肺が重い。少し吸って、自重で潰れる。呼吸すら億劫になったのは今年が初めてだった。呼吸には、吸いたくなる閾値というものがあるらしい。息苦しさと吸う気力を天秤にかけて、傾きが覆ったら、吸う。風にも揺られない薄い天蓋を見上げる間に、すでにエントランスのホールクロックは七回鳴った。棒鈴の汚い音を良しとする姉の趣味だ。数え忘れていなければ十たす七で午後五時。山に日が入り始める。日光の移ろいを見てため息をつくことすらなくなった。眠れないのはもはやいつものことだ。
貧血と酸欠でうまく立たない首をもたげて、立ち上がった。余計に血の気が引いてくる。縞の壁紙に体を擦りつけながら、今にも折れそうな膝を前に出す。部屋にトイレを増築させることも、尿瓶を置くことも考えた。しかしそこまで自分の体に鞭打つことをやめてしまえばいよいよ二度と褥から上がれなくなる気がした。
樹脂でできた便座に座る。姉が営業に言いくるめられて造り換えてしまったこのトイレが嫌いだ。木にニスを塗ったものならば、冬場にこうして手で温めて座ることもない。間に布を敷いてはいけない。布は拭き取るものだ。便座で汚れるのではなく、汚れた便座を拭き取って汚れるべきだ。布は雑巾であるべきだ。やはりあのときにこちらも咲夜を言いくるめて戦わせなければならなかった。
滲みる。何があっても崩してはいけないルーティンのリストに補水は入っていなかった。ああ、またちり紙がダブルになっている。咲夜はわざとダブルを選んで来るのだろうか? 何度言ってもいつの間にかそうなっていて、ああそうでしたととぼけてみせる。きっとそうだ。
姉に怒られて脚を呪われたときに廊下につけられた手すりがまだ残っていてよかった。数日何も食べていないせいで力が入らないのだ。それにこの疲れは、尋常ではない。まあ、今のような状態でなくとも、つい衝動的に物に当たってしまって四肢が砕けるなんてことは茶飯事だから、取り外す暇もないのだが。吸血鬼といえど所詮は蛋白質、案外脆い。動かなくなったら終わり。だから少しでも動けそうなときは這ってでも活動する。自分にはそれができた。
「……」
図書館に着く前に力尽きた。すぐ前の踊り場で倒れた。存在の主張として敢えて倒れたような気もする。パチュリーは動かないにしても、せめて小悪魔が様子を見に来てはくれることを期待していた。
赤いフェルトの絨毯がこめかみを撫でたあと、七時間前から髪を下ろしたまま形式上被っていたナイトキャップに引っかかった。繊維がキャップにつくので、カーペットで行き倒れたことをレミリアはすぐに悟る。いつもは一瞥したあとで、はしたない、首でも落ちていたら汚れるでしょう、などと小言を言う。
静かだ。ほとんど誰も来ない。時折妖精メイドたちが楽しそうに走り回っては、階段の上からこちらを見つけて、怯えて去っていく。一度だってあの子たちにきつく当たったり邪険にしたりなんてしていないのに勝手に怯えられている。邪険にはしないがこれといった関わりも特にないから、まだ外聞を鵜呑みにしているのだろう。 一体誰が、気がふれているなんて言ったのか。迷惑甚だしい。夜の王として人間に恐れられるのは結構だ。しかし幻想郷縁起に至っては私のことを名指しで貶めている。
「……魔理沙」
彼女もまた幻想郷縁起にコメントを載せていた。「紅魔館に堂々と忍び込むとたまに妹に会うんだよなぁ。刺激しない様に通り抜けるんだけど、折角忍び込んだんだから出てこないで欲しい」のだそうだ。もちろんその時のことはよく覚えている。風呂上がりだった。使い古しのローブを引きずりながら二階を歩いていて、小雨の降り込む窓から忍び込んだ魔理沙が耳をそばだてて抜き足差し足で忍び込んでいるところを見つけたのだ。引きこもりとはいえ流石に外部との交流に飢え始めていたから話しかけた。服が濡れているということは、もてなす口実ができたということだ。そう思ってうきうきしていた。
その結果があれだ。確かに魔理沙は断った。しかしあの人当たりの裏に拒絶の意志があったということは、幻想郷縁起を読んで初めて知った。
あれから素直に話せなくなった。何度見ても自分への態度は他の人への態度と変わらないように思える。だというのに実際は自分と関わりたがっていないのだ。唯一のはしごを外された気がした。
「おじょーさん」
ようやく小悪魔が寄ってきた。契約の相手は"あくまでも"パチュリーだとのことで、パチュリーからの注意がない限り相手に対して不遜に振る舞う。いやそれだけではない。悪魔同士としてのシンパシーか、それとも悪魔のくせに人間と馴れ合うスカーレットを面白がってのことか。あるいは単に主の態度を真似してのことであるかもしれない。
「パチュリー様がね、アピールが鬱陶しいから行ってきなさいって。追い払っちゃっていいの? あなたのこと」
口をつぐんで彼女を睨みつける。それで十分だ。
「はいはい。こちらへどーぞ。よーしよしよし」
ひょいと持ち上げてお姫様抱っこで残りの階段を下りていく。恭しく仰々しく、一段を下りるその揺れがまるで揺り籠のようで、今この瞬間小悪魔が己の母性、支配欲を余すことなく堪能しているらしいことが伝わってくる。
「どうかされましたか? おじょー"さま"」
「……別に」
自己満足に利用されることを私が酷く嫌っているのを、小悪魔はよくわかっている。それに反駁する気力も体力もないことまで、よくわかっている。他者を甘言で囲い込み搾り取るのが悪魔である。這ってでも自力で動けば私は自他境界の壊れたマスターベーションに付き合わされることもなかっただろう。彼女の子細にいたるまでどうしようもなく悪魔らしく、同族ながらほとほと嫌気がさすのだが、まあ、身の回りに一人二人だけならば、いてもいいかとも思った。少なくとももう片方は、唯一の血縁として、よくしてくれる。
「心配なさらずとも、主の命とあらばいつだってお護りいたしますよ」
眉を顰めて、もう一度睨みつけた。もちろん彼女の言葉に嘘はない。いざとなれば何者に対しても、返事より先に立ち向かうだろう。獲物を外敵から守っているという無上の快感を胸に抱きながら。
「"君"は人の欲を嫌いすぎる。そりゃ自分自身の欲を見つめていないからでしょう。欲は憚らず互いに交換し合うものよ」
「……黙れ。あばずれの詭弁なんか信じられるか」
「喋れるじゃないの。悪魔なんてみんなあばずれですよ。人を籠絡して、搾り取る」
少なからず命の危機を感じた。黒く細い、ラバーのような尾を脚に絡みつけてきていた。脚から今何を搾り取られた? 最悪。
この悪魔が彼女でなければますます心穏やかでなかっただろう。彼女でなければ、餌食であることを見せつけられるこの状況を、単なる遊びのうちだと信じられない。
この一撃で同時に頭も殴りつけられたような気がした。そのせいで心臓が跳ね、血の気が引いている。そんな様子からも小悪魔によってフェチシズムを搾り取られていることを悟り、余計にいられなくなった。
「っ気持ち悪い、調子乗らないで」
「やめさない。節操のない」
パチュリーの感知するところでいてよかった。一度だって振り向かず、本から目を離すこともしないまま小悪魔をたしなめた。
「いいえパチュリー様、そのような意図は決してございませんの」
「こほん。言い直します。そこのソファにフランを下ろして、私の右に積んだ本を戻してきなさい」
「はーい承知」
尾を解きはした。その上で、ソファに私を寝かせ、振り向いて歩き出すその直前まで熱烈な視線をねちっこく這わせていた。
「毎度毎度ごめんなさいね。ここには私とあいつしかいないものだから。お茶飲む?」
頷く前に火を止めて、『ゆ』とラベルが貼られたビーカーからポットに湯を注ぎ始める。漂うのは、いつもの香りではない。
「懐かしい、どこかで嗅いだ匂いだわ。なんて紅茶?」
「畑は烏龍茶って言い張ってる。南西の島国から取り寄せたの」
「外の世界からなのね」
香りに注意を向けきれない。まだ動悸が収まっていない。尾が腹に巻き付いてソファに縛り付けられているかに思えた。まだ喧噪は去っていない。某かの術をもって実際に縛り付けられているかと疑るほどである。
「ねえ」
「ん」
一瞥すれば全てを察してくれる。私のことなんか私自身よりもお見通しだ。今も例に漏れず、無を体現したような面構えで、掴んだクマのぬいぐるみを、手首をひねって小刻みに振りながら私の胸に押しつけた。そんな彼女が、『アピールが鬱陶しい』だなんて言うはずがない。
無遠慮にそのぬいぐるみを抱きしめた。ちょうど小悪魔が私にしたように、無遠慮に。
「できた。薬ある?」
今度は片手にティーカップ。それを受け取る前にナイトキャップの中をまさぐるが、出てきたのは錠剤を全て出した後の、空のシートだった。
「……ちょっと待ってて」
カップを私に持たせて、壁際に寄せられたエンドテーブルの引き出しからもう一枚シートを取り出した。私が普段いるあらゆる場所にこうして常備されている。
「あー、最近どれくらい使ったっけ」
この一ヶ月どれくらいの頻度で精神安定剤を使ったか、覚えていないことはない。ただそれを逐一数えて日割りできるほど落ち着いていれば、それを飲むようなことにはなっていない。
「これは渡せない。最近飲み過ぎてるわ。……ごめんなさい。私がきちんと気にしておけばよかった」
聞こえる。腐ったはしごを踏み抜く音が。登り切れるかどうかも知らない途方もない段をひとつ踏み抜いて、その下の段もギャグみたいに軽快に、私の体重で折れていく。
つまり、落ちている。今の安心、という高度を滑り落ちている。脚に絡みついたゴムの紐で、地獄に引きずり下ろされていく。
「フラン、今のうちに聞いて。これの離脱症状かもしれない。今飲んだら次はもっと大変なの。」
「いや、お願い、今大変なの、今」
この言葉が、柄を掴み滑るその手であった。掴み、掌にささくれを刺しながら、滑っていく。
抱きしめたぬいぐるみが水風船のような弾力を持つのがわかる。眼が、綿の奥底に隠れたその眼が、じっと私を見つめている。その眼を握り潰さんとする私の指を透かして、懇願している。
「見るな…… 見るな見るな見るな見るな見るな……!!!」
自分じゃどうしようもないんだもの。仕方ないよ。そんな悪魔の甘言を辛うじて受け入れないでいる。その価値判断さえも底なしの恐怖に全部ひっくり返される前に、ぬいぐるみを投げ捨てて、駆け出した。止める声はない。
「お姉さま…… お姉さま!!! お姉さまァ!!!」
過呼吸と貧相な体力のせいでもはや視界はほとんど飛んでいる。それでも動き続けられるもので、脚力の残る限り階段を一気に駆け上がり、長い廊下をぺたぺたと縦断していく。
ちょうど棒鈴が情けない振動を館に響かせ始めたちょうどそのとき、無計画に駆けずり回っていた私の首を、何者かの腕が締めた。よく知った匂いがする。
「お姉さま…… ん…… ね、ぇ……」
いくら視界が飛び四肢が痺れていようとも、私を止められるのは姉しかいなかった。やっと意識を手放せる。小悪魔のそれに比して、なんと愛に満ちた暴力だったろう。それに応えて抱き返した私の腕は、なんと一方的で無節操だったろう……