あれから約一月が過ぎた9月の初旬。
新聞は相変わらず日本赤軍の脅威とオイルショックによる高度成長の終焉を謳い、ただただ普通の日常が過ぎていった。
下北沢で殺人・死体遺棄事件が起きたということは一般の人々の記憶からすっかり消え失せ、警察関係者のそれからも薄れ始めていた。
9月の東京はまだ残暑が厳しく、誰もが茹だりながら仕事をしていた。
団扇で胸元を仰いでいた刑事の元に1本の電話が入る。
「はい、もしもし?こちら警視庁捜査一課強行犯第一係ですが。えぇ、えぇ。あぁ、その事件の捜査本部ならもう解体されましたよ。え?息子ぉ?えぇ。では、当時の担当者にお繋ぎします。じゃ、失礼します」
電話は岡山県警からだった。曰く、被害者の情報が失踪した自分の父親に酷似していると言う息子が、東京に出て来るので会って欲しいという旨だった。
応対した刑事は課長の机に行って、これこれこういう電話があったと説明した。
課長は、これはたまげたと思って呆然としていたが、直ぐに三浦巡査部長を呼び出して、タクシーを捕まえて東京駅に向かった。
一方、あれから大した事件の起こらなかった下北沢署では木村がデスクで黙々と書類仕事に勤しんでいた。書類仕事は、平和の象徴だ。
「おい、木村。仕事はその辺にして飯行かないか?」
「あぁ、すみません。今日は遠慮しておきます」
「なんだよ連れないなぁ。次はきっとだぞ」
木村は先輩刑事が部屋から出て行くのを認めると、引き出しから一枚の新聞のスクラップを取り出した。自分が、いつまでもあの事件に執着している様を、先輩に見られたくなかった為である。
記事にはこうあった。
「去る23日のことである。
東国の夜の帷を中央線が切り裂いて、西へ西へと我々を連れて行く。私はその頃、2年前のあさま山荘のその後を書くことになっていて、長野行きの最終列車に乗ったのだった。
伽藍堂の車両内には私と若い婦人とソフト帽の男だけが居て、男は甲府で降りていった。暫くは書き物や読み物をしていたのだが、とうとう手持ち無沙汰の私は1人だけとなった同乗者を観察することにした。彼女は、私の前に座っていて、何やら手元で何かしている様だったが見えない。頸の所でぶつりと切った栗色の御髪を、真紅のリボンで結ってポニー・テールにしているのは新鮮で、美しい。流石にジロジロ見過ぎたのか、女はゆっくりと首を捻った。輪郭柔らかな瓜実顔、何より私の目はその瞳に釘付けになった。宝石、と例えると月並みだが、吸い込まれそうな程透明な輝きを持った宝石を、彼女は持っていた。紅茶の瞳。ディープオレンジの瞳を、私に向けたのだ。私はハッとして目を逸らした。それは、ジロジロと眺めていたのに気付かれた恥ずかしさばかりではない。彼女は微笑を浮かべながら、手の中のものを車窓から放った。それは紙吹雪だった。富士見駅から諏訪湖までの辺りだったと思うが、遠くの街の灯り以外には何もなく、かえって純白の紙片が目立った。ハラハラと光って飛んでいくのを2人で見送る。
私は、不可解と思う前に、あまりの幻想に心を奪われていた。紙片はまるで蝶々の様であった。彼女は持っていた鋏すら放り、最後にもう一度だけ私を見て、車両を移った。
あの美女は何者か。何故紙吹雪を散らしていたのか。そもそもあれは夢なのか、現実なのか……。
もし人に話せば、『真夏の夜を観たのだ』と言って、きっと取り合ってはくれまい。だから私はここに記す…………」
これは皇都新聞の記事で、6月24日付、つまり下北沢の事件発生翌日の朝刊の目立たないコラムだった。
木村は捜査本部の解散後にこれを見つけ、何やら事件と関係は無いかとずっと読み込んでいた。
どうにも引っかかるのが紙吹雪の女の記述で、そもそもそんなものを電車から外に放る理由も謎だったが、鋏を使っているのもまた疑問だった。
紙ならば手で千切れば済むし、わざわざ車内に刃物を持ち込んで怪しまれたらどうするのか。
そして、窓からその鋏を棄てているのは、何かしらやましいものを感じさせる。
きっとその女は、どうしても鋏を使う理由があったのだ。とすれば、彼女が散らした紙吹雪は実は紙吹雪では無くて、もっと別の、白くヒラヒラして切るのに刃物が必要な物だ。
「布……?」
木村はそう訝った。
彼は真相を明らかにしようと、再び皇都新聞社に電話をかけた。