまだ慣れていない。その証拠に鏡の映る自分の顔はどこか強ばっている。

 

 じっと鏡の中の自分を見つめ返してから、制服を折り畳んで机の上に戻す。寮生活、しかも二人一組のルームシェアなんて初めてだ。幸い、入学前のオリエンテーションで誰と同室になるか分かっている。岸原理子という人だった。丸みのある可愛らしい眼鏡とカチューシャが印象的だった。緊張でガチガチになって話を切り出せずにいた私に、いろいろと質問してきてくれた。住んでいる所か、趣味とか。おかげですぐに仲良くなれた。ああいう子が、これから同じクラスにいてくれるのだからとても心強くて安心出来ると思った。

 

 そういえば、オリエンテーションの時に国家代表候補生の人達の姿も何人か見かけた。雑誌やテレビで見聞きしていたから顔だけは見た事があった。間違いなく本物だった。まさか同級生にそういう人達もいるとは思ってもいなかった。ありきたりな表現なのだけど、すごく輝いて見えた。きっと、毎日厳しい訓練があって、私とは住んでいる世界とか見ている世界は違うんだろうな、と思った。

 

 鞄のポケットからIS学園のパンフレットを抜き出して、その後ろの方にあった主な進路の項目に目を通す。ISの関連企業に研究職として進む人や、あるいはテストパイロットとして働いている人もいるらしい。どうにも、私がそういう事をしている姿を想像出来ない。次から次へと舞い込んでくる仕事に、あたふたしている姿ばかり思い浮かぶ。もしかしたら、ISとは全く無関係の小さい会社で、事務の人みたいな所に落ち着いてしまうかもしれない。

 

 でも、明日の事を思って緊張してしまうぐらいなのに今から自分の将来の事を考えるなんてなんだかばかばかしくて気が抜けてしまう。手の進むままパラパラと読み進めれば、すぐにパンフレットの最後のページにたどり着く。手持ち無沙汰になってどうしようかと思って、そういえばお父さんとお母さん、それにお祖父様へおやすみと声をかけるのを忘れていた。今日からこの習慣もしばらく間があいてしまう。忘れずに、ちゃんと済ませておこう。

 

 

 

 

 

 

 まずはお祖父様の所へ行く。この家は古い日本家屋の平屋で、私の部屋からお祖父様のいる離れまでは居間を横切って廊下をさらに進んだところにある。

 

 昔ながらの廊下は少し狭いし、こうして床張りの上を歩くとキュッキュと滑る音が鳴る。「あんたが小学校に上がる頃はここを通るのを嫌がって泣いてたわね」なんてお母さんは時々笑いながら言っていた。悪気がないのは分かっているけど、家族の中にも配慮の一つぐらいあっても良いと思う。この廊下を通る事は習慣になってはいるけど、今でもまだ少し、怖いんだから。

 

 そんな笑い話を思い出しながら歩いている途中で、私はふと中庭へと目を向けた。私の身長ぐらいの岩が据えてあったり、松の木が生えている。けれどもあちこちに雑草が生えていてあまり見栄えが良くない。休みの日に、たまに自分も庭の掃除を手伝う事もあるけれど雑草はすぐに生えてくるから全然追いついてない。お祖父様が言うにはこの庭は、お祖父様の子供の頃は庭師が住み込みでまだ整備をしていたから見応えがあったらしい。

 

 思えば、この家もあちこち痛んでいる。由緒ある伝統家屋で昔は立派だった、なんて言っても私からしたら古くて広いだけ。物置になってしまっている部屋も多い。今、この家に住んでいるのはお祖父様と、お母さんにお父さん、そして私の四人。もう一家族は住めるぐらいなのだから、こうなるのも仕方が無いと思う。使いにくい所もあってリフォームの話も時々出ていたようだけど、私がIS学園に進む事が決まった頃からぱたりと聞かなくなってしまった。ただ、そういう話題が出るたびに、お祖父様が寂しそうな顔をしてこの庭を眺めていた事は妙に記憶に残っている。

 

 もう少し歩くと、居間にさしかかる。和室の真ん中には座卓があって、座椅子がそれを取り囲んでいる。電気は点いているけど誰もいない。テレビは付けっぱなしで明日の天気予報がちょうど流れている。座卓の上に新聞が広がっていて、冷め切った湯飲みも置きっぱなしだ。多分、お父さんが途中まで読んでいて今はトイレにでも行っているのだろう。その新聞の一面には史上初の男性IS起動者発見の文字が大きく載っている。つい、それから目を背けるように私は奥の方を見た。細い廊下のすぐ先には台所があって、水が流れる音とか、ガチャガチャと物音がする。お母さんが洗い物をしている事はすぐに分かった。明日の準備もまとめてするのがお母さんのいつものやり方だ。おやすみと声をかけるのは後にしよう。

 

 また歩き出して、廊下も抜けてお祖父様のいる離れに着く。ここに来ると居間の音は何も聞こえなくて、とても静かだ。でも、離れの窓からは明かりが漏れているからお祖父様は中にいるはず。お祖父様はお祖母様が生きていた頃からずっとここで住んでいるらしい。らしい、と言うのはお祖母様は私が産まれてすぐに亡くなったから。少し色あせた家族写真には赤ちゃんの頃の私を抱っこしている姿が写っているけど、物心つく前の事だからまるで実感が無い。

 

「神楽です。まだ、起きていますか?」

 

 前屈み気味になって、少し声を張って呼びかける。向こう側からはっきりとした声色でどうぞ、と返ってきた。磨りガラスの嵌まる戸を横に滑らせて、私はお祖父様の部屋への敷居を跨いだ。

 

 お祖父様の部屋は、本がとにかく多い。壁一面には天井近くまである本棚がずらりと並んで、隙間無く本がしまい込まれている。それでも仕舞いきれない本がまだまだ沢山あって、絨毯の上で膝下まで積み上がっている。正直、あまり片づいているとは思えない。お祖父様は昔はどこかの大学で教授だった、なんてお父さんが言っていた。でも、量が多い割に整理が出来ていないし、棚にしまい込まれている本もよく見れば巻数や種類がバラバラだから話半分でいつも聞いている。

 

 そんなお祖父様はうす灰色の甚平姿で、角が所々めくれた革張りの座椅子に深く腰掛けて一冊の本を読んでいた。お父さんよりもずっと年が上だから、髪はほとんど白くなっているし顔や指先は皺だらけ。でも、背中は丸まっていないしどんな本を読んでいるか分からないけど、老眼鏡も使っていない。強いて言えば、脇の小さいテーブルの上のライトを点けているぐらいだけど手元が暗いとものが見えにくいのは私も一緒だ。

 

「そうか……明日からIS学園か」

 

 顔中の深い皺がゆっくりと縮んで、お祖父様は顔を上げる。そして、私の顔を見るなり、パタンと本を閉じてこう言った。落ち着いた低い声色だった。

 

 でも、私はその聞き慣れた声を聞いた時、どうしてか分からないけど緊張してしまっていた。いつもの通り、おやすみと言うだけなのに体が強ばって言葉が出てこない。つい顔をうつむけてしまう。

 

「こうしておやすみ、と挨拶をするのは今日で最後になるな」

 

「……はい。あっ、でも。夏休みとか、あと、学園の生活に慣れたら、週末に時間を作って帰るつもり、です」

 

「そうか」

 

 独り言みたいに言うお祖父様に、私は慌てて顔を上げる。途切れ途切れになる私の話を、お祖父様は顎を撫でながら静かに聞いていた。私の方を見ているのに私を見ていないような、不思議な視線だった。

 

「寝坊しないように。くれぐれも体に気をつけてな」

 

「はい。おやすみなさい、お祖父様」

 

「ああ、おやすみ。神楽」

 

 お祖父様の話はとても短い。話をするのが苦手というよりも物事を端的に言う性格だから、と私は考えている。私は今みたいに口ごもってしまう事が多いからまるっきり正反対だ。でも、お祖父様の言葉は促されているようで、おかげで私は毎日当たり前のように交わし続けていたあいさつを、当たり前のように済ませる事が出来た。もしかしたら、少しだけ顔も綻んでいたかもしれない。

 

 お祖父様の視線はすぐに手元の本へと戻る。だから、私はそのままお祖父様の部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 お祖父様の部屋から出て、廊下を少し歩いたところで背中に汗が浮かぶ。いつもの挨拶をするだけだったはずなのに、普段よりもずっと緊張した。お祖父様にじっと見つめられて、泣きそうになってしまった。どうしてだろうと考えるけれど、頭の中にもやもやが広がって上手にまとまらない。いっそ、もう一度お風呂に入ってきた方が良いのかな。

 

 色々と考えるうちにだんだん体が重たくなって、縁側に座り込む。足を下ろしてぶらぶらとさせるとようやく楽に息が出来るようになった。それから、夜なのに妙に足下が明るいと思って夜空を見上げる。真っ白な満月が浮かんでいた。

 

「眠れないのかい?」

 

「きゃっ」

 

 不意に声をかけれられて、びっくりして体がはねる。いつの間にか、私のすぐ隣でお父さんがあぐらをかいて座っていた。少しくたびれたジャージ姿で、湯気の立つ湯飲みを手にして。

 

 お父さんは丸いめがねに糸のように細い目つきで、お母さんともお祖父様とも、そして私とも違う。それは、この人が入り婿だからだ。旧姓は何だったか小さい頃に聞いたことがあったけどもう覚えていない。ただ、私の顔の輪郭がお父さんに似ていると近所の人達によく言われた。鏡を見るたびに私もそうだと思ったから、自分はこの人たちの家族なんだって事は当たり前のように受け入れている。

 

「その……しばらく会えなくなるから。いつものようにお祖父様におやすみって」

 

「ああ、なるほど」

 

 それと、物静かなお祖父様と違ってお父さんは話好きだ。私が途切れ途切れに話をしていて気まずそうにしているのに、お父さんは何度も頷きながらなんだか楽しげに笑っている。

 

 でも、私は決してそれが嫌味だとは感じていない。お父さんはこういう人なんだて知っているから。いつも軽口を叩いて、それをお祖父様が静かに咎めて、最後にお母さんが間を取り持つ。お決まりの流れだ。それが途切れる所はまだ一度も見た事が無い。私からしたら何だか不思議なやりとりだけど、これがこの人達の会話のやり方なんだろう。

 

「ねえ。お父さんは私がISを勉強する事、どう思ってる?」

 

 だから、なのか。あるいはお父さんのいつもの調子を前にそれまであった緊張がほどけたからなのか。私はISを知ってからずっと考えていた事をお父さんに尋ねる。

 

 私が白騎士事件、つまりISが世の中に広く知られるようになった出来事について覚えている事は、ISが日本の危機を救ったという事ぐらいだ。事件のあとしばらくは毎日のようにテレビでその時の様子が放送されていたけど、そこで話している内容はとても難しかったから何だか騒がしいなとだけ思っていた。でも、この事件をきっかけに世の中の空気が大きく変わった事はなんとなく分かっていた。

 

 幸い、この家の中の変化はあまり無かった……と思う。その頃は私はちょうど小学校にあがるあたりだったから気づかなかっただけなのかも。時々、家に知らない人達が来ていたけど、お母さんがいつも玄関先で楽しそうにお話をしていてそれで終わりだった。そういう日がしばらく続いて、いつの間にかその人達は誰も来なくなってしまった。不思議に思ったけれど、家族の誰も話題にしなくなったから私も気にしなくなった。

 

 私にISの適性があると分かった時は、家族の皆はそういうものもあった、という感じでまるっきりISの事を忘れていたみたいな雰囲気だった。せっかく適性があるんだから挑戦してみたらどうだ、なんてお父さんに薦められるまま受験して、IS学園に入学する事が決まった時は皆すごく喜んでくれた。それを見て、私もとても嬉しいと思った。

 

 けれども、時々考える事があった。皆は、もしかしたらISになるべく関わろうとせず、ただ単に忘れようとしていただけだったのかもしれないって。世界の価値観が変わった事で出てくる多くの問題は、私から見ても理不尽なものばかりだったから。

 

 自分たちに何か出来る事がある訳でもないから、できるだけ関わらないようにしよう。私が中学に上がる頃には、そういう空気のような見えない何かが家中にあるような気がしていた。それを確かめるには聞いてみるしかなかったけど、ずっと、私はその事を聞く事が出来ずにいた。どんな答えが返ってくるか、もしかしたらって暗い事を思い浮かべている自分がいて、怖かった。

 

「うん? 良いんじゃないか。IS学園だってIS以外の事も勉強するんだろ? あ、もしかしたら神楽は宇宙に行く事になるかもしれないな。お父さんが子供の頃とは天体の並びは変わっているんだっけ。

 将来どうなるかなんてまだ分からないし、神楽がこれから学ぶ事を存分に活かしてくれると良いなぁ」

 

 だから、お父さんがこんな風になんでもないみたいな調子で返してくるとは思ってもいなかった。拍子抜けして、とても驚いて。私は何も言えなくなってしまう。

 

 将来の事。つまり、自分の部屋でパンフレットを読んだ時と同じだった。今はまだ、何も思いつかない。だから、部屋で考えた時と同じように、やっぱりばかばかしくなってしまう。いつの間にか、私はくすくすと笑っていた。なんてことはない。私の中にあった怖いという思いは、単純に蓋をされていただけだった。蓋が外された今、この感情はどこか遠くへと流れていく。

 

 そうやって笑っていて、自分の心の奥底に心残りがある事に気がついた。そこにあるのは、お祖父様の物静かな表情。でも、淋しそうな表情。 

 

 促されるように、祈るように。残っていたそれを、私はお腹の底から吐き出した。

 

「お祖父様は、もし私が織斑君を連れて帰ってきたなら喜ぶのかな」

 

 私は、織斑一夏という人とはまだ会った事がない。史上初の男性起動者発見のニュースを聞いた時にはオリエンテーションはほとんど終わっていたから。ただ、オリエンテーションに参加していた先生達はずっと慌ただしそうにしていた。なにせ、織斑千冬というすごい有名人の弟さんなのだ。そんな彼女の身内かつ、世界初の男性起動者となれば芸能人なんて比べものにならないぐらい目立つ。

 

 自然と、オリエンテーションの合間にも集まった子達の中でも話題になった。……玉の輿って。そんな言葉、昔のドラマでしか聞いた事が無かったから、最初に聞いた時はよく意味が分からなかった。それを口にした子も、ふとした拍子で言っただけなんだろう。でも、一度ついた弾みはそう簡単に収まらない。まずはどうやってお友達になるか、とか。まるで情報誌でトレンドでも追いかけているみたいに色んな方向に話題が広がった。爆発したみたいにあっという間に盛り上がってしまって、注意される子もいたくらいに。

 

 そんな中で私が考えていたのは、この家の事。もっと正確に言うと、お祖父様の言っていた賑やかだった頃の家の事だった。お祖父様が時々話す事は、この家の由緒ある歴史。四十院という家の昔の事。庭師がいた、とか。もっと人がいて賑やかだった、とか。それ以外にも沢山の出来事を話してくれた。だから、私からしたらこの家は古くてリフォームの話が出るのも仕方の無い家だけど、お祖父様にとっては違う事ぐらいは分かっていたつもりだ。

 

 きっと、無意識のうちに私は考えていたんだと思う。私が織斑君をここに連れてくる事は、四十院という家の名がもう一度盛り上がるきっかけになるんじゃないかって。お祖父様が見てきたように、昔みたいに、この家も賑やかになるんじゃないかって。

 

 この時、私の表情は明日からの生活の事を考えている時よりもずっと真剣だったと思う。でも、お父さんは私の言葉にきょとんとして小刻みに瞬きを繰り返している。どうしていいか分からず返事を待っていると、今度はお父さんが吹き出して笑い始めた。私が笑っていた時よりもずっと大げさに。でも、余計に声が大きくならないように、一生懸命おなかを抱えながら。

 

「ははは。なるほどなるほど。あの人はずっとあんな調子だったからしょうがないか。本当に神楽は優しい子だなぁ」

 

 笑いをこらえるあまり、お父さんは涙目になる。

 

 その言葉の中に出てきたあの人というのは、お祖父様の事なのだろうけど。あんな調子、とはどういう意味なのだろう?

 

「ばあさん……神楽からしたらお祖母さんになるのか。神楽は覚えていないと思うけど、とにかく。じいさんはね、ばあさんが生きていた頃はもう少し口やかましかったんだよ」

 

 この疑問は、思っていたよりもずっと早く解決した。

 

 お父さんの回答に私は目を丸くする。あんなに口数少なくて、でも穏やかな話し方をするお祖父様が口やかましかったなんて想像出来ない。でも、戸惑う私を待ちわびていたみたいに、お父さんは話を続ける。

 

「そうだね。どこから話すべきか。神楽も聞いた事はあるだろうけど、この家も昔はそれなりに賑やかだった。でも、じいさんが小学校に上がる頃にはすっかり落ち着いて今みたいに家族だけ住むようになった。それとね。大きな声じゃいえないんだけど、じいさんとばあさんは幼なじみだったんだよ。だから、じいさんにしてみたらこの家での思い出はずっとばあさんと一緒だった、て事になる。きっと、あまり思い出したくない事も含めてね。

 ……まあ、そんなだからじいさんはこの家の先の事は人一倍気にしていた。母さんに連れられて俺がこの家に来た時は、実は最初は門前払いだったんだよ。何でも母さんにお見合いさせる予定があったらしい。ま、当時の俺はどこの馬の骨ともわかんないただの大学生だったからね。

 ただ、その時のじいさんの態度に母さんは頭にきちゃったもんだから、玄関先で大げんかだよ。しまいには母さんがじいさんの胸ぐら掴んで殴りかかろうとするし、じいさんも火が点いちゃって。

 最終的に、俺とばあさんが二人して止めに入ってなんとか宥めてようやく収まったんだ」

 

 お父さんの語る昔話に、私はひたすら圧倒される。お祖父様はともかく、お母さんがそんな荒っぽい事をするなんて。そう言えば、お父さんとお母さんの馴れそめの話は全くと言っても良いぐらいに聞いたことが無かった。でも、今ならその理由は十分過ぎるぐらいに納得出来る。こんな場面はそう簡単に笑い話には出来そうにも無い。

 

 唖然とする私をよそに、お父さんはあぐらをかいていた足を崩して縁側へと伸ばす。そして、今度は何だか気恥ずかしそうに頬を撫でながら、昔話に戻った。

 

「そうしたらさ。今度は俺とばあさんとで意気投合しちゃったんだ。自分でも驚いたよ。ばあさんは何というか、上品でのんびりしている人だから。気が合うなんて思っても無かった。おかげでばあさんがうまい事じいさんを言いくるめてくれて俺は四十院家の玄関をくぐれた。今思えば、そこから俺のこの家での思い出が始まったんだよなぁ」

 

 最後は、やっぱりお父さんの笑いで終わる。

 

 私は、三人が今みたいな関係になった理由が見えてきたような気がした。少なくとも私の中に、この人達が家で喧嘩をしていたという思い出は無い。でも、お父さんの昔話に出てきたような出来事は一度だけとも思えない。私が考えるよりもずっと、この人達にはこの人達だけの思い出がある。そして、そこにはお祖母様もいた。

 

「……私はお祖母様の事は覚えてない」

 

 思い出にいないその人の事を、無性に恋しくなる。そして、その感情が自分でも気づかない内に言葉となって漏れていた。

 

「仕方ないさ。ばあさんが亡くなったのは神楽がまだ赤ん坊の頃だったからね。年をとって体も弱って。神楽がこの家に来るのを待っていたみたいにすぐの事だったよ。でも、ほんの少し広くなったこの家に入れ替わるように神楽が来てくれて、またこの家は賑やかになった。じいさんもまだ赤ん坊の神楽をあやすのに久しぶりに張り切っちゃって。

 そこから今日までの時間はあっという間さ。だから、またこの家が静かになると思えば、じいさんが寂しがるのも無理はない」

 

「それって、お父さんやお母さんも同じ?」

 

「もちろん。家の事を手伝ってくれる人もいなくなっちゃうしな。庭いじりとかどうしよう?」

 

 なんだか最後の一言は余計だ、と思った。けど、自分の胸の高鳴りが、反論しようなんて気持ちを消し去っていく。

 

 お父さんが一度月を見上げる。それから、少し冷めた湯飲みを飲み干すと真剣なまなざしを私へ向けた。

 

「神楽。どうか覚えていて欲しい。思い出というのは、誰にとっても生きていく上で必要なものなんだ。教訓とか、知識とか。そういう形になって俺達を後押ししてくれる。でも、全部を持っていく事は出来ない。いつだって、これからへ何を持って行くか、最後には自分が決めなければいけない。

 置いていった物は、いつか忘れてしまうかもしれない。後になって、それが間違った選択だったと後悔するかもしれない。そうやって何度も選び直している内に、手にした思い出が自分にとって都合の良い物ばかりになってしまう事もある。しまいには、どうしてそれを選んだのかも分からなくなる。それは、とても淋しい事だ。自分の意思で選んできたはずなのに、古い思い出に浸かる事しか出来なくなるなんて」

 

 その言葉に、さっきまでの茶化す空気は全く無い。私は、今ここで話している事を少しも聞き逃したくなくて、自分でも気づかないうちに姿勢を正していた。お父さんはそんな私の姿を見てから何回か頷いてみせると、まだ明かりの灯る離れの方へと視線を向ける。今までそばにあったものが急に遠くへと離れていくような気分になって、私はそれを追いかけた。

 

「確かに、じいさんは淋しそうに見えるかもしれない。今もあの離れで一人で過ごしている。でも、それはじいさんにとって手放せない思い出が沢山あるからなんだ。ばあさんとの事、この家の事。神楽が初めてこの家に来た時の事とか、ね。それでも、たとえ両手が塞がっていようとも。新しい思い出を探しては選んでいく。とても勇気のいる事だ。

 それは、俺達や神楽も同じ。そうやって日々は続く。いつか誰かの思い出に繋がって、新しい思い出へと変わっていく。やがて、思いもよらない何かと巡り会う。

 ……神楽がこの家の事を考えてくれている事はとても嬉しい。それでも、古い思い出だけを頼りにしちゃいけない。これからやってくる手放せない思い出を見過ごしてしまうなんて、それこそ本当に淋しい事だからね。

 俺たちは、いつか神楽にとって今までの思い出を手放せてしまう程に手放せない思い出が見つかる事を、この家で願っている」

 

 そう言うと、すぐそばの柱に手をかけてお父さんは立ち上がる。そして、片足ずつ宙に上げてぶらぶらをさせてから居間の方へと向き直った。

 

「おお、そうだった。大切な事を言い忘れていた。おやすみ、神楽」

 

「……あ、おやすみなさい。お父さん」

 

 そうして歩き出す直前、お父さんは振り返るといつものようにおやすみの挨拶をしてきた。私ははっとなって慌てて返事をする。

 

 お父さんは私の返事を聞くと、嬉しそうに笑って居間の方へと歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 お父さんの姿が見えなくなっから少し経つと、お祖父様のいる離れの明かりが消えた。それが合図のように、私の頭の中のもやもやは消えていく。そして、程よい眠気と疲れがどこからともなくやってきた。

 

 思えば、お父さんと面と向かってこんな風に話をするのは初めての事だったかもしれない。私にも、お父さんやお母さんから叱られる事はあった。そういう時、自分の考えている事を吐き出していた。結局、それらは単なるわがままだったんだろう。さっきまでここでお父さんと話していた事は、そういうのとは全く違う。今は、胸の中がとても爽やかだ。聞かされた思いがけない昔話に圧倒されてしまっていたけれども、同時に私の中に納得するものもあった事は、もう疑いの余地も無かった。

 

 お父さんの言う事、お祖父様の考えていた事。今まで自分の頭の中だけで考えていた事は、あの人達と話をした事でようやく正しい姿になったような気がする。改めて中庭を見渡す。ここにある思い出を綺麗に整えて、この家がもう一度賑やかになったとしても。きっと、それはお父さんの言うようにただ古い思い出に浸かるだけ。私は、お父さんだけでなく、お祖父様の思い出をも侮辱するような気がして、今はもうその選択が正しいとはとても思えなくなっていた。

 

 ……手放せない思い出。お母さんがお父さんと一緒にこの家の玄関を跨いだ日のような思い出。私にもいつか、そういう思い出を選ぶ時が来るんだろうか。少しだけ迷った。でも、すぐに頭を振って追い払った。私にとって大切なのは、明日からの事。この家の誰もが持っていない思い出の事。古い思い出に浸る訳にはいかない。

 

 だから、いくつかの教訓だけを持って行く事にする。そう決意すると、私の中に少しだけ淋しさが生まれる。でも、この事はいつか私にとっての大きな後押しに、そして、これまでの思い出を全て手放したって構わない出来事に向かう事になるはずだ。 

 

  

 

 

 

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