通称《T175》と呼称されることになった実験機の完成により、実践値を基礎とした、ヴァンツァークロウの更なる改良プロジェクトが本格的に始まった。
実証データを基に仮説を立てクロウの部品を調整・改善し、実証データを取る。基本的にはそれの繰り返しである。一般的な開発プロセスと同様だ。ただ今回は、生の実証データは佃製作所は手にできない。実証データはオンラインで先ずニルバーナ機関に送られ、ニルバーナ機関が検証し、満足いかなければ精査されたデータが佃製作所にフィードバックされるという形を取っていた。
その理由は2つある。1つは、搭載しているコンピュータが極秘のバイオデバイスだからである。それを知ってるのはヴァンツァーを動かせるファイナだけという制限はあっても、やはり生の実証データを佃製作所側に見られるのはいい気がしないのだろう。
もう1つは、そもそもOKを出す気がないからである。ニルバーナ機関の思惑は「《Xデー》までに、可能な限りクロウをブラッシュアップさせる」ことであって「これで完成!」というゴールは設定されていないのだ。つまり、改良目的の「反応速度の遅れ(0.003~0.008秒)を調整する」というのは、あくまで口実であって、佃製作所側が生の実証データを見ればそれがバレてしまう。だから、たとえ改良目標をクリアしていたとしても、データを改ざんして佃製作所へ渡すようにしているのだ。
そうとは知らず、佃製作所のプロジェクトメンバーは、いかにしてクロウを改良すればよいかに頭を悩ませ、試行錯誤を繰り返していた。
その中で、美月は去年と変わらず庶務と雑用係みたいな立ち位置である。手が空くことも多く、ファイナが実証データを取るためにT175を動かす時は、決まってそれを見ているのであった。
2090年3月、ある日のことである。
この日はファイナが外出で不在であった。サカタインダストリィの坂田浩一社長に呼ばれたのだという。仕事の話というのだが、おそらく坂田社長が、美人で評判のファイナを食事にでも誘ったのだろう。
その日、美月はやる仕事もなく、ぼーっとT175を眺めていた。そこへ、五代がやってきて、
「美月ちゃん」
と後ろから声を掛けた。
「あ、五代さん」
「美月ちゃん、いつもT175見てるよね。飽きないの?」
「へへ、飽きないんだろうね……自分でも不思議なくらい」
「ふ~ん」
2人は暫く一言も喋らず、ただT175を見ていたのだが、不意に五代が、
「美月ちゃん、このヴァンツァー乗ってみたい?」
などと言ってきた。
「ん~、もちろん乗ってみたい気はあるんだけど、でも、ファイナさん以外動かしちゃいけない事になってるし……」
「動かさなくても、乗るだけなら構わないだろ」
と、五代は美月にカードキーを見せた。このカードキーはT175のコクピットハッチを開ける鍵である。テストパイロットのファイナ、プロジェクトリーダーの隈崎、そしてサカタの社員である五代に貸与されているのだが、何かあった時のためのもので、コクピットハッチは開けられても、これでヴァンツァーの起動はできない。ヴァンツァーを起動するには網膜の生体認証によるパイロット登録が必要なのだ。その登録がなされているのはファイナだけである。
「ま、チョットだけコクピットに座るだけなら、大丈夫か!」
美月が嬉しそうな表情をみせた。
「うん、そうだよ」
そう言って五代は、T175の側に備えてあるヴァンツァー乗降用のタラップを上がっていった。
T175の搭乗口はドーム状の後頭部にある。五代は、カードキーをスリッドにスライドさせハッチを開いた。作動音もほとんど無く、下で仕事をしている他のメンバーは誰も気づいていない。
美月も上がってきて、開いたハッチからコクピット内を覗き込んだ。
「今なら大丈夫だよ。早く」
と五代が小声で美月を促す。
美月は軽く頷き、足からコクピットの座席に滑り込んでいった。シートに腰を降ろし操縦桿を握ってみる。もちろんモニターや計器類は全く動いていない。だが、今にも動き出しそうな錯覚に陥る。美月は目を閉じ、このヴァンツァーを操縦している自分を思い描いた。
目を開ける美月。その時、
――シャッ
と、美月の眼の前で一瞬光が走り、何かカメラのシャッターが切られたような音がした。
「⁉」
――ウォン
直後、軽いモーター音が鳴る。
「えっ?」
背後から覗いていた五代が驚きの声を上げた。
「美月ちゃん!パイロット登録なんかしてないよね?」
「もちろんよ!」
「でも、今の音は、美月ちゃんの網膜を認識してスタンバイ状態に入った音だよ。ほら!」
と、五代は操作パネル右側にある赤く光っているスイッチを指さした。ヴァンツァーの起動スイッチである。確かにさっきまでは、発光している計器類など何もなかった。
「美月ちゃん、押してみてよ」
「えっ、動いちゃったらどうするのよ。勝手にT175に乗ったのバレて大問題になっちゃうよ……」
「それを確かめるんだよ!もし、何かエラーを起こしていて登録していない人の網膜を誤って認証しているとしたら、それこそ問題だろ」
「それも、そうね……」
美月は恐る恐る起動スイッチに手を伸ばした。意を決してスイッチを押すと、起動スイッチの光が赤から緑に変わる。
――ギゥィーン
と、ヴァンツァー全身に動力を伝えるような起動音をあげ、コクピット内の計器類に灯が点った。
目の前のモニターには、ヴァンツァーのカメラで捉えた建屋内の光景が映し出されていた。プロジェクトメンバーの面々が、突然起動したT175を不審に思い、周りに集まってきている。
隈崎は(いつの間にかファイナが帰ってきて動かしている)と思ったのだろう、
「ファイナさんですか?ヴァンツァー立ち上げたのは?」
と、大声でT175に向かって呼びかけた。
「ごめんなさい、私が乗ったら動いちゃったんです」
ヴァンツァーのスピーカーから返ってきたのは、意外にも美月の声だ。
「えっ!それに乗ってるの、美月ちゃんなの⁉」
驚愕の声を上げる隈崎。
T175の後頭部にへばりつくようにしている五代が、
「済みません。こうなった経緯は後で説明しますけど、なんかヴァンツァーの不具合で搭乗者を誤認証してるみたいなんです。今後の原因究明のためにも、このまま美月ちゃんに動かしてもらって、ちょっと様子を見たいと思うんですが」
と、大声で隈崎に叫びかけた。
もしファイナがここに居たら、おそらく即刻T175から美月を降ろさせるだろう。だが、T175の組み立て作業以降、プロジェクト内での五代の立場は急速に高まっており、今や、本件プロジェクトに掛かり切りでいられない隈崎に代わり、事実上リーダー的な存在になっていた。なので、隈崎といえど、一方的に五代の意見を無下にするには気が引けるのだ。
「……分かった。ホントにちょっとだけだからね」
「ありがとうございます」
五代は大声で隈崎に返事を返すと、
(よかったね、美月ちゃん)
と、小声で美月に囁いた。
美月は嬉しそうに頷くと、T175の手足を動かし始めた。建屋内なので、高速での移動・旋回や、大きく腕を振り回すような動作は制限されるが、それでも自分でヴァンツァーを操縦することができるのは何とも言えない高揚感がある。
隈崎は、急ぎファイナに事態の報告をするため電話を掛けていた。だが、電話は繋がらない。ファイナが電源をオフにしているのだ。坂田社長と会っている最中なのだろうか。
やっと電話が通じたのは約1時間後である。ファイナは驚いた様子で「美月を即ヴァンツァーから降ろすように」と言ってきた。そして「すぐ戻から、それまで絶対に動かさないように!」と厳重に釘を刺した。