修正するかもしれません。
ほんのかすかに部屋から漏れ出た短い呻き声がフランドールのものだと直感した。それはなにか、レミリアと二人だけで交わされた承諾の意であろうと推測された。その直後から声に代わり聞こえてくる如何とも名状しがたい音、そう鳴るような何かをフランドールに対し為すならば、本人が肯かなければきっとここに叫喚が加わっていたろうからだ。
潰されている。扉が閉まる前に見た抱擁からそのまま「抱き締め」たのだろうか。考えられる限りのひどい死を踏んできたつもりでいたにもかかわらず、私はそれを見ずとも音によってすっかり気圧されて、永琳の腕の中にすがっている。
スプラッター映画のように派手な音はしないのだなと、脱力し永琳の腕に支えられることでかろうじて立っている体とは裏腹に、極めて落ち着いて、あるいは防衛機制の乖離として、単にそう思った。枯れ枝の山を踏みつけたら近い音が出るだろうか。それに加えて少しだけ、質量のある液体が床に向かって泣いている。
「今までのフランドールは死んだのよ」
フランドールのやり直し。吸血鬼という異質の不死と知恵の神との「人智を超えた」会話から、その意味するところをなんとなく推測できた。しかし地を駆ける定命の兎にとって自らの根源を脅かしかねないもので、あまりにも恐ろしく、薄々勘づきながらも考えることをやめていた。そう遠くないうちに見せつけられるだろうことにも気づいていながら、やり直しの何たるかを、知ろうとしなかった。
視信号のアンプリファイアを使う気になれなかった。闇を闇のままでおかねばならないときもある。レミリアを取り囲み蠢く滑らかで均質な血肉、それを守るものを暴くは、それが忌み嫌われる穢れの類であったとしても憚られた。この場に二人ただ立っている今でさえ、生の神秘に僅かにでも好奇を向ける自分のなんと恥多きことかとして、しかと立ってはいられなかった。
<餐(の)め>
知らない言語だ。ただレミリアが自分に絡みつく血肉に呼びかけていることはわかる。それを聞き届けてから彼女は腹を上にして横たわった。押し倒されたようにも見え、そうであれば呼応した血肉の動きに身を任せているととれた。
<フランドール>
血肉はレミリアの首から下をすっかり覆い尽くしたとき、意思を失った。生のないただの水のように血は重力に従って床へ広がっていく。
「!!!」
不定形であったはずの血肉から血が離れ、レミリアに重なる人型の肉が現れた。疑いない。暗闇の血の切れ間より覗く肌は見逃しようもなく明らかにある。
<覚えてる? あなたの名前>
<私を殺したの? なら、お姉様の記憶のほうが遠いわ。私の名前、覚えてるの? ふふ>
死なずの鬼たるその所以、血に生まれ血に還る。血の巡る限りが命の限り。
「……」
「これが、月の嫌う穢れ。この二人が穢れているだなんて、本当にそう思う?」
師匠はいやに満足げだった。いつになく輝いた目で奥の暗闇を射貫いている。
「師匠に衆生みたいな感性があったことのほうが衝撃かも」
「神って生きてるのよ。だから黄泉にあれがいる」
恐ろしい、とても姉妹の再会とは思えない形相で、レミリアは仰向けに、ただ息をしている。フランドールはそんな姉から興味を失ったらしく、闇を見渡して、私を見つけた。
「……初めまして」
「初めましてではないんでしょう」
彼女を抱えようと延べた腕が固まった。胸の奥底から湧き出すままに叫び散らしていたあのフランドールの声だとはとても信じられない、穏やかな声だった。その声のニュアンスを、私はとても拾いきれなかった。自分ひとり経験を殺されたらしいとあれば寂しかろうし、寂しさを知っていながら自分を手にかけた姉には、如何様な感情を向けていてもおかしくない。
「どうしたの」
「……ごめんなさい。なんでもない。なんでもないです」
膝と背中に手を差し入れて、まっすぐ立ち上がった。闇と溶け合い私の目から隠れていたあの肌が、今目の前に、乾き始めたなまぐさが直接鼻を貫くほどの距離にある。
「ふふ。血みどろのお姫様抱っこ」
まるで死体である。惨殺体である。少なくとも数十秒前まで惨殺体であった。今はその姿を取り戻したものの、未だ本体に同化しきらない血肉を纏い、その重さの肉のように、少しも力を入れず、あるがままである。在るがままに、在る。肉は生きていない。今を生きていないものは、抱き上げたその腕の隙間から流れ落ちていく。水袋とさして変わらない。違うことといえばそうだ、肉はその前に命があって、死を経ている。それが水袋とは違う。十歳前後の肉でなければ零していた。
「死体が喋ってる。ふふ。さっき死んだのかな? 私」
死体を抱くのは今も馴れない。むしろこれが自分にとって初めてのそれであったら、上の空のまま、良く言えば落ち着いて、フランドールを死体と重ねて見ることもなく、彼女を抱けただろう。自分は月で穢れに触れすぎた。今はそうでもない。師匠は(表向き)薬師だし、この星の大地も海も、何か死ねば何をせずともそこに染み込んでいく。
上の空できられなくとも今のところ取り乱さずいられるのは、たぶんフランドールが、私が月で抱いてこなかった体躯であり、彼女を覆うものが一枚の布でさえも存在しないからだ。私は死体の服に染みた冷たい体液に耐えられない。
「死体を運び慣れてるのね、貴方…… 普通はこんな姿勢で抱え上げることもできないでしょう」
これに応えたのはレミリアだった。脚を崩し片腕を床につけたまま、ただ茫然自失でいたわけではなかった。
「お前は死んでない!」
その後にその部屋で、言葉を続ける者はなかった。姉本人でさえ続けることはなく、妹への無力を思い出してか、立てていた腕を畳み、床に伏して、妹の残りを握り締め、すすり泣くのみであった。
「……ねえ」
私はまたも怯えた。妖精さえも見かけなくなった廊下でのことだった。フランドールが、私の知るフランドールらしい、生きた声で私に呼びかけた。彼女もまた怯えていた。
「なに」
「何を着てるの? その、耳…… 耳はわかるんだけれど、その服はなに?」
生者らしく身じろぎもした。生者らしく身体を強張らせて、幾分抱きやすい。いつの記憶にフランドールが生きているか知らないが、自分の血をべったり塗りつけてひたひたにしたとしても、見慣れないワイシャツが自分を包み込んでいることには、いや自分に押しつけられていることには、怯えるようだった。
「遠いところの服」
今度は少し力を抜いた。肌よりも鮮やかな、私と同じ紅い目で、酸化されくすみ始めたシャツをじっと見ている。
「ふうん…… どこから来たの」
「月」
「月? その…… ブローチかな。ニンジンは月でも育つのね」
ネクタイピンのことだろう。彼女を抱え上げたとき上にずれたので、彼女の脇腹のあたりにちょうど乗っかって見える。
「これは地球の」
「月と地球のを合わせたにしては違和感が少ないのね…… あんまりセンスは変わんないのかな」
怒濤の質面攻めに遭っている中で浴場に着いた。中から二、三人の声がする。構わず引き戸を開けると、その声の主らしい妖精たちが三人、突然静まりかえり、広い浴槽の隅に固まってしまった。
スカートが短くてよかった。膝を立てれば服のどこも濡れなそうだ。脱衣場の入り口で革靴にしたように、器用に足だけで靴下を脱ぎ捨てて、フランドールを浴槽の横に下ろす。
「動ける?」
片手をついて起き上がり、浴槽の縁にもたれかかった。寝起きのような状態だと思っていいのだろうか。いやばらばらの肉体が集まって意識が目覚めたのではなく芽生えたと考えるのが自然だから、睡眠ではなく麻酔の影響下から覚醒したときの方が、彼女の状態により近いだろう。まあ、二者の違いは、主観では大きな個体差があるから、これ以上のことは何も言えまい。師匠はこの問いに答えてくれるだろうか?
……今更ながらここで『怪我人』の血を流すことに抵抗を覚える。永遠亭の外じゃ水場そのものが貴重だから仕方ないのだが、いつ乾かしたかもわからない風呂場じゃ、本当は傷を洗いたくないのだ。師匠はそれを承知で私のこの任を許したのだろうが……
そう考える間に、私についたフランドールの血液が薄まっていることに気づいた。見ていると少しずつ、まるで水が乾くようにして空気中へ文字通り霧散していく。体外に取り残された体液さえも、本人のコントロールの下にある。これが紅霧である。
この超人を風呂に入れる意味とはなんなのだろうか。
「あの」
数秒の間だけ固まっていた私をフランドールは訝しみ、さらにその奥で、私を呼ぶ声がした。それは隅で怯えていた哀れな先客の妖精であった。この中で自分を含めた誰が一番怯えているかは実際にはわからなかったが、その内の誰もこれ以上に怯える必要はない。そう思って精一杯、余裕のなさを隠しつつ返事をする。
「ん」
「えっと…… 湯船、使ってください。よくここで…… 怪我、洗ってるから。その人」
言って妖精たちは連なって湯から上がり、遠巻きに浴場を出ていった。それをフランドールが不思議そうに、口を半開きにして見つめている。
「そんなことしてたの? 私」
「らしいね。抵抗ある?」
「いいえ」
自力で這いつくばるようにして湯船の縁をつたい、フランドールは湯に身を投げた。そのしぶきがなまぐさい。
「水は平気なの?」
「水で弱るのはどんな地上の生き物も一緒」
投げたその身はまたもや死体のように、水面にぷかぷか浮いている。仰向けでなければ本当に心配して引き上げるところだ。器用に浮かんだ身体から、赤黒い錆が湯に溶け出している。触手のように方々に延びる長い髪からさらにそれが細い筋を形作りながら滲み出している。放っておけばフランドールの全てが溶けきって、湯とすっかり同化してしまいそうなくらいに濃く。
そして姿を現した。どろどろの血肉に隠れていた肌が。今までの喧噪をつゆほども知らないという顔をした、隅の隅までぴんと張り詰めた青白い表皮が。悪魔とは、その本質たる飽くなき物質的快楽の追求のために、かくも美しい。
「これが、悪魔」
フランドールが呟いた。仰向けに、どこを見るでもなくただ顔を浮かべて。
「何度死んでも、知らない祖先のせいでこの世界に蘇る」
静かに耳を傾けた。応じるべきか、どう応じるか、わからなかったから。
「百八回目。私の目に全部刻まれてるの。死ぬ前と今の私を繋ぐのはその数字だけ…… 本当にそうかしら」
ため息をついて、身体が水面下に沈みかける。吸い直してその薄い胸板が再び浮き上がると、また口を開いた。
「助けて」
しゃくり上げかけて狭まった喉からそんな言葉が飛び出した。初め意味がわからなかった。そしてその次には、私は迷った。悪魔として唆しているのか、それともフランドールは本当に、心から、そう呟いたのか?
どちらだっていい。そもそもこの二者は不可分であるのかもしれない。そのすぐ後に、私はまたも迷った。ここで彼女の身体を湯から抱き上げたら、それは救済の隠喩となり、フランドールは私を掴んで離しやしないだろうか?
頭はこうして迷っていた。しかし身体は頭を差し置いて、シャツの濡れるのも構わず彼女の柔肌をしかと受け止めていた。
誘惑とは、無意識に惹き、また惹かれるものであった。
「……」
流れ切らぬ髪からいまだわずかな鮮血が滲んでいる。それが何を濡らすかなど気にする者はいない。湯船より引き上げられたフランドールはその身体を私の方に倒してみせた。
「……もう、何に辛いのかもわからないの」
細い腕を私の背にまわし、妖らしからぬ、少女らしい、弱々しい力で締めている。ここまで密着して、鼻をつくのは錆だけである。
思わず後ろに手をついた。体重に比べて事が重すぎる。彼女の背負うものがなんであれ、とても私の手に負えるように思えない。
「……ごめんなさい。初対面なのに…… もう少しだけ一緒にいさせて」
誘惑を疑った自分を恥じた。これは彼女の切望である。他に何の意図もない、ただ弱みを人に曝したいのだ。
それでも私は怖じ気づいている。彼女の身体から水滴が私の方へ浸みるたび、私はフランドールという悪魔の口に飲まれていくような感覚に襲われて、叫びそうになる。
私はこのフランドールの過去、本人にとってつい先刻までのことを知らない。フランドールは私のことを、フランドール自身が蘇る前のことを、知らない。私たちは互いにちょうど交差して、すっかりそれぞれの世界に生きている。そんな状態でこうすることで交換できるものはなんだ?
フランドールが起き上がった。押し倒した私の身体から離れ、石畳に片腕をついている。黙って床を見つめていたかと思うと、顔を上げ、口を開いた。
「言ってみたかっただけなの。ここの人じゃない人に…… 今回は何か変わるかもって。変わらなかったから今の私があるんだものね…… もしかしたら毎回言ってるのかもしれない。私。えへへ」
声が震えている。記憶のないフランドールその本人でさえ、幾度ものやり直しに絶望していた。
何も言えない。何を言っても無責任か白々しく響くことは間違いない。彼女もそれをわかっていて、私に沈黙を許しているのだろう。そう感じさせる思慮深さが、鬱屈とした彼女の振る舞いの裏に見える。
「服汚しちゃった」
「いいの」
「ありがと。もう一人でできるわ」
「そう」
脱衣場にいつの間にか着替えが用意されていた。彼女といえばの、あのドレスである。何着あるんだ?
戸を開けて廊下へ出ると永琳が出待ちしていた。この苦労を、びしょびしょの服に表れた心労をつゆ知らず、いつものアルカイックスマイルで佇んでいる。
「どうかしら。新しいというか、ロールバックした彼女は」
戸を閉めて、そこに背を預けつつ、崩れ落ちた。思い返してみれば白昼夢のようであった。上の空でいるかとか、フランドールが服を着ていたらとてもいられないとか、そんなことを考えて今の自分が正気でいるかどうかを観察することは、何の意味も持たなかった。イカれてる。館にいる知的存在の全てがイカれてる。それに気づいた私は、館の中とも外ともまた違う方向にイカれていく。ここで起きている何もかもが受け容れられない。
「うどんげ」
久々に師匠が私の名を口にした。なんらの応答を忘れて一点を見つめる私を認めると、永琳は私の脇を抱えて廊下を歩き出した。その頃には血も『乾い』ていて、服を濡らすものは水だけだった。
「もうわけわかんない…… 何もできない。したくないです。師匠」
「アドレナリンが切れただけよ。切れてるうちによく咀嚼しなさい」
何を言いたいのかよくわからない。少なくとも今はまだ、咀嚼が何を表すにせよ、それをできるとは思わない。
「師匠…… どこ向かってますか」
「客間。一旦みんなから距離をとって、次に備えましょう」
「嫌だ! ……もうここにいたくないです! もうなんにもできないんだから!」
「お姉さんはあんなこと言ってるけど、まだ私たちに希望を持っているの。もう私たちしかいないとさえ思ってる。彼女が絶望するか、本当に事態が変わるまでは、できることをしなくちゃ」
「私怖い! あんな…… あんな全部気がふれたとこに戻りたくない! ……全部一人でできるくせに…… 私には荷が重すぎる」
麻のソファに横たわった。枕としてはこのクッションはどう置いても具合が悪いが、ベッドにしては仰々しく他人行儀すぎるここのベッドでは、余計に眠れる気がしない。別に眠れなくてもいい、まずは頭を冷やしたかった。
「……わけわかんない。みんなわけもわかんないで自分のやりたいことをあの子にやってるだけじゃないの」
自分自身もわけがわからないで勝手に敵を作り、やり場のない困惑をぶつけようとしているだけなのかもしれない。実際の問題がなんなのかさえ見失っている気がする。
「みんなフランドールのほうをきちんと向いているわ。ただ彼女に対する見方がそれぞれ違うだけ」
「そうなら師匠の出番はないでしょう。郷の薬じゃどうにもならない」
永琳はその力を郷のために使わない。既に郷にあるものを、郷のやり方で、ただの一人の薬師として作るだけである。行きすぎた力を与えてはらないとのことだ。
「……それを、師匠は伝えるんですか? どうにもならないって?」
そちらを見やる。永琳は口の片方をきつく結び下げてみせた。一人がけのソファに深く腰掛けて、天井を見上げたまま。