「ははは…私は一体何をやっているんだろうな…」
ヒナギクは自嘲的に笑った。そこに累が戻って来る。累はヒサシの持っていた本を読んで人形作りについて理解を深める様に努力する。仮にも今はヒサシの体。客はヒサシの作った人形だからこそ買って行く。仮に魂がヒサシであったとしても累の体で作っても客はきっと納得しないんだろう。そう考えたからだ。
もしこのヒサシの体が作った人形であれば、仮に傍から見て駄作であっても喜んで買うものなんだろうか。累はぼんやりとそんな事を考えた。
「すまない。私が不甲斐ないばかりに累にもヒサシにも迷惑をかけてしまった」
「よく養生なさる事です。何かお急ぎのご用事があったとしても、今のお身体では難しいでしょうから」
「…急ぎの用事なんてないんだ。元々はこの先の宿泊地で余暇を過ごす事になっていただけだから」
「おやおや。ではゆっくりなさって行けば良かったのに」
「むう…急に押しかけて長居しては迷惑だろう。大人とは社交辞令を真に受けない物だからな」
「ははは。おっしゃる通りです」
累はそのあたりで話を切り上げて読書を再開する。読む本の中から知りたい情報だけを抽出する作業に時間がかかっている。ヒナギクはただぼんやりしながら何もない所を眺めていた。累はふとヒナギクの方を見ると視線の先を追う。しかし何もない。
「幽霊でも出ましたか?」
「いや、こうして何もしないでいると考えてもどうにもならない事ばかり頭に浮かんで考えてしまうんだ。らしくないだろう、嗤ってくれよ」
「あっはっはっはっはー!!」
累は言われた通りにゲラゲラと笑って見せる。ヒナギクはしょんぼりした表情で俯いた。
「自分で言っておいてなんだがそこまで笑われると普通に落ち込むな…」
「あーっはっはっはっはっは、ほひーっ!!」
笑い過ぎて床に転げ、床をドンドンと叩いて笑う。ヒナギクは両手に拳を握りわなわなと震わせ顔を真っ赤にする。
「そこまで笑わなくてもいいじゃないか!」
「笑えって言ったのはあなたでしょう」
「わあっ、急に落ち着くな!」
「滅茶苦茶だなこの人…」
まだ生まれて間もなく人間ついての経験も浅い累にとっては指示された事をそのまま実行しているだけであり、人間の機微な感情や言葉の言い回しを理解できないのも無理はなかった。累は腑に落ちない様子で読書に戻る。今日は雨が降っているので肉眼では文字が見えづらい。累は行灯に火を点けて読書を続ける。
累は読みたい本はこれではないなと他の本を斜め読みしながら本を漁る。視界に映ったヒナギクはあらぬ方向を眺めるのはやめていたが今度は俯いて指を弄っていた。何か虫でもいたんだろうかと累は疑問に思いながらも本を手に取って読みだす。
「…実は落ち込んでるんだ私」
読書しているのが見えないのか?累は読書を邪魔されている気になって僅かに苛立つ。聞かなかった事にして読書を続ける。
「実は私は退魔師なんだが…。竹馬の友が鬼になってしまったのだ。心が清く正しい人間だった…」
「心の清く正しい人間であれば鬼に憑かれる事はなかったでしょうに」
「そう…なんだ。ああ。その通りだったんだ…」
そう言ってヒナギクは頭を抱える。彼女が退魔師である事、妖怪である事。あまり外の事に詳しくない累にとっては外の世界の興味を抱いている事の1つだった。関心が僅かにヒナギクの方に揺らぐ。それでも関心がないフリをして本に視線を向けたままでいる。
しかししばらくしても続きを話さないので累は根負けしてヒナギクの方を向いた。
「何かあったんですか、心に付け入れられる様な闇が」
「ああ。…あいつは私と同じ退魔師だったんだ。でも私は知らなかったんだ。あいつが私を同じ退魔師として対抗心を燃やしていただなんて。そんな事、分かってたなら…」
「退魔師としてあなたより優秀でありたかったばかりに、埋められない差を妬み心に闇を膿んでしまったと言った所でしょうか」
ヒナギクは頭を抱えながら震える。髪の毛を掴んで引っ張る。
「私は斬らなければならなかった。鬼になった友を。他に討てる退魔師がいなかったから。私が…」
震える手で顔を上げその両手を眺める。怒りや悲しみを含んだその表情はここへ来てから今まで見せていた武人らしさはなく、深い悲しみに染まった弱弱しい物になっていた。同じ顔を持つのに覇気のない顔をするヒサシの宿った累の様な弱さを含んだ顔つきだった。累はその彼女の背後に僅かな心の闇を見る。
強い退魔師はその力故に妖怪に付け入られれば強い妖怪になる。退魔師そのものが退魔師の脅威になり得るとはなんとも皮肉な物だ。累は先ほど読んでいた本を取り出し続きを読みだす。
「今際の際、私の腕に抱かれた我が友はこう言ったのだ。『鬼になっても勝てぬか。敵わんな』って。笑って、目から涙をこぼして…」
そう言いながらヒナギクはその掌に1粒、また1粒と涙をこぼす。彼女の眺める両手の中にはまだ友の姿がそこにあるのだろう。その涙ぐんだ笑顔が見えているのだろう。徐々に失われていく体温が感ぜられるのだろう。死してなお、嫉妬に狂った友はヒナギクを苛むのだろう。
「過ぎた事ではありませんか。泣いても笑っても友は帰って来ませんよ」
「分かっている…分かっていても割り切れぬのが人の心と言う物だろう…」
わかりませんよ私には。人ではありませんから。累は心の中で呟いた。ヒナギクは涙の零れた両手を握りしめる。累は細めた横目で彼女に目をやる。もし、もし自身がいつか人間の心を理解する様になったのなら…いつかは彼女の言う気持ちも分かる様になってしまうのだろうか。そんな風に思う。
もし、自身がヒサシを殺害しなければならなくなったなら…。そんな妄想が近いのかもしれない。累は頭の中でそんな状況になった時、どうするか。本当に殺しきれるだろうか。そんな風に考える。きっとできないだろう。累はそう結論付けた。
ヒサシを殺害しなければならない状況を想像する、そんな時に僅かに感じる旨のチクチクした謎の痛み、これがヒナギクの感じている物に近い物なのかもしれない。累は左手を本から離し自身の胸に当てた。
「…幸せになる事ですヒナギク。幸せにならなければ」
「私にそんな資格などあるだろうか」
「あなたの友は死に間際にあなたを称えました。心から憎しみだけを抱く相手には送れぬ言葉です。今のあなたが友に抱く気持ち同様、その人があなたに抱く感情も複雑だったのでしょう。その友が今のあなたを見れば到底安心してあの世へは逝けますまい」
「ヒサシ…」
「笑いなさいヒナギク。あなたの笑顔は多くの人の心の闇を払える。それはどんなに妖怪退治の得意な退魔師よりも優れた才能でしょう。笑いなさい」
ヒナギクは顔を上げると両手の指で口の端をグイッとあげて笑って見せる。その健気な行動に累は微笑みで返した。
累は内心でため息を付いた。ヒナギクの事を美人だと思ったのは本心だ。ヒサシが現を抜かし惹かれるのも良く分かる。だから複雑な気持ちだった。自身が累の身体を手に入れられた時、あんな風に笑えるだろうかと。
人形でできたヒナギクを初めて見た時は累は表情にこそ出さなかったが心から喜んだ。この体こそが自身の求めていたものだ。この体にさえなればヒサシの心を独占できるのだと。だから初めて会った時、本物を見てしまって累は嫉妬した。心への理解が浅い他にヒナギクへのあたりが強い事にはそうした感情があった。
太陽の様に朗らかに笑う彼女を見た時等は、仮にその容姿を思うがままに扱えてもその笑顔を浮かべる事はできないと思ってしまったのだ。ヒサシの心を掴んだのはまさにこれなのだと現実を叩きつけられてしまった。
彼女の笑顔が曇るのならヒサシも惹かれなくなるかもしれない。自身に有利になるのかもしれない。そんな考えが今さらになって累の心に過った。敵に塩を送って何がしたいのやら。内心で乾いた笑いが出て来る。
気を紛らわそうと再び読書を再開する。
「…しかし、お前とは一体どこで出会ったんだったか…。お前ほどの男、会えば印象に残りそうなものだが」
「はてさてどうだったやら」
まだ諦めずに思い出そうとしているヒナギクに関心したやら呆れたやらの声色を滲ませる累。ヒナギクは全く心中が読めず出会った事のない性格をしている累に興味を持ち出していた。突き放すでもない、かといって同情する訳でもない。極めてドライな物の考え方。彼女は自身に足りない何かを累の中に見ていた。
累はと言うと自身の知らない感情を揺さぶられてばかりで内心穏やかではなく苛立ちを感じていた。
気が付くと外の雨は止み太陽の光が差していた。もうしばらくするとヒサシの人形の体は乾き動ける様になる。まだ雨が降って湿っていたのなら良かったのに。累はそう心中で悪態をついた。