【注意】オリキャラ・設定捏造

1 / 1
第1話

 

 

「一つ、聞いてもいいかね」

 

 羽沢つぐみが、注文されたブレンドコーヒーをテーブルに静かに乗せたとき、席に座っていた白髪の老人がやや掠れたような声でそう問いかけた。

 

「はい。なんでしょう」

 

 初めて見るお客さん、世代の隔たり、商品を届けた後での意図の読めぬ質問――アルバイトとしてはまだ歴の浅いつくしであれば、意想外の状況にその返答もやや上擦ったものになったかもしれない。しかしそこはさすが珈琲店の一人娘。接客マニュアルも裸足で逃げ出さんばかりの完璧な対応を即座に行った。微笑を浮かべ、相手の目を見て、聞き逃しのないよう前傾姿勢をとりつつ、トレイをわきに挟んでいつでも伝票に書き込めるように用意……。この一連の対応を、しかし、何の澱みもなくやってのけたのである。

 

 こう表現すると、彼女の接客が、胡散臭いアイドルの機械的に実行される笑顔と可愛いダンスみたいな、なにか冷徹な、感情のこもっていない行為に思われるかもしれない。だがそれは大きな勘違いである。彼女のこの接客は、彼女の思いやりによって、彼女自身が選び取った動きの連鎖が結実したものであって、羽沢つぐみが接客マニュアルに則って接客を行ったのではなく、むしろ、接客マニュアルが羽沢つぐみに則って作られたといってよかった。

 

 心・技・体、すべてにおいて完成された接客――。もし、サービス接遇試験の試験担当官がこれを見ていたならば、感嘆の声を上げ、この看板娘に迷いなく一級を与えただろう。サービス接遇検定が、実際の接客にどれほど役に立つのかは客のみぞ知るところだが、ともかく、羽沢つぐみの接客はそれほど素晴らしかったのである。

 

「この……曲なんだけどね、この……」

 

 白髪の老人が、人差し指を頭上に向けてくるくると回しながら、分かる? といった表情をした。今店内で流しているクラシックのことだろうと見当をつけたつぐみは頷きながら「はい」と答える。

 

「この曲は、いつも流れてるの?」

「いえ、実は今日が初めてなんです。前に友達から紹介された曲で……素敵な曲ですし、喫茶店の雰囲気にも合ってるなと思ったので、流してもらいました」

 

 ふんふんと話を聞いていた老人は、口元で“素敵”という言葉をもごもごと反芻してから、つぐみを見て、またゆっくりと問いを投げかけた。

 

「あなたは……どうして素敵だと感じたの?」

「そ……うですね、それは……」

 

 思わぬ質問に、さしものつぐみも言葉が詰まってしまった。一音一音をずるずると引き延ばし、時間を稼ぎながら必死で頭を回転させる。

 この瞬間、つぐみは返答の内容自体に困っていたわけではなかった。素敵だと感じたのは本当で、本心から出た言葉だから、たどたどしくはあるかもしれないが、その理由を詳細に述べることはできる。ただ問題は、それはつぐみにとっての正答であって、お客さんの望ましい返答ではないかもしれないということだった。

 

 羽沢珈琲店は、どこまでいっても個人経営の喫茶店であり、一日に入るお客さんの数はよくて50人といったところで、日に何百人と客がくるチェーン店とはその営業スタイルが全然違う。必要なのは薄利多売ではなく厚利少売。毎週来てもらっているお客さんには、また来週も来店してもらえるように。初めてきたお客さんには、次も来てもらえるように。一人一人のお客さんにいかに長く通ってもらうか、いかに常連さんを作れるかというのが何よりも大事なのだ。

 

 だから、そんな喫茶店事情をもちろんよく知っているつぐみは、一人一人に寄り添った細やかな接客を目指していた。人間はそれぞれ性格も好みも違うから、その都度対応を変えなければならない。

 

 例えば、水曜日の夕方にくる篠崎さんは、靴下をはき間違えて、右に赤、左に緑の靴下を履いたまま外に出て焦ったわ、というようなちょっと反応に困る話をすることが多いが、彼自身も冴えないトークをしているという自覚はあるようで、むしろ、明るくツッコんであげたほうがいい。その辺はつぐみもまだ未熟で、突然挿入される親父ギャグにはつい、あははと苦い反応をしてしまうのだが、勝手知ったる母などは「また変なこと言って~」と大分豪快に駄目出しをして、いつも篠崎さんの爆笑をもらっている。

 だが、それが木曜日の小林さんになると180度違って、むしろこちらは、話の途中でおかしいぞと感じることがあっても、うんうんと適度に共感を示しながら、黙って最後まで聞いてあげるのが正解だったりする。

 話を聞く姿勢ひとつとっても、相手によってとるべき対応は異なる。では、白髪のこの老人に対してはどう対応するのがいいのだろうか?

 

 つぐみは改めてこの老人の風貌をじっくりと見た。高齢の人を見分けるのは得意ではないが、少なくとも60は越えているだろう。影のような黒を内側に籠らせた豊かな銀髪を肩まで伸ばしていて、縮毛矯正したヴェートヴェンみたいな髪型をしている。恰幅がよいが、力仕事をしていたという感じはしない。口と顎にも綺麗に刈り揃えられた髭があって、それでいて柔和に微笑んでいるから、なんだか空想上の仙人のようにも見える。

 

 ひどく大雑把な括りだが、人当たりはよさそうだった。気に入らない答えに癇癪を起すこともなさそう――ならば、あの質問の意図は? 素朴な人柄を想定するなら、ただ自分の聞いたことのある曲がかかっていて、その感動を共有したかっただけなのかもしれない。それも“素敵”という言葉では物足りないくらいの感動――。もしかすると、音楽に詳しい人なのだろうか。だとすれば、ふわっとした答えよりも、真摯な答えのほうがいいだろう。

 

 ここまで考えて、しかしつぐみは心の中で小さく笑ってしまった。結局、今からやることは、己の好きなものをありったけの言葉で好きだというだけ――。あれこれと回り道をして、最後にたどり着いた結論が、自分の感動をありのまま伝えるだけというのは、一種回って自分のあるべき場所に帰ってきたような気がした。

 

「少し話はそれてしまうんですけど。実は私、幼馴染とバンドを組んでいて、キーボードを担当しているんです」

 

 一語一語をかみしめるようにして、つぐみは話しだした。

 

「でも、私、みんなの足を引っ張っちゃってて。何度も何度も助けられているんです。練習でも、ライブでも」

 

 目が合えば、あたしに任せろというようにグーサインを返してくれる巴。軽口で緊張をほぐしてくれるモカ。リーダーとして誰よりも周りを見てくれているひまり。そして中央に堂々と立って、観客の視線と熱気を一手に引き受けてくれている蘭――。

 

「私たちの曲も、入りは、ほとんどギターやボーカルからで。だからいつも、私は、みんなに導かれてステージへと上がるんです。みんなの背中を追って弾き始めるんです」

 

 店内に流れる曲に耳を澄ましながら、言葉を紡いでゆく。

 

「クラシックにはあまり詳しくないんですけど……ピアノ協奏曲も、ピアノの独奏から始まる楽曲は少ないですよね。管楽器や、弦楽器が道を拓いてくれて、その後にピアノが顔を出す」

 

 「でも」とつぐみは続けた。

 

「――この曲は、そうじゃないんです。まず初めにピアノの……繊細で、壊れそうで、それでいて綺麗な音色が響いて……一つの世界を創り上げて、そして、そこにみんなを呼ぶんです。ヴァイオリンと、チェロと、コントラバスと、ヴィオラと……。みんなを連れて、先頭を駆け抜けてゆく――。その姿が、私にはすごく素敵に思えたんです。すごく、かっこいいなって……。だから、私にとってこの曲は、聞いているだけで勇気をもらえるような、そんな曲なんです」

 

 晴れ晴れとした笑顔と共に、つぐみはそう締めくくった。

 つぐみの笑顔を受け取った老人が、なにか眩しいものをみるように目を細めた。二重の目蓋と涙袋とが波のように押し寄せて、ぶつかって、震えた。「そうか……そうか……」と幾度か譫言のように繰り返した。夢を見ているかのようなおぼつかなさは、しかし、もう一度目が開かれたときには、もうすっかりと失せていた。

 

「――誠実な答えをありがとう」

 

 白髪の老人が優し気に笑った。

 

店内を満たしていた曲も、すでに次の曲に移り変わっていた。それでも、つぐみの中ではまだあのピアノの旋律がその美しい余韻を滴らせているような気がした。

 

 

◇◇◇

 

 

 カメラの斜め後ろに立っているディレクターさんが、手を大きく広げながら「5秒前です」と声を張り上げた。

 4、3、2……。カウントダウンと共に、指が一本一本折りたたまれてゆく。その動きがひどくスローに見える。拍動のリズムが秒針を飛び越え、息が浅くなる。夏の太陽に炙られたうなじに汗の滴を感じる。キュー出しを見てる場合じゃない、カメラを見ないと。私の中で私が叫んだ。真っすぐに天を指さすディレクターの手から目を離して、慌てて正面のレンズと向かいあう。

 

 レンズの中には私の顔が映っていた。ちゃんと笑顔が作れてるかな。歪んだレンズは世界を正確に映してくれないから、全然あてにならない。口角に力を入れようとして――脳裏に蘇る日菜ちゃんの「なにそれ!? 変な顔!」の一言にずっこけそうになった。そこまで言わなくてもいいじゃん、としくしく泣きつつ、「アヤさんはいつもの笑顔で十分ステキです!」というこれまた脳内のイブちゃんの声に励まされ、小さく深呼吸。

 

 ——よし。行ける。

 

 夏の太陽に負けないくらいのパワーを込めて放とうとした第一声は、しかし、びゅんと吹いた意地悪な風にかき消される。

 乱れた前髪が気になって、続く言葉がすぐに出ない。じゃあ、もう一度アタマの台詞を――と口を開きかけものの、渋い顔をしたディレクターが手をぶんぶん横に振って、カットカット! と切ってしまった。

 

 その鶴の一声を受けて、張りつめていた空気がだらりと弛緩する。一旦小休止みたいだ。カメラが俯き、ガンマイクが音声さんの靴の上で直立して、スタッフさんたちも首をぐるぐると回してうめき声を出している。息を整えていると、メイクさんが駆け寄ってきて、前髪をちょんちょんと直してくれた。

 

 ……大丈夫かな? 鏡がなくて自分の顔を見ることができないから、ちょっとだけ、怖い。アーケードがある広場での撮影だから、直射日光にこそ晒されていないものの、ものすごく汗をかいてしまったし、前髪を崩そうと突っかかってくる風も二度目だ。シンデレラの魔法も、永遠に保ちはしない。

 何かに頼りたくなって横に立つ千聖ちゃんのほうをちらりと見た。こんな炎天下の外ロケでもまったく暑がるそぶりをみせずに、軽く目を閉じたまま静かに瞑想している。

 

 集中しています、という状態の千聖ちゃんに声もかけられないままおろおろしていると、私の視線に気が付いたのか、千聖ちゃんがこちらを向いた。

 

「大丈夫よ、彩ちゃん」

 

 にこりともせずに言われたその一言で、私の不安な気持ちはいっぺんに吹き飛んでしまった。千聖ちゃんが大丈夫というなら、大丈夫なんだ。一つの微笑みもなく言われたからこそ、それが、揺るがない事実なんだと信じられた。それはどんな鏡よりも――多分、私が鏡と睨み合ってあれこれ試行錯誤するより、ずっと確かな事実だった。

 

「うん! ありがとね、千聖ちゃん」

 

 頬を叩くわけにもいかないから、ももの辺りをはたいて気合を入れ直す。

 

 一週間かけて台本を入念に確認し、撮影の二時間前から現場入りして、でも、実際番組で使われるのは三分もないかもしれない。クイズ番組のたった一問のために私たちはここにいる。

 

 だけど、その三分が、その一問が、パスパレにとってどれほど大切か。

 

 ゴールデンタイムの、誰もが名前を聞いたことのあるような番組での三分は、ものすごく長い。クイズ番組のVTR問題で、今話題のアイドルからの出題ということになっていて、自己紹介の時間もたっぷりとある。パスパレも、アイドル界の中ではかなり有名なほうだと思うけれど、世間的にはまだまだ無名で、一般層をターゲットにしたゴールデンタイム番組に出る機会は中々ない。私を抜擢してくれたみんなのためにも、パスパレの魅力を全力で伝えたかった。

 

「すいませーん。風やんだみたいなので再開しまーす」

 

 ディレクターの合図で、また空気がぴりりと引き締まる。

 

「5秒前です。5、4、3、2、1……」

 

 キューのタイミングに合わせて、弾けるように声が出た。

 

「はい! Oさまをご覧の皆さんこんにちは! まん丸お山に彩りを♪ パステルパレット、ボーカルの丸山彩と――」

「ベースの白鷺千聖です」

「いま私たちは、恵比寿ガーデンプレイスにお邪魔しています!」

「ええ。リニューアルして、いろいろなお店が増えたのよね。体験型の施設や関東最大級のアウトドア用品店、和洋のレストランなど、一日ではとても回り切れないほどだわ」

 

 サブカメラがぐるりと回って、テーマパークのエントランスみたいな、ヨーロッパ風の広場を映す。

 

「さて今回は、そんな恵比寿ガーデンプレイスにちなんだ問題です!」

 

 メインカメラにぐぐっと体を寄せる。ズームじゃない生の寄りの画。近づいてくるガンカメラを意識して、ボーカルレッスンのときよく言われるみたいに、遠くに声を投げ飛ばすイメージで発声する。

 

「実はこの広場、野外ライブや企業の発表会など、様々なイベントに使われているのですが、最近ここで、ある催し物をする人が増えています。その催し物とは、いったい何でしょう」

「これだけでは難しいので、ヒントとして、ここでその催し物をした人にインタビューをしたいと思います」

 

 そう言って、千聖ちゃんが近くに立っている一組の男女のペアを手を流して示した。

 

「こんにちは。早速ですが、その催し物のときどんな気持ちでしたか?」

「あのときですか……正直、緊張で頭が真っ白だったんですが……後から振り返ってみると、幸せだったのかな、と思います」

 

 男性に答えてもらってから、次は女性の方へ質問する。

 

「では次はこちらの方に……なにか、印象に残ったエピソードはありますか?」

「そうですね……。昔、私の音楽教室に通っていた子が……余興で、私の大好きな曲を弾いてくれたんですね。実はその子は途中でピアノをやめてしまったんですけど……でも、今でもキーボードを弾いているらしくて。キーボードを触るたびに先生のことを思い出しますって言われた時は、もう感動で涙が……」

 

 あわや思い出し泣きか、というところまで目が潤んできた女の人が、そこで言葉を止めてから、また続ける。

 

「本当に全部が大切な思い出で何度も泣いてしまったんですけど、それが初泣きでしたね。それから、その曲は……もともとよく聞いてたんですけど、より一層好きになったというか……幸せの象徴、みたいな曲になりました」

「素敵なエピソードをありがとうございます」

 

 インタビューが終わって、締めは私の役割だ。

 

「どうですか? 分かりましたか? では、答えを書いてください!」

 

 どうぞ、というように手をくるんと回してポーズをとる。真空のような、僅かな静寂――。「いただきました!」というディレクターの声が響いて、私も、千聖ちゃんも、スタッフさんも、みんな一斉にほっと胸をなでおろした。

 

 

「あついよ~」

「もう、はしたないわ彩ちゃん」

 

 ロケ車に戻って、持ってきた冷感シートを額にぺたりと張り付けたまま、ひんやりした車内の壁にほっぺたをむにゅっと当てていると、呆れ声で注意されてしまった。とはいえ、そんな千聖ちゃんも、吹き出し口の前に陣取って冷たい風に前髪をそよがせているから、やっぱり暑かったらしい。それでも涼し気な表情を保っているあたり、真夏のアスファルトに落ちたアイスみたいに顔をぐにゃぐにゃに溶かしている私とは雲泥の差だった。

 

 ……あとは事務所に戻るだけなのだが、運転できるマネージャーさんがまだ帰ってこない。たぶん、ディレクターさんとかと話しているのだろう。体力を回復させつつ今日のロケを思い出すうちに、ふと、「結婚式かぁ」という言葉が口をついて出た。急にどうしたの? とでも言いたげに、千聖ちゃんが怪訝な顔つきになる。

 

「いや、その……どんな結婚式だったんだろうなぁって、あんな広場で食事したのかな?」

「流石にそんなことはないと思うけれど……。多分、挙式だけあの広場でやったんじゃないかしら」

「挙式……?」

「もう、笹塚さんのときにもあったでしょう? 誓いの言葉を交わして、指輪を交換する式のことよ」

 

 千聖ちゃんの言葉で、あっと思い出した。最後にみんなで花びらを投げたあれだ。そうか、挙式をあの広場でして、その後は普通に移動すればいいだけか。結婚式と聞いて何か変に勘違いをしちゃったけど、あそこでケーキを食べるわけないよね。

 

「所謂、ガーデンウェディングというやつね。海外の結婚式だと多いらしいけど、日本だと珍しいわね」

「へ~。こんなところで式を挙げられたら嬉しいだろうな~」

「そうね。……まぁ、とんでもない金額になるでしょうけど」

 

 ほわほわと浮かんでいた理想の結婚式が、そこでばちんと弾けた。

 

「え゛!? とんでもないってどれくらい……?」

「この近くで結婚式となると、大方ウェスティンでしょうし……金額を直接言うのは少し憚られるけれど、平均年収くらいかしら」

 

 平均年収……? それってもちろん、百万円は超えるよね? と考えたところで、私が唯一出席したことのある、笹塚さんの結婚式の光景がよみがえってきた。もしかして……運ばれてくるお料理とかをなにも気にせずに食べちゃってたけど、すごく高級な料理だったのかもしれない。あれ? テーブルマナーとか、私大丈夫だったかな?

 

 記憶に苛まれ渋い顔をしている私を見た千聖ちゃんが、からかうような笑みを緩めて、ふふっと苦笑した。

 

「でも、一生に一度かもしれない晴れ舞台だもの。お金も大事だけれど、自分の夢も叶えてあげるべきだわ」

「そうだよね。お金はまた稼げばいいよね……」

「彩ちゃんが払うわけでもないでしょうに……。それとも、結婚式に憧れがあるのかしら?」

 

 問いを受けて、むむむと考えてみる。ウエディングドレスは確かに着てみたい。家族や友人に祝福されるのも、どんなにか幸せな気持ちになるだろう。だけど――、

 

「憧れがないとは言わないけど……。たぶん、私が憧れてるのは、あの幸せがいっぱいに溢れた空間そのもの? だと思うんだよね。だからそれが、結婚式っていう形じゃなくてもいいというか……」

「なんとなく分かるわ。笹塚さんの結婚式は、とても素敵だったものね」

 

 うんうんと頷きながら笹塚さんの結婚式を思い返す。あの場所では、祝福される人もする人も、みんなが笑顔だった。ウェデイングケーキが切り分けられ、出席者全員に配られるように、幸福もまた、分かち合うことができるのかもしれない。

 

「嬉しかったなぁ……私たちの余興でみんなが喜んでくれて。今日インタビュ―した人も、同じようなこと言ってたよね? 誰かが曲を弾いてくれて感動した……みたいな。どんな曲だったんだろう」

「幸せの象徴……と言っていたのだし、有名なウェディングソングかもしれないわね」

 

 ウェディングソング……。その場面を想像しようとして、すぐには曲が思い浮かばなくて、スポットライトに照らされたグランドピアノからは、勝手な想像で『ハレハレ☆フォーチュン』が流れ出してしまった。でも、いつか……もしかしたら、今どこかで、私たちの曲がそうして誰かの旅路を言祝ぐことがあったらいいな、と思った。

 

 

◇◇◇

 

 

 窓の外に顔を向けて、市ヶ谷有咲は、そこで初めて雨が降り出していたことに気がついた。今は……ちょうど三時を回った頃だろうか、家を出る前に確認した天気予報通りの空模様である。降水確率も90%を超えれば、そうそう外れることはないらしい。

 折り畳み傘をちゃんと入れたよな? と不安になり、座席の下のカゴに収まっている自分のバッグをごそごそと漁ってみれば、布地に包まれた棒の感触にすぐに行きついて一安心。この梅雨の時期は折り畳み傘を持ち歩くようにしているのだが、いつもは通学鞄に入っているせいで、外出時に別の鞄を持ち出す際には忘れがちだ。そして、家に帰った後も、ずぶぬれで下校することにならないよう、また傘を通学鞄に入れ直さなくてはならない。折り畳み傘を二本持っておけばいい話なのだが、買おう買おうと思っているうちに梅雨が明けて、まぁ来年でいいかと先送りしてしまうのが常だった。

 

 ……雨音はしない。有咲の耳に入ってくる音といえば、店内を満たすしっとりしたジャズ・ミュージックと、少し離れたところに座っているお婆さんグループの笑い声と、楽譜が捲られる音だけである。肌寒さを感じ、ホットコーヒーに口をつけた有咲は、その黒い水面に自身の顔を映したまま、視線だけを上げて向かいに座る燐子を盗み見た。

 

 燐子は、イヤホンで音源を聞きながら、有咲が持ってきた楽譜に目を落としていた。その眼差しは真剣そのもの。音楽の世界にどっぷりと浸かっている。

 左手で譜面の片端を抑え、右手でページを捲っているのだが、テーブルの上で一休みしている右手の指が、時折、ぴくぴくと震えているのが、彼女の集中の度合いをよく表していた。恐らくは無意識なのだろう。曲を聴いている最中に指が動いてしまうのは、ピアノ弾きあるあるだといっていい。

 

 野を越え山を越え、楽曲がとうとうその終わりを迎える。終始線に重ねられたフェルマータを存分に味わった燐子が、ふぅと一つ息を吐いてイヤホンを外した。

 

「どうでしたか……この曲?」

 

 落ち着いた頃を見計らって、有咲が恐る恐る尋ねると、燐子は、再度楽譜に目を通し――名残惜しそうに顔を上げて、ぽつりと呟くように答えた。

 

「悲しい……曲だと思いました。独奏用に編曲される前のものを聴いていないので、まだ何とも言えない部分もありますが……。下降音型が多くて、繰り返される主題のフレーズも、一回上がった後に四度も落ちますし……」

 

 燐子が、自らの内部に流れる曲を聞き返しているかのように目を閉じながら、訥々と語り継いでゆく。

 

「それに……特に印象に残ったのが、展開部です。途中……チャイコフスキ―やシベリウス、他にもよく聞くフレーズが引用されていて……何か……音楽の記憶を巡っているような、作曲者の原体験を追っているような……そんな感じがしました。悲しい、孤独な記憶の旅。まるで、走馬灯……みたいな……」

「ですよね~」

 

 当たってほしくなかった予想が的中してしまい、有咲は、大きなため息とともにテーブルの上に突っ伏した。弱弱しく立ち上がるピアノ……下降音型の覚束ない足取り……そして次々と現れ出でては消えてゆく数多のフレーズたち……そして、孤独な最後……。有咲もなんとなく明るい曲ではないなとは思っていたのだが、燐子が発した走馬灯という言葉は、そんな不明瞭な有咲の第一感を、かなり的確に成型していた。それも、考え得る限り最悪な形で。

 

「お祝いの席でこれを弾けと言われたら……わたしも、困ってしまうかもしれません」

「燐子先輩で無理なら、もう不可能じゃないですか~」

 

 有咲に同情するように眉を顰めていた燐子は、もう一度、机上に開かれた楽譜に目を通し、白魚のような手でその表面をあやすように撫でてから「でも……」と、口を開いた。

 

「これは……コンクールではないですし……弾くのは、市ヶ谷さんです。だから、市ヶ谷さんの解釈で、弾きたいように弾いてもいいと思います」

「私の解釈……ですか」

「はい。作曲者の望んだ姿ではなく、市ヶ谷さんがこうありたいと思う曲の姿で……。例えば、主題の……この下降音型ですけど、デクレッシェンドを無視して、後ろの音を強く鳴らすだけでも、大分印象が変わるかな……と」

 

 有咲は、楽譜を自分の側に寄せ、忘れないうちにと燐子のアドバイスをその隅に書き込んだ。楽譜はもうすでにかなり使い込まれていて、調が変わるところには印がついていたり、同じ音型が繰り返されるところは丸で囲んだりと試行錯誤の跡が残っている。改めてみると、自分でもよく練習したなと思うのだが、逆に言えば、これだけ練習してもまだ足りないという証拠のようでもあり、完璧に弾けるようになるまでの過程を考えると頭が痛くなった。

 

「どうしたの? 有咲ちゃん」

 

 そうこうしていると、休憩中なのか、突っ伏す有咲を見かねてかつぐみが話しかけてきた。やばい、ちょっと行儀悪すぎたかなと反省しつつ、居住まいを正して朗らかに返す。

 

「いやー。今度弾く曲で悩んでてさ。ピアノの独奏だから、燐子先輩にアドバイスをもらってたところ」

「……ん? ってことは有咲ちゃん、コンクールに出たりするの?」

「いやいや……知り合いのパーティーでちょっと披露するってだけだよ」

「すごいね! どんな曲なのかって教えてもらってもいい?」

 

 「あぁ別に……」と答えようとした口がぴたりと止まった。そういえば、ちょうどいいものを持っている。有咲はバッグから一枚のアルバムを取り出して、つぐみへと差し出した。

 

「このアルバムに入ってるピアノ協奏曲を演奏するんだけど……せっかくだし、これ羽沢さんにあげるよ」

「……え!?」

「もう散々聞いたし、ヘタに手本に頼りすぎると変なクセがついちゃうからさ。捨てるのは忍びないし、誰かに渡そうかなって思ってたから」

 

 日本人らしくその後何度か二人の手を行ったり来たりしていたアルバムは、最終的にはつぐみの手に収まった。

 

「ありがとう有咲ちゃん! 早速今夜聞いてみるね!」

 

 笑顔の教科書に載っているみたいな表情でアルバムを抱えているつぐみの姿を見て、有咲は、当の曲を思い出した。あの走馬灯のような曲がつぐみに似合うのだろうか? いや――違う。頭を振りかぶる。それは燐子の解釈だ。もしかしたら、つぐみならば全く異なる解釈で、違う弾き方をするのかもしれない。その演奏を聴いてみたいような、やっぱり聴きたくないような奇妙な感じが、有咲の胸の底にしこりのように残っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 玄関で靴を履き替えようと身をかがめたちょうどその時、「なーちゃん」と後ろから呼び止められた。肩からずり落ちそうだったギグバッグを背負い直して振り返れば、廊下の奥の折れ曲がるところから、パパがひょこっと顔を出して手招きしている。なんだろうと疑問を抱きつつ近寄ってみると、まるで内緒話でも始めるかのように耳元にそっと囁かれた。

 

「ごめんね、なーちゃん。時間があったらでいいんだけど、いま古松さん来てるから、ちょこっとだけ顔を出してくれない?」

 

 申し訳なさそうな顔をして、「おねがい!」と胸の前で手を合わせるパパ。こうしてパパが私にお願い事をするのは珍しいし、できるならば叶えたかった。というか、障害となる要素がなければ、お客さんに挨拶するくらい別になんてことはない。

 時間は……多分大丈夫。この後、アトリエでモニカの練習があるけれど、みんなより早く着いて少し掃除をしておこうかなと考えていたくらいだから、まだかなり余裕がある。よしんば挨拶が長引いたとしても、ドアtoドアで20秒だし、集合時刻ぴったしに出ても間に合うだろう。

 

 ただ、一つだけ気がかりなことがあった。問題、というほどではないが、明らかにしておかなければ安心できない心にかかる懸念点……。それは、古松、というお客その人のことだった。

 

 父が顔を出してくれと言うくらいなのだから、恐らく、過去に私もその人と接点があったに違いない。少なくとも一度くらいは顔を合わせているのだろう。だが、いくら頭をひねっても、その古松さんのイメージが全然浮かび上がってこないのである。一度会っただけの人か、それとも、私が幼いころにお世話になった人か――。昔からママに、人の顔だけはよく覚えておきなさいと口酸っぱく忠告されてきて、自分でも、記憶力がいいほうだと思っているが、さすがに出会った全員のプロフィールを記憶しているわけではない。

 

 古松さんが、果たしてどんな人であるかというのは、パパに聞けばすぐに教えてくれるだろう。その情報をもとに、何か思い出すことがあるかもしれない――。ただ、それはあくまでも最終手段だ。この後、古松さんと会って話すのだから、なるべく、あなたのことを覚えていますよという清々しい気持ちで望みたかった。

 

 目を瞑り、記憶の海に飛び込んで、沈没船からお宝を引き上げるように、海底に眠る記憶のそのひとつひとつを見極めてゆく。もちろん、私だって何も闇雲に探し回っているわけじゃない。ちゃんとあてはある。

 私が目指しているのは、年賀状の記憶だった。我が家にも毎年大量の年賀状が送られてくるのだが、家に招かれるような関係性であるならば、古松さんからもまず間違いなく年賀状が送られてきているだろう。数年前はそんな仔細に年賀状を見ていなかったが、モニカのみんなと知り合って新年を祝いあう関係になってからは、ポストから年賀状を回収するのは私の役目になっていた。見逃しのないよう、届いたはがきすべてに目を通したおかげで、特に今年の年賀状は記憶に新しい。

 

 古松……古松……と脳内で年賀状を探してみると、すぐに見つかった。……というかむしろ、見つかりすぎて困ってしまった。手には二つの年賀状。両者ともに苗字は古松。しかも、どちらも音楽関連なのがややこしい。左はテノール歌手で、右は作曲家。実際に会ってみたら分かるかなとも思うが、これでそのどちらでも無かったらすごく気まずい。

 

「古松さんって、音楽の仕事をしてる……人だよね?」

 

 おずおずと切り出した問いは幸いにもクリーンヒットしたらしく、パパの顔に驚きが広がった。

 

「そうそう! よく覚えてるね。なーちゃんがもうこんなに小さいときに、古松さんのお家によく遊びに行ってたんだよ」

 

 そう言いながらパパが手で示した高さはどう見ても60センチくらいしかなくて「その身長だとまだ歩けないんじゃない?」とツッコミを入れる。「あれそうだっけ」と首を捻り、身長計の上についているカーソルみたいに手を上下して、ああでもないこうでもないと悩み始めたパパをよそに、私はとりあえずほっと息をついた。広町家の交友関係がいかに広いといえど、音楽に関係のある三人目の古松さんはいないだろう。だとすれば、二人の古松さんを見分けるのはそう難しいことではない。

 

 「練習まで時間もあるし大丈夫」とパパに答えて、そのまま一緒に応接室へと向かった。ノックをしてから中に入ると、テーブルを挟んで向かいあう大きな二つのソファーに、ママと老人――おそらくは古松さん――が座っていた。

 こちらに気がついたママが、口元に手を当てて笑いながら私をちらと見て、左手の指先を古松さんの方へさり気なくすっと払った。あんたから挨拶しなさい、ということなのだろう。父からも背中をちょんちょんと突かれ、私は挨拶するために口を開いて――しかし、喉元まで出かかったその言葉を押しとどめたのは、他でもない古松さんの快活な声だった。

 

「おお! 七深ちゃんかな? どうもお邪魔しています古松です。覚えてるかな?」

 

 「はい。お久しぶりです」と微笑みつつ、古松さんの風体を観察する。重要なのは、テノール歌手か作曲家かということである。でも、予想通りすぐに分かった。目の前の古松さんは作曲家だ。こんな線の細さでは、テノール・アリアの一番の醍醐味である高音のロングトーンはとても発声できないだろう。胸郭が広くなってもいなさそうだし、間違いなくテノール歌手ではない。

 

「大きくなったねぇ。うちに来て、ちっちゃな手で楽しそうにピアノを弾いていたのをよく覚えているよ」

 

 にこにこと笑う古松さんのその言葉に誘われて、一つの記憶が想起された。そういえば幼いころ、誰かの家に行くたびグランドピアノを弾いていたような気がする。誰の家だったのかは鮮明ではないが、話を聞く限り、それが古松さんの家ということになるのだろう。広町家にはグランドピアノがないから、当時の私にとっては立派なピアノに触れる数少ない機会で、夢中になっていたのかもしれない。古松さんの姿が記憶にないのは、多分、ピアノの方に夢中になっていて、他の物事に注意を払っていなかったせいだろう。

 

「その……黒い、ベーゼンドルファーの……グランドピアノですよね。ピアノの横にレンガ色の椅子があって……みんなそこに座って私の演奏を聴いてくれて……私も、覚えてます」

「そうか……嬉しいねぇ」

 

 昔を懐かしむようにしみじみと言った古松さんは、私の背負っているギグバッグに目を止めて「おや」と目を開いた。

 

「それ……七深ちゃんベース弾いてるの?」

「はい。学校の友達とバンドを組んでて」

「今の女子高生はみんなそうだよね。この前もバンドに入っているっていう女の子に会ったよ。その子が、私の曲を素敵だと言ってくれてね……」

 

たっぷりと蓄えた顎髭を撫でながら、古松さんが遠くを見た。

 

「……あれは、私の葬送の曲なんだよ。だけどもうあの曲は私の手を離れて行ってしまったんだねぇ……」

 

 古松さんの声が空間に滲んで消えていく。どう反応していいか分からず、曖昧にはにかんだ私の代わりに、鋭いママが上手に話を引き取って「分かります」と同意を示した。作家性、アウラ、作者の死……そのまま、ママと古松さんの変化球交じりのキャッチボールが続けられ、話題もどんどん込み入ったものになってくる。

 

 もういいかなと思って、斜め後ろに立つ父の腹のあたりを肘でとんとんと叩いてみると、私の背中に指先でつつつと大きな丸が描かれた。

 

「すみません、古松さん。私これからバンドの練習があって」

「ああ、ごめんね七深ちゃん。いってらっしゃい」

 

 古松さんに見送られて応接室から退出する。スマホで時刻を確認すると、もういい時間だった。靴を履き替えて扉を開ける。七月の太陽がギラギラ照りつけている。冷房の効いたアトリエに早く入ってしまおうと、私は急ぎ足で歩き出した。

 

 

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。