「では、ミス……」
長い聞き取りを私が全て記録することは難しいと判断したのだろう、永琳もB4サイズのメモ帳を取り出した。
「名前は要りません。悪魔は悪魔です」
テーブルを挟んで二人、小悪魔と永琳が相対して座っている。永琳の側で少し離れて、土壇場で寄越した椅子に私。
「そう。あなたのここでの立場から教えてくれるかしら」
「パチュリー様の遣いです。彼女が生きている間は」
「その後は?」
「おわかりでしょう。ふふ」
「つまり彼女は全てを了解した上でお互いの自由を交換したわけね」
「ええ。それにしては遣い方が生ぬるいですがね」
普通の会話のスピードに私が必死に食いついて書き殴っている間に永琳は一度も視線を下に向けず手だけを動かして、超人的な早さで内容を文に落としている。
「師匠」
「ああごめんなさい。そうだったわ」
師はいくらでも人を超えた離れ業をやってのける。カメラの横に原稿があるにもかかわらず放送司会がわざわざ手元の原稿を読むふりを挟むように、対人場面で人間として不自然な行いを始めたら私が一言注意することになっていた。
「うふふ。ここに人間はいませんから、あなたらしくいていいんですよ。八意先生」
「そうね。でも人間式のコミュニケーションは悪魔と異教の神の共通言語だから、人間らしくやりましょう」
無意識にだろうか、この悪魔は悪魔として、隙あらば相手を蠱惑する。それを受け止める態度をとりつつも惑わされないことまできっちり伝える永琳の対応は、とても私じゃ務まらない。
「あなたの主が、いつも誰かがフランドールの気にさわるって言っていたわ。だからこうして一人ずつに、思い当たることがないか聞いていくつもり。最初の一人として教えてくださる?」
少し考えて、
「私でしょうね。もう絶対私だ。ちょっといたずらしました」
「何をしたの」
「悪魔同士からかうのは普通のことですよ。やられたらやり返せばいい。お互いにね。それだけのことです」
ほんのわずかに永琳が踵を打ち鳴らした。師は悪魔の欺瞞を見抜いている。
つまりこうだ。フランドールの癲狂の引き金を引いたのはこの悪魔で、パチュリーの言を信じる限り当時のフランドールは彼女の嫌がらせをやり返せる立場や精神状態になかったと、永琳は踏んでいる。悪魔から私のメモ用紙は見えないから、代わって私が記録せよと伝えてきたのだ。
「何をしたの。それで仕返しに何をされたの」
「……あの子、すっごいかわいいじゃないですか」
「かわいいのね。キュートアグレッションのせいだって言うつもりかしら」
「ついちょっかいを出したくなっちゃんです。でも些細なこと。ちょっと尻尾で絡んでみただけ」
「他の人が気に障ったかもしれないって思うことはある?」
「あるにはあるかな。あの子はカミソリを扱えるほど器用じゃないの」
「冗談を言うならハイコンテクストはやめて。インタビュアーは行間を読んで記録しちゃいけないのよ」
「あらそう。私が言いたいのは、フランドールは人の行いについ悪意を見出すことがあるってことです。これでいい?」
ペンを握る私の手が少しぶれていた。こいつの話を聞いていると頭が茹だってくる。フランドールの惨状に対してこの女は徹底的に無責任で、ことあるごとにこちらを苛つかせてくる。暴力で問題が解決するのなら今すぐにでもこのメス犬の襟を掴みソファから引きずり下ろして、この館の壁を庭に立つほおずきみたいに紅く塗り直してやるところだ。
「あいつ信用できません。どこまでが嘘でほんとなのか」
「文脈を無視した上で、彼女の言ったことの一つ一つは本当よ。他の人に聞いてわかるような嘘は悪魔だってつかないはず」
「それじゃ悪魔の話をわざわざ聞かなくたっていいんじゃないですか」
「本人から話を聞けない以上、フランドールのことは周りの語りからうかがい知るしかない。誰であれ、落ち着いて話せればねえ……」
「師匠でも悩むんですね。一目見て診断できるのかと思ってた」
「うんん、ん…… 診断…… も、ままならないんだけど。家から出ないならなおさら、本人の問題は本人だけのものじゃないわ」
「なんでも治しちゃう薬ってないんですか」
「治すってなにかしら。なにを、どうするの」
「えっ」
「人間相手ならそこはあんまり考えなくていいんだけど…… 吸血鬼の生活様式として何が許容されて何がされないのか、また本人がどうありたいのか、実は私もよく知らないの。人の思考の数だけある妖怪のたった一種、砂粒を全部眺めて歩くわけにはいかないでしょう」
「『その思念の数はいかに多きかな 我これを数えんとすれどもその数は沙よりも多し』……師匠ならできそうですけど」
「私の記憶も有限なのよ。初耳かもしれないけれど」
「……」
小悪魔と交代して三人がけのソファの真ん中に小さくなって座ったのが十六夜咲夜。誰とも目を合わせず、顔を軽く伏せながらあちこち見回している。
「えーっと、その様子だと貴方はどちらかといえば我々に近い立場のようね」
「ええ、まあ…… そんなに長くないので」
「それは妖怪の基準? それとも人間からしても長くないの?」
「お二人のことがわかるほど長くはないということです。ずっとわからない」
ずっとわからない。この言葉は少なくとも私たちよりは長く深く、彼女らのことを知っていなければ出てこない。
「なんにもわからないんです。私が出会い仕える前から、私がスカーレットについて知っていることは何一つ変わりません…… お体のこと以外はね。ふふ」
「……どうしてここに仕えることになったの」
「なんでもない、ただ私が吸血鬼に狂っていただけのことです」
魅了にやられた話を深掘りしても意味がない。永琳は鼻で軽くため息をついて、次の話に移る。
「フランドールのことを貴方が止めたそうね」
「お嬢様だけでは対処が遅れることがあるそうなので、私は館にいる間、妹様を止められる者が自分の他にいないと考えて行動するように言われています。妹様は視野が狭い。不意を突けば難しくはありません」
「気が抜けないでしょうね。休憩はとっているの?」
「……こんなに酷くはなかったんです。今まで。時々せわしなく動いて周りが見えなくなるくらい」
永琳が眉をひそめ、同時に筆が加速した。もはや震えていると言われても疑わないくらいの速さである。
「そんなとき彼女は何をしているの」
「本当にいろいろです。部屋いっぱいに本を散らかして何か書いていたり、突然台所を占領したり。困ることであっても急に止めると怒るので、誰かが付き合いながらブレーキをかけるって感じ」
「その後が大事」
「事の顛末ってことですか? んん……」
少し唸って、
「見切り発車で何かを始めてだいたいどこかで失敗します。何ヶ月もかけて同じようなことを繰り返すうちに、突然動かなくなる」
「何も喋りませんよ。私は」
「尋問なんかじゃないことはわかっているのよね。それでもって話さない理由は、話してくださらないかしら」
紅美鈴、いつもこの門で晒している暢気はどこへやら。鉄柵の間を支える煉瓦の壁にもたれかかって、息をしているかどうかさえわからないほど動かない。まるで壁に合わせて作られた石膏像のようである。庭からここへ歩いていき、初めに合ったその目の鋭いことといえば、思い出すだけで背筋が凍る。圧倒的な力の差がありながら敢えて襲われず生かされているということを、ひとつの言葉もなく身に染みさせる目。
「……そう」
「ええ。美鈴は話さないわ。背負えないことは背負わないもの」
「私がいても、自分が何か背負えるくらいまで事態を良くすることさえできないって彼女はお考えなのかしらね」
「……」
であればもはや誰がいても何も変わらないだろう。きっと美鈴の思いはそこまで及んでいて…… 今唇を結び視線を机の木目に落としたレミリアもそう憂え始めたところか。
「ごめんなさい。せっかくお呼びして申し訳ないのだけど、結局私の手でやり直すかもしれない。どうしてわざわざ声をかけたのか自分でもわからなくなってきた」
「……やり直したくない理由を一応教えてくれるかしら」
「やり直すたびに…… あの子を生き物として見られなくなるの。だってあんなの、式神にリセットコードを通達するようなものじゃない。また同じような状態になるのがわかりきってる、欠陥のあるバージョンに巻き戻して何になるっていうの」
「いい、言葉を改めるところから始めましょう。あの子は目的を持って作られたガイノイドでもなんでもない。人のありさまを欠陥と呼ぶのはやめて」
「わかってる。わかってるわよ。私が、一番フランのこと見続けてきたんだもの! 何百年一緒に暮らしてきたのよ!」
「落ち着いて」
「私もあんなになっちまえば…… 二人でどうにでもなれたのに!」
「ちょっとパチェさん来てくださいな!」
「二人で何度血を入れ替えたと思う! お互いに何をしたって体はなンにも変わりゃしない! ……地獄を知らない悪魔なんてって思ってたけれど…… まさか苛まれる立場で地獄を知るとはね」
部屋の扉の裏に立っていいたパチュリーが彼女なりの全速力で駆けつける。しかしレミリアの斜め後ろに立って様子を見つめたまま、何もしない。呼ばれたから来たというだけで、付き合いの長いパチュリーにとってまだレミリアは特段危険な状態にはいないのだろうか。
「話を戻させて。つまりあの子は、人の働きかけにかかわらず、いずれ今みたいになることが決まっていたわけね? それは今までに何度もあったと?」
「……、……うん。だけどその間のことは何も聞き出せてない。何も覚えてないんだもの。何も残っちゃいない」
「一度ああいった感じになり始めたら、あとは悪くなる一方だということでいい?」
ついに首を振ることもなくなった。それからは二人とも何もせず、ただ黙っていた。レミリアはうなだれるその体を机上の肘で支え、永琳は遂に筆を置き、彼女の渦巻く細い髪の揺れるのを見守る。いかがしたと思い、永琳の体に少しだけ引き寄せられた彼女のメモを盗み見る。あるいは見せてくれたのかもしれない。そうでなければ永琳がわざわざこんなことを書き留めるはずがない。とにかくそこには、『〆の言葉待つ』とあった。
応接室に二人残り、同時に深いため息をついた。しかしきっと師匠は私と違うことを憂えているんだろうなとも思った。その上で、きっとこちらの憂いは見透かされている。
「……実は地上の人間が見いだした分類には、まだカバーできていないところがあるのはもちろんだけど、何より正しい階層で分けられていないところがあってね」
「同じ現象にいくつも名前をつけてるってことですか」
「まあそんなところ。[ 人類未だ知らぬ情報 ]と[ 未知 ]と…… [ 未知 ]。これらに共通してみられる[ 未知 ]はどれも[ 未知 ]にある[ 未知 ]の[ 未知 ]が原因でね」
「……」
「いくつもの診断があったときにどの症状がどれに帰属するかがわからないといった感じで、この分類の不全が効いてくるの。まあ、究極的には分類をなくしてしまえばいいんだけれど、それができるのは私くらいのもの。情報共有がいらない場面でしか効かない」
扉、いやその横の壁が二度叩かれた。
「はあい」
入ってこないのでこちらが出向き戸を開けた。咲夜がワゴンを押してきたらしい。
「こんなこともあるのね…… うち(永遠亭)でもこのワゴン使ってる。まあ動き回るのは診察室だけだからあんまり押して歩き回らないけど」
「お互い大変だこと。これ美鈴とこに持って行って。歩いて門に着く頃がちょうど飲み頃だから」
片膝立てて、煉瓦を背に地面を見つめている。半開きの口から不規則に空気を入れ換えてあの目を濡らす姿からは、とてもあの不動明王のような火焔光背は感じられない。
「あの」
かと思えばこちらの存在に気がついた途端にまた表情を変えて、今度は噂通りの紅美鈴、暢気ながら溌剌とした柔和な笑みをこちらに向けた。
「面目ない。こんなところお見せして」
「いいのいいの。変なとこで気を張らないで頂戴。これ緑茶、咲夜さんから」
「珍しいこともあるもんだ」
盆ごと地面に置いて二杯の湯飲みにそれぞれ注ぐ。それを美鈴はつまむようにして持ち上げ、鼻を湯飲みに突っ込んで湯気を吸い込んだ。
「今度こそ誰も聞いてないんでしょうね。特にあの先生は…… そりゃ神の前じゃ緊張もしますよ。ありゃ人間の皮を被った宇宙でしょ。あんな瞳で見つめられたら震え上がっちゃう」
彼女が見せたあの殺気は虚勢だったのかもしれない。元が強いものだから、虚勢にさえも実の勢が混じるのだろうか。少なくとも自分には、あのとき虚を感じなかった。
「……門番でもやってりゃ、あの子の叫び声も少しは忘れられると思ってました。日の光は吸血鬼の体をかき消すことはできても、その声までは消せないみたい。気ってわかります?」
こちらの相鎚を待つ間、啜りもしないで
「気を張る……」
「かもしれない。気血の気。フラン様がねじれ始めると、その体を巡る気の流れもぐちゃぐちゃにねじれていくんです。まるで経絡が存在しないみたいに。まとまっていた経絡が、縒った糸の一本を引っ張るみたいにして、一番初めのちょっとしたほつれから崩れていく」
「今までも何度かあったってこと? そんな話し方してるでしょ」
「お嬢様はなんて?」
「何度かあったって」
「じゃあ何度かあった。その度に私は何もできない役立たずのでくの坊になった。今話した気の縺れは、内臓がねじれて混ざり合うように見える。そりゃ、たじろぎもすると思わない?」
「……だから、門番として一番遠くにいるってわけ?」
「責めるみたいにして言わないでよ…… 普段の妹様と接してるとき、自分が自分でいっちばん情けなくなるんだから」
「噂をすれば」
噂をすれば、である。『ばん』と表すのがせめて最も近いだろうか、ダイナマイトでも爆ぜたかのような轟音が、広い館に反響し外へ飛び出してきた。似た音を月で聞いたことがある。それは炭素鋼でできたワイヤーの破断試験を見学したときのものだった。すべてが破断する前に、束ねられたうちの細い一本ずつが軽い破裂音を伴い千切れていくが、今の音に予兆はなかった。そして音源はすぐに察せられた。きっとフランドールが鉄拘束衣を力任せにぶち抜いたのだろう。あの体位で鉄を砕くならどこにも置いておけないだろうに。
「私じゃどうにもできないだろうから、お盆を返しにゆっくり戻るわ。あなたはどうするの? いつもみたいにここで突っ立ってるつもり?」
見ると美鈴のなんと情けないことか、膝で山を作り、頭越しに両手を組んで耳を塞いでいた。目の前に手をひらつかせてようやくこちらに視線を向ける。こちらが目をじっと見つめるうちに、口を開いて、
「お嬢様が直々に手を下される…… あんたは、見てくるといいよ」
「……そう」
長い中庭を戻る。整然とした極めて静かな視界、それでいて耳に飛び込んでくるのはここへ来たときのそれから一層異形めいた、とても少女、いや生物の喉から出る音と思えない嵐のような叫び声である。
ホールに進入して耳を畳んだ。音量もさることながら、その叫びをとても長く聞いていられなかった。いずれ私も美鈴のように、外にいてさえ耳を塞ぐことになるのだろうか…… と若干今と関係のないことで気を紛らわしかけて、音のする方、エントランスから奥に向かって右側の廊下の陰で永琳がこちらを待ちわびているのに気がついた。
「せめて歩幅を広げてきなさいよ。始まっちゃう」
やはりいよいよらしい。やり直し。その意味するところはやはり生物としてのリセットなのだろうか。各々の口ぶりからもそれ以外にない。そんな大事に際し、中庭に引き続き心までも落ち着き払っていて、いよいよ喧噪といえばフランドール本人の他に一切ない。人の死とはいつもそうなのか? いつも本人だけがこうもやかましいのか? 月でだってそうだった。こんな声を張り上げる気力こそなかったが、わめくのはいつだって、死ぬやつと銃口だけだった。
「師匠」
すべての明かりが落とされた、ちょうど姉妹がいるであろう部屋。フランドールの私室にやっと着いたときそれは突然に止んだ。何かを察したらしい永琳が私を片腕で制しつつ、両開きの戸を引いて閉めた。その一瞬後になって私はその意図を知る。