空と君のあいだに   作:苗根杏

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0.宝石になった日

 

「……店長」

「ん? どうしたの」

「店長って、いつから禁煙に成功したんですか?」

「え?」

 

 ある秋の昼間、月夜美はお菓子を食べながら、俺にそんなことを質問する。

 

「ほら、前に私の住んでるところに来た時、空飛夢くんのタバコ吸ってたじゃないですか」

「空飛夢くん? ……ああ。あの白髪の変な服の人ね」

「変な服してますよね〜、あの人」

 

 俺は染めていないであろう白髪を、後ろ髪はおろか前髪までも長く伸ばした和服の男を思い出し、どうだったかなと記憶を探る。

 

「そうだなあ……あの頃から、じわじわ減っていったかな。閑古鳥なのをいい事に、奥の和室で吸ってたけど、それでもちょっと飽きてきちゃって」

「飽きるとかあるんだ、タバコなのに。依存性が高いでお馴染みなのに」

「ま、最初から気分で吸ってたからなあ」

 

 ニコチンが効かない体質というのもあるのだろう、と俺は、太らない体質を目の前にして思う。

 

 月夜美は駄菓子のカップ麺を開けつつ、フォークを宙で文字を書くようにくるくると回しながら言う。

 

「私は割と苦労しましたよ〜?」

「ああ、最初の頃は割と吸ってたな、キミ」

「でも……なんか、接客担当がタバコ臭かったら嫌かなって」

「そんなに客も来ないんだからいいのに」

 

 俺は花咲川の生徒から来た依頼品を、まだ少しだけ包帯の残っている右手で分解しながら言う。

 

 実際、月夜美からタバコの匂いがしたことはあまりない。普段吸っているものが軽い銘柄の軽いmgの種類だからなのかは分からないが。

 

「まあ、今も2日に1回くらいは吸ってますけど……店長にああ誓ったからには、匂いくらいはちゃんとしたいですよ」

「匂いもそんなにしなかったけどな、キミの場合」

 

 俺がそんなに気にしていないという旨の返事をすると、何故か月夜美はバツが悪そうにもじもじする。

 

 妙だな。普段はこういう事を言ったら、すぐに調子に乗るのに。

 

 ひとしきり躊躇した後に、彼女は「えいっ」と椅子に座る俺の横から抱きつく。

 

「ホントのところを言うと……その、いつでも……」

 

 なんだか『そういう予感』がした俺は、あらかじめヘッドルーペを外す。

 

 そして、俺の顎を軽く持ち、心の準備どころか見つめ合う暇もなく唇を押し付けてくる。

 

 俺は反射で目を瞑る。少しだけ瞼を開けてみると、月夜美は蕩けたような目を細めて俺を見つめている。

 

 舌を絡ませ、顔を大きく傾けつつ、月夜美は俺を食うように激しいキスをする。

 

 数十秒立って、俺たちの唇は離れる。軽い蟻の門渡りもできて、完全にバカップルだ。

 

 彼女は口元をロングTシャツの袖で隠し、息を荒くしながらも、ぼそっとこちらに言う。

 

「こういう事、出来るようにしたくって」

 

 月夜美は花咲川での一件から、隙を見ては俺にキスをしてくる。阻止する理由もないから受け入れているが、やはりここまで深くやられると気恥しさのひとつやふたつも出るというもの。

 

 俺は顔を依頼品の時計に向けて、この歳にもなってキスごときで顔が熱くなっているのがバレないように背ける。

 

 まあ、そのキスごときで熱くなれてしまうというのが、俺がこの死戻月夜美に惹かれているという何よりの揺るがぬ証拠ではあるのだが。

 

「キミっていう人間は、本当にそういう方向に思い切りがいいな」

「むっ。本気なんですよ」

 

 知っているよ。俺は彼女の方を向き、頭の後ろを持って軽い口づけをする。唇どうしを一瞬くっつけるだけの、本当に軽いものだ。

 

 彼女の顔はみるみるうちに茹で上がり、髪がぶわっと浮く。

 

「これも気にしないよ」

「っ……!? も、もう! 店長、こういう不意打ちでしかキスしてくれない!」

「キミが言うかね、それ」

 

 月夜美は髪をいじりながら、唇を尖らせ、拗ねたような仕草をする。

 

 俺も少しだけ、彼女の真似をして真っ直ぐ進んでみようだなんて思ってはみたが、向かないな。彼女がどうかは分からないが、個人的には少し気まずい。

 

 ここまでイチャついておいて、次に行けないというフラストレーションも含め、俺は立ち上がって背伸びをする。

 

「よっし、久しぶりに吸うか」

「ええ!? 今!?」

「今日は雨だ、客も来ないだろう」

 

 俺は彼女の横をすり抜け、和室の奥にあるカバンからタバコとライターを取り出す。半年前に買って、1本しか吸っていないハイライト・レギュラーだ。

 

 久しぶりでこんなに重くて大丈夫かと思ったが、まあ大丈夫か。

 

「わ、私の努力がぁ……」

「俺のために努力してくれただけで嬉しいよ」

 

 月夜美は、俺の言葉に満更でもなさそうに軽くしっぽを振る。

 

「それに、完全に辞めたわけじゃあないんだろう?」

「そ、そりゃあそうですけど」

「じゃあ換気扇回してくれ」

「え? そんな機能ありましたっけ」

「一昨年、バルサン焚いた時以来だからな。ほら、ここ」

 

 店の入口から見て左前に修理机、左奥に和室が飛び出ているのだが、その2つの間にロフトへの階段がある。

 

 ロフトの床、その中心に換気扇が設置されている。起動スイッチは壁にある。

 

「変な店ですねー」

「昔は回しっぱなしだったんだ。親父は修理の合間に吸ってたからな」

「じ、時代を感じる……さすが病院の中でも吸えた世代」

 

 30か40年前までだったかな、そういう公共の場でも吸えたのは。

 

 最近は新幹線の喫煙室だって無くなるような時代だ、今となってはこういう店も珍しいだろう。

 

 時代柄、もう客の前で吸うつもりはないが、今日は客も来そうにない。たまにだったらいいだろう。

 

 俺がタバコを1本出そうとすると、月夜美が正面から俺にくっついてくる。背中に手を回し、「店長」と甘い声で言う。

 

「ん、何さ」

 

 彼女は、俺の顔を見て、目を合わせてハッキリと口にする。

 

「好きです」

 

 そんな彼女の頭の後ろと、肩を持って、俺は数年分の感慨を込めた声で言う。

 

「知ってるよ」

 

 そう言った直後、俺らの後ろ、いや、月夜美からしたら正面、つまり店の入口が勢いよく開く。

 

「すみませんッ、時計屋さんですか!」

 

 どうも間が悪いな。次にガッツリこういう事をする時は閉店後にしよう、と月夜美に後で言うことを決め、俺はバッと彼女から手を離し、何事も無かったかのように振り向く。

 

 しかし、月夜美は俺に抱きついたまま、俺を軸にして忍者屋敷の隠し扉のように180度反転する。

 

「……あれっ」

「いらっしゃいませー! ……ん?」

 

 月夜美はそんな状態でも、見事な営業スマイルで挨拶をする。完璧な対応だ。俺にくっつきっぱなしという点に目を瞑れば。

 

 お客さんは花咲川の制服のまま、雨が降っている中で外を走ってきたのか、ずぶ濡れである。

 

 しかし、その角のように立てた頭上の2つの髪の盛り上がりは崩れていないまま。どうなっているんだ、その髪型。

 

 彼女は店の中に足を一歩踏み入れた状態で硬直し、少ししてその足を外に戻してドアを閉めようとする。

 

「……失礼しました?」

「ああっ、待ってください。こういうのは別に珍しいことではなく」

「そうそう! 割とずっと……って……」

 

 少し思ったが、彼女は偶然入った店員と店員とのイチャイチャを見て気まずくなったというよりかは、まるで俺か月夜美のどちらか、またはその両方を邪魔したと思ったように帰ろうとしている。

 

 単に優しいお客さんかと思ったが、俺の浅い予想なんてのは、彼女たちの言葉に裏切られた。

 

「香澄ちゃん……!?」

「月夜美さん! 久しぶりですねっ!」

 

 にっこりと笑う、香澄というらしき人を見て、月夜美は俺から離れて彼女に近づき、手を取る。

 

 知り合いのイチャイチャを見てしまったのか。尚更気まずいな。香澄と言うらしき人は、少し複雑そうな笑顔で彼女を見る。

 

「……あっ、戸山香澄です! 月夜美さんがいるということは、時計屋さん……で、合ってますよね?」

 

 本題に戻ったらしき話の軌道を逸らさないように、俺らは目を見合わせて彼女に向かって言う。

 

「はい。こちら、時計のことなら何でもおまかせ、時計の『青美堂』です」

「アルバイト、死戻月夜美! どうぞご贔屓にっ!」

「店長の香月進です。よろしくお願いします」

 

 俺は作業机の前に座る。いつも依頼を承る時の、俺の特等席だ。

 

「それで、ご要件は? 修理に販売、買取も……」

「あの! これを修理して欲しくて!」

 

 ずぶ濡れの彼女は俺に向かって、これまたずぶ濡れのスマホを向ける。

 

 こんなに濡れたら壊れてしまうんじゃあないかと心配になるが、最近の携帯は俺みたいなオジサンが思う以上に頑丈なのかもしれないな。

 

 俺と月夜美は、そのスマホの画面を覗き込む。そこには、数週間前に訪れた校舎、その正面が写っていた。

 

「えっと……依頼の品は?」

「これです! これ!」

 

 彼女が指さしていたのは、校舎の『設備時計』。

 

 文字盤──と言うべきなのか、大きすぎて分からないが──に数字は無く、秒針もない。短針と長針だけが動く、シンプルな時計だ。

 

 目測で直径1.5mの大時計を見て、俺はいつか誰かが持ってきた懐中時計を見た時のように、こめかみを押さえてつぶやく。

 

「……これはまた、とんでもないシロモノを持ってきたな」

 

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