空と君のあいだに   作:苗根杏

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-3.Ever lasting lie

「いただきまーす!」

「どうぞ」

 

 東京のカフェを切り盛りする店主の中では一番ダンディであろう声で、『財部 庵廿郎(たからべ-あんじゅうろう)』は、手を合わせる月夜美を見ながら皿を洗う。

 

 彼の経営するカフェ『シェリー』は、今日も学生たちで大賑わい。

 

 学生に合わせた値段設定とボリュームで料理を提供したいという庵廿郎の願い、そして基本的に何でも作ることが出来るという彼自身の類稀なる料理の腕によって、この店は大体、毎日繁盛している。

 

 月夜美は、いつもこの『シェリー』で頼む、庵廿郎特製のスパイスの効いた麻婆豆腐に加え、醤油ラーメンと餃子、レバニラにチャーハンを頼み、軽い満漢全席を作って、それをバクバクと食べていた。

 

 噛み、啜り、頬張りを繰り返し、飲み込む。

 

「庵廿郎さん、今日も美味しいですっ!」

「ありがとう」

 

 亀仙人が勝ち取った天下一武道会の賞金のほとんどを使った悟空の食事を思い出していた庵廿郎は、月夜美の方を向いて笑う。

 

 この店は庵廿郎のワンオペであるが、月夜美がとんでもない量の食事を一気にすることは知っているし、彼女の食べる時の笑顔が素敵であることもまた知っている。

 

 そのため庵廿郎は、月夜美がどんな料理を頼んでこようと、どんなに多い量を頼んでこようが、面倒だなんて思わない。

 

 もちろん、他の客に対しても思うことはないが。財部庵廿郎はこの道17年。このくらいはとっくのとうに慣れているのだ。

 

「庵廿郎さん! チャーハンおかわり!」

「いつもの事と言えばそうだが……なんだか今日は、やけに食うじゃあないか」

「美味しいからですよっ」

 

 食べた栄養は、未だに伸びる身長と、スレンダー体型と比べるとより太く見える天性の太さの腿に全て行くので、月夜美は太ることなど気にせずに次々と料理を平らげていく。

 

 彼女がこうして、いつにも増して暴飲暴食をしているのは、半ば自分に喝を入れるためである。

 

 先日の夜、進のもとで働きたいと申し出た時に、時計が直ったら面接をすると言われた月夜美。彼女は今、その面接のための勉強が長続きしている。

 

 続いているなら喝を入れる必要などない、などと言うのは初心者の発想である。死戻月夜美という人間は、乗れる調子の全てに乗る。

 

 なので、頑張ったあとはこうしてご褒美を与え、あれだけご褒美を自分に与えたのだからもっと頑張ろうという特殊な喝の与え方を、月夜美はこの20年で覚えたのだ。

 

 そんなに自己分析が出来ていながら、未だにお調子者で真っ直ぐすぎる性格が治らない理由は、彼女自身にも分からない。

 

 月夜美が机の上にある料理を食べ切りそうな時、また新しい客が来店する。

 

「いらっしゃい……お、香澄か」

「こんにちはー!」

「香澄ちゃん! 久しぶり!」

「あっ! 月夜美さん!」

 

 この店に幼少期から通っている、戸山香澄。半年ほど通いつめている月夜美とは、既に顔見知りどころか、友達のような関係である。

 

「えへへ、また会いましたねっ」

「ね〜。あ、そろそろ高校生になるんだよね?」

「はい! 入れたら花咲川に行けるんですよっ」

 

 花咲川女子学園。香澄の妹は既にそこの中等部に通っているが、香澄自身は他の中学校から花咲川の高等部に受験しようとしている。

 

 理由はひとつ。『制服が可愛いから』である。高校の制服とは、週のうち5/7という日数着るユニフォーム。

 

 そんな中、モチベーション維持のためにも、制服の可愛さというのは、割とバカにできない受験理由である。

 

 月夜美も故郷(くに)にいた時、セーラー服の高校しか受験しないと親に断固として抗議していたことを思い出す。

 

「新生活かあ」

 

 そう口に出してつぶやく月夜美は、残りひと口分のチャーハン──彼女にとってはの話。普通の人にとってはふた口分である──をレンゲに残して頬杖をつく。

 

 彼女はラーメンのスープを少しすすり、香澄に問う。

 

「年下にこんなこと聞くのもなんだけどさー」

「なんですか?」

「どうしても忘れられない恋愛ってある?」

「……えっ?」

 

 突然の恋愛相談的質問に、香澄は面食らったように固まってしまう。

 

 庵廿郎も、そんな言葉が月夜美から出てくるとは思っていなかったようで、赤ウインナーを炒めつつ、髭をこすって月夜美を見る。

 

「どうしたんだい、珍しい。そんな物憂げな顔をして、恋の話なんて」

「私だって一人の乙女ですから。そりゃあ一目惚れのひとつやふたつくらいしますよ」

「そうか。一目惚れだったんだな」

「あっ」

 

 別に掘ってほしくもない墓穴を勝手に掘った月夜美を見て、庵廿郎は思わず意地悪っぽい笑みを浮かべてしまう。

 

「ああ〜っ、自分が嫌になりそう」

 

 珍しく自己嫌悪っぽいセリフを口にする月夜美を、2人は少し心配気味に見る。

 

「正直ですねえ……」

「香澄は人のことを言えないと思うがね」

 

 なんだか失礼なことを言われたがそれに気づかない香澄は、出された赤ウインナー付きオムライスを食べながら考える。

 

「私は特にないかなあ。恋愛……ピンと来ないっていうか。ふだん女子校にいるから、出会いがないのかも」

「うぅ〜、私だってどうしたらいいか分かんないよう」

 

 頭を抱える月夜美と、いまいち恋愛という概念そのものにピンと来ていない香澄に、庵廿郎はサービスのコーラを出して言う。

 

「私にも話してごらん。これでもそれなりに、酸いも甘いも味わってきたつもりだ」

「わ、私も! 分からないなりに頑張って考えますっ。社会勉強の一環として!」

 

 月夜美は、ぽつぽつと自分のことを話し始めた。突然来た時計修理の人に惚れてしまったこと、アルバイトもなかなか見つからなかったこと。

 

 そして、好きな人に対してどうやって接したらいいか分からないこと。

 

 月夜美の話を聞き、2人は深く頷く。

 

「なるほど、そういう一目惚れがあったんですね」

「……26で店主。何かワケありな匂いがするが」

「ん〜、やっぱりそんな感じありますよね」

 

 あの日、縁側で自分の過去を少しだけ話してくれた進の顔には、少しだけ陰りがあったように月夜美には思えた。

 

 案外、庵廿郎の言っていることも外れていないかもしれない。そう思う月夜美に、彼は苦笑いをして話す。

 

「まあ、私も18でこの店を開いたんだがね」

「え!? そうなんですか!?」

 

 洗った皿を拭くその手には、生傷や赤切れが少し見える。

 

「一から自分で開いたんだっけ」

「ああ。元から料理で人を笑顔にしたかったんだ」

 

 庵廿郎はそう答え、少し考えてから月夜美の方を見て言う。

 

「時計っていうのは、生活に欠かせないものだ。それを直したり、売ったりして、その人もお客さんを笑顔にしたかったから開いたのかもな……」

 

 あの人にどんな事情があるのかは分からない。でも、そんなふうに思って時計屋をやっているんだとしたら、あの少し不器用な笑顔も、時計を修理する腕も、お客さんのためを思って身につけたのだ。

 

 なんと愛しいことだろう、と月夜美は残りのチャーハンを咀嚼して飲み込み、口の端に米粒をつけたままで目を細める。そして、遠い方を見るように顔を上げて言う。

 

「……ステキ」

「あっ、乙女な顔になってますよ月夜美さん」

「えぇ〜!? やだあ、もうっ! チャーシュー丼ください!」

「はいよ」

 

 香澄は、腕を組んで思案する。月夜美のために、真剣に。

 

「どうやったらくっつけるんだろうなあ」

「アタックの仕方は私も分からないが……最初のうちはとにかく押すことだ」

 

 はっと思いついた香澄は、立ち上がってカウンター越しに庵廿郎に顔を近づけて言う。

 

「マスター、好き」

「……このように、直接言葉にするのは効果的だ」

「ねえねえ、どうっ? ドキドキした?」

「いや、まあ……そうだな。したよ、した」

「んへへぇ」

 

 軽くあしらう庵廿郎に反して、香澄は本気で顔を赤くし、その頬をおさえ、胸のうるさい鼓動に耐えかねて顔がくしゃっとなっている。

 

 なんだ、香澄ちゃんも知ってるんじゃん。と、月夜美は心の中でつぶやいた。

 

 家路につき、パンダハウスに帰ってきた月夜美は、うなだれながら自分の部屋に戻ろうとする。

 

「うぁあ〜っ、なんか自分が子供っぽく思える〜……」

 

 今日は進の来ない日。今日みたいな日に彼がいれば、『私は寂しいんです』的な勢いでアタックできたというのに、と月夜美はため息をつく。

 

 中身がスカスカになった時計を見つめていると、左の方、縁側から声がした。

 

 行ってみると、スケッチブックを持ちながら香夜の話を聞いている麻美がいた。

 

 鼻息は荒く、目は大きく見開かれていたが、月夜美の存在を確認した瞬間に、それらは大人しくなり萎縮する。

 

「あっ、香夜さん……と?」

「……ども」

「麻美さんだ。珍しい」

 

 何故ふたりがいるのかと聞いてみると、どうやら現実の恋愛経験に乏しい麻美が、香夜に恋愛について教えてもらおうと自ら志願してきたらしい。

 

 それも、彼女が冬の大規模な即売会に向けて描いている同人誌ではなく、賞に応募するような漫画のために。

 

「大人なお姉さんが教えてあげてるのよ、恋のイロハってのを」

「これが本当にためになるんですよ……へへ……捗るっ……」

 

 ニヤケながら、麻美はシャーペンをスケッチブックに打ち付けている。月夜美は会話に身が入らないまま、なんとなく麻美に聞く。

 

「それ、見てもいいですか?」

「あっはい、下書きでよければ」

 

 麻美の貸したスケッチブックに描かれていた絵は、一言で言えば線が多かった。下書きだからというのもあるが、全体的にディティールが細かい。

 

 そこに、シャーペンか鉛筆かを寝かせてつけたのか、白黒ながらも淡い色がのっている。

 

 月夜美の素人目から見れば、もはやプロ級の絵だった。これを週刊連載でやろうとしたら、確実に骨が折れる。比喩表現ではなく、腕とか背中とか腰とかの骨が。

 

「……なんか、思ってたよりも芸術的っていうか、油彩画みたいですね」

「こ、こんな綺麗な作画で描かれた子たちがイチャイチャしてるのって……なんか、良くないですか……っ?」

 

 飾らない月夜美の言葉も深読みすることなく、滾った麻美はふんふんと鼻息を荒くして答える。長い前髪の隙間から、キラキラと輝く目がのぞく。

 

「ああ、ギャップ萌え的なものですか?」

「そうですっ、そうです! 話が分かりますねえっ」

 

 ページを幾つかめくっていると、月夜美は、とりわけ繊細に描かれたセーラー服の女の子どうしがキスをしている絵を見つけた。

 

「……いいなあ……」

 

 月夜美は、それを見て、自分と進もこうやってくっつくことができるのだろうかと思ってしまった。

 

 絵の上手さは確かだ、それに魅入られもする。しかし、今の自分には邪念が多すぎる。月夜美は「ありがとうございます」と返す。

 

「恋愛……か」

「どうしたの月夜美ちゃん、そんな顔しちゃって」

「……ううん、なんでもないです」

 

 そう言って去っていく月夜美の背中を、麻美はビクビクしながら見ていた。

 

「私の画風……地雷でしたかね? なんか……試し読みして買われなかった気分です……」

 

 そんな麻美の肩を、香夜は微笑みながら撫でて言う。

 

「いや、この絵には確かに感心してたけど……あの子、今はちょっと恋愛で悩んでるのよ。何か思い出しちゃったのかも」

「な、何か嫌な思いさせてませんかね……?」

「きっと大丈夫。あの子、今はあんなだけど、本当に強いのよ」

 

 階段を上がる月夜美の背中は、いつもより少しだけ丸まっていた。

 

「はあっ」

 

 部屋につくなり、月夜美はタバコに火をつける。この前まで2日に1回吸うだけだったのに、今では1日に5本吸うようになってしまった。

 

 このくらいは普通だと空飛夢は言っているが、あの人の倫理観はアテにならないと月夜美は不安がちに灰を落とす。

 

 そのうち、月夜美のいる6号室のドアを、誰かが叩く。

 

「いますかー」

「はぁい」

 

 またまた身の入らない返事をして、月夜美は半分くらい吸ったタバコを消してドアを開ける。

 

 そこには、4号室の住人である海城穣がいた。

 

「みのりんだ」

「みのりんやめてね」

 

 せめて城と穣、じょうとじょうで並んでるんだからジョジョって呼んでくれたらいいのに。などと穣は考えつつ、足元に置いてあった小さいダンボールを月夜美に渡す。

 

「実家から野菜届いたから、あげますよ」

「ホントにっ!?」

 

 月夜美がダンボールを開けると、そこにはかぼちゃやレンコンやが入っている。秋の旬の野菜だ。

 

 自炊もそこそこする月夜美にとって、こういった野菜が手に入るのはかなり有難い。

 

「いいの!? ありがとうっ、愛してる!」

 

 ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶ月夜美を見て、穣はニヤニヤしながら腕を組んで言う。

 

「愛してるのはあの人でしょう」

 

 月夜美はとたんに硬直し、その場にへたり込む。「もう広まってるんだ……」と力なくつぶやき、穣を見上げると、彼は呆れたように腰に手を当てて言う。

 

「いや、あんだけメロメロな目で見てたらバレますよ」

 

 そういえばこの人は、私が一目惚れをしたあの場に、途中からではあるが立ち会っていたし、好きだという事もあの後の飲み会で聞いていたんだっけな。と、月夜美は朧気な記憶を甦らせる。

 

「それはそうと……『それ』、本当は少しだけ遅らせた方が良かったかも、とか思ったんですけど……それはそれでっていうか。野菜じゃあなー、って」

 

 苦笑する穣は、頭をかきながら、少し恥ずかしそうに言う。

 

 それを聞いた月夜美は、「ん? どういう事?」と、きょとんとしながら返す。穣はそんな彼女を見て驚きつつも、仕方ないかとドアノブを握る。

 

「……なんでもないです。じゃ、月夜美さん。美味しく食べてください」

「もちろんっ! えへへ」

 

 ドアが閉められ、月夜美は再び1人になる。野菜を冷蔵庫にしまい、彼女は半分ほど残っているシケモクを吸いきる。

 

 火を消した後に、自分の頬を両手で叩き、押忍とばかりに拳を腰の横に持ってきて、気分を持ち直す。

 

「よし、明るくいこうっ」

 

 今までだって、彼女はそうやって乗り越えてきた。何もかも。

 

 それに今回は、心の底からやりたいと思えるバイトが見つかったことが、何より自分の将来にとって大事な事だ。

 

 進に惚れたことを抜きにしても、これは喜ばしいことだ。ここはいっそ、バイトに受かって生活を安定させることに集中しよう。

 

 先程、シェリーで暴飲暴食をして少し薄くなった財布を横目に、月夜美は気合を入れた。

 

「月夜美さーん、いますか? ご一緒にお茶などいかがですか〜?」

「さくらちゃん! うんっ、飲む飲む〜!」

「カプレーゼ持ってきたわよ〜っ」

「えへへ、やったあ!」

 

 そして、また、部屋におとずれた来訪者によって、一度月夜美の思考回路はリセットされたのであった。頭の片隅に、進の顔は残っていたが。

 

「おっ、なんかヤニの匂いが強くなってますね。とうとうヤニカス仲間が増える予感」

「鶴嶋くん、君と一緒にするのはちょっと早いと思うわよ」

「私も吸いますわ!」

「さくらちゃんは……うん、ピアニッシモとかならいいんじゃないかな!」

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