背もたれを倒しきった椅子の上に、ほぼ仰向けとなった姿勢で海人は座る。だが、瞼は固く閉じられており呼吸は浅い。そして、真上からの照明の眩しさに顔をひくつかせもしない。それらは、彼女が意識を失っている事を如実に物語る。
そのすぐ脇に二つの人影があった。その片方、白衣姿の初老の男性が、手のひらの上で銀の指輪を転がしながら思案に耽っている。時折うなるような声を漏らし、苦い顔を浮かべて白髪交じりの髪をかき上げる。だが、苛立っているという様子では無い。これらの所作は考え事をしている間の彼なりのクセであった。事実、彼は何ら表情を変える事無く、傍らのデスクに据えられた幾つもの計器が表示する数字と横たわる海人の姿とを視線を行き交いさせる。
「ストリングスは伝達率の極めて高い素材で開発した。宇宙空間のような過酷な環境や、或いは極度の水圧のかかる深海域でも高速かつ正確に情報が伝わるように。しかしそれがまさか、このような結果をもたらすとは考えもしなかった。操縦者の意図を汲み取って進化するというISに搭載させた事で、コア人格と人間の人格が統合されるとは。……これは、奇跡と呼んで差し支えないだろう」
ゆっくりとした足取りで室内を何周か歩き回り、ようやく男――彼の言葉を借りるならば打鉄にストリングスを搭載させた張本人である、一条――は口を開く。彼の語り口は淡々としており、しかしながら最後の奇跡という言葉には驚愕の感情が滲んでいた。
「あいにく学の無い私はそのあたり説明されてもいまいちピンとこないが、要するにストリングスの本質というのは光ファイバーみたいなものなのか?」
そんな彼にものを尋ねるのはもう一つの人影。海人をここに連れてきたジェットだった。ISの装甲は既に格納されているが、代わりに足下まで覆う漆黒のマントに身を包んでおり、また顔全体を覆うフルフェイスのヘルメットはそのままで表情はおろか体つきを窺う事すら出来ない。
「極めて簡略化および抽象化されているが、正解に近い」
ジェットの問いかけに、一条は独り言のように呟く。そして、彼女に視線を向ける事無く椅子に腰掛けると、それまでの思考をとりまとめようとしているのか、デスクの上にあったノートに何やらメモを取り始めた。
「それにしたって。随分慎重なんだな。そのストリングスが、ISがらみだけじゃない多くの研究を一足飛びにさせそうな夢のような話に繋がりそうなものだけど」
「私が求めるものは利益だ。利益は平和の中で生み出される。決して騒乱の中に存在しない。ジェット、お前からの報告を鑑みるにストリングスの有用性は間違いないのだろう。だが、人格の統合というケースが明るみに出たらどうなる? いや、統合では穏当すぎるか。人格の乗っ取りに転用出来るとしたら? その先にあるのは騒乱だ。今の世の情勢を鑑みれば、私の開発したものがもたらすものを表に出したならば利益から離れていってしまうだろうな」
「ならこいつはどうする?」
ジェットが顎をくいと動かす、その先には、話し込む二人とは違う世界にいる海人だ。
それに対し一条は間を置くこと無く、まるではじめから予定されていたかのように言葉を返した。
「私は血なまぐさいのは好まない。余計な面道事は尚更で、こいつがIS学園に身を置いていたとなれば学園の関係者が近々私に接触してくる事は容易に想像がつく。同時に、貴重なサンプルという側面もある。つまり、時間は限られているが、これからの予定を熟慮する時間は必要だ」
「……ふぅん」
ジェットはただため息を漏らす。
彼女にとって一条との付き合いはそう長い訳では無い。だが、こうして次なる一手を考える中で理屈をいくつも並べるのはまどろっこしいものがある。
合理的とはほど遠く、必要以上に臆病で打算的。それが、ジェットから見た一条という人間の評だった。一見思慮深い発言をしているようだが、結局の所自身の保身を念頭においている。一方で、自身に関わりの無い所にはとことん無頓着。
「まあ、私の今日の仕事はひとまずこれで一区切りだ。用があればまた呼んでくれ」
マントの隙間から、黒い手袋に包まれた手のひらを覗かせてジェットは踵を返す。
――そう、彼がそういう人間だからこそ。自分は手を組んだのだ。
一条がたった今そうしたように。自身の考えをまとめなおしたジェットは、外からは誰にも窺い知れないヘルメットの下でニヤリと笑った。
◇ ◇ ◇
壁伝いに歩き、ようやく照明のものと思われるスイッチに手をかけた誠二は、何ら変化の無い屋内を見渡してから小さなため息を一つつく。
「照明は点かないな。多分元電源ごと落とされてるんだ。配電盤さえ見つかれば何とかなりそうだけど」
「これだけ暗いと、何処を探すかだけでも一苦労ですね……」
スマートフォンのライトを頼りに神楽は天井を見上げた。視線の先にはむき出しとなった鉄骨が網のように張り巡らされ、この建物の構造物として組み上がっている。そこからぶら下がっている水銀灯がギラリと光を反射して神楽達を監視しているようだ。
「外から見た時は広い建物だと思ったけど、何かの工場なのかな。油臭くて……少し寒い。海人は何処にいるんだろう?」
誠二がわざとらしく鼻をすすり顔をしかめる。果たして彼の言うとおり、屋内には大きな機械が幾つも並んでおり機械油の匂いが漂う。神楽には、それらが工作機械類いという程度の事しかわからない。もし、この場にその手に明るい人間がいたならこの施設が何なのか見当もつくのだろう。広く、間仕切りらしい壁も殆ど見当たらない室内では空気も随分とひんやりと感じる。警告を伴う悪寒のようにすら感じられた。
「漫画かなんかだと、こう、隠し部屋みたいなのがあってそこに閉じ込められてる。なんてあるけどさ。そんなんだったらちょっと面倒だよな」
足を踏み下ろす度に、足の裏から細かい砂を踏むようなジャリジャリとした感触が上ってくる。濡れている訳でも無いのに、うっかりすれば滑って転んでしまいそうな程だ。
「しっ」
半ば冗談めいた事を呟く誠二の肩が、時折ふらつく。その肩を、不意に神楽が掴んだ。同時に言葉を短く切って身をかがめる。とっさに、スマホのライト部分を手で覆うように隠す。辺りは闇となった。
「……足音?」
誠二が怪訝そうな顔を浮かべるも、それはほんの一瞬。
直後、コツ、コツ、等間隔でと床を叩く音が遠くから聞こえてきた。それが足音である事を理解した二人は、互いに顔を見やる。警備員か、あるいはこの施設の職員なのか。灯りの無い中ではそれの正体が何であるかは分からない。しかし、自分達がここにいるという事が知られる訳にはいかない。
祈るように二人の身が縮こまる。呼吸も最小限。体を震わせるのは単純に肌寒さだけでは無い。
しかし、希望を打ち砕くように、無情にも足音は段々と大きくなる。自分達との距離が近くなっている事は最早疑う余地もない。程なくして、カン、と一層甲高い音が一つ、すぐ側で鳴った。自分達の身を潜める大型の工作機械のすぐ反対側に、ハッキリと人の気配があった。
今にも逃げ出したい、という暗い気持ちが神楽の中から湧き出る。だが、寸でのところで手の甲に暖かな感触を覚えて思考がせき止められる。誠二が己の手を神楽の手と重ねていた。彼もまた涙目を浮かべ体を震わせていたが、懸命に歯を食いしばっていた。
一人では無いという、勇気と言うにはいささか奇妙な感情が、湧き出す恐怖に抗う。
そうしてどれほどこの時間を堪えていただろうか。再び、コツ、コツと音が鳴り始めた。その音は今度は徐々に小さくなり、それに併せて人の気配もまた遠のいていく。やがて、ずっと遠くの方でぎぃ、と鈍い金属音と共に扉が閉まる音が聞こえた。人の気配も消え、冷たい風が音も無く自分達の方へと流れ込んでくる。すがるように機械のよりかかり、ようやく二人はため息を吐き出す。鉄のひんやりとした冷たさが、火照った体を癒やしてくれているようでもあった。
だが、神楽は止まらない胸騒ぎに胸元をギュッと掴む。それまでずっと息を堪えていたせいもあるのだろう。心音がドクドクと体の中に響く。疼く痛みに呆然としていると、誠二が軽く肩を叩いた。顔を上げると、彼の目を見開いて何やら遠くの方を指差している。暗闇の先に、隙間から零れるような小さくて細い光が見えた。
「行って……みようぜ」
その呼びかけを合図に、二人は歩き出す。足下に転がる金属くずをよけながらよろよろと歩いた先には僅かに開いた扉があって、光はこの隙間から漏れていた。先程の足音の主が戻ってこない事を祈りつつ扉を開く。その先は廊下が続き、左右に幾つかの部屋へと連なる白い扉が見えた。
そして、その内の一つ、小窓の着いた扉の向こう側に灯りが灯っている。
神楽はその扉に近づくと、つま先立ちとなって小窓から中を覗き込んだ。これまでの暗闇が嘘のように明るい室内が見えた。棚が幾つも連なり、ガラス越しに薬瓶のようなものが見える。はじめ、この部屋は物置なのだろうかと思った。何の部屋なのかともう少し中の様子を窺っていると、不意に小さな悲鳴を上げてしまった。背もたれを倒された椅子に横たわる海人の姿が見えたからだ。
今すぐに中に飛び込みたいという気持ちを抑えられた事は、奇跡と呼ぶしかなかった。一つ深呼吸をした後に神楽が扉を開けると、それまでの油臭さが鼻をつく薬品の匂いに切り替わった。狭い視界からでは窺いきれなかったが、足を踏み入れた一室には計器の備わった大小様々な機械を乗せたデスクが、幾つも据えられている。先程通り抜けた工作機械のある場所がモノを造る場所だとするならば、この部屋はそれらを検査する部屋なのだろう。
神楽は室内を改めて一瞥する。そして、これらのデスクの内の一つの上で、唯一の見覚えのあるものが無造作に転がっている事が彼女の目にとまった。
格子状に編み込まれた銀の指輪。ISテンダーラヴの待機状態の形。
ここにきてようやく神楽の表情に安堵の色が浮かぶ。この指輪は、言うなれば海人の魂そのものだ。どうにかして海人本人をここから連れ出したところで、この指輪が無ければきっと彼女は目を覚まさないだろう。
そして、自分達がこの部屋に入ってきて尚、彼女が目を覚まさない理由もこの状況を鑑みれば合点がいく。
ならばこそ、やるべき事は明らかだ。神楽は指輪を手に取ろうとデスクへと歩み寄った。
「……危ねえ!」
誠二の叫び声と共に、体を強く押されて倒れ込んだのはその直後だった。不意の事で体のバランスが大きく崩れ、神楽はその場に転がってしまう。勢いは止まらず、その弾みでデスクや棚、床に肩や膝を打ち、鈍い痛みが走る。
何事か、と神楽が苦悶の表情を浮かべた瞬間、ドンッ、と重たい打撃音が室内に響いた。
「ぎゃああああああああああああ!」
金切り声のような誠二の絶叫が、ビリビリと室内のモノを震わせた。同時に、額に脂汗を浮かべて誠二の床をのたうち回る姿が神楽の視界を横切る。
「……ふむ。場違いな人間が二人いるな。全く、どうやってここまでやって来たのやら」
瞬く間に顔を青ざめる誠二の顔のすぐ側に、人間の足が踏み下ろされた。神楽が這うようにその足下から視線を上げていくと、扉の前で立ちはだかるように、両口の大型ハンマーを手にした白衣姿の初老の男が自分達を見下ろしていた。