アニメ3期12話のif全部盛りルートです。
不必要な変更は極力避けたので、アニメと全く変わらぬやり取りが多々あります。
以上、よろしくお願いします。

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タイトルは、3期1話で演奏した新入生歓迎の曲。
星野源『恋』の大サビ直前から採りました。


泣き顔も、揺れる笑顔も、いつまでも

一、07:53

 

 黄前久美子と黒江真由に待機を命じて、副顧問の松本美知恵は姿を消した。

 それを見送っていた黄前の耳に、黒江の声が届く。

 

「久美子ちゃん。これが最後」

「えっ?」

 

 思いがけないタイミングで声を掛けられた黄前は、反射的に目を右に向けた。

 正面を向いていた黒江は、静かに一度まばたきをしてから黄前に顔を向ける。

 

「高坂さんと、ソリ……吹きたいよね?」

 

 その言葉を耳にして、黄前は静かに息を吸い込んだ。そして考える。

 

 大丈夫だ。真由ちゃんがこの話を持ち出した時に自分が何を言うべきなのか、何度も繰り返し検討してきた。

 

 絶対に伝えようと決めていた言葉を頭の中で反芻しながら、黄前は返事をするタイミングを計っていた。

 二人は、ともに目線を正面に戻して、三人掛けの椅子に空席を隔てて座っている。

 

「大丈夫。誰にも言わない」

「私……」

 

 畳みかけるように、けれども落ち着いた口調で問い掛ける黒江。

 黄前は、黒江の質問には答えず自分のペースで話をしようと口を開いて──ふと思い直して、素直に答えることにした。

 後から考えてみると、この瞬間に何かが変わったのかもしれない。

 

「あのね。……私は麗奈と、ソリを吹きたい」

 

 黄前は前を見据えたまま、自分の気持ちを確かめるような口調で話し始めた。

 そして、口に出してみて初めて、そんな言葉なんかじゃとても足りないくらいに、高坂とソリを吹きたいと強く願っている自分に気が付いた。

 

 けれども黄前は、その感情をひとまず遠ざける。

 黒江が何かを言おうとする気配を感じ取って、それよりも先に言葉を繋げた。

 

「絶対に、麗奈と吹くって決めてるから……」

 

 改札口を出たところで高坂に言われた言葉を思い出しながら、黄前は意識を今に戻すことを心掛ける。

 黒江は目だけで黄前の様子を窺いながら、続く言葉に耳を傾けた。

 

「だから、真由ちゃんには、辞退しないで欲しい」

「……えっ?」

 

 上半身ごと動かして、しっかりと黒江の目を見つめながら、黄前はそう告げた。

 それは黒江にとっては、予想だにしていなかった言葉で。思わず、場の空気にそぐわない気の抜けた声が出てしまった。

 ふふっと笑みをこぼした黄前は、してやったりの顔つきで口を開く。

 

「だってさ。ここまで来て、真由ちゃんは、どうやって辞退するつもりだったの?」

 

 からかうような黄前の口調に、黒江の目が鋭く尖る。

 けれど感情を露わにした自分にすぐに気付いて。それを恥じるように、自分にはそんな資格はないと言い聞かせるように、黒江は頭を正面に戻した。

 

 

「私……」

 

 黄前が再び口を開く。

 黒江は目だけで黄前の様子を窺っている。

 

「真由ちゃんに謝らないといけない」

「……えっ?」

 

 俯きながら黄前が発した言葉に、黒江は遅れて反応した。

 てっきり自分を責めるような言葉が来るのだと思っていただけに、驚きはひとしおだ。

 

 黒江は自分でも意識しないままに、顔を再び左に向けていた。

 視線の先では黄前がぽつぽつと言葉を続けている。

 

「怖かったんだと思う。上手な子が転校してきて」

 

 その子は、銀色のユーフォニアムを手にしていた。

 あの先輩と同じ色だ。

 

「焦った。だから、真由ちゃんの気持ち、見て見ない振りしてたかもしれない」

 

 正面を向いて語り続ける黄前に倣うように、黒江も顔の向きを元に戻して、黄前の言葉を受け止める。

 

「転校してきたばかりの子が、困らないはずないのに、実力主義って言って押し付けて」

 

 困り顔の黒江から「そのオーディションって、私もやるんですか?」と問われた時に、「北宇治は実力主義」「真由ちゃんは北宇治の部員でしょ?」と答えた過去の自分を思い出して。

 

 だから黄前は顔を上げて、しっかりと黒江を見据えて、絶対に言おうと決めていた言葉をそのまま伝える。

 

「ごめんなさい」

 

 黄前はちゃんと頭も下げて、誠実に気持ちを伝えてくる。

 ちらりと目を向けた黒江は、すぐに目線を正面に戻した。

 

「だから……」

 

 続く言葉に促されるように黒江が顔を向けると、黄前は少しばつが悪そうな口調で続ける。

 

「投げ掛けてくれてたんだよね」

 

 教室でも。

 夏合宿の脱衣所でも。

 関西大会のオーディションが発表された時も。

 

「『本当にいいの?』って」

 

 少しだけ息を漏らして、黄前を見つめていた目をゆっくりと閉じながら。顔を正面に戻した黒江は、左手で髪を梳いた。

 ほんのちょっと伝わっただけなのに。そのちょっとが、黒江にはこんなにも嬉しい。

 頬が緩んでいるのを誤魔化すように黒江は口を開く。

 

「買いかぶりだよ」

 

 けれども口元も、床の先を見つめる大きな目も、隠し切れていない。

 

「あのね……」

 

 黒江の様子を窺いながら。とはいえ反応を見られるのは嫌だろうなと思えたので前を向いて、黄前は思い切って推測を口にする。

 

「オーディションで嫌なこと、あったんじゃない?」

 

 黒江は目線をいっそう下に向けて、か細い声で答える。

 

「どうして?」

 

 黄前は姿勢を正して、余計なことを考えないように正面だけを見つめながら口を開く。

 

「私……。中学の時オーディションで、下級生なのにコンクールメンバーに選ばれて、嫌な思いをしたことがあった」

 

 気を張っていたのに、それでも少しだけ声が上ずってしまった。

 できるだけ淡々と言い切ろうとしたけれど、最後は感情がわずかに漏れてしまった。

 でも、ちゃんと言えた。

 

 黒江が口を挟まないのを確認して、黄前は話を続ける。

 

「プールで話したとき思ったの。真由ちゃんって……」

 

 喋りながら思い切って顔を向けると、じっと自分を見つめている黒江の目と出くわした。

 それでも黄前は怯むことなく、率直な気持ちを伝えようと心掛けながら続きを口にする。

 

「どこかその頃の私と……ううん、もっと根っこの部分。似てるなぁ……って」

 

 黒江は小さく微笑んで、視線をすぐ前の床に戻して短く答えた。

 

「そっか」

 

 そしてしっかりと息を吸って、再び黄前と目を合わせながら。プールでのやり取りを思い出しながら、黒江は口を開く。

 

 あの時、黄前の目に黒江が映り込んでいたように、黒江の目には黄前が映り込んでいた。他の誰であっても入り込めない。すぐ左隣に座った女の子の顔だけを見つめていた瞬間が、確かにあった。

 

「私も同じこと考えてた」

 

 黄前にそう伝えて目をすぐ逸らすと、思わずふふっと笑みがこぼれてしまった。

 感情があふれてしまわないように目をつむったまま、黒江は軽い口調で付け加える。

 

「やっぱり似た者同士なのかなぁ」

 

 それを聞いた黄前がもらい笑いをして、少しだけ場が和む。

 そんな二人を、階段を上がったすぐ先にある裸婦像が見守っていた。

 

 

二、09:54

 

 この雰囲気がずっと続けばいいのに、と思いながら。それが無理だと理解している黒江は、せめて自分からと思って口火を切った。

 

「でもね。やっぱり違うよ」

 

 そう言い始めた黒江に、黄前は当惑したような目を向ける。

 黒江はそれに構わず言葉を続ける。

 

「高坂さん……なんだね」

 

 黄前の視線を横顔で受けて。黒江は確信しているかのような口調でそれだけ言うと、口を閉じた。

 黒江の意図を理解した黄前は、頬を緩めて目を潤ませながらそれに答える。

 

「麗奈を知って、私は変わった」

 

 中学最後のコンクールでダメ金だった時に「悔しくて、死にそう」と漏らした高坂の存在が、黄前を変えた。

 

「そっか」

 

 俯きながら相鎚を打った黒江は、目をつむったまま再び口を開く。

 

「でも私は……それが正しいとは思わない」

 

 開いた両目を黄前とは逆方向の虚空に向けて。ここには存在しない誰かを思い浮かべながら、黒江は話を続ける。

 

「私の場合は……私のせいで、友達が音楽、やめちゃったから」

 

 意外な告白に、黄前は思わず息を呑む。

 黒江は淡々と語り続けた。

 

「いつもコンクールメンバーに選ばれるのが私で」

 

 軽く目を閉じて、涙が浮かんでいないのを確認して。一瞬だけ過去の空気を味わってから、黒江は再び虚空を見やって話を続ける。

 

「その子は『いい』って、言ってくれてた。けど、結局……」

 

 金色のユーフォニアムを手にした彼女は、部室にいる時も、廊下に出た時も、いつも黒江のすぐ左にいた。

 黒江が初めてコンクールメンバーに選ばれた時も喜んでくれて。

 でも、最後のコンクールでもメンバーに選ばれなくて、そして彼女は──。

 

「やめちゃった」

 

 部活だけではなく、音楽を聴くことも、更には黒江との日々の関わりさえも──。

 意識を現実へと引き戻すために、黒江は一言だけ。

 

「だから」

 

 そう口にしてから、金色のユーフォニアムを抱えて自分の左手に座っている女の子と目線を合わせる。

 そして黒江は、嘘偽りなく本音だと思っていることを、率直に伝えようとする。

 

「本当に、心の底から、みんなと楽しく吹きたい。……そう思ってる」

 

 そこまで言い終えて少し安心したからか。黒江は無意識に目線を床へと戻しながら、言わずもがなのことを付け足した。

 

「そのためなら……どうでもいいの。オーディションとか、金賞とか」

 

 黒江をじっと見つめていた黄前は、いったん顔を正面に戻してから口を開く。

 

「それは本心じゃないよ」

「……えっ?」

 

 黒江が本当に思っていることを白日の下にさらすために、黄前はまずは淡々とした口調で。

 

「コンクールメンバーじゃなくてもみんなと楽しく吹ければいい」

 

 一拍おいて、強い口調で「でも」と続けて。

 再び黒江を見やった黄前は、見透かしたような口調で結論を告げる。

 

「わざと下手には吹けない」

 

 息を呑みながら、黒江が静かに顔を向ける。

 黄前はそれに怯むことなく話し続ける。

 

「頼まれて辞退はできても、自分から下りることはしたくない」

 

 黄前の右側に座っている女の子が抱える、銀色のユーフォニアムが──。そのマウスピースが、黄前が考えていることが正しいと教えてくれる。

 

「演奏に……嘘はつきたくない」

 

 思わず勢いよく顔を上げて、黄前を睨みつけようとして。

 けれども、黒江の目は既に潤んでいた。

 

 旧友との想い出が今も記憶に焼き付いているからこそ、黄前が挙げたこれらのことが黒江にはできない。

 

 それすらも見透かされていたと気付いて怯む黒江に、黄前は笑みをこぼしながら優しく伝える。

 

「知ってるよ」

 

 噛んで含めるような口調で語り続ける。

 

「少なくとも、真由ちゃんの演奏は」

 

 夕陽に影のびる教室で、汗をかきながら一人で練習していた時も。

 関西大会の本番でも。

 

「どうでもいいって思ってる人の演奏じゃないよ」

 

 黄前の言葉が心に沁みて、黒江は涙をこらえるのが精一杯で何も言い返すことができない。

 

「だから、オーディションも、金賞も、真由ちゃんはどうでいいなんて思ってないよ」

 

 自分が上手く吹けた時の、みんなと上手く吹けた時の楽しさを知っているから。

 だから黒江は、どんなにつらい過去があったとしても、オーディションの存在意義や金賞の価値を完全に否定することはできない。

 

 黒江がその本心を実感しているのを傍目に見ながら、黄前は少しだけ話題を変えて語り続ける。

 

「ここはね。二年前、麗奈がソロを懸けてオーディションした場所なんだ」

 

 壇上に立つ二人。

 泣きじゃくる先輩。

 そして、当事者で一番悔しいはずなのに、決断を示して優しく微笑んでくれた先輩。

 

「私と麗奈はそのとき誓った」

 

 あのオーディションの直前に高坂が座っていた三人掛けの椅子の左端に、今は黄前が座っている。あの時に黄前が座っていた椅子は今は空席で、黒江が座っているのは右端の椅子だ。

 

「音で決めるべきだ」

 

 高坂に「負けたら嫌?」と問われて「嫌」と返した。

 弱々しく「いま勝ったら私が悪者になる」と口にした高坂の背中を押して。

 そして「裏切らない?」には、「もしも裏切ったら、殺していい」と答えた。

 

「上手い人が吹くべきだ、って」

 

 黄前は左手を胸に当ててもう一度、二年前の出来事を思い出した。

 壇上で吹く二人を。

 先輩の決断を。

 先輩の涙を。

 

「あの時の気持ちを……。三年間、信じてきたことを裏切りたくない。これは、私のわがまま」

 

 そして決意を瞳に宿して、それを黒江に示しながら言葉を繋ぐ。

 

「だから今日、私は私の全てで吹くだけ」

 

 ともに潤んだ目を合わせて、黄前が話し、黒江が聞く。

 

「同情も、心配も、遠慮もいらない。真由ちゃんも、自分の信じるもののために吹いて欲しい」

 

 少しだけ黒江の目が歪む。

 それは、思わず縋りたくなるような記憶を()()思い出したからだった。

 

 関西大会の後で、釜屋つばめに「私は良かったと思ってるよ。真由ちゃんで」と言われたこと。「つばめちゃんは、どうして私に吹いて欲しいの?」と尋ねると、「演奏している真由ちゃんが、本当の真由ちゃんな気がするから」と答えてくれた。

 

 でも本当は、それよりもずっと前に──。

 

 

 親の都合で転校が決まって。どの高校でも好きに選んでいいと言われたので、どうせなら吹奏楽が強い高校がいいと思って北宇治にした。なのに予想外の出来事が相次いで、新学期には間に合わなかった。

 

 高三からの転入で、ただでさえ心配事が多いのに……。

 

 新入生が部活を決めて校内が落ち着いた頃になってようやく、私の転校の手続きは完了した。

 

 もう、無理だ……。

 

 今から高校の吹奏楽部に入るのは難しいだろうし、ここは親も自分も縁のない場所なので、社会人の楽団に飛び込むなんて選択は怖くてできない。

 他には何も望まずに、ただユーフォニアムを楽しく吹ければいいとだけ願っていたのに、どうして私はこんな目に遭ってしまうのだろう。

 

 そんな後ろ向きの気持ちに踏ん切りをつけるために、転入前の最後の打ち合わせで、私はマイ楽器を持っていった。

 

 担任の先生は吹部で副顧問をしているらしく、何かと私を気遣ってくれた。

 顧問の先生も呼び寄せて、二人で相談に乗ってくれたのだけど、部内の人間関係において教師の助力は望めない。

 

 また、あんなに悲しい思いをするくらいなら、ユーフォをやめたほうがいいのかな……。

 

 そんな極端なことさえ考えていた私に、顧問の先生は「あなたと同じユーフォニアムを担当している生徒が部長を務めているのですが、彼女に会えば、きっと大丈夫だとあなたは思うはずですよ」と言って、「黄前久美子」という名前を教えてくれた。

 

 顧問と副顧問がそろって太鼓判を押したことが、逆に私には怖く思えて。

 でも、会ってみたいと思う気持ちも芽生えて。

 曖昧な返事をした私は、帰る前に構内で吹く許可を得てから職員室を後にした。

 

 ユーフォを気持ちよく吹けそうな場所は、前に校内を案内してもらった時に目星をつけていた。

 迷わずそこへと移動した私は、この高校で最初で最後となるはずだった演奏を始めた。

 ゆったりと、音に心を預けて、慈しむように長年の相棒を奏でる。

 

 ただ吹くことだけに集中していた私は、とつぜん話し掛けられて、上手く反応できなくて、変な音を出してしまった……。

 

 久美子ちゃんにとってはきっと、何でもない出来事だったのだろう。

 でも私にとっては、こんな人だったらいいなとイメージしていたとおりの久美子ちゃんが目の前に現れてくれたことは、本当に奇跡のような出来事だった。

 久美子ちゃんのおかげで吹部にも入部できて、今までたくさん楽しい演奏を続けてこられた。

 

 だから、私は──。

 なのに、私は──。

 

 

 顔の筋肉を総動員して何とか小さく笑ってみせて、黒江は黄前から視線を逸らす。

 そして黒江は、涙声で軽口を述べた。

 

「そんなに塩を送っていいの?」

 

 その言葉とは裏腹に、黒江の悩みはかつてないほど深まっている。

 

 黄前に本心を明かして欲しいと思っていたのに、自分の本心がさらけ出されてしまった。

 今の黒江は、もうすぐ始まるオーディションを全力で吹きたいと思っている。

 でも同時に、全国で黄前に吹いて欲しいと強く願っている。

 

 ほんの少し前までも、黄前が望む通りになるといいなと思っていたけれど。

 今となっては辞退する術がないと突きつけられて。

 過去も、隠したかった想いも見透かされて。

 自分にとっては特別なのに、相手にとっては特別じゃないと思い知らされて。

 

 それでも、だからこそ今の黒江は、黄前が何を望むとか関係なしに、ただ黄前にソリを吹いて欲しいと(こいねが)っている。

 

 黒江の葛藤には何も気付いていないのか、黄前は間延びした口調で「いいよ」と答えながら、金色のユーフォニアムを抱えて立ち上がる。

 そしてこう言い放った。

 

「負けるつもりはないから」

 

 それに応えるように、黒江も銀色のユーフォニアムを抱えて立ち上がった。

 もう少しだけ──。

 そんなことを、なぜか懐かしい顔を思い浮かべながら願いつつ、黒江は口を開く。

 

「じゃあ、私も塩を送っていい?」

「いいよー」

 

 心身ともに充実した様子の黄前は、そう平然と答えを返した。

 とはいえ黒江が何を言い出すのかは気になるようで、小首を傾げて黒江の様子を窺っている。

 

「えーっと……」

 

 言いたいことがまとまっていない黒江が言い淀むと、黄前はぷっと笑いを漏らした。

 でも黒江を急かすことなく、待ってくれている。

 

 一奏者としての黄前ではなく、黒江が一番たくさん見てきた、部長としての黄前の姿がそこにはあった。

 だから黒江は──。

 

「久美子ちゃん……ユーフォ、やめるの?」

 

 ふと思い至ったことを反射的に尋ねてしまった。

 

「うーん……。音大には行かないから、今ほどは、吹かなくなるかな。マイ楽器もないし……。でも、やめないよ。私は、やめない」

「そっか」

 

 黄前は真顔に戻って、でも黒江から視線を外さず答えてくれた。

 黒江の頭の中で急速に、黄前に伝えるべきことが、そして自分が為すべきことが形になっていく。

 その直感に従って、黒江はこの会話を締めくくるために口を開いた。

 

「じゃあさ。私の音をちゃんと聴いて、参考にして欲しいの。それが一つ。もう一つはね」

「塩を二つも送ってくれるんだ?」

 

 あの後輩が聞いたら侮辱だなんだと言い始めるだろうなと思いながら、黄前はことさら大げさに首を傾けてみせた。

 黒江は柔らかく微笑んで、軽い口調で反応する。

 

「こういうのって、なんて言うんだっけ。えっと、倍返し?」

「やっぱり真由ちゃんも性格悪い?」

「そうかな、そうかも」

 

 笑い合っている二人からは、今から競い合う者同士がまとうような気配は伝わって来ない。

 黒江は一度しっかりと目を閉じて、黄前を見据えてから話を続けた。

 

「でね、二つ目なんだけど……久美子ちゃん、部長として演奏してみない?」

「……部長として?」

「うん。北宇治の部長として。……よく分かんなかったら気にしなくていいんだけど、私なりのアドバイスってことで。良かったら考えてみて」

 

 妙な提案を疑うことなく、好意を素直に受け取ってくれた黄前に、黒江は小さく微笑みかけた。

 

 

三、13:01

 

 オーディションの準備が整って、顧問の滝昇がステージに向かって呼び掛けた。

 

「では1番の方、お願いします」

 

 客席からはオーディションに臨む二人の姿が見えないようになっている。

 二人からも客席はもちろん、ソリの相手である高坂麗奈の姿すら見えていない。

 

 黒江は所定の場所へと歩み寄って銀色のユーフォニアムを構え、トランペットの音を待っていた。

 その脳裏には、かつて自分がトランペットのパートを担当して、黄前と二人でこのソリの部分を合奏した記憶が蘇っていた。

 

 あの時に音を真似てみて実感したことで、黄前の長所は感情豊かな音にあると黒江は考えている。

 その一方で、黒江は自分の長所が理解力の高さに由来すると認識していた。

 楽曲や、顧問の意図や、ソリの相手が奏でる音などを深く理解して、それを演奏に正確に反映させられる点に自分の強みがあると考えていた。

 

 それゆえに、今から試みることは無謀な行いなのかもしれない。

 でも黒江は、合奏が好きだから──もっと上手い合奏にしたいから。

 そして、演奏に嘘をつけない自分が黄前のためにできることは、他には何も思い付かなかったから。

 

 だから黒江は、旧友や黄前と一緒に音を奏でた記憶を強く意識しながら、感情的な演奏と正確な演奏を止揚するべく大きく息を吸い込んだ。

 

 

四、14:23

 

 まるで嵐のような演奏が終わって、関西大会とはまるで違うその音に観客席がざわめいている。

 そんな中にあって滝は普段と変わらず冷静な口調でステージに向かって話し掛けた。

 

「では2番の方、お願いします」

 

 高坂の近くまで足を運んで準備を調えた黄前は、今しがたの黒江の演奏を振り返っていた。

 

 感情的な演奏は、自他の音を大きく予想外の方向へと逸らしてしまう危険が常にある。けれども逆に、そうした失敗を思いがけない響きによって挽回してしまう魅力も備えている。

 

 黒江の演奏を耳にした上で自分の演奏を振り返ってみると、黄前は感情に引きずられて演奏を乱したり、高坂が思い描いていたのとは違うタイミングで音を引っ張り上げてしまった過去を思い出さざるを得ない。

 けれども黄前はそれと一緒に、予想以上の音を引き出せた時のことも思い出していた。

 

 その失言癖が示すように、黄前は周りが見えていないことが時々ある。

 それでも部長としては、誰よりも部員全員のことを考えながら日々を過ごしてきた。

 では、その体験を演奏に応用すれば、失敗を少なく、成功を多くできるかもしれない。

 それだけではなく、部員全員を見る部長としての在り方は、曲への接し方にも応用できるかもしれない。

 

 黄前はソリの部分だけではなく、クラリネットで始まるこの自由曲の全体像を思い浮かべながら、高坂の音を待ちわびていた。

 

 

五、15:56

 

 二人の演奏が終わって、黄前と黒江はステージ上に姿を現した。

 余韻に浸る間もなく、滝は着々と話を進めていく。

 

「では、これより選出に入ります。1番がソリにふさわしいと思った人は、挙手を」

 

 黒江が1番だと分かった部員は少ない上に、その演奏が客席の混乱を助長していた。

 

 確かに魅力的ではある。

 ライブでは受けるだろうし、心に響く演奏だ。

 とはいえコンクールで吹かせるには、安定感がなくて怖すぎるのも確かだった。

 

 全てが上手くいけば圧勝できるが、ぼろ負けする可能性もそこそこあって、トータルでは惜敗に収束するような演奏だと言えるだろう。

 どうして黒江がこのような博打的な吹き方をしたのかは分からないが、今回は惜敗ラインの演奏だったと滝は考えていた。

 

 おそらく黒江が普段どおりに吹いていたら手を挙げていたであろう面々から、何人かの離脱者が出ていた。「部長はソリを吹くことよりも、全国金を願っている」と考える義井沙里もその一人だ。

 しかし高校に入ってから吹奏楽を始めた一、二年生が積極的に手を挙げている。

 加藤葉月と釜屋つばめが、厳しい表情で手を挙げた。

 

「続いて、2番と思った人は、挙手を」

 

 黄前が2番だと見破った部員はやはり少ない。

 そして堅実さが増した代わりに、思わず手を貸したくなるような類いの少し危うく親しみやすい雰囲気が演奏からは薄れていた。

 

 とはいえソリ単体ではその程度の評価でも、自由曲の中に置くことでこの演奏がどれほど活きることになるのか、それを実感できる滝の評価は高かった。

 しかし今回のオーディションではソリを決めるのは生徒である。

 

 安定を求める層からは一定数の挙手があり、逆に吹部歴が短い層は動きが鈍い。

 剣崎梨々花、川島緑輝、塚本秀一は迷いなく2番を選んでいた。

 久石奏も手を挙げたものの、その目は既に潤んでいる。

 

 

六、17:01

 

 集計したところ、両者は同数という結果になった。

 滝が「奇数のはず」と困惑していると、ステージ上から声が挙がる。

 

「私が、まだです」

 

 そう告げる高坂の目に迷いは見えない。

 とはいえ、その内心は窺えない。

 

「そうでしたか」

 

 滝はそんな高坂に優しげな目を向けて言葉を続けた。

 

「決まりましたか?」

 

 目線を下げて、大きく見開いた目を潤ませる高坂。

 その高坂の左手には、同じく目を潤ませる黄前と、感情を遮断したかのような表情の黒江が並んでいた。いずれも覚悟は決まっているようで、高坂だけが鬼気迫る目つきのまま黙り込んでいる。

 

 プロになる、特別になると決めている高坂にとって、より魅力的なのは1番だった。

 感情表現をより深く追求せんとする意欲あふれる演奏は、今は確かに不安定だし元々の長所であったはずの正確さを発揮し切れていない弱みがあるけれども、確かな可能性を感じさせる。

 

 しかしながら、北宇治のドラムメジャーとしての高坂にとっては、全国金のために望ましいのは2番だった。

 自由曲を俯瞰して、その中にソリを位置づけると同時にソリから他への波及をも企むダイナミックな演奏は、思いがけなく心に迫ってくるような瞬間は今までと比べると減っていたものの、眉をひそめるような瞬間がそれ以上に減って着実に計算が立つのが良い。

 

 どうして二人ともが普段とは違う吹き方をしたのか、それを思うと高坂の心は余計に乱れる。

 人を選ぶのであればこんなに悩まなくても済むのにと、八つ当たりをしたくなってくる。

 

 そもそも足音を聞いた時点で、立ち止まった時のステップに心の余裕が表れているのが黒江で、堂々とした足音の裏側に不意に転けそうな危うさを潜めているのが黄前だと判ってしまう高坂にとって、判別すべきは人ではない。音だ。

 では、その基準はどこに置くべきか?

 

 高坂はふと、橋の上で「部長失格」と言い放ってしまったことを思い出した。

 

 きっとあの時が分かれ目で。黄前は音大に進学しないと分かってしまった高坂は、音大ではなく留学という進路を選んだ。黄前が進路を決めた後でそれを伝えようと思っていたのだけれど、思いがけない理由でばれてしまって、なぜか自分が黄前を裏切ったような気持ちになった。

 

 でも、高校の三年間を通して、大事なことを決めてきたのは黄前なのだ。

 ぎりぎりにならないと動かない悪癖はあるけれど、最後には黄前が決めて、高坂や他の部員の背中を押してくれたからこそ、北宇治の今がある。

 だからこそ高坂は、黄前という人ではなく、黄前の意思に殉じて結論を出すべきなのだ。

 優先すべきは特別か、それとも全国金か──。

 

 高坂は、二年前に黄前から「もしも裏切ったら、殺していい」と告げられた場面を反芻する。

 あの日の私の世界には、二人だけしか存在していなかった。

 振り返るたび心が震える、あの場面こそが全ての基準となる。

 

 しっかりと目をつむって涙を拭い去った高坂は、決意を秘めた目つきで顔を上げた。

 

 二年前のオーディションの時から、あるいは大吉山で一緒に演奏した時から始まった二人の関係は、先日の橋の上で終わりを迎えた。

 それはもちろん新しい関係を始めるための終わりではあるけれど、だからこそ高坂は、それにふさわしい終わらせ方を選ぶべきなのだ。

 

 黄前の意思に殉じるのは、これが最後になるのだから。

 そう考えると、自ずと答えは決まっている。

 

 長い煩悶の末に、高坂は答えを口にした。

 

「2番です」

 

 それを聞いた滝は、静かに目をつむったまま頷くように、自分に言い聞かせるように口を開く。

 

「分かりました」

 

 そう言い終えて目を開けた滝は、いつもの顧問に戻った。

 

「では、2番の方は……前へ」

 

 険しい表情の高坂がじっと前を見据えるすぐ左で、黒いストッキングを身に着けた足は動かない。その更に左側から、堂々とした足音が聞こえてきた。

 

 果たして自分の判断は正しかったのかと急に弱気が襲ってきて、高坂は思わず目をつむりそうになった。それを何とかこらえた高坂の頬を、嬉し涙が流れていく。

 

 立ち止まった黄前の前にはざわめきと、どこか安堵したような空気があった。

 それを他人事のように眺めていると、滝の大きな声が耳に届く。

 

「全国大会のユーフォニアムのソリは」

 

 耐えきれずに立ち上がった久石は、けれども黄前の顔を見ることができず、その輪郭もぼやけている。

 久石が思わず漏らした言葉と重なるようなタイミングで、滝がその名前を宣言した。

 

「先輩に吹いて欲しかった……」

「黄前久美子さんに決定します」

 

 願いが叶った久石は、もう涙をこらえることができなかった。

 川島は一筋の涙を頬に伝わせて微笑み、塚本はそっと目を細めた。

 

 客席に拍手が広がる中で、黒江は平然と立っている。

 全力で挑んで、信条にも背かず、そして願っていた通りの結末になったのだから、文句のつけようがないはずだった。

 けれどもユーフォニアムを持つ左手はかすかに震えていて、潤んだ目は客席の特定の場所だけを避けている。

 

 拍手を受けるのが照れくさくて首を後ろを向けた黄前の視界に、そんな黒江の姿が飛び込んできた。黄前は即座に踵を返す。

 

『本当の意味での正しさは、皆に平等ですから』

 

 職員室での滝の言葉を思い出しながら、黄前は黒江のもとへと歩み寄った。黒江の手を掴んで再びステージ前方へと戻ると、黄前は客席に向かって大きな声で呼び掛けた。

 

「これで! オーディションは終わりました!」

 

 黄前の動きを見てざわめいていた客席が。

 

「1番を選んだ人も! 2番を選んだ人も!」

 

 今度は二人に向けて拍手を始めた。

 

「ここからは一致団結して! 全国に行って!」

 

 黄前を誇らしげに眺める生徒がいる中で、一部の生徒は気合いを入れ直している。

 

「必ず、金を! 全国大会金賞を、獲りましょう!」

 

 黄前の大声をすぐ近くで聞いてしまい、少しふらついていた黒江が立ち直ると、偶然にも客席の生徒と目が合った。

 釜屋つばめは涙を流して、けれども黒江に向かって満面の笑みを贈ろうとしていた。

 

 こらえきれず涙があふれた黒江は、目をつむって前を向いた。

 黄前はもらい泣きを避けるように、ゆっくりとまばたきをしてから黒江に目を向ける。そして柔和な顔つきで、泣きじゃくったままの黒江を眺めていた。

 

 黄前の視線を感じ取った黒江は、むりやり涙を止めて目を開いて、黄前と視線を合わせる。すぐに涙が頬を流れて、しゃくり上げた黒江はそれでも黄前と目を合わせたまま、微笑みを浮かべてみせた。

 

「あのね。久美子ちゃんに、一つ、お願いがあるんだ」

「いいよー」

 

 嗚咽を漏らさぬように少しずつ言葉を口にする黒江に、のんびりとした口調で黄前は返事を返した。何を言われるのか、何となく予測できてしまう。

 

「合宿の時も朝、吹いてたよね?」

「……えっ?」

 

 お願いはどうやら予測通りで終わりそうだけど、まさかあの時にも聞かれていたとは思わなかった。

 

「いつか、私にも聞かせてね」

 

 あの曲は、銀色のユーフォニアムと黒タイツが似合う先輩が黄前に託してくれたのだった。だから黒江はもちろんのこと、今も客席で大泣きしている後輩にも、教えるべきだろう。

 自分が先輩から受け継いだものが、友達や後輩へと伝わっていく。

 この北宇治で、生きることに夢中になれた日々が、今を生きている私へと繋がってる。

 

「そう言われると、真由ちゃんにも、奏ちゃんにも、佳穂ちゃんにも聞かせたくなっちゃうね」

「うん。楽しみにしてるね」

 

 さすがに今すぐ聞かせるわけにはいかないけれど、少しだけでもあの曲のことを知って欲しいと思ったので、黄前はおもむろに口を開く。

 

「ちなみに、あの曲の名前はね」

「うん」

 

 本当に曲にふさわしい名前だと、黄前は改めて思った。

 あの曲の名は──。

 

「響け!ユーフォニアム」

 

 

 





以下6/30夕刻に追記(本文に変更はありません)。

演奏に嘘をつけない人を負けさせるために「理想に挑んで自爆」という展開にするのは珍しくないと思うのですが、その上で「高坂を苦しめる」のがとても難しくて、結局は理屈に理屈を重ねるような書き方しかできませんでした。

つまり原作は本当にキャラを苦しめるのが上手だなと実感させられたのですが、それは「物語の起伏を生む」という点でとても素晴らしい効果を生んでいるわけで、他に適切な言い方があると良かったのですが、やはり凄いものだと思い知らされた気がしました。

また、二次作品では原作の比率をもっと下げて(厳選して)書くべきだと昔から理解してはいるのですが、二次作品の質を上げるよりも原作の良さを過剰なまでに示したいと思ってしまう性分なので、あらすじに注意書きを載せておきました。

その上で、ここまで読んで下さった方々に心からの感謝を。
本当にありがとうございました!

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