その時「いや、良い意味でだよ?」とも言われました。
あの時代、人に対して「あなたは官僚的」と言ったら「良い意味で」を付け加える必要があるほど、官僚的という言葉には良くない印象がありました。
ですが自分が社会に出て働いてみると、社会を維持している仕事というものが、どれもある意味お役所仕事…官僚制だということがわかりました。
そして社会というものが、変化・進歩させる前に、維持しなければならないものだということも。
その時「いや、良い意味でだよ?」とも言われました。
あの時代、人に対して「あなたは官僚的」と言ったら「良い意味で」を付け加える必要があるほど、官僚的という言葉には良くない印象がありました。
ですが自分が社会に出て働いてみると、社会を維持している仕事というものが、どれもある意味お役所仕事…官僚制だということがわかりました。
そして社会というものが、変化・進歩させる前に、維持しなければならないものだということも。
この世界に深海棲艦が出現して、人類が艦娘を運用するようになってから、結構な年月が経ちました。
その結構な年月の間にも色々なことがあって…現代、深海棲艦は海上で発生する脅威の一つに過ぎなくなっています。
脅威の一つに過ぎないと言っても、深海棲艦が脅威であることには違いありません。
どこかの海上で強力な深海棲艦が出現して、海の安全を脅かせば、各国海軍・沿岸警備隊や海上防衛隊・海上保安庁は艦娘部隊を出動させます。
時には、青葉…黒鉄青葉が所属する海神警備のような、艦娘を運用する民間警備会社・軍事会社に依頼が入ることもあります。
その日も、海神警備・岩川台営業所に依頼が入って、ネルソンさんを旗艦とする艦隊が太平洋上の某海域に出動しました。
そしてネルソンさんは、
今、どこの鎮守府にもネルソンさんのような
長門さん、陸奥さん、大和さん、武蔵さん、コロラドさん、メリーランドさん、ロドニーさん…。
青葉、自分はそんなに好戦的な方じゃないと思ってはいます。
とはいえ、青葉も艦娘、戦うために作られた存在でもあります。
ですから、こういうフェイバリットってやつには、ちょっと憧れちゃうんです。
自分にもこんなフェイバリットがあったら…。
どんな攻撃になるんでしょう?決め方は?…それに何より、技名は?
ネルソンさんの凱旋を受け、そんなことを思っていたら、他の
「ネルソンタッチのようなフェイバリットは、欲しいですか?」
こういうフェイバリットが使われ始めてからもう大分経っていますし、今更という気もしますが…。
思いついたまま、青葉は
…そこでまずは、リシュリューさんに話を聞くことにしました。
リシュリューさんを一人目に選んだことには、特に深い意味はありません。
誰に聞こうかなと考えながら、鳳翔さんのお店…「居酒屋鳳翔」に入った時、そこに居たのがリシュリューさんだったからです。
「ネルソンタッチのようなフェイバリットは、欲しいですか?」
お話は、あくまでもフェイバリットについてのお話だったはずなのです。
ですが、話している内に、お話はフェイバリットとは全然関係無い話になってしまうのでした…。
「まあ欲しくないって言ったら嘘になるわね。」
「実際の所、私もああいう必殺技・得意技の類はカッコイイと思うわ。」
「この際言ってしまうけど、自分にもあんな得意技があったら…なんて思ったこともある。」
「私にそんな得意技(フェイバリット)があったら、技名は…『ペンは剣よりも強し』になるかしらね。」
「え?『ペンは剣よりも強し』…ですか?」
ペンは剣よりも強し?
「独立した報道機関などの思考・言論・著述・情報の伝達は、直接的な暴力よりも人々に影響力がある」ことを示す格言。
でも、リシュリューさんと報道・ジャーナリズムって、何か関係あったかな?
「自分で言うのも何ですが、それってどっちかというと青葉のフェイバリットって感じがするんですけど?」
「あら知らなかった?」
「『ペンは剣よりも強し』っていうのは、エドワード・ブルワー=リットンの戯曲『リシュリューあるいは謀略』の中で、主人公のリシュリュー枢機卿が言った台詞なのよ。」
今にして思えばお恥ずかしい話ですが、このときリシュリューさんに言われるまで、青葉はこのことを知りませんでした。
後で他所の青葉…海上防衛隊S港基地の青葉にも聞いてみたのですが…その青葉は知っていました。
このことについては、(兼業にならざるを得ないとは言え)ジャーナリズムに志を立てる青葉の一人として、ただただ恥じ入るばかりであります。
「実在したリシュリュー枢機卿が言ったセリフじゃあないけれど…」
「そんなこと言い出したら、そもそも『ネルソンタッチ』だってHMSネルソンとはあまり関係ないわよね?」
「技の名前なんてものは、遊び心の発露であって良いんだから、このぐらいは…ね?」
初め、青葉は「ネルソンタッチのようなフェイバリットは、欲しいですか?」と戦艦の皆さんに尋ねて回るつもりでいたのですが…。
この時、青葉の興味は別の所に移ってしまっていました。
「そうですか…ところで、リシュリューさん」
「『ペンは剣よりも強し』というのは、お芝居に出てきたリシュリュー枢機卿のセリフということでしたが。」
「リシュリュー枢機卿と言ったら、フランスの政治家…でしたよね?」
「お芝居の中で、なんでリシュリュー枢機卿はそう言ったんでしょうか?」
「ああ、劇中でリシュリューは部下から、剣を以て猊下のお命を狙う者も居ります、と警告を受けるんだけど。」
「対してリシュリューは…」
「奴らに剣があるのなら、自分には逮捕状や死刑執行命令書にサインするペンがある。」
「国を救い、護るものは暴力ではない、言葉であり文書なのだ…」
「…っていうのが、このセリフの趣旨になるわね。」
「国を救い、護るものは暴力ではなく、言葉・文書…ですか。」
「そう言われると何だか、お役所仕事こそが国を救い、護ってるって感じがしますね。」
青葉の言葉を受けて、リシュリューさんは少し苦笑して、青葉に注意をされました。
「青葉?お役所仕事と言うけれど…私たちは元々海軍の艦艇よ?…そして軍隊だって官僚組織には違いないわ。」
「官僚組織の仕事が、お役所仕事がちゃんと国を護ってきたこと、私たちが忘れちゃあいけないわね。」
言われてみれば、その通りでした。
全く青葉は、青葉としても艦娘としても、自覚が足りなかったようです。
「でも洋の東西を問わず、お役所仕事ってものが良く思われていないことも確かよね。」
「お役所仕事は、どうして良く思われないのかしら?」
「そりゃあやっぱり、ちょっと何かを頼むのにあの証書をご用意ください、この証書をご用意ください、その書類にご記入ください、ここの記入が間違ってます…とか言われて話が全然進まなかったら」
「イライラもさせられますし、嫌にもなっちゃいますよ。」
「一言で言うと、面倒くさいってことよね。」
「今の時代、非能率なこと、面倒くさいことを絶対的な悪とする風潮があるみたいね。」
「黙って面倒くさい仕事をしている人は、要領の悪いバカ呼ばわりされるし…」
「人に面倒くさいことを頼んだら、それだけで人に迷惑をかけるクズ呼ばわりされる。」
「でも、非能率なこと、面倒くさいことを絶対的な悪として取り除いてしまったら、どういうことになるかしら?」
リシュリューさんが言いたいことは青葉にも何となくわかりましたから、思いついたことをそのまま答えました。
「…確かに面倒だからと言って手続きを全部取り払ってしまったら、本当に密告だけで、形式的な捜査さえされることもなく、誰かが逮捕されてしまうってことも起きちゃいますよね。」
「Oui, だから確かにイェーリングの言うとおり」
「面倒なこと…形式は恣意の仮借無き敵であり、自由の姉妹なのよ。」
そう言ってから、リシュリューさんはさらに続けました。
「ところで青葉、一般的に言って、ミスや事故を防止するにはどうしたら良いかしら?」
「一般的に、ですか?」
「そりゃあやっぱり…一旦立ち止まる、目的や手順を思い出す、今の状態を確認する…ですかね。」
「Oui, ミスや事故を防止するには、まず一旦立ち止まることが大切よね。」
「そしてお役所仕事の面倒くささは、窓口に来た市民も、仕事に従事する役人も、立ち止まらせてしまうものよ…。」
「あ…って言うことは、お役所仕事の面倒くささっていうのは…」
「実はミスや事故から人を護ってもいる、というわけなんですね?」
「そういうことよ。」
リシュリューさんはここでワインを一口して、続けました。
あれ?青葉、一体何の取材をしていたんでしたっけ?
ネルソンタッチのような得意技(フェイバリット)は欲しいですか?という話だったはずなんですけど。
それが(フィクションとは言え)リシュリュー枢機卿の「名台詞」の話になって…その「名台詞」の話から、お役所仕事の話になって…。
どうしてこうなってしまったんでしょう?
でも青葉はこのまま、リシュリューさんの話を聞き続けました。
どうやらリシュリューさんは、すっかり興に乗ってしまったようです。
「お役所仕事という言葉を悪い意味で使う人は多いわ。」
「でも今、人間社会を支えている仕事は、結局どれもお役所仕事なんじゃないかしら。」
「方法や手順、規則や教範…形式が定められていない仕事なんて、どこにもないんじゃないかしら。」
「私たち自身だって」
「艦艇だった時から、人の姿と心を得た今に至るまで、ずーっと規則や教範に沿った仕事、お役所仕事に従事してきたし、従事しているんじゃないかしら。」
「じゃ、お役所仕事っていう言葉を悪い意味で使うっていうのは…多くの人間や艦娘にとって、自虐・自嘲以外の何ものでもないってことになりますね?」
「そうよ。」
「少なくとも、私にはそう思えるわ。」
ワインをもう一口してから、リシュリューさんはさらに続けました。
「お役所仕事は、人類の理想でもあるのよ。」
「え、リシュリューさん、それはちょっと逆張りが過ぎるんじゃないですか?」
「Non! Non! これは私の逆張りなんかじゃないわ。」
「お役所仕事が人類の理想というのは、もう2000年以上も前から言われてきたことよ。」
「韓非、慎到といった…いわゆる法家の思想家たちから、ね。」
「お役所仕事というものを形成している要素」
「規則や教範、それに手続きというものは」
「確かに形式的で、非能率で、面倒くさいわ。」
「でも、規則や教範、手続きに従うことが、どれだけ非能率で面倒くさくても」
「それは面倒くさいだけであって…決して難しくはないわ。」
「特別な才能なんか必要ない、誰にでも出来ることよ。」
「優秀な人材を求めている人は多いけれど」
「優秀な人材なんてそうそう見つかることはないし」
「見つけられたとしても、永遠に活躍してもらうわけにもいかない。」
「それどころか、優秀な人材を得ることに拘っていたら」
「ラスコーリニコフやアンドリュー・フォークみたいな”自称”天才を出しゃばらせてしまうかもしれない。」
「そうなったら、仕事も社会も滅茶苦茶になってしまうわね。」
「いずれにせよ、個人の才能に依存する仕事や社会は、絶対に長続きしないのよ。」
「ハッキリ言って、優秀な人材なんて信用できないわ。」
「だから、優秀な人材なんか求めるよりも」
「非才なら非才なりに試行錯誤を繰り返して、仕事のやり方を誰にでも出来る形にしていった方が良いわ。」
「手続きや規則、教範…面倒くさくても、誰にでも出来る形に、ね。」
「知恵というものは、集めることも蓄えることも出来るんだから。」
焼き鳥を囓り、咀嚼し、飲み込んでからも、リシュリューさんのお話は続きました。
「そういえば、
「どんなに理屈を捏ねても、人間や私たちは、市場の中で生きていくしかないと言っていたのよね。」
「市場という場所は、人間や私たちにとって、どうしても避けることが出来ない場所だと。」
「でも人間や私たちには、どうしても避けることが出来ない場所がもう一つあるわ。」
「お役所仕事…官僚組織、ですね?」
「Oui, さっきも言ったけど、今という時代、方法や手順、規則や教範…形式が定められていない仕事なんて、どこにもない。」
「私たち自身の仕事だって、方法や手順、規則や教範が確りと定められてる。」
「今という時代、仕事はどれもある意味でお役所仕事だし、仕事場はどこもある意味で官僚組織なのよ。」
「今という時代、仕事はどれもお役所仕事、仕事場はどこも官僚組織。」
「にもかかわらず、お役所仕事って言う言葉が良い意味で使われることはあまりないし」
「官僚組織という言葉に良いイメージを持っている人もあまり居ない。」
「避けることが出来ず、どうしても必要であるにもかかわらず、良くは思われていない。」
ここでワインを一口してから、リシュリューさんは続けました。
「この間、『役人学三則』という本を読んだわ。」
「ああ、末弘厳太郞博士の…。」
「青葉も読んだことありますよ。」
「日本のお役人を批判…って言うか、風刺した本でしたね。」
「Oui, で、この本を読んだ後…」
「ちょっと身の程知らずかもしれないんだけど、”官僚学五則”ってものを考えてみたのよ。」
「官僚学五則…ですか。」
「あ、でも今までのお話からしたら」
「リシュリューさんって、お役所仕事とか役人に対しては、そんなに批判的じゃないですよね?」
「むしろ好意的って言うか。」
「なのにお役人を風刺した『役人学三則』を
「官僚学五則っていう言い方が、『役人学三則』を捩ってるのはその通りだけど」
「こっちはどちらかと言うと、お役人やお役所仕事ってものを擁護する意図で考えたものよ。」
いつの間にかグラスを空けていたリシュリューさんは、空いたグラスにワインを注いで、一口してから…お話を続けました。
「どれだけ悪い印象があっても」
「今の世の中、どこへ行ってもお役所仕事を避けることはできないわ。」
「どうせ避けることができないのなら、そのお役所仕事はどんなものであるべきか?」
「官僚組織はどんなものであるべきか?」
「その中でお役人…官僚は、どう振る舞うべきなのか?」
第一則:官僚組織は業務の規則化・教本化を徹底・推進しなければならない。
「これが第一則ですか?」
「感覚的な感想ですけど、一番最初に持ってくるにはずいぶん地味って言うか、インパクトに欠けるって言うか…。」
青葉の感想を受けて、リシュリューさんは答えました。
「でも官僚組織というものが、先ずしなければならないことは、やっぱりこれなのよ。」
「…と言うと?」
「官僚組織の使命は、社会を維持し、安定させること。」
「そしてこの使命は、才能ある者に任せるわけにはいかないの。」
「ああ、そういえば…」
「才能ある者なんてそうそう見つかるものじゃないし…」
「見つかったとしても、永遠に活躍してもらうわけにはいかない、んでしたね。」
「Oui, だから繰り返しになるけど、官僚組織は才能ある者を求めるよりも」
「才能なき者たちで試行錯誤に試行錯誤を重ねて」
「自分たちの仕事を、誰にでもできるように、才能がなくてもできるように」
「確りと教本・規則の形にしていかなければならないのよ。」
「難しい仕事を簡単な仕事に変え、それで社会の維持・安定を図る。」
「これこそまさに、官僚組織が先ずしなければならないことなのよ。」
第二則:官僚組織は、その使命・規則から逸脱する官僚を必ず処罰しなければならない。官僚組織は、その使命・規則から逸脱しない官僚をできうる限り保護しなければならない。
「露骨な形で言い換えると…」
「官僚組織では、少しでも余計なことをしたら即座に路頭に迷うことになるけど、言われたことだけしていれば食うに困ることはない」
「…ということね。」
「そう言われると、何だか感じの悪い原則ですね…?」
「それでも規則というものは、官僚組織の生命なのよ。」
「規則からの逸脱を許すことは、官僚組織の自殺に他ならないわ。」
「社会の維持・安定を担う官僚組織が自殺…自壊してしまったら、社会はどうなってしまうかしら?」
「それは青葉も理解しますけど」
「でも、官僚は言われたことだけしてれば良い、規則に従っていれば良いっていうのは…」
「それはそれで、組織のあり方としては不健全なんじゃありませんか?」
青葉がそう言うと、リシュリューさんは少し笑みを浮かべて、青葉に問いました。
「官僚も時には規則に背いて、自己の才能を発揮して仕事に臨むべきだと?」
「はあ…まあ、そんなとこです。」
「でも個人の才能っていうのは、官僚組織にとっては毒よ。」
「ええ?リシュリューさん、それはちょっと意固地過ぎじゃありませんか?」
「そこまで個人の才能を邪魔者扱いしなくても…。」
「Non! Non! ”邪魔者”じゃないわ、あくまでも”毒”よ。」
「邪魔者じゃなくて、毒…?」
「どういうことなのかというと…ま、自分で考えてみて頂戴。」
…考えてみましたが、このときはよくわかりませんでした。
第三則:官僚たる者、適正・簡潔な言い訳が出来なければならない。
「第一則、第二則は官僚組織についての原則だったけど、第三則からは個々の官僚についての原則よ。」
「…いきなり”言い訳”とかいう表現が出てきてるんですが?」
「元ネタの『役人学三則』に倣って、敢えて négatif な表現を採ったわ。」
「でもここで私が想定してる”言い訳をする”というのは…」
「例えば警察官…刑事が、子供を人質に取ろうとした凶悪犯を射殺した時」
「このままでは子供が危険だと判断して発砲しました、不適切であったなのなら、いかなる処分でもお受けします。」
「…こう言ってのけることよ。」
「責任っていう言葉があるけど、もともと
「”返答できること”っていう意味があるわ。」
「官僚が自分のしたことについて理由を問われた時、適切で正当な返答…言い訳ができること。」
「言い訳が認められなかった時は、それ以上の言い訳はせず処分を受けること。」
「それは、官僚が自分の職務に責任を持つということでもあるのよ。」
第四則:官僚たる者、上席・下僚に面倒を押しつけることを躊躇ってはならない。
「ツッコミませんよ?ツッコミませんけど…」
「…解説お願いします。」
「面倒…困難に立ち向かい、乗り越え、打ち破ることは美徳とされているわ。」
「無理を無理と言うことくらい誰にでも出来ますよ…それでもやり遂げるのが優秀な人物、これ、ビジネス界じゃ常識なのですけど?」
「…なんてことを言う人も居る。」
「でも、困難に立ち向かえ、乗り越えろ、打ち破れ、とか言われても、例えばまるゆが単独で軽巡棲鬼を撃沈するのは無理でしょう?」
「誰が何と言おうと、無理なことは存在するし、無理なものは無理なのよ。」
「それでも軽巡棲鬼を撃沈しなければならないなら…無理を通さなければならないと言うのなら」
「上席でも下僚でも、出来そうな誰かに押しつけるべきじゃないかしら?」
「肝心なことは軽巡棲鬼を撃沈すること、困難を打ち破ることであって、それを誰がやり遂げるのかなんて、全くどうでも良いことだわ。」
「なるほど…。」
「でも、上席が下僚に面倒を押しつけるのはよくあることかもしれませんけど」
「下僚が上席に面倒を押しつけるってのは、あるんですか?」
「あるわよ。」
「たとえば、(旗艦ではない)まるゆが軽巡棲鬼に遭遇した時」
「旗艦や Amiral に退却の許可を請うたり、救援を要請することよ。」
「これはまるゆが、軽巡棲鬼への対処を旗艦や Amiral に押しつけることを意味しているわ。」
第五則:官僚たる者、使命・規則から逸脱しない程度に、怠慢であらねばならない。
「怠慢で”あらねばならない”んですか?」
「Oui, 逆にもし、怠慢で”あってはならない”としたら」
「常に何か仕事をしていなければならないとしたら」
「しなければならないことが、何も無かったとしても」
「ただ仕事をするために仕事をすることになってしまうわ。」
「そんな仕事のための仕事が、一体誰を喜ばせ、誰を助けるというのかしら?」
「することがない時は、余計なことはせずに素直に怠けているべきなのよ。」
「もちろん、盗人は追わなければならないし、火災は消し止めなければならないし…」
「…窓口の市民には応対しなければならないのだけど、ね。」
リシュリューさんはワインを一口して、続けました。
「ちょっと…っていうか、だいぶ話は逸れるけど…」
「仕事をすること、全力を挙げること、努力すること」
「いつの頃からか、これらのことは美徳とされるようになった。」
「でも、これらのこと自体が本当に美徳だとしたら」
「努力のために努力し、全力を挙げるために全力を挙げ…」
「…仕事をするために仕事をしなければならなくなってしまうわ。」
「そして仕事をするために仕事をすることが、社会や人間に一体何をもたらしたかしら?」
「何か製造しなければならないからと言う理由で製造される、使い捨て前提の製品群」
「何かしていなければならないからと言う理由でさせられる、所謂
「これらは明らかに資源を浪費させているし…」
「…人間から生きる意味と自由を奪っているわ。」
「努力すること自体を美徳とすることは、社会と人間を荒廃させ、疲弊させている。」
「努力すること自体を、絶対に絶対に美徳などにしてはいけない。」
「…為すべきことがあれば努力し、為すべきことがなければ怠ける。」
「人間が、そして私たちが生きるということは、そもそもこういうことなのではなかったのかしら?」
第一則:官僚組織は業務の規則化・教本化を徹底・推進しなければならない。
第二則:官僚組織は、その使命・規則から逸脱する官僚を必ず処罰しなければならない。官僚組織は、その使命・規則から逸脱しない官僚をできうる限り保護しなければならない。
第三則:官僚たる者、適正・簡潔な言い訳が出来なければならない。
第四則:官僚たる者、上席・下僚に面倒を押しつけることを躊躇ってはならない。
第五則:官僚たる者、使命・規則から逸脱しない程度に、怠慢であらねばならない。
「今の時代、人間も社会も成長しなければならない、変化しなければならないと言われるけれど」
「それでも社会は維持され、安定していなければならないわ。」
「そして社会は、そこに住まう人間自身―――私たちも含めて―――の手で維持されなければならないの。」
「本当に居るかどうかもわからない天才や英雄を頼るわけにはいかないわ。」
「だから天才でも英雄でもない人間が社会を維持し、安定させるには」
「試行錯誤によって”誰にでも出来るやり方”を見出し、規則・教本として確立して」
「その規則・教本に従わなければならないのよ。」
「だから社会を維持する務めを担う官僚は…」
「…従順な怠け者であるべきなのよ。」
ここまで言ってから、リシュリューさんはグラスのワインを空けて、お話を締めに入りました。
「さっきも言ったけど」
「今という時代、方法や手順、規則や教範…形式が定められていない仕事なんて、どこにもない。」
「人間社会を支えている仕事は、結局どれもお役所仕事だし、勤め先はある意味どこも官僚組織なんじゃないかしら。」
「だとしたら、官僚が従順な怠け者であるべき、という命題は」
「今という時代を生きる(私たちを含めた)人間に、一つの生き方を示しているのではないかしら。」
「ええ…でも、従順って言うと、主体性がなくて、何かの言いなりになっているって感じがするんですが…。」
「それに、怠け者であるべきって言うのも…人間の生き方としては、本来あまり奨められないんじゃありませんか?」
「”本来”って言い方をしたと言うことは、本当は青葉にもわかってるんでしょう?」
「従順であることは、主体性のない凡人の振る舞いだ」
「そう言って、従順であることを軽蔑する人間も、確かに居るわ。」
「でも、人間や私たちが、この世に在って生きるということは、結局何かに従うことなのよ。」
「命令、規則…だけじゃなくて、道理や摂理、それに何より、目の前の事実・現実に、ね。」
「特に目の前の事実・現実に従わなければ…少なくともそれに沿って振る舞わなければ」
「人間も私たちも、滅びるしかなくなるわ。」
「それに怠け者である、というのはね?」
「もちろんしなくて良いことはできるだけしないようにする、という意味もあるのだけど」
「…自分のための時間を確保する、自分の人生を生きる、ということも意味しているの。」
「そう考えれば、官僚は従順な怠け者であるべき、という命題は」
「今という時代を生きる人間に、一つの生き方を示しているように思えるのよ。」
リシュリューさんがそう言ってお話を締めた時、青葉は、自分が最初何の話をしていたのかすっかり忘れてしまいました。
そして青葉は、そのままリシュリューさんの話を頭の中で要約しました。
お役所仕事は、形式的で非効率なところを嫌われています。
ですが、お役所仕事が非能率であることは、実はミスや事故を防ぎ、市民の自由や安全を護ってもいるのです。
そして、お役所仕事が形式的であることは、実は仕事を(面倒ではあっても)簡単にしてもいるのです。
お役所仕事に、特別な才能や才覚は必要ありません。
天才や英雄に頼らず、社会を維持し安定させるお役所仕事…官僚制は、本当に人類の理想でもあります。
官僚的であるということは、従順な怠け者であるということでもあります。
そして今という時代、社会を支える仕事はどれもお役所仕事で、仕事場はどこもある意味官僚組織です。
そんな時代で、官僚的であること…従順な怠け者であるということは、確かに時代に適した生き方であると言えるでしょう。
…と、ここまで要約して、纏めてみたところで、青葉はリシュリューさんに聞いてみたいことができました。
それはいくつかあって、相互に関連したものでした。
どんな風に聞こう?一つ一つ個別に聞こうか?それとも一つの質問に纏めて聞こうか?
…そんなことを考えていたら、その日は聞く機会を逸してしまいました…。