ギラバニアでは、辺境地帯の植生調査が可能になった。
イシュガルドでは、蒼の竜騎士と光の戦士がニーズヘッグを討ち果たした。……光の戦士は妙なミニオンを連れ、雲海を飛び回るようになったという。
そしてグ・ラハを中心にした植生調査隊の調査日誌の冊数が片手の指を越えた頃、『彼女』たちが『魔大陸』に向かったと聞いて、彼はミンフィリアに休憩を勧められたのもあり、皇都イシュガルドに足を運んだ。どうしたら行けるだろうかと聞いただけで、彼女は皇都滞在許可を取り付けてくれた。『彼女』の活躍の成果でもあろうが、盟主という存在の大きさを感じた。
(……生きている)
街が人が、動いている。空気さえ生命を感じさせるような気がした。
……何せかつて彼が目にしたイシュガルドは一面廃墟だったのだから。
戦神ハルオーネへの信仰が根差す山の都にあって、その寒さと石畳は峻厳な宗教観も匂わせる。
それなのに暖かみを感じてしまうのは、彼がもっと冷たい様子を知ってしまっているからだ。そこに少し自身の無粋を感じて彼はしょげる。しかし、在りし日の姿を目にできるのが幸せなのに比べれば小さなことでしかない。この幸せを、維持できるとしたなら。
(ビッグスⅢ世は皇都決戦に駆け付けたあんたの姿を気に入っていたけど、オレは魔大陸から帰還した時のあんたの頑張りが切なくてたまらなかったよ)
盟友の死。そして彼の志をともにと願われた地で、旅の仲間を亡くし、失くした。それでも彼女は気丈に笑い、ミドガルズオルムの背に乗って、皇都の空に凱旋した。
そこで待っていた人々に吉報だけを届けて、悲報は露と漏らさなかった。苦しい記憶だろうから『好き』だなんて言いきれない。だけど、いかにも頑張りすぎる『彼女』らしくて、労しくてたまらないのだ。
そして。
もしかしたら『今』この地では、そんなぼろぼろに過ぎる場面ではないかもしれないのだ。気がかりな人物は幾人かいるがあるいは。だからグ・ラハは期待を込めてランディングを目指す。ここで今彼女が、心から笑えたらいい。
しばらくして、少しずつ少しずつ増えていった人垣の向こうに、彼は『彼女』の笑顔を見た。
(……そっか)
冷たい雪が、輝いた気がした。
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「なんだか騒がしいわね」
「え?」
グ・ラハが調査日誌を精査してデータ化していると、ヤ・シュトラがそのまとめのほうだけではなく日誌のほうにも目を通して、時折質問や助言をし始めてくれた。こういうことをしてくれる人がいたほうが早い場合もある。ありがたく思っているとふとそんなことを彼女が言って、彼は耳を澄ませた。しかし分からない。フードを外すという選択肢がふっと頭に浮かぶが、それは断じてやらない。
そのうち、数人が走って来るような気配を彼が感じた時には、ヤ・シュトラは既に杖を構えて出入り扉を見据えていた。それに倣ってグ・ラハが弓を構えた時、勢いよく開かれた扉から姿を現したのは、イシュガルドはフォルタン家の騎兵数名と、オルシュファン卿だった。
敵襲なんかではなかったことに安堵をおぼえたはずが、身体が強張る。
……これは。
これは一体、どういうことですか。
ヤ・シュトラも微動だにしない。
「……騎士、さま……いっ、たい……?」
やっとそれだけ言葉にしたのは、グ・ラハだったような気がした。
だが、オルシュファンは答えてくれなかった。
ただただ歯を食いしばって、声をかけたグ・ラハを見つめてくる。
その腕の中に居るのは、どういうことですか。
「………………レ、イ……?」
震える手を伸ばすグ・ラハに、オルシュファンはゆっくりと歩み寄る。
言葉交わさずとも通じ合っているのか、まず騎士の一人がそっと敷き布を置いた。そしてそこに、オルシュファンが腕に抱えていた『彼女』を、ゆっくりと降ろしていく。彼が肩を支えてくれているままだから、彼女は彼の腕に背をもたれて眠っているように見えた。
しかし断じて眠っているのではなかった。
胸部や口元を染めるのはおびただしい色の赤だった。
……命が宿っていない。
「……血が散ったのだけは分かった。しかし、音も衝撃も一切何もなかった。……何も分からず、すまない……!」
苦し気に濁ったオルシュファンの声音は彼も血を吹いているように思わせる。実際もしかしたら……立場も何もかなぐり捨てて泣き叫びながらここまで『彼女』を送り届けてくれたのかもしれなかった。
オルシュファンに目で訴えられている気がして、グ・ラハは彼女の肩を支える役をそっと引き継ぐ。
すると、オルシュファンはきわめてゆっくり立ち上がった。
「神殿騎士団本部から皆より先に出た彼女は都市内エーテライトに向かって歩いていた。
「……おね、が…………しま…………」
言葉が上手く出てくれない。しかし本気で願っているかも怪しいのだから仕方がないのかもしれない。犯人なんてどうでもいい。彼女は、彼女は。
グ・ラハは何かを振り切るように頭を振った。違うだろう!!!
「お願いします」
自身の声なのか怪しいほどに濁った声を絞り出し、彼はできるだけはっきりと願った。
(『犯人なんてどうでもいい』ことなんかあるか!! オルシュファン卿たちだって皆……!)
犯人を見つけられたって彼女が帰ってこないことなんて誰もが分かっている。
しかしこの落とし前をつけないわけにはいかないのだ。だから悲しみも弔いも今は抑えて走り出そうとしている。
こんなふうに直に彼女のことを石の家に届けてくれたのだって、できうるかぎり最大の配慮なのだ。下手をしたらイシュガルドで死した救国の英雄の埋葬はイシュガルドで、なんてことになっていただろう。
「彼女を連れ帰ってくれて、ありがとうございました……!」
なんとかそれだけ言って頭を下げると、肩に、そっとチェーン防具の手のひらが乗せられた気がした。言葉はなかった。
グ・ラハが顔を上げられないうちに、彼らの足音が遠ざかっていく。そしてそれが扉の閉まる音で遮られた後、カランという乾いた音と、布地が床に落ちるような小さな音が聞こえた。
「…………こんな、の……癒せ、ない、じゃ、ない…………」
すぐ近くで聞こえたその蚊の鳴くような声に顔をあげると、へたりこんだヤ・シュトラが労しそうに彼女の頬を撫でていた。その表情は言葉に表せるようなものではなかった。
グ・ラハはまた顔を上げられなくなった。
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「……ああ。総当たりみたいなことをして正解だった。『エーテルを強制停止させる』ような植物は自生していない。単体で形成される毒素じゃなかったんだ。人の手が加わらなければ生まれない毒だが、しかし確かにこの成分が必要だ」
「……こういうものを目にするたびに思うわ。初めにやった人間は、いったいなにがしたかったのかってね」
「同感だ」
「そして、もし今帝国にあなたの言う『黒薔薇』は無かったとしても、この植物がある限り、その何がしたかったか分からない存在は現れる可能性がある。植物やそいつを滅ぼそうとしてもいたちごっこが終わらないだけだわ。だから……『周辺のエーテルを強制停止させるような毒ガス兵器』への防衛策を考えたほうがよほど有意義、というのが私の答えよ」
「……そっか」
「……だからね。ル・ヴェト・ティアを始末しようとしているなら、私が許さなくてよ」
鋭い声と眼光を壁の作る陰へと飛ばしたヤ・シュトラに、グ・ラハはぎょっとした。
「まったく、怖いお嬢さんだ」
そう言いながら姿を現したのはサンクレッドだった。
いったいどうやって彼の図体を隠していたのか、皆目分からない。
「し、しま、つ……?」
彼の諜報技術も気になるが、それより、グ・ラハはサンクレッドに消されるところだったのだろうか?
「考え得る最悪の可能性は、『そもそも黒薔薇なんて存在していない』ことでしょうね」
「……っ!?」
「そしてその場合における最悪のシナリオは、『ル・ヴェト・ティアが暁に協力させて毒ガス兵器を作ろうとしている』こと」
「そんなことは……! っ……いや、何も説明できなかった私が悪い……」
しょんぼりと垂れる耳と尻尾に目をやって、サンクレッドは小さくため息をつく。
「正直俺もお前が他人を騙せるような奴だとは思わない。だが、こういう組織の中においてなら、『分からない』部分を流しておくわけにはいかないんだよ」
「……ああ。工作員の可能性がゼロではないなら、警戒を解くことはできないんだろう。けど、そのことを甘く見ていた。みんなは、警戒し続けることになっていたんだな……ごめん」
その様子がいたたまれないので、サンクレッドはぽすんとグ・ラハの頭の上に手のひらを置いた。
「まあ聞け。その警戒し続けた結果、俺にはお前の素性がなんなのかが、分かった気がしたよ」
「……!」
「そしてその素性は、
「……っ!」
そんなことを言うなら、彼はきっと正解にたどり着いてしまったのだろう。そんな所まで分かってしまったのか。
本当に、諜報技術で賢人になるなんて、どれほどのものなのだろうか。
「お前はほとんど石の家で研究しているばかりだったからな。尻尾を掴む糸口すらないように思えていたよ。ただ、比較的ロウェナ記念館によく通っている印象を受けた。それだけだったら冒険者なら普通のことだ。しかしなかでも『ダイヤモンドフォージ』に行く頻度が高いとなると話が変わってくる。復古調装備のファンにしては着ているとしてもバードアタイアだけだ。しかも最近じゃ投影してるだけだろう? だからそうメンテナンスが必要とは思えない。とするとワケありのほう、ってことだ」
「……!」
「おっと。大丈夫だ。あそこを張るなんて無粋な真似はしていない、というよりできない。俺にはあの幻術を破れるような魔法の知識はないんでね」
「学びたければいつでも協力すると言っているのに、都合よく姿がなくなるのよね」
「いや、それはだなあ、というかいくらなんでも、不特定多数のプライバシーを侵すためなんて理由では幻術を学びたくない」
「別にフォージの幻術を破るためだけの知識とは言っていなくてよ」
「おま、ああ、話が逸れてるじゃないか、戻すぞ」
二人のじゃれ合いでグ・ラハはふと思い出す。この二人はエンシェントテレポを使わなければならない状況には追い込まれなかった。だから今もヤ・シュトラは肉眼でモノを見ているし、サンクレッドはエーテル操作が不得手になってしまってはいない。不得手になっていないからこそ、幻術を学ぶ学ばないの話になっているのだろう。……この様子では、不得手ではないにしてももともと苦手意識がありそうだが。
……もしかしたらサンクレッドのこの現状は、ラハブレアに身体を乗っ取られることがなかっため、なのかもしれない。しかしさすがに、聞いてみたりできる話題ではないだろう。
「で、ル・ヴェト・ティアは戦闘となるとバードアタイアを着ていても、他ではそのローブですっぽりだ。ワケありなら何か隠したいものがあるんじゃないかって疑ってしまうわけでな」
「……」
グ・ラハはどんどん退路がなくなって行ってそわそわする。しかし、正解にたどり着いていてほしいという期待があるのも自覚してしまっていた。
「そこに加えて、クライブのやつがな、たまにお前のほうを見て首を傾げるんだよな」
「……な」
やはり彼には気付かれてしまっていたのだろうか。
思わず声が出てグ・ラハは内心しまったと思う。これではクライブがそんなふうなのに心当たりがあると、自分からバラしたようなものだ。
「まあ、どうしたか聞いても答えちゃくれないんだが」
「……」
なんだか、彼らしい気がした。
昔の知人かもしれない者の秘密は、たとえ今属する組織の者にであっても明かさない。
「そして、ミコッテ族のサンシーカーであること。赤い髪と赤い目。素性を明かす時期ではないと言っていた時期と、レイにできるだけ鉢合わせしないようにしていたこと。その後研究に集中しすぎて明かすタイミングを失っただろうこと」
グ・ラハは困った顔で苦笑した。
いざ正体に近づいていかれると、期待していたというのに、どこか怖い。
何で察されてしまったのだろう。自身はどう迂闊だったのだろう。
本当は、隠す必要があったのかすら、未だに分からないでいるようなことだ。単なる怖がりなだけだったのかもしれない。それでも、厳重に隠そうとして来たはずではあるのだ。
「しかし、シルクスの塔は閉ざされていて、再び扉が開いたというわけでは絶対にないらしい。ならば」
サンクレッドの声を聞きながら、グ・ラハは神妙な顔で瞑目した。
「隠しているのはシャーレアンの賢人の印。そして塔に託されたものを考えれば、『黒薔薇』が実際に投下されたような未来から来た、『グ・ラハ・ティア』。そうなんだろう?」
グ・ラハは瞑目したまま、少しの間熟考した。
そして。
「……それを肯定していいのか、オレには分からない。そうすることで何が起きるのかが怖い。それに……オレが知ってる歴史と、ここは随分違うんだ」
サンクレッドとヤ・シュトラは、それを聞いて、小さく驚いたようだった。
「……なら、明かすタイミングを失したのでは、なかったのか」
「ああ。明かしていいのかが、分からなくなったんだ」
「……そうか」
サンクレッドは一瞬瞑目した。そして自嘲の笑みを浮かべる。
「俺自身も、理解する、か……その通りだったよ。詮索したことすら後悔した。お前は本当に最初からずっと本当のことしか言ってなかったし、真摯にこの世界を、『黒薔薇』から救おうとしてくれていたんだな」
「……そんな、たいそうなものじゃない」
今度はグ・ラハが自嘲の笑みを浮かべて、サンクレッドは彼に気づかわしげな表情を向ける。
「オレは、塔と共に託された願いの大部分を、叶えることができなかったんだ。『黒薔薇』に関する調査を進めることは、その中でほぼ唯一と言っていい『できるかもしれないこと』だった。そしてその先に叶えたかったことのひとつも……オレは、叶えられなかった」
「……」
サンクレッドは悲壮な顔をする。
「……レイ、か」
グ・ラハはくしゃりと表情を歪めて、瞑目して……ゆっくり、小さく、頷いた。
そしてもう抑えていられなかった。情けないと思っても、止まらない。ぽたりぽたりと涙がこぼれて、責を切ったように止まらなくなってしまう。
彼女の命を奪った者については、今だ杳として知れない。その痕跡はひとかけらも残されていなかった。
誰もが肩を落としている。
それでもまだ、この世界には未来があった。
きっと、ここに居る『グ・ラハ・ティア』あるいは『ル・ヴェト・ティアを名乗る者』が、全身全霊を懸けて繋いでくれたものだ。
「……お前が、これをまとめてくれたから、『黒薔薇』に対する防衛策はきっと生み出せる。だから、お前は願いをきちんと叶えたさ。だから……今はもう休んでくれ。そんな茨の道を歩いたやつをこれ以上鞭打ちたくない」
「……けど!」
「納得しないと言うなら、その後でまた歩き出すのもいいさ。きっとお前みたいなすごいやつは、これからも何かを成し遂げていけるよ。それでも、そのぼろぼろさで走り出したら、ぶっ壊れる」
「……」
黙り込むグ・ラハに、サンクレッドはにっと笑った。
グ・ラハは小さく目を見張る。
「……ただ、ぶっ壊れないために提案してみたい希望はあるんだ」
「……希望」
「ああ。ただ、俺の無責任でもある。しかし、きっとお前には希望が必要だ」
無責任を背負ってすら、提案しようとしてくれている。
グ・ラハは少しの間瞑目した。そしてゆっくりと瞼をあげ、真剣な顔でサンクレッドを見つめる。
「……もしよかったら、聞かせてほしい。オレが立ち止まらなくても済む方法を」
それを聞いて、サンクレッドは苦し気な顔でグ・ラハを見つめた。
やはりそれを選ぶのか、と言いたげな表情だった。
「……もう一度、時を越えるんだ。そしてレイを救うために奔れ。……このデータがあるなら、『黒薔薇』については『今回』よりも近道ができるだろう。その分で、彼女を守ってくれ。そして、お前をひとりにするのはごめんだ。できるようなら俺を一緒に連れて行ってくれ。なあに、この時代の未来はヤ・シュトラたちが切り開いてくれるし、俺はそれに少し遅れて後から追いかけるだけだろう。世界のことなんざよくわからないが、なるようになるんじゃないか」
「……!」
グ・ラハは悲壮な顔で目を丸くした。
「そこまで……しかし、未来からはエネルギーの問題などで察しの通りオレしか移動できなかった。……それと……再びの時間遡行は、一度失敗しているんだ」
「……なんだって?」
「『黒薔薇』の信憑性を示しづらいなら、現物が存在する時間までさかのぼればあるいは、と考えた。しかし……そもそも転移の目標地点を定めることができなかった。試行錯誤すら、できなかったんだ」
「……!」
サンクレッドは眉根を寄せて俯いた。
「……本当の本当に、無責任だった、な。すまない」
「……ねえ。待って」
ひとり熟考するそぶりを見せていたヤ・シュトラが声を上げる。
二人は彼女に視線をやった。
「目標にできなかった時間は置いておいて……一度可能だった時間を再び目標地点に設定するのはどう? あなたがここに来た地点よ」
「……!」
「少なくとも一度は設定可能だったということだわ。試してみる価値はあるのではなくて? ……無理にとは言わないわ。私もあなたにはもう、自由に生きてほしいと思うもの」
もちろん放逐するという意味ではなくてよ。と彼女は重ねる。
「『黒薔薇』について伝えてくれた恩返しをたっぷりと受け取りながら生きてもらうわ」
グ・ラハはぽかんと小さく口を開けた。
「そして……そうね。エネルギーの問題と言っていたけれど、あなたは、どれくらい未来から来たの?」
「……二百年後だ。そして本当は今から五年前、霊災直後にここに来た。けれど……『今』のオレが塔とともに眠っている理由と同じく、皇血が薄れるのを恐れて一度眠った。黒薔薇の現物が存在するかどうかと、彼女が帰ってきているかどうかの問題で、さ」
「……なるほどね。二百年と五年ならかなりの差だもの。もしかしたら二人行けることもあるのではなくて?」
「……!」
「いずれにしろ試してみなくてはね」
不敵に笑うヤ・シュトラに、グ・ラハは瞑目して、しみじみと何かを噛みしめるように微笑んだ。
(決してあきらめることのないひとたち。だからこそ……色んなことを成し遂げてきたんだよな。今はその力も借りられるというなら……きっとまた、走り出せる)
「……ああ!」
グ・ラハは眩しそうに微笑んで、目の前にいてくれている二人を見つめた。
「ただ、本当に数日は休んで頂戴。……好きなものを食べるとか、何か好きな事をするとか、ね。何なら付き合うわよ」
好きな事。
そう言われてグ・ラハの頭にふと浮かんだのは、歌うこと、だった。
思えばもう、戦歌はともかく、随分故郷に伝わる唄は歌っていない気がした。
しかし、人前で堂々と歌う気が、今はしない。
「……そうだな。少し、休んだら……散歩でもしてこようと思う」
「そう」
ヤ・シュトラは優し気な微笑みを浮かべた。
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「扉を開くことだけでは、今眠っている『グ・ラハ・ティア』を起こしてしまうことはないはずなんだな?」
「ああ。確実に起こさないかどうかは分からないから今まで塔に入るのは避けていた……というより、もう来ないつもりだったんだが……この時の目を覚ますためのトリガーは、その意思を持ってオレを起こしに来た人がいれば、だったんだ」
「なるほど、な。じゃあ、システムか何かに対して意味があるかは俺には分からないが、せめてできるだけ静かに進む」
「なら私は一応この扉の外で見送るわ。きっとできるだけ静かなのにこしたことはないもの」
「そっか。ヤ・シュトラも本当にありがとうな」
「私は礼を言われる側ではなくてよ」
そんなことを言われてグ・ラハは苦笑する。
「ああ、そうそう。遡行できたとしてどういう仕組みになるかは分からないけれど、これは持っていく必要があるかしら」
そう言って彼女が差し出したのは、先日までまとめていたギラバニアにおける植生調査に関する記録だった。……ちなみに結局、数時間で走り出そうとしたグ・ラハは二人に抑えられ、そして数日『監視』するように付き添われ続けた。
「いや、オレは記憶力だけは良いんだ。それはここに置いていく」
「そう」
じゃあ貴重な資料は大事に保管させてもらうわね。と、ヤ・シュトラは微笑んだ。
「……それじゃあそろそろ、行ってくる」
「ええ。行ってらっしゃい」
微笑んで送り出してくれるヤ・シュトラに背を向け、グ・ラハとサンクレッドは歩き出した。
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〘ピピッ。五年前に転移目標地点を設定いたしマス〙
そう言った『玉っころ』は、そのままよく分からない数値のようなものや単語のようなものを述べ始めた。言っていることがさっぱり分からないことに無力感を感じはするが、目標地点が設定できるらしいことへの一先ずの喜びがその淋しさを押しのけてしまった。
「ヤ・シュトラは……すごいな。諦めさせないでくれて……どれだけありがたいことか……っ」
声を詰まらせるグ・ラハを、サンクレッドは切なげな微笑みで見つめる。
「俺たち二人を転送することは可能か?」
〘ピピッ。計測、計算、開始。……算出。プロセス完了。お二人を転送するには、エネルギーが不足していマス。充填予測は……ピピッ。凡そ三百年後になりマス。太陽エネルギー集積システムであるダラガブが現存していれば、もっと早かったでショウ〙
サンクレッドの問いに返ってきた答えに、二人の気分が沈む。
「……三百年後か。シルクスの塔は内部に居る者ごと時間を止められるんだろう? それまで眠るという手がありそうだが……」
「……いや。オレの知る歴史とは随分違うとはいえ、今眠っている『グ・ラハ・ティア』の可能性のひとつを考えると、二百年後に目覚めて、そして二百年分かそれ以上のエネルギーを消費して転移を行う可能性がある。時間が定まっている以上早いほうのそれが優先されるとすれば、それから更に充填まで三百年以上が掛かる可能性があるわけで……二百年後にオレたち二人が、誰かに発見されると何が起こるか分からないし、こちらの転移目標時間も定まっている以上、芳しくないような気がする」
「……そうだな。理屈は通っていると思う。しかし、とすると……なあ、どちらか一人だけを転送するとしたら、エネルギーは足りるのか?」
〘ピピッ。計測、計算、開始。……算出。プロセス完了。ピピッ。お一人であれば、凡そ二十三分後に可能デス〙
「……劇的な差だな。しかし、一人につき三百年分ほどのエネルギーが必要ということか……? もしくは、『二人同時』というのが何かの負担になるのか……まあ、仕組みも何も分からない以上、今俺が考えても頭痛がするだけだ」
サンクレッドは肩をすくめた。
グ・ラハは瞑目する。
「……どちらか一人というなら、それだけは、譲れない」
「……そうか。あまり納得したくはないが……まあ、俺の役目ではないような気もする、な」
心配げな表情でグ・ラハを見つめるサンクレッドに、グ・ラハは微笑んだ。
「悪いな」
悪びれなくそう言われてサンクレッドは苦笑した。
「……せめてその二十三分後の見送りはさせてもらうぞ」
「……ありがとう」
そして二人は、それまでに他愛もない会話を交わした。今後についてとかなんとかを話題に選ばなかったサンクレッドは、グ・ラハの気持ちを少しでも軽くしようとしていたのかもしれない。
胸裏でも重ねて感謝を抱えながら、その時を迎える。
〘ピピッ。目標エネルギーの充填完了を確認。転移の実行を開始しマスカ?〙
「……ああ」
頷いているグ・ラハを見つめるサンクレッドは、一瞬どんな言葉をかけたものか分からず迷い、そして選んだ。
「……それじゃあ、またな」
グ・ラハは小さく口をあけた。
「……ああ……! また……!」
くるくると開いたり回転したりと独特な動作をしつつ、『玉っころ』が色々な数値や単語を並べ始める。
〘ピピッ。観測、計測……目標地点確定。……ピピッ〙
断片的に分かる言葉はあるが、やはり仕組みや理論などは何も把握できない。
〘ピピッ。お連れ様は少し距離をおとりくだサイ〙
言われてサンクレッドはゆっくりと数歩下がった。
〘ピピッ。安全マージン確保。転移対象確定。グ・ラハ・ティア様の…………を、目標地点まで誘導いたしマス。……ご安心くだサイ。当端末の最初の名称を『誘導システム』。設定された目標地点まで、必ず誘導いたしマス。……ピピッ。……コンパイル……リンク……。……転送開始まで、残り十秒。……五……三……ピピッ。それでは、転送を開始いたしマス。エーテル酔い等を極小に抑える設定には成功していマスが、念のため衝撃などに備えてくだサイ。ピピッ……ピピッ……〙
その『玉っころ』のガイド音声や、周囲のエーテルか何かが揺らいでいる気がした。
〘……ピ……ピッ…………転移……に…………成……功…………いた……し…………〙
ガイド音声や空間やなにもかもが間延びしたようなよく分からない感覚に包まれ────。
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サンクレッドとヤ・シュトラは石の家の中でテーブルを挟んで座り、レイ・ランバタルに頼まれている件について……そこで二人ははっとした。そして顔を見合わせる。
ここは……そうだ。
レイ・ランバタルは生きている。
しかし、何かこまごまとしたことや、少し大きな出来事について、事実が二重になったように思えてくらりとして……段々と、片方が薄れて行くのを感じた。そして、なくなったことも薄れ、なかったことが認識され……。
危機感を覚えて二人は同時に気を張る。そしてどうにか……薄れて行ったものがあることを記憶に留めることに成功した。そして、絶対に覚えていなければいけないことを必死に手繰り寄せ────。
「……どうしたんだ? コーヒー、要るか?」
眩暈のようなもののため額を押さえるようにしていたところに掛けられた声に、はっとしてふたりはそちらを見遣った。
「グ……ル・ヴェト・ティア……ありがとう、いただくわ」
二人はマグを受け取って、そして。
「……なあ。お帰り、って、言っていいのか……?」
サンクレッドがぽつりとそう言うと、グ・ラハはみるみる目を丸くした。
そして、くしゃりと相好を崩す。
「……ああ。ただいま」
三人はお互い、眩しそうに微笑んだ。