2090年6月3日。この日、日本は土曜日である。それでも、佃製作所のヴァンツァークロウ改良プロジェクトのメンバーは平日同様に出勤だった。
メンバー全員が仕事を終え、最後に残ったファイナも滞在ホテルへの帰路に着く。明日は日曜日、休日である。だが、ファイナの気分はいつになく重い。今から数時間後にハフマン島で実行されるであろう《ある計画》を思うと、居ても立っても居られない。
(何としても成功してもらわなければならない!)
そう思うのと同時に、
(こんな、人の尊厳を軽んじる非人道的な計画は、いっそのこと失敗してしまえばいい!そして、今までの事も全て、世間の下に明るみに出てしまえばいいのだ!)
とも思う。そうなれば、少なくともこの地獄の様な苦しみからは解放されるのだから……
夜、いつもより早くベッドに入るもなかなか寝付けない。日付が変わって、日本時間ではもう6月4日を回った深夜遅く、ようやく眠りに入りかけたその時である。スマートフォンの電話が鳴った。ファイナがハッとしてスマートフォンを手にする。電話を掛けてきたのは、ニルバーナ機関のジョージ・兼松である。
(こんな時刻に掛けてくるなんて、《ある計画》に関する連絡だろう……良き知らせにせよ、悪き知らせにせよ)
日本とハフマン島との時差は約半日。計画は実行され、そろそろ、計画実行の詳しい状況が色々と分かり始めている頃だ。
ファイナが電話に出た。その手が緊張で僅かに震えている。
「フ、ファイナです。兼松部長、何かあったのでしょうか?」
「大変なことが起きた!ニルバーナ機関でBD実験機TYPE90Xが暴走した!」
ファイナはその意味を直ぐに理解できなった。それは、そうであろう、てっきり《ある計画》に関する連絡だとばかり思っていたのだから……
(TYPE90Xの暴走⁉……それは《ある計画》とどういう関係があるのだろうか?)
頭の整理がつかないファイナが、
「済みませんが、それは、本日計画が実行される《ラーカス地区工場》のお話でしょうか?」
と問い返す。
「違う!、その《ラーカス地区工場》のこととは全くの別件だ!」
この、ファイナが兼松に訊いた『ラーカス地区工場』というのが《ある計画》である。停戦中のハフマン島において、U.S.N.領にあるラーカス地区の軍事工場をO.C.U.に襲わせ、戦争再開の引き金にするのだ。
「ニルバーナ機関の敷地内で実験を行っていたTYPE90X2機が、パイロットが死亡した後も勝手に動き暴れだしたんだ。コンピュータのバイオデバイスが何らかの悪作用を起こしていると診て間違いない。こっちの暴走はドリスコル大尉の手の者が何とか抑えてくれたが、そっちで何かあったら誰も止められん。だから、T175の方も即刻中止してくれ!」
その兼松の言葉を聞き、ようやく話が見えてきたファイナ。そうなると、いつもの頭の切れが戻ってくる。
(今になって、何を言っているの!)
内心、そう怒鳴りつけてやりたい衝動を抑えて、
「承知しました。ところで、《ラーカス地区の工場》の方はどのような状況でしょうか?」
と、ファイナは努めて落ち着いた様子で返した。
「ラーカス地区の工場の方は、ドリスコル大尉がうまくやったようだ。近いうちにU.S.N.の大規模作戦が展開される予定だ」
「分かりました。できるだけ早くニルバーナに帰りますんで、輸送機の手配お願いします」
「それはもう進めている。それから、サカタの五代智とT175が登録者を誤認証した者も連れてきてくれ」
兼松が思いもよらないことを言ってきた。
「無理です!」
思わず叫んでしまったファイナの声が部屋に響く。そして、
「ハフマン島はもうすぐ戦争が始まるんですよね。サカタインダストリィの社員である五代はなんとか連れて行けるかもしれませんが、佃美月がそんな不穏な状況下のハフマン島へ行くことを承諾するとはとても思えません!」
と早口でまくし立てた。
「それは察するが、T175が登録者を誤認証した原因が未だ分かっていない以上、その者にもこっちに来てもらうしかない。TYPE90Xが暴走してしまったことで、T175の誤認証もニルバーナで詳しく調査しようということになったんだ。当然その対象者も同行してもらわないと……」
「だから、あれほど言ったんです!『BD実験機は誤作動を起こす可能性があるから、徹底的に調査した方がよい』と!」
「今更、そんなこと言っても始まらんだろ!とにかく君は、2人を連れてニルバーナに戻ってくるだ!」
感情的になり思わず高圧的な言い方をした兼松だったが、すぐさま高ぶった気持を静め、
「ファイナ君、もう賽は投げられたのだよ。我々は後戻りできない。佃美月には、金でも名誉でも好きなだけ与えると言って丸め込んでおいてくれ。どうせ《空手形》だ……」
と、さっきとは違い、淡々と無感情に言ってきた。
兼松が口にした『空手形』という言葉に震撼するファイナ。
「そっ!それは、どういう……」
言葉の途中で、ファイナの表情が引き攣った。
「私に皆まで言わせるな……君もニルバーナの人間だったら分かるだろ」
「……」
「佃製作所に長く関わって、佃美月を不憫に思ってしまうのは分かるが、我々の手は、すでに多くの血で汚れきっていることを忘れるな」
その言葉の意味は、当然ファイナも理解している。T175の調査あるいは実験が終了し、美月が用済みとなったとき、彼女がどういう命運を辿るのか……
ファイナには返す言葉が見つからない。兼松の言う通りなのだから……
「拒否したら拉致しても構わん。日本の小さな町工場が騒ぎ立てたところで、揉み消しようはいくらでもある」
「承知しました……それにしても、よりによって、今日この日にTYPE90Xが暴走してしまうなんて……」
「そうだな、今、いきなりT175のデータ収集を中止してしまうと、『ラーカス地区の事件と関係あるんじゃないのか?』と佃製作所側に疑われてしまうのはもっともだが、これは本当に偶然なんだ……」
「……」
無言で頷くファイナ。電話では、その憂いた表情が兼松に伝わることはない。
「君には、本当に面倒な役をさせてしまって済まないと思っている……だが、今月10日にはもうU.S.N.の侵攻作戦が始まる。それまでに何とかするんだ。いいな……」
と言って、兼松が電話を切った。
リビングに行ってテレビを付けてみると、深夜番組を放送している画面の下に、
(ハフマン島、ラーカス地区のサカタインダストリィ工場で大規模爆発事故が発生)
と、速報を流すテロップが流れていた。番組を中止して臨時ニュースを放送していないところをみると、この時点ではまだ、これが重大事件だとは認識されていないのだろう。現時点での報道はあくまで《事故》という扱いだ。
しかし、この事件は、ゆくゆく《第二次ハフマン紛争》という国際社会を巻き込んだ戦争に発展していくのである。
いや、『発展していく』という言い方は正確ではないかもしれない。全ては、サカタインダストリィとニルバーナ機関によって仕組まれたシナリオ通りなのだから……
6月4日の午前、日曜にも拘わらず、ファイナは佃家を訪れた。社長の佃宙志と美月に「急ぎ大事な話があるから」と無理を言って時間を取ってもらったのだ。現在、佃家で一緒に暮らしているのは、宙志と妻で美月の母でもある奈緒美、それと娘の美月である。長男の天明は家を出て一人暮らしをしておりこの家には住んでいない。
おそらく、今日の夜にはU.S.N.が、ラーカス地区の工場爆破をO.C.U.の侵略行為とみなす非難声明を発するだろう。そうなれば、ハフマン島の緊張は一気に高まり、美月を説得してハフマン島へ連れて行くのは困難となる。だからその前に、美月からハフマン行きの約束を取り付けておきたいのだ。
応接間に案内されると、すでに宙志が座っていた。奈緒美がお茶を運んできた。奈緒美も佃製作所の幹部社員なので、もちろんファイナとは何度か顔を合わせている。
ファイナは、突然自宅に押し掛けた非礼を詫びると、早々に本題に入った。
先ずは、クロウ改良プロジェクトおよびT175の誤認証原因調査を中止して、ニルバーナ機関に引き上げなくてはならなくなったことを告げた。それに関しては、宙志から「やむを得ない」という返答だった。まぁ、宙志としてはもともと乗り気でなかったのだから、金銭面での折り合いがつけば反対する理由はない。
そして話は、美月のニルバーナ機関への同行の件に及ぶ。
「それと、もう一件、ご相談したいことがございまして……これは美月さんに関わることなので、先ず、美月さんとお話させていただけませんか?」
「それは、構いませんが……」
宙志が奈緒美に美月をここに呼んでくるよう頼んだ。
呼ばれた美月が、応接間に入ってきてファイナの対面に座った。
「美月、単刀直入に言うわ」
と、ファイナが美月の眼を見据えて言った。
「あなたに、私と一緒にニルバーナ機関へ来て欲しいの」
その言葉に衝撃を受ける美月と宙志。
「ニルバーナ機関って、ハフマン島にある……」
「そうよ」
たまらず宙志が、
「待ってください、ファイナさん」
と、口を挟んできた。
「済みませんが、社長、先ずは美月と話させてください!」
すかさず、ファイナが宙志を制する。その気勢に思わず宙志が鼻白んだ。
「何故、私がニルバーナへ?」
「詳しい事情は後から話すけど、急にT175をニルバーナに引き上げることになったの。だけど、美月を搭乗者として誤認証した調査は引き続き行いたいのよ。それであなたにも来て欲しいの。それと、理由はそれだけじゃないわ!」
「……?」
「あなたには、このままT175のテストパイロットとして働いてもらいたいの」
「⁉」
「あなたの搭乗データが、私のデータと一緒にニルバーナに送られていたことは知っているわよね。そのあなたのデータを見たニルバーナの研究員が『是非、あなたに続けてもらいたい』って言っているのよ」
「でも、私はファイナさん程の操縦技術はありません……」
「今はね。でも私から見ても、美月にはパイロットの才能があると思うわ。ちゃんとした訓練を受ければ、きっと私を超えるヴァンツァー乗りになれる!」
「本当ですか!」
「ええ本当よ。それに、この仕事がうまくいけば、サカタインダストリィが『正式にテストパイロットとして採用してもいい』って言ってるの。これは、あなたにとっても大きなチャンスよ!」
それを聞いた美月の眼が大きく見開き光を増した。手応えを感じたファイナが、
「でもね、時間がないの。今日中に返事をくれるかしら。今日中に返事を貰えなかったら、この話は無かったことになるから……」
と、たたみかける。
「分かりました。今日中にお返事します!」
そう言った美月の心の中はもう決まっているようであった。それは、傍で聞いていた親の宙志にも分かる。高ぶっている娘の気持ちをなんとか冷まそうとするが、
「美月、とにかく今日1日よく考えて……な」
と、その場をごまかすような言い方しかできなかった。
ファイナは立ち上がり、
「では、私はこれで失礼いたします。いいお返事、期待してますわ」
と、いつものようにとろける様な笑みを見せ、応接間を後にした。
宙志に見送られ玄関を出ようとしたとき、宙志の後ろから奈緒美が姿を現し、射る様な視線でファイナを睨めつけた。応接間での話が耳に入っていたのだろう。ファイナですら気後れするような気迫がこもっている。ファイナは軽く会釈をし、すぐさま視線を外し佃家を後にした。
玄関の扉が閉まった直後、
「美月のハフマン行きなんて、私は絶対に許しませんからね!」
奈緒美は宙志に吐き捨てるように言い、奥へと下がって行った。
残された宙志は、困惑の表情で深い溜息を吐くのだった。