海人達の頭上、文字通り薄皮一枚のところで爆ぜた青白いスパークは微小な燃えカスを残して消える。だが、後に残るものは確かに存在していた。真っ黒な炭と化したドアや、壁紙が溶解し骨組みまで露出した建物の構造体として。
海人には確信があった。誠二が腰を抜かしたモノ、つまり、奥の部屋に何故、人の足先だけが残されていたのかという謎に対しての。だが、今この瞬間にその疑問へ思考を費やす余裕は微塵もない。さもなくば、自分達がその遺留品達と同じ末路を辿る事になる。
「あ、頭! 頭が焦げた! ハゲたぁ!」
「やかましい! まだ二十代の頭皮だ!」
脇に抱えていた誠二が頭頂部を抑えて絶叫する。海人は反射的に怒鳴りつけながら、その反対側で抱きかかえられている神楽を見た。彼女は、まだ自分たちの身に何が起こっているか把握できておらず、ひどく瞳を震わせていた。不測の事態に半ば錯乱する二人の姿が、海人の胸に刺すような痛みを与える。
それでも、と踵を返して廊下を駆ける。ちらりと背後に目線を送ると、壁に張り付いていた黒い半球が震えて剥がれていく様子が見えた。それらは、落下しながらくるりと丸まり握りこぶし程の球体となる。そして、地面にぶつかりゴトリと音を立てるや否や、海人達を追いかけるように転がり始めた。はじめは緩やかだったが、程なくして回転速度は上がり、逃走する海人達との距離が急速に詰まっていく。
「テンダーラヴ!」
海人は叫ぶ。自身の腰部から垂れるテンダーラヴの白金色の帯が浮き上がり、その平たい先端が後方へと向けられる。それらは猛追してくる黒い球体に狙いを定めると、勢いよく飛翔した。直進する黒い球体がその帯に触れた瞬間、直線軌道は徐々に海人から逸れてふわりと床より離れていく。
その瞬間を待っていたように帯が捻れる。球体の軌道は更に捻じ曲げられ、平坦な床の上とは比べ物にならない程に不安定な場で回転する事で球体のブレがどんどん大きくなっていく。とうとう、バン!と帯から弾き飛ばされると壁へと激突した。回転運動は失われ、今度は重力に沿って床へと落下する。しかし次の瞬間には、そんなもの無意味だと言わんばかりに黒い球体は再び回転を始める。直ちに軌道修正をかけ、より早い回転速度を伴って追跡を再開した。
自分でも気付かぬ内に海人は舌打ちをしていた。テンダーラヴの帯は、ある程度伸びこそすれど無限長にはならない。何より、たった今そうであったように帯より弾かれてしまえばテンダーラヴのコントロール下より離れる事になる。そうなるだけの大きな力では捌ききれない。
つまり、この白金色の帯によって物体の運動をコントロールする範囲には限りがある。背筋に冷たいものを感じながらも、鋼鉄の足は止まらない。曲がり角を通過すればあとは事務スペースに繋がって出入り口だ。黒い球体はやはりこちらに向かって転がり続けている。動きを止めれば壁すら、そして、人体すら容易く溶解させるスパークが放たれる。距離はあと数メートル。両脇に人を抱きかかえながらだが、ISの機動力があれば脱出まであと数秒もかからない。
だが、この逃走計画はあっけなく破られる。曲がり角の死角からコロコロと二つ、後方より迫る脅威と同じ黒い球体が転がってきた事によって。それらは、目を見開いた海人に見せつけるように、いっそ不自然なほど唐突に回転が止まり、惰性によって床上を滑る。そして、僅かに跳ねたかと思えば、中央から割れて展開し、半球状となる。直前に目撃したそれと同じように。
「神楽さん、六角! すまん!」
漆黒の装甲が蠢いた。海人の顔が歪む。彼女の口から詫びの言葉が吐き出されるより速く、テンダーラヴの脚がガンと脇の壁を蹴り飛ばした。
「きゃあ!」
蹴りつけられた壁面は割れて凹みを作る。一瞬の間があって、神楽が身悶えとともに悲鳴を上げた。骨にも響く強い衝撃は反動としてそのまま跳ね返り、テンダーラヴの進行方向を横方向へと大きく変える。そのまま、ドアが開けっ放しとなっていた会議室へと海人達は吸い込まれていく。
全身がでたらめに回転する中、神楽と誠二を庇う為に海人は身を丸める。テンダーラヴの装甲が室内にあった長机や椅子にぶつかり四方八方へと弾き飛ばす。その直後、青い白いスパークが入口の周囲で爆ぜた。微小な火の粉が飛び散り、焦げを作る。役目を終えた小さな閃光は落下しては幻となって消える。その一方で、テンダーラヴの慣性は壁に激突する事でようやく止まった。
衝撃音が僅かな残響を残す。静止するテンダーラヴの腕部から、身を捩ってなんとか抜け出した誠二はひっくり返った椅子の足を杖によろよろと立ち上がると、息を切らしながら当然の権利と言わんばかりに抗議の声を上げた。
「な、なんなんだよアレは!」
「……すまない。だけど、まだ終わってない!」
だが、海人はそんな誠二に視線を送る事無く一言詫びて、反対側で抱えていた神楽も開放する。短い呼吸を続ける彼女の肩が震えていた。悔しさが押し寄せる。だが、それすらも振り切り立ち上がると、たった今自分たちが通り抜けた入口へと再び走る。スパークを吐いた二つのそれは既に球体となり転がり始めていた。更に、後方より迫っていた球体も加わる。計四つの球体が会議室の中へと迫る。後方より悲鳴が聞こえた。
「重力は、とても弱い力なんだ。だから、例えば机とか椅子とか。静止しているモノにテンダーラヴが干渉する事は出来ない」
海人の囁きに呼応し、テンダーラヴの全身の帯が揺れる。
「でも、この丸っこいのは。こうしてこっち側に向かってきてる。そこにあるのは重力だけじゃない。運動する力が在る」
海人は腕を伸ばす。テンダーラヴの腕部から伸びていた帯がめくれあがり、球体の前へと伸びて道を作る。怯えるように球体が震えて、急制動をかけた。しかし、前に進もうとする力は慣性として完全に、そして直ちに消える事なく残り、それによって床を引きずりながら前進する。その状態で、せきを切ったように再び割れた瞬間、海人は腕を大きく振り上げた。
「こいつが攻撃を仕掛けるには球体から一旦展開して半球の形にならなきゃいけない。そうしてから壁や床とかに張り付いて火花を吐く。……それがこいつの仕組みだ!」
白金色の道が右往左往に暴れまわる。その道の上に乗り進んでしまっていた四つの球体は、この濁流に飲み込まれてしまった。既に、スパークは吐き出される寸前となっていて半球体のあちこちの隙間から漏れ出している。間もなく、辺りが白むほどの閃光が広がった。
「逃げられないなら、こっちから追い詰めてやる!」
会議室の入口で四つのスパークが結合し、金切り声を上げながら盛大に爆発する。これまで見てきたものとは比べ物にならない程その規模は大きい。瞼を綴じ、腕で顔を覆っても暗闇の向こうから眩しい光が差してくるのが分かる。
だが、そんな光も一瞬の後に消滅する。鼻をつく臭いに眉をひそめて、ゆっくりと腕を下ろして海人は瞼を開く。彼女の予想通り、四つの球体は同士討ちとなりスパークと共に跡形も無く消え去っていた。辺りの様子をうかがっても、他に自分達を追いかけてくるものは何も無い。この建物に入ってきた時の静寂が戻っていた。
「か、海人君……。無事……なの?」
会議室に、神楽の震える声が響いた。海人は安堵する間もなく振り返る。倒れた机に身を預け額に脂汗を浮かべ、荒い呼吸を繰り返す神楽の姿があった。
途端に海人の表情が青ざめる。テンダーラヴは量子化され、銀の指輪となって彼女の左手親指へとはめられる。その左手を振り払うように海人は神楽へと駆け寄り、彼女の眼前で跪いた。
「ごめん。危ない目に合わせてしまった。巻き込んでしまった」
その頭は重く下がったまま、体は微動だにしない。神楽はそんな海人の姿を前に天井を仰ぐ。だが、それは僅かな間。首を横に振ると何か決意めいたものを秘めた真剣な眼差しを携えて、頭を垂れる少女の手を取る。彼女の手は、自分のそれよりもわずかに冷たくて、皮膚は乾燥してガサついている。
「……ううん、いいの。海人君について行くって決めたのは、私だから」
神楽がこう応えると、海人の肩が一瞬震えた。しばし沈黙があって、ゆっくりと海人が顔を上げる。自然と二人の目が合った。神楽が静かに微笑むと、海人の頬が赤みを帯びた。
「それにしたって、今の黒いやつ。マジで何だったんだ」
気まずそうな咳払い一つと共に、誠二が声が会議室に響く。二人が視線をやると、誠二が入口から顔を出して廊下を見渡していた。それにつられて海人と神楽は廊下に出る。改めて見ると、あちこちの壁が破壊され、火花の跡が飛び散っている。
それでも、物音を立てるモノはない。これだけ大きな騒ぎをして他に反応が無いのならば、果たしてこの建物には他に誰がいるというのだろうか。
「防犯設備にしてはいくらなんでも物騒過ぎる」
海人が奥の小部屋に視線をやりながら呟いた。既にドアは滅茶苦茶に焼き尽くされて向こう側が丸見えとなっている。とても仕切りの役目を果たしているとは言えない。そして、その境界線上にはただ焼け跡だけがあった。自分や誠二、そしてひょっとしたら神楽も見てしまったかもしれない一対の人の足は影も形もない。恐らく、自分達を襲ったスパークの流れ弾によって、文字通り灼き尽くされてしまったのだろう。
「な、なあ。今のうちに外に出たほうが良いよな? どう考えてもやばいぜ、ここ」
不安げに顔を引きつらせ誠二が尋ねてきた。海人と神楽から異論は出なかった。部分的にとはいえ目的は達成した。何より、次の脅威がもう来ないとは限らない。卑屈な恐怖心が彼女達の中にあったのは、疑う余地の無い事実だった。
そして、いざ歩き出そうと足を前に出した海人のつま先に、コツン、と何かがあたった。視線を落とすと、そこには指先ほどの黒い破片が落ちていた。たった今破壊した黒い球体の破片だった。海人はそれをつまみ上げるとポケットにしまいこみ、深呼吸一つ。更に歩を進める。
相変わらず入口に繋がる事務スペースに人の気配は無かった。あの黒い球体が何処から来たのか三人の誰もが検討がつかない。注意深く辺りを見回しながら進み、そして、外へとつながる扉を開ける。ほんの数十分前に通り抜けたはずの洋ドアが、随分と懐かしく思えた。正午をすぎて、傾き始めた太陽の光が眩しく彼女達を突き刺す。だが、不気味な程に、灼熱のスポットライトが当てられたここにも人の気配は無い。
「行こう」
海人の囁きだけが、そこに残った。
◇
細い路地の向こうに大通りが見えた。徒歩で数分かかるかどうかという短い距離にも関わらず、向こうとこちらでは活気の流れがまるで違う。脇目も振らず先を急いで息を切らす者、周囲の街並みを眺めながら通り過ぎる者。隙間から見える人々の表情は皆、実に様々だ。一つ共通しているのは、誰もがこちら側を見ようともしない事だった。きっと、彼らからすれば、こちら側は置いていかれた過去の一幕でしかないのだろう。だからこそ、こちら側で起きていた事に、誰もが興味を抱く事すら出来ない。
「あ……そうだ。海人くん、ごめん。これ」
海人のすぐ隣を歩く神楽は、そう言いながら一冊のファイルを海人に差し出す。見覚えのあるそれは、老ビルで見つけた、八城亜麻の関わっていた詐欺の計画が書き込まれていたモノだった。
「急いで出てきたから、つい持ち出しちゃった。でも」
「……これは内緒だ。なあ六角」
「お、おう。もちろん黙ってる。そのファイルは元々四十院さんのモノ。そもそも、僕はそれが何のファイルかも知らないし。それを何時から持ってたかも分からない。多分、朝から持ってたんじゃないかな。うん。そういう事で」
今更あの建物に戻る事など果たして出来るだろうか。いよいよ共犯となってしまった神楽から視線を切り海人は誠二を睨む。彼の返答そのものは相変わらずしどろもどろだったが、すっかりこういうやり取りに慣れてしまったのか、合流したばかりの頃とはうって変わりその口ぶりはどこかおどけていた。きっと、当人は事の大きさをよく理解していないのだろう。図々しい割に短絡的、そういう性分だからこそ、今回のトラブルに巻き込まれてしまったのかもしれない。
一先ずの取り決めはさておき、海人はファイルを神楽から受け取り再びページを捲る。今、分かっている事は八城亜麻が誠二と同じ仕事(という名の典型的な詐欺)を受けていたという事だけ。結局、八城亜麻は誠二と合流できなかった。
姿を消した少女、そして、記憶のないIS操縦者。その狭間には一体何があったのだろうか。そもそも、この二人は同一人物なのだろうか。次に手繰り寄せなければならないものは、山程ある。死ぬような思いをして手に入れたのは、現時点でまだ曖昧な事ばかり。だが、これで先に進む事は出来る。
海人が薄らくらい思案にふけり、神楽達は彼女の反応を待つ。どれほど時間が経っただろうか。気まずさの混ざり始めた沈黙の中、一定のリズムを刻む着信音が三人の間で唐突に鳴り響いた。意識を取り戻したように、海人の肩が震えた。
「電話? 誰からだ?」
その音に一早く反応したのは誠二だった。自身のポケットをまさぐると着信と共に振動を続けるスマートフォンを取り出す。そして、そこに表示されていた番号を見るや、小さな悲鳴を上げた。
「……なあ、この番号。事務所からだよ。さっきまで僕たちが居たあのビルの」
目を見開く誠二に、海人はゾッとなる。あれほどの騒ぎの中で、元々あの場所に誰か居たのならば落ち着いていられるはずがない。実際に脱出する際にも反応はまるで無かった。にも関わらず、この電話は件の事務所から発信されている。海人の直感が、これが誰からの電話なのか、けたたましい程の警鐘を鳴らし続ける。
ならばこそ、何故今になって電話という手段を取ってきたのだろうか。混乱する中で、どうにか思考を取り戻し、海人は誠二よりスマートフォンを半ば強引に受け取ると画面に表示されている通話ボタンに触れた。通話時間を示すタイマーのカウントが始まる。息を呑み、スピーカーに耳を当てる。
「……中々いいカンをしてる。追い込んだつもりだったが、こうも撃退されるなんてな。やはりマンネリはよくない」
しばしの空白があって、スマートフォンの向こう側から女の声が聞こえてきた。落ち着いた大人の声だった。たった今、命のやり取りをした事など微塵も感じられない。たちまち海人の頭は熱くなる。
「おかげで死ぬ所だった。挨拶のつもりなら、相当タチが悪い」
「ハハハ。随分と威勢が良い。お前が破壊したものはジェットという名前でな。今しがた体験してもらった通り、建築構造物なんか簡単に溶かして、結果として消滅させてしまうような代物でね。本来なら人に向けて使うようなものじゃないんだ。奥の部屋でここの社長さんと色々と話をしていたんだがね。一々口やかましいもんでぶっぱなしてみたら、まあご覧の通り。流れ弾も当たってダメ押しだ、もう灰すら残ってない。
だから、安心すると良い。人間という奴は底なしにバカだが愚かじゃない。例え誰かがここの騒ぎに気づいたとしても、追うべきものが何も残っていないのに追い続けるなんて事は誰もしない」
からからと笑いながら、どこかその口調は呆れていた。海人の重い言葉も、この女にはまるで届いていないようだ。
「……それで、今更電話なんての用だ。今からお前も外に出てきて二回戦でもやるか?」
「まさか! これはただの挨拶。肝心の装備が破壊された以上、これ以上お前を追跡しない。外に出て今からドンパチやろうなんて人の目を引きすぎる。私にとって用があるのはお前だけだ。
なあに、お前と私。お互いがお互いを想像している通りの人間だったなら、自ずと私達は同じところに辿り着く。だがそれは、今でも、ここでもない。だから、今はまだ単なるお別れだ。じゃあな」
女の言葉はそれで終わりだった。ブツリと、途切れる音。スマートフォンの画面を見れば通話終了の文字が浮かんでいた。
スマートフォンを握りしめる力がにわかに強くなる。自分を追いかけてくる事などいくらでも出来たはずなのに、あえてそれをやらない事、そして、そうしなくとも再び出会うと予言した事。その不遜さがとにかく海人の癪に触る。なるほど、この女の正体はまるで検討がつかない。だが、少なくともこの女は自分の事を知っている人間だという実感が、海人の心に怒りと共に満ちる。
「その……誰からの?」
ただならぬ雰囲気を感じ取った誠二が不安げに海人の顔色を窺っていた。海人は頭を振って脳内の熱を振り払う。そして、誠二にスマートフォンを返しながら、ポツリと言葉を漏らした。
「六角も。すまなかった」
「え?」
たまらず誠二が聞き直す。だが、彼女は目を合わせぬように逸らしてしまう。その視線は、地を這う風に踊らされる小さな葉っぱを追っていた。
「結局、金の話はできなかったし。一歩間違えれば俺達全員きっと……」
「……は? あ。いや、その。確かにお金の話はまだウヤムヤだ。けど、アンタのおかげで助かったんだ。そう思ってるし、そういう事で良いんじゃないかな。あ……でも」
一陣の風が吹いて、小さな葉っぱがどこかけ吹き飛ばされていく。海人の視線につられ、ぼんやりとその行く先を追っていた誠二は慌てて視線を海人へと戻すと、やはりしどろもどろになりながら応える。
その途中で、不意に言葉を詰まらせた。何かを思い出そうとしているのか、何度も頭を捻っては唸り声を上げたり、かと思えば言葉にならない声を発しては口を噤む。
「その、今更疑ってるって訳じゃないんだけど。アンタは結局、あの黒い球が何なのか知ってたのか? とっさにしては、それなりにあれの仕組みを分かっていたような口ぶりだったし」
誠二がそんな行動を何度か繰り返してようやくひねり出したのはそんな疑問だった。
海人は射すくめられたように硬直する。自分にとって、あの事務所に足を踏み入れたのは今日が初めてだ。あの場所に、そしてあの場所での出来事に実感は無い。故に、誠二のこの疑問は突飛なモノとしか受け止められなかった、はずだった。
胸中に奇妙な感覚が渦巻く。ふともたらされた疑問がそれに何度も当たっては跳ね返る。果たして彼の言う通りだ。自分があの球体に仕掛けた事は、随分と手慣れていた。無我夢中といえる中で一目で見抜いた、と言い張れる程の自信も無い。そして、たった今かわされた女との会話。その全てに、自分が実感を持っていないとすれば、これは本来の持ち主、八城亜麻のものなのだろうか。
「あ、あの……。実は、海人君はIS学園に来たのは一週間ぐらい前の事なんですけど。でも、それまでの事、何にも覚えてないみたいなんです」
海人が再び沈黙する。その表情が、暗く重たいものに変わっていく。すると、それを見かねたのか神楽が海人の抱えている事情を誠二に説明し始めた。その始まり、岩肌にへばりつくように倒れていた事から始まって、彼女の身元について誰も心当たりをもたない事も。
無論、神楽もまた海人の状況をすべて把握している訳では無い。故に、彼女の話はひどく断片的となった。中には整合性の取れないものもあったが、可能な限り噛み砕く。その一方で、海人にとって、ISとは誰もが持っていて当然という一般的な知識から一際かけ離れているという事は伏せた。それは、彼女なりの配慮だった。
「だから、何か思い出す切っ掛けになればと思って六角さんに案内を頼んだんだと思うんですけど……でも」
「……いきさつは知らないけど、今がひっどい状況だって事はよくわかったよ」
誠二はそんな身の上話に黙って耳を傾け続けた。そして、いよいよ神楽が口ごもると、すっと手を海人に向けて差し出す。
その手には、スマートフォンが握られていた。今度はIS学園に電話でもかけろという事だろうか。海人がぽかんとしていると、誠二は口を尖らせる。
「なんだよ、とりあえず連絡先はちゃんと交換しておこうぜ。僕の方でも八城亜麻の事とか、出来る範囲で調べてみるさ。アンタがIS学園に来て一週間って事なら、その辺り探れば何か分かるだろ。外にいる僕の方が調べられる事もあるだろうし。その時は、連絡ぐらいするよ」
つまるところ、それは図々しさも混じえた誠二なりのお礼だった。
言うに及ばず、手詰まり感の漂う現状で手がかりを見つける手段が増えるのは願ってもいない。そのきっかけが災厄とも言える事故であったとしても、死地を共に脱した仲であるならば尚更だ。
だが、海人は気まずそうに首を振る。
「俺はそういうのを持ってない」
この時になって初めて。海人は自身が連絡を取り合う手段について全く抜け落ちていた事に気がついた。途端に顔が熱くなる。もし、何も言わず神楽からも分かれて事務所へ足を踏み入れたのなら、用事を済ませた後でどうやって合流するつもりだったのだろう。
「……とりあえず私の方に六角さんの連絡先登録しておきます。私のは、これですから。
海人君は学園に戻ったらその辺りも相談しなきゃ、だね」
そう言いながら、神楽が手慣れた様子でスマートフォンを操作し始めた。海人と、そして誠二もあっけに取られる中、機器二台を見比べて行われるこの操作は直ぐに終わってしまう。そして、新たに追加された電話番号と名前を確認すると、神楽は満足げな表情を浮かべて視線を海人へと向ける。
そんな彼女の微笑みを前に、海人はますます気恥ずかしさを募らせてしまうのだった。
「ジェット(Jet)」=噴射、射出、漆黒