ts娘のやつ   作:霜降り 

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 やっべ、一年経つじゃん

 ……伊咲ちゃんと宏大くんの幸せイチャイチャ回です。


7

 

 

「あ、宏にぃ煙草吸ってる」

 

 伊咲の服を買ってから一日、面倒なバイトも終え部屋でぼーっとしながら一服していた宏大に二つのコップを手に持った伊咲はそう話しかけてきた。

 

「はい」

「おう、ありがと」

 

 伊咲から手渡されたコップを受け取る。

 この家にお茶などという高級品はないのでその中身は当然のように水道水である。

 カランッ、水道水特有の苦味を少しでも打ち消すために入れている氷が揺れる。

 そして、隣に当たり前のように伊咲が腰を下ろす。

 その時、伊咲の胸が激しく揺れるものだから宏大の視線は思わずそちらに引き寄せられた。まあ男の性だ。

 服を買ったとはいえ一着。普段使いはできないので結局家のなかではパーカー続投、当然ブラなんかもつけておらずそれはまあ揺れる。

 そのたびに視線はやはり吸い寄せられるのだった。

 その事を伊咲に察せられないように慌てて目を逸らし、煙草を口に加えた。

 宏大が軽く横目で見れば伊咲はコップに口をつけているところで、宏大はほっと一息をつく。

 

 そんな彼の様子を伊咲は可愛いなぁなんて思いながら横目で眺めていた。

 ほんの少しの静寂に、ふと伊咲はすんすんと可愛らしく鼻を鳴らして、煙草の臭いを嗅いだ。

 それに宏大は表情を苦くする。

 

「副流煙は健康に悪いからやめろって言ってるだろ」

「えー」

 

 吸ってる人間が言えたことでもないし、伊咲相手に宏大が言えた口でもないが、それでも宏大は伊咲のそれを咎めた。

 それは伊咲には健康であってほしいという気持ちもあったし、これ以上彼女相手に罪を犯したくないという自己保身な考えもあった。

 なんにせよ、自己満足であるのには変わりない。

 そんな言葉に伊咲は宏大の内心でも見通してるのか不満げな顔をした。

 しかし、宏大だって自制心はある。伊咲のその表情相手に許すなんてことはしなかった。

 まあこれが、性行為の話であれば無理だったろうが。

 一息つき、煙草を口から離してコップを手に取る。氷によって冷えた水の入ったコップは痛いほど冷たかった。

 

「副流煙が駄目なら、直ならいいよね?」

「ん、吸いたいのか?」

 

 前に伊咲に煙草の吸い方を教えて。

 初めては失敗してた伊咲だが、なんやかんやそれなりに気に入ったようで。

 こんなふうに、ときたま吸いたいと言ってくることがあった。

 宏大的には何とも言えない気分である。彼女が自分と同じ時間を共有してくれるのは当然嬉しくはある。

 しかし、同時にまた自分の手で彼女を良くない道に導いてしまった。そう思うと胸が痛む。

 複雑な感情のなか、宏大は煙草の箱を確認して、ちょうど今吸っているものがラストであることに気がついた。

 

「ない?」

「ああ、悪い」

 

 横にいた伊咲もそれに気がついたらしい。宏大は煙草は嗜む程度でヘビースモーカーではなかったので箱を何個も常備してるなんてことはなかった。

 そのことに宏大は少しだけほっとした。

 そんな宏大に伊咲は一言。

 

「じゃあさ、それ吸わせて?」

「え?」

 

 伊咲が指さしたのは宏大の片手にある煙草だった。

 その一言に宏大は固まる。

 だって、この煙草はついさっきまで宏大が咥えていたものである。つまり宏大の唾液とかが当然付着してるわけで。

 ということはそれは間接キスというわけである。

 

 まあ

 間接キスなんてあまりにも今更なのだけど。

 伊咲と間接じゃないキスを、体液を混ぜ合った回数を答えろと言われても宏大にはできないのだから。

 

「駄目?」

「……いや」

 

 伊咲の可愛らしいおねだりに宏大は頷く。

 考えてみれば本当に間接キスなんて今更なのだから断る理由にはならない。

 なんて、言い訳をして

 今更なんて理由で罪が減らないことなんてわかってるけど。

 それでも、その煙草を伊咲に手渡した。

 

 受け取った煙草を伊咲はやけに手慣れた手つきで口に運ぶ。

 まだ吸い始めて一月すら経ってないのにその様は惰性で煙草を吸ってる宏大なんかよりもよっぽど手慣れてる様に見える。

 なんて考えて、宏大はこの生活が始まってとっくのとうに一月以上経ってることにようやく気がついた。

 隣を見れば当たり前のように伊咲が煙草を吸っている。

 たった一ヶ月で随分と変わったものだ。自分の狭い世界の変わりように宏大は一つため息を吐いた。

 それに続くように伊咲が煙草の煙を吐き出す。

 

「宏にぃの味がする」

「そんなわけないだろ」

「するもん」

 

 変なことを言う伊咲に宏大は呆れた目を向ける。

 宏大からの否定に伊咲はほんの少しむっとした表情を浮かべた。

 

「あげる」

「はあ?」

「宏にぃの味で満足しちゃった」

 

 そして、一回を口をつけた煙草をまた宏大の元へと戻した。

 いやいやいやと宏大は受け取った煙草を見る。

 まだ吸うことはできるだろう。だが、しかしそれは伊咲が口をつけた煙草である。

 伊咲をちらりと見れば、なんとも楽しそうな微笑みを浮かべ宏大を見ている。

 それで、自分が揶揄われてることに今更宏大は気がついた。

 宏大は少し迷って、吸わなかったら伊咲は傷つきそうだから、なんて考えて煙草に口をつけた。

 

「どう?」

「……甘いな」

 

 甘い、まるで熟した桃のような味がした。

 つまるところ、伊咲の味である。

 

 

 

 

 

 ふわあ、と横にいる伊咲が小さく欠伸をした。

 なんてことない動作だったが、それでもどこか扇情的に見えて宏大の視線が思わず引っ張られた。

 軽く目をこする伊咲は少しだけ眠そうだ。それもそのはず先ほどの煙草の回し吸いを終えた二人は特に何をするでもなくぼーっとしていたのだから。

 まあ、つまり二人して暇してるのである。

 だがしかし、宏大も伊咲もそのことに不快感などは覚えていなかった。

 ちょっと前、そう一月ほど前の宏大であれば、この退屈な時間は耐え難かったことだろう。

 スマホを手に取り、惰性的にネットを見ている自分の姿を宏大はありありと想像できた。

 だが今は、隣に伊咲がいる。

 それだけでこの退屈な時間がとても価値のあるように感じられた。

 静かな空間では小さな息遣いも手に取るように分かる。

 伊咲の小さな呼吸音が耳に入り、それが不思議ととても気持ちよかった。

 なんてことない、普通の日常。

 それが、宏大にとってとても心地良かった。

 もちろん、これがどれだけ仮初の時間なのかは理解していたが

 

 二人の関係は言い表しようのないものだ。

 恋人ではないセフレでもない、親戚と言うにはもうやる事をやりすぎた。

 健全ではない、これが正しいとも思えない。

 間違ってるとすら宏大は思っている、そしてそれは伊咲も。

 そんななんとも歪んだ関係。

 けれど、理性でそうわかっていても、やはり思うのだ。

 

 隣に伊咲がいるというそれだけ、たったそれだけの日常。

 

 こんな日常がずっと続けばいいのに、と

 

「ねー、宏にぃ」

「なんだ?」

 

 なんて、考えは

 

「生理来た」

「ぶっっっ!?!?!?」

 

 軽い口調で放たれた伊咲の爆弾発言で、文字通り吹き飛ぶのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁっ、はぁっ、そういうことは、早く言え!」

「ごめーん」

 

 息を荒くして怒る宏大に伊咲は緩く謝る。

 生理

 それは女であれば逃げられない生理現象である。

 そう、女であれば

 故に当然、男である宏大の家にそういうのの対策なんてものはなく。

 宏大はダッシュでナプキンを買ってきたのだった。

 

「ほら、早くつけろ」

「はーい」

 

 手渡されたナプキンを伊咲は開けて付け方を見ながらなんとか身につけていく。

 当然、宏大は見るわけにはいかず何とも言えない気持ちに襲われながら目をそらし、いつもの場所に座った。

 

「もういーよ、宏にぃ」

 

 少しして伊咲から振り返る許可が下りる。

 こういう時伊咲は嘘をついて揶揄うことがあるので少し警戒しながら宏大が振り向けば、今回はしっかりと服を着ていた。

 ぶかぶかなパーカー、相変わらず履いてない下。

 服を買ったとはいえ一着だけ、結局私服はこれのままである。

 身につけたナプキンがパーカーで隠れていることに宏大はほっと一息をついた。

 

「体調、大丈夫か?」

「うん」

 

 宏大が聞けば伊咲はこくりと頷く。そして、宏大の隣に座った。

 幸いだったのは、伊咲の生理はかなり軽い方だったことだろう。

 事実、頷いた伊咲の顔は苦痛に歪むこともなく普段通りどこかぼけっとした、マイペースな顔だった。

 

「きつかったら言えよ」

「へーき」

 

 一応確認して、その返事に宏大は大丈夫そうだと判断し、ようやくほっと一息をついた。

 ナプキンを買うために久々に走ったものだから、足がほんの少し痛む。

 

(生理……か)

 

 生理、当然宏大は知識としてそれがどういうものか知っている。

 男にはない、女にだけある生理現象。

 大体周期は一ヶ月くらい、そして、ちょうど今は伊咲が女になって一ヶ月ほど経った時期だ。

 そう考えると案外予想はできたのかもしれない。

 

 宏大はちらりと伊咲を見る。

 伊咲はある日突然男から女になった。

 あまりに理不尽に、そして彼女は家から追い出され、二つの意味で帰る場所を失った。

 そんな伊咲にはこの生理はどのように見えているのだろうか。

 なにせ、生理というのは、最も大きな性差とすら言えるものなのだから。

 

「ねぇ、宏にぃ」

「……おう」

 

 伊咲が宏大に小さな声で話しかける。

 それに宏大は心臓の鼓動を早めながら頷いて、そして

 

「今日の夜ご飯は、お赤飯にする?」

「お前から言うのか……」

 

 伊咲の言葉に脱力した。

 そういうのって女性側からすると結構嫌だとかネットで見た気がするが、どうやら伊咲は気にしてないらしい。

 まあ確かに。

 セクハラだとかどうだとか、今更と言われればその通りなのだが。

 

「じょーだん……お赤飯自体は、食べたいけど」

 

 そんな宏大の反応にくすりと笑った伊咲はそう返した。

 まあまあ、ともかく。一応そんな冗談が言えるくらいではあるらしいことにひとまず宏大は安心することにした。

 

「ね、あのさ」

「……おう」

「僕、赤ちゃん作れるんだね」

「……そうなるな」

 

 伊咲の言葉に宏大は小さく頷く。

 そう、その通りだ。

 生理という現象が起きたということは、それはつまり伊咲の体が生殖能力を持っているということに違いない。

 それも、男ではなくちゃんと女としての。

 

 子供を孕むことができる。その事実はきっと伊咲に自身の性別を突きつけることになる。

 毎日のように、宏大のものを受け入れといて今更と言われればその通りでもあるが。

 それを今更の一言で済ませられるなら、きっと伊咲はこの場にいなかっただろう。

 

「……大丈夫か?」

「……ん」

 

 今度の心配は体調のことではなかった。伊咲の内面、何を考えているのか、それが分からない宏大には月並みの言葉を投げるしかなかった。

 それに伊咲は小さく頷く。その質問の真意には気づいたがわざと無視したのが簡単に察せられた。

 

「ちょっとだるい、けどね」

「なら、寝とけ」

「やだ」

 

 宏大の言葉にめずらしく伊咲は強く拒絶の意思を示した。

 それから伊咲は宏大に一つ体を寄せる。既に密着状態だったところからさらに寄せたので、二人の体は押し合うような状態になった。

 

 柔らかい肌と、硬い肌

 女と男、あるいは、男と女

 

「僕はさ」

 

 小さく伊咲は呟いた。

 

「女の子になったこと、言うほど気にしてない、よ」

「そう、なのか?」

 

 その言葉に宏大は驚いた。だって、そうだろう。伊咲の人生は突如女になったことで大きくねじ曲がった。

 

「だって、宏にぃはこっちのほうが好きだろうから」

 

 続けるように放たれた伊咲の言葉に宏大は固まる。

 なんて言えば分からなかった。だって、そもそも女にならなければ宏大に好かれる必要なんてなかったのだから。

 けどそれを指摘できなかったのは

 伊咲がそれを本気で言ってると分かってしまったから。

 

「……そんなこと、ないけどな」

「嘘」

 

 だから、逃げるようなことを言って。

 その甘えを伊咲は直ぐ様潰した。

 

「宏にぃはさ、カフカの『変身』ってわかる?」

「……ああ、読んだこともある」

 

 突然の話の転換。けれど、これでも学のある宏大は『変身』の名を聞いただけでこれからの話の展開の予想がついた。

 カフカの『変身』

 ある日朝起きたら体が虫になっていた男を描いた理不尽文学。

 虫と女、大きく違うど起きたことの本質は近いと言えよう。

 

「極論だけどさ、僕が虫になったとしてさ、宏にぃは受け入れられた?」

「…………」

 

 答えられるわけがなかった。

 ここで勿論なんて言えるほど宏大は誠実でも不誠実でもない、中途半端な人間だったから。

 もし、伊咲が男だったら。

 もし、伊咲の顔も体も不細工であれば。

 今この瞬間があり得ないことなんて分かりきっていることだった。

 

「だからね、僕は自分がえっちな女の子になれてよかったと思ってる」

「……別に、えっちなってつけ足す必要はないだろ」

 

 えっちな女の子。

 当たり前のように自称した伊咲に宏大は絞り出すように返答を返せば、伊咲は少しだけ笑った。

 

「でも僕、結構えっちじゃない?」

「……自覚、あるのな」

「僕だって元男だもん」

 

 そりゃ、そうだ。

 伊咲の体が男からすればどれだけ理想的なのか、元男として男の視線を持っている伊咲が理解していないわけがない。

 それを言われて、ようやく宏大はときたまある伊咲の誘うような行動が狙ってることに気がついた。

 

「それに、えっちな事好きだし、ね?」

「確かに、夜のお前は積極的だけどさ」

「だってさ、すっごく気持ちいいんだよ」

 

 恥ずかしげもなく当たり前のように言う伊咲に宏大は何も言えない。

 そんな宏大をいいことに伊咲は続ける。

 

「全身が熱くなるの、宏にぃと一緒になれた感じがして、体熱くなる……特に子宮のところ」

「…………」

「それが、心地よいの。ずっと、あの熱の中にいたいくらい」

「そんなにか」

 

 体を抱きしめて言う伊咲に宏大はどう反応すればいいのか分からなかった。

 分からないのだ。伊咲がなぜそう感じているのか。

 まさか本当に、自分を犯した宏大のことが好きなわけないだろうに。

 

「宏にぃは、女の子の気持ちよさ分かんないもんね」

「なんだそりゃ」

「宏にぃ知ってる?男より女の子のほうが気持ちいいんだよ?」

「へぇ」

 

 その話がどこまで事実か分からないが、唯一男と女の体を真の意味で知ってる伊咲が言うのだからそうなのだろう。

 

「ねぇ、宏にぃ」

 

 伊咲が宏大の服の裾を掴む。じっと見つめるその顔はやはり可愛らしく宏大の胸を掴むのには十分すぎた。

 

「一応言っておくが……」

「ん、わかってるもん」

 

 今は生理中。その合間にやるのを避けるくらいの理性はえっちな女の子である伊咲にもあったらしい。

 しかし、不満ではあるらしく少し嫌そうに自身のお腹を撫でた。

 

「宏にぃは……」

 

 伊咲が宏大の名を呟く。小さな声でどこか不安そうな声だった。

 

「ううん、なんでもない」

 

 宏大が何かを言おうとする前に伊咲はそう言った。

 そう言われてしまえば何を言うこともできず宏大は押し黙る。

 静寂、何も話してない時間。

 心地よいはずだったのに、今はそう感じなかった。

 そんな空気が嫌で宏大は逃げ出すように伊咲に話しかける。

 

「辛かったら、何でも言えよ」

「………………うん」

 

 絞り出すような返答だった。それから続けるように伊咲が口を開く。

 

「じゃあ宏にぃ」

 

 目と目が合う。伊咲の口の動きがやけに宏大にはゆっくりと見えた。

 

「抱いて?」

「……おい」

「んーっ」

 

 今さっき禁止したことを当たり前のように言う伊咲に宏大は突っ込む。

 が、伊咲は何ら気にせず宏大の体のもとに自分の体をねじ込む。

 それで、宏大はようやくその抱いて、というのが性的なほうではないことに気がついた。

 

「わざとだろお前」

「んーんー、宏にぃ、手、回してよ」

 

 わざとややこしい言い方をしただろという突っ込みに、伊咲は適当に返答して、宏大の腕に触れた。

 はあ、と一つため息を吐く。まあ、抱きしめる程度ならいいだろうとなんて、根底がズレてることを自覚しながらも考えて宏大は伊咲の体に手を回した。

 

「…………」

 

 伊咲の体はまるで湯たんぽのように温かく、そして柔らかかった。

 密着して心臓の鼓動が重なる。それが、宏大には少し心地良かった。

 

「宏にぃに抱きしめられてると、安心する」

「そうか」

 

 伊咲も、同じ思いらしい。けれど宏大は自分も同じだ、と言うことはできなかった。

 それでまた静かになる。明けていた窓から風が入り、伊咲の長く艶のいい髪を揺らす。

 宏大に当たったそれはふわっとしていて擽ったくも心地よくもあった。

 

「ねぇ」

「なんだ」

「もっと、強く抱きしめてよ」

 

 ふと、伊咲がそう言った。そんな伊咲のおねだりに宏大はほんの少しだけ腕に力を入れた。

 

「強く」

 

 さらに入れる。

 

「もっと、強く」

 

 さらに入れる。

 

「もっと」

 

 さらに入れる。

 

「……もっと」

 

 そこで、宏大はこれ以上腕に力をいれるのをやめた。

 もう既に、少しだけ伊咲の肉に食い込むほど力強く抱きしめていた。これ以上強く抱きしめれば、軽い内出血が起きてもおかしくない。

 

「これ以上は、苦しいだろ」

「……僕、Mだもん。苦しいの、好きだよ?」

「……お前な」

 

 少し時間を空けて、伊咲はそう答えた。ほんの少しのラグ、普段なら気にしもしないようなラグが宏大はやけに気になった。

 伊咲が首だけ振り向き、宏大の顔を見上げる。

 

「だから、もっと、強くして?」

「……いや、しない」

 

 甘く、蕩けるような伊咲の声が耳に入る。

 けれど、宏大はその誘惑には乗らなかった。

 

「お前を、傷つけたくないからな」

「え」

 

 それは、いつも嘘で塗り固めている宏大にしては珍しい本音の吐露だった。

 伊咲が少し目を開いて、固まる。

 それに宏大はやらかしを悟った。

 

 傷つけたくない?

 

 傷つけたお前が言えることか?

 

 宏大の脳内で、そんな声が聞こえた。

 復活した伊咲は目をパチクリと瞬かせる

 伊咲の視線があちこちに飛んでいて、その口角はどうすればいいのか分かってないかのように震えている。

 

 そして、伊咲は宏大から逃げるように俯いた。

 

 

「……やめて」

 

 

 小さな声だった。酷く、酷く、酷く、酷く、小さな声だった。

 その声に、喉が詰まるのを宏大は感じた。

 拒絶、否定

 たった一言。その言葉が宏大を芯から貫いた。

 忘れかけていた。忘れようとしていた。

 自身の罪を軽く叩きつけられた。たった一言で宏大の情緒は荒れる。

 失敗した失敗した失敗した失敗した。

 何が正解なのかもわからないのに失敗したことだけはすぐに察してしまった。

 

「……悪い」

「っ」

 

 謝れば、伊咲は苦しそうにした。

 それはそうだ。純潔を奪う行為が謝るだけで許されるなんてそんな甘い話があるわけ無い。

 

「……その、ごめん。空気悪くしちゃった……えへへ」

 

 伊咲は首を戻し、この空気を飛ばすかのように、あるいは逃げるかのようにそう言った。

 自分の可愛さというものを理解してるそれは、暗い空気を軽く吹き飛ばせるはずだった。

 しかし、可愛らしくもどことなく自罰的な言い方はまた一つ空気を暗くする。

 

「……いや、今のは」

「宏にぃ、ねぇ、宏にぃ」

 

 宏大が謝罪しようとして、それに伊咲の声が割り込む。

 伊咲が宏大と目を合わせてまるで雛鳥のように宏大の名を呼んだ。

 

「……宏にぃは、やさしいね」

「んなわけあるか」

 

 伊咲の戯言を宏大はすぐに否定する。やさしい、自分にはあまりにも似合わない言葉だと宏大は感じた。

 伊咲のほうがよっぽど優しいだろうなんて、宏大は思う。

 それから、静寂。伊咲は静かに宏大の体の中で縮こまっている。

 その姿はまるで迷子の子猫のようだ。

 気がつけば、宏大は伊咲の頭を撫でていた。優しく安心させるように。

 柔らかい黒髪の感触は心地よく癖になりそうだった。

 

「ねぇ……ねぇ、宏にぃ、宏にぃ」

「なんだ?」

 

 伊咲が宏大の名前を呼ぶ。

 

「大好き」

「……おう」

「……えへ、えへへ」

 

 その笑いは酷く不格好で、震えていた。

 





 別に伊咲ちゃんが宏大へ向ける色んな感情を無視したうえでも伊咲ちゃんは"ド"がつくレベルのMだと思います。
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