夢にしては感覚も思考も冴えすぎ、現にしては今私を苛む状況は現実離れしすぎている。しかし夢か現かなどどうでもよく、私の腹を何かが掻き回しているように私が感じているということだけが、今この瞬間に最も重要なことであった。
何かがはらわたを掴んでいる。何百年ぶりだろうか、身体の外から内までを嗜虐心の赴くままにさせたのは。何に願すべきかも解さぬまま悲哀を口にしたのは。加えてあれから何百年後の今、蠢くそれがなんであるかもわからないせいで恨むべきものすら見失っていることが、さらに私を苛んだ。その昔、それは人の腕であった。
「……あぁ……」
布団を抱き締めて震えるその耳元で、小悪魔が笑いかけた。いや恨む相手を私が探した結果現れた妄想や幻覚なのかもしれない。そう考えることができるほど、私にはまだ余裕があるらしい。
「人間の真似事なんかするからよ。悪魔のくせに」
「何しに来たの」
「いいえ、おまえは悪魔にも人間にもなりきれない、出来損ないの不能者。地獄の恥。だから辺鄙な現世にいる」
やがて声さえも耳から内へ入り、脳髄を掻き回した。両耳を潰れるほど塞いだところでそれが遠のくことはない。
「うるさい…… 出てって! これ以上嫌いになりたくない!」
「なればいいじゃない。精神的の片輪者に今更何ができるか見物だわ」
声が脳髄を鷲掴みした。それでいて柔いそれをしつこく撫でつけるようでもある。右手で脳髄を、左手でたぶん肝臓を。肝臓は縦にぐるんと回り、次いで私が投げ捨てたぬいぐるみみたいに、圧されて張り詰めた。
まただ。また私が私を見つめている。未だ姿だけを見せない小悪魔の隣に立って、何某か叫ばされる私を慈しんでいる。脳髄を掻き混ぜられて飛び散った小さな一片が、自律し、私を取り囲む。
それはいいのだ。この程度ならば邪魔にならない。しかし飛び散った数や大きさによって、もはや本体は、飛び散った中で一番大きいものとなる。散乱した脳髄の後片付けをするとき、ついに本体だった私は新しい本体に統合され、いよいよ主体を失う。いや実際にはもとあった私たちが混ざり直すだけのことだから、いくらそれを繰り返そうと私は私であり続けるのだが、そう思えるのは混ざり直した後の話。今はこれ以上脳髄を乱暴されて取りこぼさないように、小悪魔を探し出してぶちのめさねばならない。
「あっはははは、ひぃー、いよいよ片輪になっちゃった。脳みその片輪者、フランドール」
部屋を飛び出して、廊下を走るというか転がりながらも、小悪魔の声は依然頭蓋の下で優雅にとぐろを巻いている。
私が溶け出す。身体の表面が、まるで水に曝された氷みたいに、昼下がりの生臭い大気と赤のフェルトに溶解していく。進むほどその衝撃で自分がこぼれ落ちていく。図書館の前に着く頃には自分の形も忘れ、立つか這うかすら不覚であったために、段を一気に転がり落ちた。それでやっと少し自分の形を把握できたのと、遠くのテーブルにあの小悪魔がパチュリーと談笑しているのを認めたために、曲がりなりにも地に足をつけて走り出せた。
小悪魔が振り返った。白々しくも目を丸くして、身構えている。構えたならば遠慮はいらない。それは戦意の提示である。口をいっぱいにかっぴらいて飛びかかった。
「!?」
口から内臓が飛び出たかと錯覚した。奴を掴まんと出した腕は出ず、私はなぜか腹を抱えながら、床にうずくまっていた。脈拍の響く眼球を動かして見るに、口から飛び出たのは唾液と多少の血液だった。衝撃で頬を少し噛み切ったらしい。
「妹様。お気を確かに」
私の背中を押し潰しているのは咲夜の右膝か。こんな時に限って突然現れては、やることなすこと邪魔をする。
「どけェ! このクソ野郎を生かしちゃおけないんだよ!」
「おじょーさん、どうしたの」
「お前! お前だ! あくまでもシラを切るつもりか、この恥知らずがァ! お前のその厚い面を全っ部引っ剥いで人間の餌にでもしてやるよ!」
口では大言を吐いたとて、腹の衝撃を飲み込みつつ手首の拘束を引き千切って、咲夜を押しのけることはとてもできなかった。言ううちにも自分の置かれている状況があまりにも惨めに感じられて、完全に威勢を失い泣いていた。
「ぱっ、パチュリー様? 妹様は何を」
「さあ。ちょっと聞き取れない」
能力の行使を恐れてか、小悪魔は私が頭を振って見える範囲からすでに外れていた。
「卑怯者、戻ってこい! 私の脳髄を返せェッ!……私、の…… ああああああああ!!!」
「妹様、何を仰るんです」
「こあ! フランに何したの!」
「子羊の見た通りにございますー」
『目』を潰すなどという卑怯でつまらない方法に頼り粉微塵にしたくはなかった。代わりに、必ず殺すという誓いを込めて、逃げおおせる小悪魔の背に生えた尊大な翼を、能力を以て一本だけ引き裂いた。
「きゃんっ」
角を曲がる小悪魔とすれ違いでレミリアが姿を現した。幼児くさいローファを階段の縁に打ち鳴らし降りるその様は、私が咲夜に取り押さえられているといっても、侮り、優雅なものである。
「……フラン、あなた今何をしたの」
「お嬢様」
「今まであなたの自制に任せてきたけれど、家族を傷つけるなら、あなたを傷つけてでも押さえつけなきゃいけないでしょう」
「違う……! 私だって我慢してたの! そしたらあいつがっ、あいつがぁ、」
伝わったかどうかわからない。それまでもパチュリーが聞き取れなかったのに、あまつさえ涙が止まらないでいる。ぐちゃぐちゃの呼吸にもつれる舌とあっては流石のレミリアにも聞き取れるかどうか怪しい。しかしどうでもよかった。とにかく自分が言うだけ言ったという事実で自分を諦めさせ、慰めることだけが念頭にあった。
「お姉さま……」
叫んだ。内にある何かが臓腑を突き上げて、何事ともつかぬ声を、腕を、突き出した。
「フランドール!」
どこに向けるでもなく――強いて言えばすべて――握りかけたその拳を、赤いローファの踵が踏みつけた。その痛みが身をさらに突き上げる。
「ああああああもおおおおおおお!! いっつも私の邪魔ばっかり! どいつもこいつも死にさらせ!」
続いて、頸。右の筋を鈍痛が覆う。背筋が凍り付いた。それまでの熱が嘘のように急激に。私はこの痛みを知っている。動脈という筋肉の塊が裂けた痛みである。つまるところレミリアが頸に牙を突き立てていた。
「いや、あ、ごめんなさい、やめて」
熱が頸から逃げていく。意識が頸から逃げていく。意識がレミリアの喉を伝い、静寂に落ちていく。そこは、一人である。地下牢よりも深い、棺桶よりも暗い静寂である。
「やめて、いやだ! 一人にしないで! 誰か……」
最後の最後まで自分に残っていたものは、レミリアの口から滝のように溢れ出る音と、生ぬるいカーペットの感触だった。
この声を月で聞いたことがある。あれは野戦病院でのことで、助からないと知った同じ分隊の玉兎が私たちに忘れられるまいとして刻んだ、最後の声だった。
それがこの館に響いている。口をどうしたらそうなるかもわからない異様な響きを持つ、呻き声。
「私どれかって言われたら内科医なんだけど。本職はただの薬師ですし。うどんげ、メモ持った?」
A5用紙の束とペンを見せた。すべてのやりとりを記録しろとのことである。筆記速度に対して会話があまりにも早く進むものだから要点を見つけ出す必要があるが、八意永琳師の言うことは難解で、最後まで聴き通しても意味を理解しきれないことがある。ただしメモをとらせる意味とは果たしてなんなのか、一度書かせたものを後から参照したことは今までにない。
「地球生まれの誰も、この子を月の薬師ほど理解していないのよ」
フランドールの姉か。多少なりともあの月を知る地球人。あの掃き溜めの何に憧れたのだろう。穢れた雑巾で穢れを拭った、あるいは掃いたそばからそれ自身が腐り始めたあの都に? いや憧れではないのだろう。遠くに土地があったから。それだけだ。
地下のそれとは別に牢がある。マットを敷き詰めて応急的にこしらえたその保護室に、フランドールは横たえられていた。麻の拘束衣をさらに鉄の板に縛り付けたその出で立ちはちょうど先日観たサスペンス映画の人食いのようであった。ただしあの人食いには、理性があった。
「何も壊させないように、手には石を握らせているの」
「そう…… フランドール、私の声が聞こえる? お姉さんに呼ばれてきたんだけれど」
頭部を固定するものは額に巻かれたベルトだけである。姉に似た鮮やかな紅で我々を交互に見つめつつ、口から何かを吐き捨てた。見ると欠けた歯のようである。なるほど、自分の歯でさえ噛み砕くなら、顎を制限できまい。力の出ない体位はあれど、顎においてそれはない。
こちらを睨みつけたのか、涙を流すまいとして目蓋を歪めたのか、目を細め視線を下へ投げ捨てた。そうして息を少し吸い、また悲哀とも憤怒とも、はたまた別の何かともつかず呻く。なるほど、声が館に響く前にマットが一度減衰した結果あの不気味な音が生まれるらしい。
「フラン、先生にご挨拶なさい。まともに喋れなくっちゃ、あなたずっとこのままよ」
聞こえてはいるようで、レミリアの言葉を聞くなり呼吸を速め拘束衣の下にあってなおよく見えるほどに身体を震わせた。
「待って。あなた、拘束を罰として扱ってるの?」
「ええ。何か?」
「今更こんなことと言ったって遅いのだけど…… パターナリズムを行使していいのは理性の通じない相手だけよ」
それを聞くなりレミリアはほんの少しだけ顔をしかめた。今見ているこれが理性的な生き物の姿だと? そう問うたかのように。
「何があったか、教えてくれるかしら」
そこでレミリアが退き、しれっとくっついてきていたパチュリーが出しゃばる。やたらに紫率が高い空間である。
「うちの遣いがフランをからかったの。昨日は気だるげではあったけど、気が立っているようには見えなかった…… それが今日になって突然、堰を切ったように暴れ出して」
「普段はどうなの」
「いつも…… 元気ではないわね。気がふれてるっていうより、実際は誰かが気にさわるの」
錆びた格子戸を開けて、永琳はフランドールの前に跪いた。続いて自分も恐る恐るに牢へ足を踏み入れる。
「本人とどんな対処をするの…… フランドールさん。この人が見えますか」
そう言って永琳が私の方を指示(指で示す)するとフランドールはこちらを見た。その後で永琳を見直した。ただ、どちらとも目は合わない。毎度微妙にずれたところに視線がある。永琳の意図はわからなかったが、共同注意あり、と書いた。
「普段は好戦的じゃなくって、からかわれても一人で過呼吸起こしてたりするからこれを渡すんだけど……」
言うなりパチュリーは薄い外套のポケットから糖で整形された錠剤の入った小瓶を選りだして見せた。ラベルにはZypnotycrilとある。強い抗不安薬で、行商として私が持ち歩く際も永琳の指示か里の医者の頼みでなければ渡さない。
「相当気をやっていたのね。どこで手に入れたの」
「作った」
どこか誇らしげである。実際にそれは誇るべきことで、これを自作できるならば彼女のリテラシーは多少担保される。
「『これを渡すんだけれど』、どうしたの。これは犬歯かな。なんと鋭いこと」
永琳が部屋の隅に転がったフランドールの歯を拾い上げ、アルコールに浸した一切れの綿で血の広がる彼女の唇を優しく拭い去る。
「これを常用するほどフランが追い詰められてるなんて知らなくて」
「今の状況にこれの離脱症状が絡んでいると言いたいわけね」
ジプノチクリルには依存性があり、離脱症状としてむしろ不安を助長したり、ひどい焦燥感を覚えることがある。あくまでも頓服薬として使い、長期的には別の系統の精神安定剤を使う。
「本人から直接、今自分がどうなっているかを聞きたいところだけど…… 先にあなたの遣い、あの悪魔に話を聞くとしましょうか。さてどうしたものか…… これの離脱中だとしたら、背負子の鎮静剤が軒並み使えないわよね……」
永琳が踵を返し部屋から出たところで、フランドールがようやく言葉らしい言葉を発した。
「……って…… 待って!」
その声が止めたのは私の脚だけだった。恐る恐るしゃがみ込んで、顔を近づける。
「お願い…… これ、これ外して! 息も満足に吸えないの…… 胸の一本だけでいいから……」
腕を一寸も動かせないほど、胸のベルトはきつく巻かれている。それは確かである。しかし……
「……」
「……お願い……」
たじろいで一瞬目線を下ろすと、ただでさえベルトで普段の半分ほどもできていないであろう浅い呼吸がさらに速まるのが、耳でわかった。
永琳は、フランドールの理性を認め露ほども疑わない。しかしそれを以て、彼女が自分の身体を完全に御せることを認めたことになるか? ならない。もしそうならば、とっくに拘束衣を剥がしている。
わかる。目の前でフランドールが何に苦しんでいるか、彼女の呼吸から、わかる。虚に衝き動かされる、目的のない焦燥感。ちょうど胸のあたりに、なにもない。なにもないということが、胸を満たしている。
「うどんげ、何してるの」
「……はーい。ただ今」
だからこそ、わかるからこそ、私は彼女の申し出を断らねばならなかった。彼女の胸の苦しさは拘束を解いたところで治まらない。衝き動かされるままに暴れたところで、虚が胸を飛び出してなくなるということはありえない。ただ時の過ぐるのを待つほかにないことを私は知っている。
「いや待って! ねえ!」
なんと久しい心地だろう。私を求むるを、理性によってはねのける。機を逃すまいとして瀕死の仲間を踏み越えたあの塹壕以来のそれである。傷む心を押さえつけ、震える手足をしゃんとして、永琳たちのもとへ戻る。