手に持ったペンを放り投げ、アクアは色の無い声で呟いた。
「まあ、こんなもんか」
冷めた目で見降ろす先には解き終えた志望校の過去問、それも全問正解のものが広げられている。入試本番も近い年明け、ここまでの手ごたえがあれば普通の受験生なら喜び、少なからず胸をなでおろすだろう。しかしアクアの表情は、心は何一つ動かない。なぜなら彼は極めて特殊な人間だったからだ。
(人生も二度目で高校受験も当然二度目。念のためにやってみたが、必要なかったな)
星野アクアは転生者である。前世は産婦人科医、つまり医者だった。その頭脳は二度目の人生でも陰りを見せておらず、まるで勉強に身を入れていない現在でも偏差値70を優に超えている。ちなみに先ほど解いた過去問の偏差値は40程度。転生者であることを考慮しても、何の感慨も湧かないのも当然だった。
「俺が考えるべきは、こっちだ」
誰に伝えるつもりもなく呟いてから、アクアは古びた携帯を取り出した。慣れた動作でロックを解除し、連絡先に登録された名前を眺める。その瞳には何もかもを飲み込むような黒い星が、憎しみに囚われた者特有の濁りが強く輝いていた。
(この中の誰かが、アイを殺した黒幕に繋がっている……)
自分で漏らしたのにも関わらず、黒幕という言葉のチープさに思わずアクアは小さく笑った。しかしその口元の歪みとは反対に、握りしめた携帯からは軋んだ音がした。怒りか、無念か、悲しみか、憎しみか。これらどれか、それとも全てか。今も把握しきれない感情が湧きたつのを、アクアは感じていた。この携帯を握るたびに、母の最期を思い出すたびに生じる魂の震え。それがアクアの背を、あの葬式の日から常に押し続けていた。
星野アクアは復讐者である。前世の推しにして今世の母、星野アイ。彼女を死に追いやった人物を探し出し、その罪を思い知らせることが彼にとって至上の目的だった。アイを直接手に掛けた犯人は既に自殺している。だが、その裏にいたはずの誰かはまだのうのうと生きている可能性が高い。それを、アクアは許すつもりはなかった。
(ここに並ぶ名前は、調べた限りどれも芸能界の人間だ。そしてこれ以上を調査するなら、どうしたって近くに、芸能界に潜り込む必要がある。カントクのコネを使って、いや、あの人結構アレだからな、コネ以前にちゃんとした知り合いなんているのか? いないだろうな、こどおじだし。やはり、陽東で芸能科の中から探す方が無難か……)
そうして幾度となく繰り返した決意、巡らせ続けていた計画を頭の中で回していると、不意に部屋の外からぱたぱたとした慌てた、ここ十数年で聞きなれた足音が響き、近づいて来る。それを聞いたアクアの口元が動き、いびつに歪んでいた口元が常日頃のような一文字に戻る。無表情で不愛想なそれは、先ほどまで浮かべていた笑みよりよほど穏やかなものだった。
「兄ちゃん兄ちゃん!」
声と同時に部屋へ飛び込んで来た黒髪の少年、三つ子の弟である星野ダイアモンドが視界に入ると、アクアは携帯を咄嗟に隠した。好奇心旺盛なダイアにこんなものを見せれば、根掘り葉掘り聞かれる可能性が高い。意外と人を見る目はある弟だ。まさかとは思うが、何かしら復讐について勘づくかもしれない。だから誤魔化すために、そして教育のためにアクアはお説教を口にした。
「いつも言ってるだろダイア。兄弟でもノックくらいはしろ」
「ごめん! で、でも、大変なことになってて」
「……なにがあった?」
わたわたと身振り手振りで焦りを伝えるダイアの姿が、アクアにかすかな緊張を与えた。ダイアが持ちかける相談は大人を自負するアクアであれば、一瞬で解決出来る他愛ないものばかりだ。だが時々、極稀に亡き母を思い出させるような、とんでもない話が飛び出すことがある。だからこそアクアは弟から相談をされるたび、密かに肝を冷やしていた。
「い、因数が」
「?」
「因数が、全然分解されてくれない!!」
「は?」
幸いなことに、今回は胃を痛めるものではなかった。それはそれとして、弟の意味不明な発言にアクアはぽかんと口を開く。その眼前へダイアは手にした問題集を突きつけた。『猿のための中学数学 問題編』。正気を疑う名前ではあるが、秀才の兄がアホの妹と弟のために選び抜いたテキストだ。実際評判は高く、某ネットショップでは星4.3の評価を得ている。
「見てこれ! この式なんだけど」
「……普通の二次方程式だな。これがどうしたんだ?」
「X=800万になった!」
「デカすぎんだろ」
おおよそ中学数学に出てくる数字ではない。その証拠に解答欄からゼロが大量に零れている。念には念をと解答を見て、途中式を確認し、問題文を読んだアクアはひたすら首を傾げていた。どうしてこんなことに。どこをどうして間違えたのか。理解しがたい弟の思考を懸命に解読しようとする兄の様子にも気づかず、ダイアは訳知り顔でうんうんと頷き、妄言を吐き出す。
「おかしいよね。計算し直す前までX=50だったんだよ」
「なんで二次方程式でハイパーインフレが起こってるんだ……?」
「それで兄ちゃん、このXって結局何十万?」
「もっとデフレしろ」
「……何万?」
「粘るな」
一言で往生際の悪さを切り捨てられたダイアは、そのままアクアの横へ腰を下ろす。それから黙ってじっと兄の顔を見上げた。待ちの構えである。お願いしなくても当然教えてもらえるだろうな、という末っ子特有の甘えが前面に出ていた。それには何も言わず、放り投げたペンを拾い直すアクアの姿は紛れもなく長男だった。
「いいか? この場合、平方根も因数分解も使えないから」
「えっじゃあこれ、そもそも因数じゃなかったの!?」
「いや、因数はそういう意味じゃ」
アホの弟にどう説明すべきか、どうせ教えても混乱するだけだろうから誤魔化すべきか。そんなアクアの思考を打ち切ったのは、ついさっきと聞いたのと同じような、部屋の外から響くドタバタした足音だった。そして同じく、再び扉が勢いよく開け放たれる。何度も虐められるドアを見て、アクアは壊れないかひっそりと心配した。
「お兄ちゃん大変!!」
そうして飛び込んできたのは、アクアとダイアによく似た金髪の少女。三つ子の兄妹、星野ルビーだった。どいつもこいつもノックしないな。俺のプライベートはいったい。脳裏に過ぎる言葉を発する前に、ルビーはずんずんとアクアに近付き、手にしたテキストを見せつけた。『猿に教える中学数学 基本編』。これは星4.7。
「因数がね、どっか行っちゃったの!!」
「またかよ」
天丼だった。
「というかお前もノックしろ。ダイアが真似するだろ」
「そんな場合じゃないんだって! X=0でY=0だよ!? 0=0になっちゃった!!」
「虚無じゃねぇか」
「あっ僕聞いたことある。そういうのiって言うんでしょ?」
「それは虚数だ」
そんな既視感のあるやり取りをしている間に、ルビーはしれっとダイアの横に座っていた。
「ダイアも数学?」
「うん。因数分解全然分かんなくて、兄ちゃんに相談したくて」
「私も分かんない。そもそもなんで分解なんてするんだろうねー」
「ねー、ほっといてあげればいいのにねー」
などと弟と愚痴り合う星野ルビーもまた、実のところアクアと同じ転生者である。知性はまだ無い。
「因数だって勝手に分解されて困ってるよ絶対」
「姉ちゃん、これ因数分解出来ないらしいよ」
「えっ? じゃあこれ因数じゃないの?」
「その流れはもうやった」
どこまでも明後日の方向へ進みそうな気配を感じ取り、アクアは手慣れたツッコミで流れを打ち切る。十五年も兄弟をやっていればもはや呼吸のようなものだった。だからばっさり切られた二人もまったく気に留めず、我が物顔でのほほんとくつろぎ始めていた。
「大体芸能科なんだからさぁ、試験は勉強じゃなくてもいいと思うんだよね」
「勉強じゃないなら、歌とかダンスとか?」
「そうそう! オーディションみたいで面白くない!?」
「……あーでも歌、姉ちゃんの歌かぁ」
「んー? 何か言いたいことあるのかなぁ、この弟くんはー?」
「にゃいふぇふー」
にっこりとアイドル顔負けの素晴らしい笑みを浮かべる姉を前に、弟が出来ることなど何一つない。頬を引っ張られようと脅されようと、ただただ愚直に頷くのみだ。そうして弟の素直な返事とほっぺの感触を楽しんでいると、ルビーは机の隅へ追いやられた過去問にようやく気がついた。
「あれ、お兄ちゃんも勉強してたの?」
「まあ一応な」
「ごめん兄ちゃん、もしかして邪魔しちゃった?」
「いや、もう終わってるから問題ない」
「ほほう。ならばどれどれ、採点してしんぜよう」
何故か手をワキワキといやらしく動かしながら、ルビーがノートと問題集を手に取る。ダイアも興味があったのか、それを横から覗き込み、すぐさまその中身に感嘆の息を漏らした。
「おぉ全問正解だ。すげー、兄ちゃんやっぱ頭いいー」
「……偏差値を考えればこれくらい」
「でもここまでだと、逆になんかキモイよね」
「おい」
境遇上自慢なんて絶対に出来ないが、それはそれ、これはこれ。否定されるのもなんだがムカつく。つい低くなったツッコミにもルビーはまったく反応しなかった。それどころか上機嫌に指を立て、きらきらとした男であれば、いや誰であってもつい見惚れてしまうほどの笑みを浮かべていた。それを見てダイアもニコニコだ。姉が楽しそうであれば、それ以上に自分も嬉しくなる。単純な少年だった。アクアは嫌な予感がしてますます渋い表情になっていく。難儀な男だった。
「いいこと考えた!!」
「どうせよくないから勉強に戻れ」
「私たちの代わりにさ、アクアに受験してもらおうよ!」
「僕はともかく、姉ちゃんの代わりはきつくない?」
「三つ子なんだしいけるいける!!」
いけねぇよ、という至極真っ当なアクアのツッコミは、当然のようにスルーされた。
「それでね、アクアの代わりに私たちが面接するの!」
「兄ちゃんの? どうして?」
「だって高校受験の面接って、きっと明るく元気なのが一番大事でしょ? 陰キャのアクアにはムリムリ。下手したらそれだけで不合格になっちゃうって」
「つまり、兄妹で苦手なことを分かち合おうってことかぁ、なるほどー」
「ダイアも納得するな。いい加減そろそろキレるぞ」
「ごめんなさーい」
軽い調子で反省の欠片も見えない二人の謝罪に、アクアは今日何度目か覚えていないため息を吐く。まさか本気な訳ないだろうが、このアホで能天気な二人は時々揃ってボケボケになる。こういう時は一から否定するより、アホの土台に乗る方がマシな結果になるだろう。前世から積み重ねた変人対策が今も役立つことに、アクアは妙なダメージを受けていた。
「というか、俺一人でお前ら二人分やれって言うのか?」
「あ」
「気付いてなかったのか」
「全然」
とにかくこれで、この不毛な話題も終わるだろ。そんな甘い予測は、大まじめな顔で頷き合う姉弟二人によりすぐさま打ち砕かれた。
「それじゃしょうがない」
「うん」
「分かったなら早く」
「こういう時はじゃんけんだね!!」
「勝った方が替え玉してもらおう!」
「は?」
再びあっけにとられるアクアを尻目に、仁義なき姉弟じゃんけん対決が始まる。アクアが正気に戻って二人を止めたのは、四勝四敗七連続あいこという泥沼状態に陥ってからだった。なお、三回勝負と言い出したのはルビーで、五回勝負を主張したのはダイアである。
「馬鹿な事してないで勉強しろ馬鹿姉弟。このままだとマジで落ちるぞ」
「ぶー、馬鹿って言う方が馬鹿なんだよ!?」
「そうだそうだー!」
「その発言が馬鹿丸出しだ」
肩を組んで抗議の声を上げるアホ姉弟の頭を一回ずつ叩いてから、アクアは気だるげに部屋の外を指差す。それだけでは伝わらなかったのか、同時に同角度へ首を傾げるルビーとダイアに、いつもの平坦な口調でアクアは付け加えた。
「二人とも、早く筆箱とノート持って来い」
「えっ教えてくれるの?」
「俺だけ受かるなんて、マジで洒落にならないし」
アクアはちらりと携帯の隠し場所へ視線を向け、そして一瞬目を閉じて考える。そう、これは優先順位と緊急性の問題だ。今やるべきこと、自分に出来ること、問題までの期限、その他諸々。あらゆる思考で自分を誤魔化してから、妹と弟から目を逸らしながら囁くように告げた。
「……別に、急ぎの用事も無いしな」
「ありがとう兄ちゃん!」
「うわっツンデレだ! 男のツンデレとかキモイから、マジで止めた方がいいよ?」
「ツンデレじゃねぇ」
「はいはい。お兄ちゃんってばほんと、ツンデレでシスコンでブラコンだよねー」
「増やすな」
続きはないです。