木々の高さを見ると、その森の年齢がわかる。幾星霜にもつもった歳月がその森を高く、深く鬱蒼とした森へと成熟させていく。息を吐くと、重たくて澄んだ空気が肺を満たす。
随分と軽くなってしまった籠をおろす。苔むした岩に腰を落ち着けて、水を含んだ。
「久方ぶり、じゃなぁ」
なにぶん歩き通しで、流石に化け物の身でも堪えるものがある。ちょっとした人里への散歩から、ここに戻ってくるまで随分とかかったものだ。と独りごちる。編んで貰った蓑も笠もよろけたものだ。と何も積もってもいないのに手で払う。
啄木鳥(きつつき)が遠くで、こつんこつんと音を立てているのが聞こえてきていた。木漏れ日がぽつぽつと降りてきて、根の這ったごつごつとした獣道にまだらを彩る。変わったようで変わらぬ古巣への道が、ずっと先まで伸びていた。
今一度伸びをして、また籠を背負う。
「さぁ、行こうか。あなた様」
羽虫が顔にたかるのを払いつつ、また奥へ奥へと踏み入れていく。
始めは物見遊山であった。人が山を開いて村を起こしたというのだから、気になるのもまた鬼の性。人に化けては、市に紛れ込んで様子をちょくちょくと見に行っていた。喧噪、値切り、罵声。五月蠅くもあり、醜さもあった。ただ、山奥に庵を構え一人で生活を送る「私」にとって、それは魅力的なものに映っていた。
姿をころころと変え、日を置いては市や祭りに潜り込む日々、媼、翁、わっぱ、青年、美女。どれもこれも工夫を凝らしては人に化けていた。山花の飾り、檜の簪、くちなしの紅、夕化粧のおしろい、美女に化けるには工夫がいる。飽きては姿を変える、そんな日々。
ある日、美女に化け、祭りを回遊した日。ある青年に呼び止められ、抱きすくめられた。曰く、俺の女にならないか? とのことだったので、面白がってはその男に跨った。
口吸いをし、手を絡める。随分と忘れていた熱と、欲が緋の色を帯びて接触部分を増やしていく。それは瑞々しくも新鮮な青き果実を齧るような経験であり。自然と互いに夢中に貪っていた。
そこからはあれよあれよという間に、住む場所が変わり、名前が増え、姿が変わらなくなった。
旦那の帰りを待つようになり、畑仕事に精を出し、そして夜を営んだ。子を為すことは当たり前のようになかったが、それはそれとして穏やかで退屈の無い日々だった。
私を娶った旦那が元気である間は。
年輪を見れば、その木々の歳もわかる。だんだんと太くなり知見を蓄えて
だのに、あなたは細くなり、枯れていく一方だった。
そなたの手の厚みも、手のひらを包んだ体温も、年頃の籠った情熱も、折れさせた情愛も、私の身を好き勝手に滅茶苦茶にした夜も、全て全て残っている。
浅黒く骨太で逞しいその御身。私の伴侶としてこの上なく、ふさわしかった。
それなのに、あなたは裏切った。
気が狂いそうなくらいの情熱を注いできたくせに。途方も無く長いこの生に、あなたが火を灯したのに。
老いるのが早すぎる。流行り病になり血を吐いたとき、枯れ木のような腕で私を抱きすくめた時、その力がかつての面影もなかったとき。
私はそれらを許容など出来なかった。
焼け焦げた村を背に「籠」を背負って歩きだす。
もうおそらくは訪れることもないだろうと、目印であった大樹を一瞥し、山を目指した。
カサカサと草を踏み分けて、ゆらりゆらりと庵に辿り着く。
前にも増してみずぼらしく見えるのも、ここ数年の記憶のせいだと思うと、なんともまぁやるせない。
人を裂き、踏みつけ、悲鳴を聞いたことで多少は気が晴れてはいたが、それでもなお足りぬものがあった。
「だから、今からそなたを喰らおうと思う」
ことり、と籠を置く。やはり随分と軽くなっている。蛆にでも取られたかと思うと、それすらも腹が立つ。此れは私のモノだ。旦那であり、最初で最後の伴侶だ。
だから、いつものように口吸いから始める。初めて出会った夜のように情を注ぎ、返される波を楽しむ。ひとつ、ひとつ、丁寧に、ほどくように、溶かすように、それらをまぐわい、交わっていく。
そういえば、と今更になって思う。要らぬから燃やしてしまったがそろそろ赤茄子(とまと)が生える頃だったことを思い出した。ぷっくりとした赤い実に、溢れ出る果汁。それだけは何とも勿体ない事をしたな、と惜しく思う。あれはあれで美味なものだった。
遠くでは、松明の揺らぎと鬨が反響する中、ただ黙々とその果実を齧り、啜る。
それはこの上なく甘美で、極上の閨。きっとこれが最後の二人の夜。
「願わくば、ずっと……そなたと」
左手首を右手でぎゅっと握り、口へと運ぶ。
「おやすみ。……いい夜を」
頬に伝う何かを、口の周りと共に舐めとる。
足音が、すぐそこまで来ていた。