朝、ヒサシは仕事場で気が付いた。何かおかしな感覚がある。空腹感。倦怠感。その他諸々。まるで生きている様な…。自身の手を見た時に違和感の正体がはっきりした。元の体に戻っているのである。
「そんな、あり得ない。戻るのはまだ先のはず…」
ヒサシは焦った。ヒナギクがいる間は自身は累として過ごす気でいたのだ。それが急に本当の体に戻った。魔法の本を読み返す。見る限りどうやら魂の交換の魔法の工程で魂の配置が少し不安定になっているようだ。完全に戻った訳ではないのでまた累の体に戻ってしまうらしい。ヒサシの体に戻るのは一時的な物のようだ。
自身が動揺しているのだから累もきっとこの状況に困惑しているはず。説明しなければ。ヒサシは急いで居間に向かう。居間には累に抱き着くヒナギクと、心なしか死んだ様な顔であらぬ所を見つめている累がいた。
「おはようございます、ヒサシ。もちろんこの状況をご説明いただけますね?」
「えっと…」
ヒナギクは完全に眠ったままだ。今事情を話しても聞かれる事はないだろう。しかし、何がどうしてこうなったのだろう。ヒサシは最後に累だった頃を思い出してもさっぱり分からない。
「ん~。累~茶屋はこっちだ。むにゃ、そっちではないと言うに~んははは」
「ヒナギクは私を茶屋に連れて行ってあんみつを食べさせたい様です。人形の体で物を食べるのは無理だと何度も言っているのですが」
「累は姉上を困らせて上手だな~。ぐう…」
「累を困らせているのはヒナギクでしょう」
「なにお~、姉上に向かってなんだその口の利き方は~」
不思議と成立している会話にヒサシが笑うと累は助けを求める顔をする。しかし今無理に累を救出すればヒナギクを起こしてしまう事になる。ヒサシは累には悪いと思いつつしばらくそのままいてもらう事にした。
「蛇に捕食されるって恐らくこんな気分なのでしょうね」
「それより累、最近の約束でヒナギク…の事は姉上と呼ぶ事になった。お前が彼女をヒナギクと呼ぶ事になった様に」
「あは、あはは…。何だかそうやって敬称抜きに呼ばれると何だか親しい間柄になったみたいだな…。嬉しいよ…ヒサシ…」
累はヒナギクの声真似をしながら頬を染めてみせる。演技までよく似ているのでヒサシも同じように照れ臭くなった。
「や、やめろ累!そういうのは!」
「はあ…今のヒサシにヒサシが務まるんでしょうね本当…やってらんないですよ」
ため息をついた累は不機嫌そうに言った。
「ワガママな妹にはチュ~するぞ~」
「くっつかないでくださいよ、対人距離を知らないんですかこの人は…!」
「照れるな照れるな、わはは」
ヒナギクに遊ばれて取り乱す累は少し面白かったが、あれがもし自分の身に起きていたらどうなっていただろうと考えるヒサシ。いや、下手するとそのまま天に還っていたかもしれない。魂が入れ替わって元に戻ったタイミングはこんなにも奇跡的でヒサシに味方したかのようだ。彼は累と天に感謝した。
それから遅れて累に現在は累の体ではヒナギクを姉上と呼んでいる事も込みで事情を説明した。つまり体が元に戻ったのは極めて一時的と言う事だ。
「今すぐにでも変わってあげたいですよ、ヒサシ」
「僕には刺激が強過ぎる。今しばらくは頼んだ」
それから10分程経った頃にヒナギクが起きた。だらりと力なく天井を仰いでいる累。ヒナギク自身も累も服が乱れている。起きてすぐのヒナギクは累の露出した二の腕にキスしている所だった。起きてなお夢を見ているかのようでヒナギクはまどろみの中にいる。顔を横向けた時に困惑しながら見ているヒサシの顔を見てやっと目が覚めた事に気が付いた。
「わあああああああっ!!」
顔を真っ赤にしてドタドタと足音を立てて部屋の隅に離れ混乱するヒナギク。
「わた、わたた…私は一体何を…」
累はゆらりと立ち上がると乱れた服を整えながらヒナギクの方を向いた。
「姉上の変態!色情魔!妹に興奮するとは…もう姉上なんて知りませんからねっ!」
一方的にそう叫んで仕事場の方へ駆けて行った。すれ違い際に累が笑っていたのをヒサシは見た。どうやら累は累なりにこの状況を楽しんでやろいと言うつもりらしい。
「累~~っ!ちが…いや違わない…のか?ごめんー!累~!とにかく私が悪かった~~っ!!」
仕事場に向かって叫ぶヒナギク。ドタドタとヒサシの方へやって来ると涙目で彼の両腕を掴む。
「どどど、どうしようヒサシ…!私、えっと…何かとんでもない事をしでかしてしまった!どど、どうしよう…かくなる上は腹を切るしか…」
あまりの慌て様に笑い出しそうになるのを必死に堪えるヒサシ。本来はヒサシの体で彼女と接するのは緊張してしまう所だと考えていたが彼女があまりに取り乱しているので返って冷静になってしまった。
「落ち着いてくださいヒナギク。まずは深呼吸です。はい、吸って。吐いて。吸って…吐いて」
言われた通りに深呼吸をするヒナギク。顔は赤面したままだ。彼女は両手で自身の両頬を抑えたままそのあたりをぐるぐると回る。
「あ~~、恥ずかしい。恥ずかしくて死んでしまいそうだ。えっと、ヒサシ。目撃した情報を事細かに教えてくれないか。まずは状況把握だ」
ヒナギクのためを思えば多少は嘘をつくべきだろうか。ちらりと仕事場の方に目をやると累がニヤニヤしながらヒサシ達の方を見ていた。あまりに雑な嘘をつくと後ろからツッコミが帰って来そうだ。可能な限りオブラートに包みつつ朝から累を目撃した時点では既に服は乱れていてヒナギクは累に抱き着いていた事、何やら茶屋に出かける夢を見ているかの様な寝言を言っていた事、主に二の腕を執拗にキスをしていた事を伝える。
改めて状況を把握したヒナギクの顔は熟したトマトの様に更に真っ赤になり、短刀を取り出すと白刃を抜いて両手でそれを握る。
「死んで詫びる!累、ヒサシ、大変申し訳ない!」
ヒサシは慌てて彼女の両腕を掴んで止める。物凄い腕力だ、全く止められそうにない。いよいよからかってる場合じゃなくなった事に気付いた累もやって来て切腹を止めようとする。
「止めてくれるな、もう生きておられん!」
「あ、姉上!落ち着いてください!累はそういう姉上の事も好きですよ!!」
「私は駄目姉なのだ!駄目姉!もー生きておられん!」
「そういうヒナギクも可愛いと思いますよ僕!」
「私は凛々しくてカッコいい方がいいのだーっ!」
このままでは埒が明かない。累はヒナギクの腕を握るのをやめると、体重をかけて体当たりしてヒナギクを押し倒す。懐に入る様にして体当たりした累を傷つけまいとヒナギクの手に握られた短刀を持つ手が緩くなる。その隙にヒサシが短刀を手から叩き落とした。
強引に押し倒され戸惑うヒナギクに累はその首元にキスをする。
「んっ…」
押し殺した様な艶っぽい声を絞り出すヒナギク。彼女の両肩を手で抑えた累が妖しげな笑顔を浮かべた。
「良い声で啼くじゃありませんか。姉上」
累はヒナギクの襟元を僅かに開くと鎖骨から首筋、首筋から耳孔の傍まで嘗め上げる。生きた体温より低く、湿り気を僅かに帯びた舌が生きた人間のそれとは異なるザラつきがあり未知の生き物に這われた様な感覚に襲われる。ヒナギクは小さな声を上げながら身体を小刻みに震わせる。熱を帯びた眼が累を見る。累は顔を上げるといたずらっぽく舌を出してウィンクした。
「これでお相子です」
ヒサシもヒナギクも固まったまま累を見ていた。彼女は首をかしげる。
「おや…続きをご所望ですか?」
「あわっ、あわわ…相子だ相子!あは、あは…」
「そうですか」
累はそう言って立ち上がる。ヒサシは安心したような、ちょっと残念だったような不思議な気持ちになった。その後、ヒナギクは少し寝ると言って布団の中に全身をすっぽり入れて眠ってしまった。しばらくすると寝息が聞こえて来る。緊張状態が解けるとお腹が空いて来る物でヒサシと累は朝食を作る事にした。食材が心許ないので累は近くの川に魚を釣りに行った。こんな状況で1人にしないで欲しいのがヒサシの本心だったが…実際に朝食が寂しいので仕方がない。
更に山菜を盛り付けていると後ろでもぞもぞと聞こえる。ヒナギクが起きたらしい。
「そろそろ朝食ができますよ」
「ああ…。ありがとう。……ところでヒサシ、本当に本当に、私とどこかで会った事がないのか?」
「ふふっ、またその話ですか?」
「…いや、思い出したんだ。私は。お前が私が切腹しようとするのを止めようとしてくれた時に」
ヒサシは近所の子供にいじめられていた。裕福な家庭に生まれたが故に近所の子供に快く思われなかった。ヒサシが不注意で怪我をするのは珍しい事ではなかったので怪我をして帰って来ても親は見向きもしなかった。女中さんだけが話を聞いて手当てをしてくれた。
子供ながらにして貧富の落差について深刻に考えていたヒサシは自身は美味しい物を食べたり綺麗な服を着たりいい思いをしているのだから貧しい暮らしを強いられている者に殴ったり蹴られても仕方がないと考えていた。そんなある日の事だ。1人の子供が遊び半分で耳に細い草の茎を突っ込んで鼓膜を破こうとした。耳が聞こえなくなる。ヒサシも必死に抵抗した。4人掛かりではどうする事もできなかった。
そんな時に颯爽と現れたのがヒナギクだ。
『多勢に無勢とは卑怯者め、私が懲らしてくれる!』
ヒサシから見ても小柄な女の子だった。彼女は確かに喧嘩が強かった。それでも4人相手を同時に相手するのは容易ではなかった。それも足が竦んでヒサシは喧嘩に応戦できなかった。殴ったり殴られたりしながら彼女は何とか3人を伸した。
後ろから太い木の枝で殴られるヒナギク。地べたに倒れた。ヒサシはもつれそうになる足を何とか走らせて彼女に覆いかぶさって庇った。その間ヒサシは蹴られ続けた。やがてヒナギクはヒサシに『大丈夫』と告げて退けると立ち上がる。そして自分より一回りも二回りも大きな体格の男児と殴り合い、頭突きで鼻を殴って勝った。
いじめっ子がいなくなるまでその背中を眺めているヒナギクを倒れたままのヒサシが見上げる。彼女の後姿が太陽に照らされ後光が差している様に見えた。その日、彼の眼と心に彼女の姿が焼き付く。初恋の瞬間だった。
『ははは、お前も鼻血が出ておるな。ほら、これを使え』
自分だって怪我をしているのに気にする様子もなく手拭いを取り出しそれをヒサシに投げ渡した。
『でも…』
『貰い過ぎて持て余しておるのだ。遠慮はいらんし返さなくてもいいぞ。わはは』
そう言ってヒナギクはフラフラしならが陽気に笑って立ち去って行った。
ヒサシがヒナギクの切腹を止めようとした時に、今も大事に袂に入れているその手拭いが見えたのだ。あの日は強気にそんな事を言ったヒナギクだったがとてもお気に入りの柄の手拭いだった。それをきっかけに思い出したのだ。
ヒサシは取り出してそれを見せる。
「その手拭い…まだ持っていたんだな…」
「忘れませんよ。一生ものの宝ですから」
「あの時の少年が…。ふふ、あれから大きくなったなヒサシ」
「あなたは以前よりも増して輝いて見えます、ヒナギク」
お互いに笑った。累が魚を持って帰ると後ろで山菜をぐつぐつと沸騰させ手に手拭いを持っているヒサシと、布団から顔だけ出したヒナギクがニコニコ笑いながら向き合ったまま動かないので困惑した。
「え、何ですかこの状況…」
累が呆れ顔で顔を出すと、ヒナギクは累の方を向いてハッとした。
「いややっぱり私に似せて作ったんじゃないか!」
「「あっ」」
改めて感動の再会を果たした2人。しかし同時にピンチが訪れてしまう。2人の運命やいかに…。