心配事は翌日に持ち越さない事。その日の悩みはその日の内に結論を出す事。そんな教訓を初めて見かけたのはいつ、どこでだったか。
ここ数日で積み上がった多くの心配事を抱えたまま職員室で一日の準備をしていた真耶は、千冬から直接手渡された十数枚に連なる書類に目を通すうちに、出所不明のありふれた人生の教訓を思い出していた。
「織斑先生、この書類ってもしかして」
「以前から議題にのぼっていた、新しい授業内容の草案の一つですよ。例の少女、四十院からは海人と名乗ることにしたと聞かされましたが。ともかく機械が当てにならない以上、彼女のISについて調べるにはこれが手っ取り早いんじゃないかと」
真耶の発言を遮るようにあっけらかんと言う千冬の目元に、わずかなくまが出来ている。その視線に気づいたのか、はたまた目元を気取られまいと思ったのか。彼女は手にしていたコーヒーに口をつける事なく話を続ける。
「幸いほうぼうから前向きな返答が来まして。我々としても何かしらのタイミングで試行したかったのは事実ですし。……さすがに人が集まるところでやるわけにはいかないので。屋内演習場を使うことにしました。そういう訳で、放課後、海人を案内してもらえませんか」
頷く真耶は、千冬の肩越しにこちらの様子を恐る恐る伺う視線に気づく。それは、昨日海人の検査に同席していた人達のものだった。なるほど、千冬からの前向きな提案には前向きな回答をするしか無かったという事なのだろう。
今回のように、問題に対する回答をある程度形にしてくれる事があるのだから彼女には頭が上がらない。もっとも、そこに至るまでの過程を含めてリーダーシップと呼ぶべきかどうかについては、付き合いがそれなりに長い真耶にとっても回答を保留せざるを得なかった。
◇ ◇
「そういえば、海人っていう子の事ってまだ何も分かってないの?」
角の丸まった眼鏡、そして赤いカチューシャがトレードマークの少女、岸原理子がそんな質問を神楽へと投げかけたのは一日の授業を終えて寮へ戻る途中の事だった。
人の噂も七十五日、とは今は昔。IS学園に流れ着いた身元不明者の話題は、数日を経てほとんど挙がらなくなる。だが、当事者や親しい者にとっては顔を見れば思い出す事であり、彼女のような態度は極めて自然な事なのだろう。
とは言え、満足な回答を持ち合わせていない神楽にできる事はただ黙って頭を振るだけだ。眩しいぐらいの夕日に照らされた寂しげな表情を横目に、理子はわざとらしく肩をすくめた。
「神楽さんもお人好しだよね」
「えっ」
思わず神楽は理子の顔を覗く。すると、彼女は、くすくすと笑っていた。
「冗談冗談。今日一日あんまり顔色良くなかったから。上の空っていうのかな? でも、きっと私達が気にしてもどうしようもない事もあるよ。気分転換しなくちゃ」
なんでもないといった様子で理子は前へと向き直り再び歩き出す。神楽は、その背中を目線で追う。しばし唖然とし、ようやく自分が立ち止まっていた事に気づくと急ぎ足で彼女の背中を追った。
理子の言葉は耳が痛くなるほどにごもっともな事だった。今日一日自分のやっていた事と言えば、授業の合間にスマートフォンで行方不明者やそれに関係しそうな出来事がないか調べてばかり。幸い、先生から指摘をされる事は無かったものの授業中もぼんやりとしていた。結局のところ、それらは警察や探偵の真似事でしかなく、およそ手がかりとよべるものは掴めなかった。あるいは、その程度の事ならすでにIS学園で対応しているだろうし、自分の調べ方が悪かった、と言えばそれで終わりなのかもしれないが、諦めに似た考えは無意味に焦燥感だけをつのらせてしまう。
「……ごめんね、心配かけちゃった」
「うん、わかればよろしい」
はたと気づく。堂々巡りに陥っていた事を。気恥ずかしくなって謝罪の言葉を吐き出し顔を伏せた。同時に、胸の内につっかえていたものが外れたように呼吸が楽になった。不思議な感覚だった。ただ、指摘された事を認めただけであって、状況は何一つ変わっていないというのに。今はもう、次に自分が何をしたいのかという余裕が生まれた。
そして、もう間もなく週末を迎える事を思い出した。海人がこの学園に来てから初めての週末だ。神楽は考える。状況の好転が無くとも、どうせ考えるなら楽しく、気分が上向く事の方が良い。それは、海人にとっても同じはずだ。脳裏には、買物だとか、食事だとか。先ほどとは打って変わって次々とアイディアが浮かぶ。心が軽くなって、視界が広がるような心地だった。
「あれ? あの人」
不意になにかに気づいた理子が立ち止まって、少し先の街路樹を指差す。そこには、木の陰で一人ぽつんと佇む女子生徒の姿があった。サイズの合わない、大きめの制服の袖を肘までまくり上げた着方に神楽は見覚えがあった。
間もなく、その生徒、つまり海人もまた近づく人の気配に気づいたのだろう。上げた目線が神楽の視線と合うや否や、駆け足気味に近づいてくる。
「神楽さん」
駆けた勢いで、制服が大きく膨らむ。だが、そんな事を気にする様子もなく彼女は声をかける。その声は、わずかに震えていた。
「あなたが噂の海人さん?」
「……噂かどうかは分からないけど。海人は俺だね」
「おぉ、聞いた通りの男勝りというか。あ、私は岸原理子。神楽さんの友達。で、何か困ってるみたいだけど?」
「ああ……その」
呑気に理子が自己紹介を進めるが、どうにも海人の表情はすぐれない。困り眉で海人の視線は泳ぎっぱなしだ。やがて、観念したように苦笑いを浮かべた。
「その……実は、山田先生と一緒に第三屋内演習場とかいうところに向かっている途中だったんだけど、はぐれてしまったんだ。ここがどこなのかもよくわからない。話しかけられるような人も知らなくて」
第三? 屋内の演習場? とつぶやき首をかしげる理子がスマートフォンでIS学園の敷地案内を開く。神楽にとってもまた馴染みのない場所であり、自然と視線がスマートフォンの画面へ向かう。入学以来使う事の無かった学園案内を睨みながらようやく見つけた場所は、自分達にとってはISの実習で馴染の深いアリーナのそばにあった。用途を見る限り、どうやらISの点検や小規模な試運転等でしか使われていないらしい。IS学園の来てから日の浅い海人が一人で行くには少々難儀する事だろう。
「ねえ、岸原さん」
「良いって良いって。海人さんを案内してあげて」
神楽と海人が二人して渋い顔をする中、何かを思いついた理子はいたずらっぽい笑みを浮かべている。だが、先んじて海人の案内を買って出て歩き始めた神楽は、ついぞその表情に気づく事は無かった。
◇
天井から等間隔でぶら下がる照明がゆっくりと照度を持ち始め、神楽の足元に影を作る。内壁は一面深緑色で塗られているが、ところどころ錆が出始めていて劣化を伺える上に鈍い鉄の臭いも鼻をつく。中央は砂地となっており、殆ど平坦で荒れている様子は無い。普段あまり開放されていない場所である事は、疑いようもなかった。
夏場なのにひんやりとした空気が肌を撫でる。その主なる原因は、広々とした空間だとか、夕方という時間帯だとかではなく、自身の隣に立つ仏頂面のままの千冬にある事ぐらいは神楽にとってもすぐに理解出来た。
遠目でもわかる程に狼狽する真耶が、神楽達を見つけるや否や地面にぶつけんばかりの勢いで頭を下げ、かと思えば千冬の無言と言うにはあまりにも重苦しい圧力に促されるがまま演習場の中へと案内された訳だが、その原因となった真耶は海人を連れて更衣室へと消えていってしまった。
自ずと残されるのは神楽と千冬の二人だけなのだが、千冬はというと時折唸るような声を漏らすばかりだ。そもそも案内という役目を終えた自分が残る理由も特にないのではと、神楽は内心戸惑いこそすれど果たして口を開く度胸は持ち合わせていない。そして、千冬の方から時折視線を感じるが、どうして目を合わせる事もできようか。これもまた理子の言ったようにお人好しだから、というべきなのだろうか。観念した気持ちと共に自問してしまう。
そうして背筋が凍り始めた頃、ようやく更衣室の扉が開いてISスーツに着替えた海人と真耶が揃って中から出てきた。
「……初めて着てみたが。変じゃないだろうか」
「うん。よく似合ってる」
開口一番、海人からISスーツの着こなしについて尋ねられると、神楽は逃げるような心地を隠すように微笑む。彼女にしてみれば良く着慣れた紺色のものだが、それが浮かび上がらせる海人の体型はいわゆる出るところの出ている体つきで、健康体そのものだ。自身は華奢な方だと思っている神楽にとって、そんな体型は活発そうに見えて羨ましくなる。もっとも、そばにいる真耶と比べてしまうと、途端にあらゆるものが野暮となるのだが。
「……さて、本題に入ろう。海人の身元については調査を続けているが、それはそれとして、一つはっきりさせておきたい事がある」
開放された屋内に、一つの咳払いと共に千冬の声が響く。肩がピクリと震える真耶には目もくれず、キョトンとしたままの海人が答えた。
「俺のISの事ですか」
「そうだ。海人、お前のISが動いているところを見せて欲しい。なに、難しい事じゃない。山田先生を相手に実践形式の演習を行う。
学園側としても安全性や技能向上の改善を踏まえた新しいISの演習を考案しているところで、これはそのうちの一つ。言ってしまえばプリテストだ」
間をおいて、千冬がいつもの調子を取り戻しつつあった。なるほどISスーツへの着替えの時間が妙に長かったのはこの為なのかも、と一人納得する神楽だったが、ある疑問が湧き、極自然と言葉になって漏れた。
「あれ? それなら別にいつものアリーナでも良かったんじゃないですか?」
「この学園にはもの好きも多いだろう? 海人を目立たせるわけにもいかない。それに、今回の演習もまだカリキュラムに組み込まれてはいない非公式のものだからな」
そう言いながら千冬は真耶へと目配せをする。それを合図に真耶は壁際に背を預けていたラファール・リヴァイヴを装着し、そばのハンガーにかけてあったライフルを2丁手に千冬の隣に並んだ。
「それにはお互い色違いのペイント弾がそれぞれ5発ずつ装填されている。この実習場内で、制限時間5分以内にどちらが多く相手にこのペイント弾を当てられるか競ってもらう」
千冬の言葉に、ほう、と海人がため息を漏らす。そして、今まさに演習を始めようとする場所をぐるりと見回した。
この演習場は、屋内運動場ほどのスペースを有している。それを広いと取るか狭いと取るかは個人差があるだろうが少なくともアリーナ程ではない以上、逃げに徹するような事は出来ない。それに加えて時間制限もありだ。つまり、ほぼ真っ向からの撃ち合いとなる事はその場にいる誰にとっても容易に想像がつく。
「一つ、質問させて下さい。プリテストとか、非公式だとか色々あるみたいですけど。結局のところ俺がここでやるのはISを展開させて、山田先生と演習をするという事で合っていますか? 武器はこのペイント銃を使う。制限時間は5分。より多く相手にペイント弾を当てたほうが勝ち、と」
「その通りです。ただし、あくまで今回の目的は海人君のISの確認と、本形式の演習についてのフィードバックを得る事ですから。勝敗はおまけみたいなもの。肩の力を抜いて臨んで下さいね。安全第一ですよ」
真耶の補足説明を受けながら、海人はふむふむ、と相づちをうつ。
そんな彼女らをよそに、神楽は海人が左親指の銀の指輪をしきりに指先で擦る様子を眺めていた。あれは、彼女の手癖なのだろうか。見た目こそ気丈に振る舞っているが、IS学園に漂着してから数日。トントン拍子で演習まで話が進んでいくさまに彼女もまた何かしらの不安を感じているのだろうか。そんな事を考えながら。
しかしながら、神楽の本音はそういう事を心配するものでは無かった。この時、彼女の脳裏に浮かんでいたのは医務室で明かした海人のISの姿、その一部。そして、展開する瞬間の射抜くような視線。果たして、彼女は次に何を見せてくれるのか。
この時の神楽にはまだ自覚は無かった。だが、そこにあったものは、紛れもなく―。
「なあ」
唐突に、袖を引っ張られる。海人が、怪訝そうな顔で自分を見ていた。
「その、山田先生はああ言っていたけど。やっぱりやるなら勝ちは目指した方が良いよな?」
海人は耳打ちと共に同意を求める。袖だけではない。全身を何かに引っ張られるような感覚を覚えながら、神楽は彼女の肩を軽く叩いた。
「うん。山田先生はとても強いよ。でも、応援してる。頑張ってね!」