下山中に足を滑らせた少年が何かを見たようです。

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その1

 

「っ......落ちる」

 

そう呟いたのは、靴底が濡れた砕石を砕いて音を鳴らしたのと同時だった。下山の途中に大雨だ、運がなかったのか僕が愚かだったのか、考える時間のなかった僕はただ目を閉じて悔やんだ。

 


 

 

顔を打つ雨が冷たい。

 

あとどれくらいで死ぬかわからないが、どうせ死ぬならそんな時間はわかりたくもない。

どうせ地面に叩きつけられるんだから、このまませめて何も考えずに死にたいと思った。

 

 

「ぅ...なんで、誰?」

 

辺りに感じた僅かな違和感で反射的に開いた目は、私の思考を一瞬で停止させる情景を映し出していた。凹凸のガケから伸びる太い枝、それを掴む自分の右腕、それを数十センチ上の地面から眺める半ズボンの女の子。

しかしそこは大雨のせいで鋭い岩肌が剥き出しになり、そこに立っているのでさえも極めて難しいはずの斜面だ。彼女は乱れた灰色の世界に淡い輪郭を映し出して、僕の手を見下ろし、そこに屈みながら話し始めた。

 

 

「あなたは、今までどう生きてきましたか?」

 

最初はその質問の意味がわからなかった。幽霊?走馬灯?それとも普通の女の子?その質問の意図を掴もうと、思考をロールバックする僕を置き去りに、彼女はもう一つの言葉を放った。

 

 

「未練はなんですか?」

 

何を答えるべきかわからない、この子と会うのが初めてではないような気が、目の前の質問から僕の思考を遠ざける。

それでも僕はこの子を覚えていない。もし覚えていないなら、それは僕が思い出せない何かだという事。雨が流れ込んでくる口を開けながら、力を振り絞って彼女に伝える。

 

 

「貴女は...誰ですか?」

 

岩肌は、厚い雨の膜で覆われている。大粒の雨はその表面に波紋を作りながら、当たる全てをゆっくりと飲み込んで行く。僕の身体と彼女の身体も、その中に同じく存在する物だった。

冷たい岩肌のように動じず、やがて雨水の膜に覆われていく彼女は、まるで無機質な人形になってしまったかのように見える。

 

 

「死ぬ気分は、どうですか?」

 

雨粒の重さに耐えられなかった花びらが一枚、風とともに崖へ落ちていく。

僕の返答なんて本当はどうでもいいかのように、彼女は質問を続ける。

必死に喋るために息を吸おうとするが、雨が口を遮って息が吸えない。ゆっくり下を向きたくても、いま彼女から目を離したらもう二度と会えないような気がした。

 

 

「どうやって上に、あがりますか?」

 

やがて昏い遠くの雲空が閃光に照らされ、山の向こうから雷の音がこだました。それはすぐ側のはずなのに、彼女との間はまるで数光年先の星を見ているかのように遠く感じる。

頭が遠のいていく感覚は酸欠による物なのか、この感情による物なのか。

ほんの少しでも登れば彼女の足下に届きそうなのに、震える手は何処も掴むことが、もう出来なかった。

 

 

それから土砂降りは続き、彼女は僕の視界から消えるまで無言でこちらを見つめていた。それはまるで、僕が落ちるのを待っているかのように。

 


 

 

僕は落ち始めた事にも気付かなかった。

やがて冷えたはずの身体から力が抜け、茹だるような無重力の中で曇天を見つめる。ただ死ぬまでの空しい時間が少し長くなった、それだけの事だった。

 

彼女は、いつかの夢に出てきたのか、本当は同じ時間を過ごした大切な何かだったのか。

或いは雨のかき立てる幻想が見せた、一瞬の幻だったかもしれない。

 

あぁ、僕はそもそも、枝を掴んでいたんだろうか    


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