光だった彼女のループ譚   作:千里亭希遊

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7.あなたがここにいてくれるということ

 やさしくてていねいなくちづけがつづいていた。

 

「……ふ……んぅ……」

 

 ぼんやり気付けば時折どこかで聞こえていたその声は、男性のものでは、ここに、いるこのひとのものでは有り得ないのが分かるから、それは彼女のもので、けれど勝手にこぼれていってとまらないのであろうもので、そして彼女本人にも自身のものにはあまり思えないかわいらしげな……ぼんやりしてもうよく分からない頭にもそんなふうに、グ・ラハのものでは有り得ないことが分かりすぎるもので、しかもなまめかしい吐息の感じられるらしきもので、ますますどこか遠くに、聞こえていた。

 

 ふとその優しくて柔らかな感触が離れていったのが分かって、けれどとても近くにあってくれるのは分かって、彼女はうっすらと瞼をもちあげる。

 

 頬を包んでくれている彼の手のひらも優しくて、夢のようで、彼女はゆっくりと瞬きを繰り返していた。

 

 けれど目の前に見えた彼の切なそうな……苦しげな表情を認識して、彼女はぼんやりしているなりにはっとして、焦点を懸命に、合わせる。

 

 彼の指が目元をそっと指で拭っているのに気づいて、彼女もグ・ラハと似たような表情になっていった。

 

 泣いては、いけないのに。

 さっきな気がする間に泣き出してしまってとめられなかったのを思い出す。まだ、とまっていなかったんだ。

 

「……オレで、ごめん」

「……!?」

 

 彼女がこんなふうなのは、決して彼が嫌なのではない。

 

「……ち、が……ごめん……な、さい、ごめ、ん……こんなことさせて、ごめ……」

 

 だって本当はこんなふうにするひとではない。

 ますますあふれる涙のもとになっている感情は多すぎてもうなんなのか掴めない。涙というのはこんなにも情けなくとめられないものだったのかと、そしてそれが彼の自責を呼んでいるのだと、彼女は張り裂けそうな想いを抱える。

 

 呼吸もおぼつかないような様子の彼女にいたたまれない感情を抱えて、彼はそっと彼女の額のあたりをなでる。

 彼女は切なさに目を細めた。

 

 私はこんなふうにしてもらえるような人間じゃない。

 けれどその言葉はうまく出て行ってくれない。

 

「麻痺させてとかクソ野郎すぎる」

 

 吐き捨てるように言うグ・ラハに彼女は、苦く、笑った。

 しかしそうできたのかは彼女自身にはあまり、分からない。

 

 ぴりぴりと痺れる感覚が続いていて、五感が鈍っていて、触覚が浅い。身体も満足に動かなくて、呼吸すら億劫で。けれど。

 

「……そ、れ……は……私の、せい……だろ……」

 

 あなたのせいじゃない。

 

「……!」

 

 グ・ラハが目を見張っている。

 その瞳は、両方ともが、少し彩度の低い、彼女が出会いからずっと綺麗に感じているあの緑色をしている。

 そしてその顔は、記憶の中にあるより少し大人びてさえいる気がした。

 

「……あな、たを……追い詰めてる、のは……」

 

 私だ。

 

 彼にあとがないのは、繰り返しに巻き込んだ、彼女の招いたであろう現在のせい、だ。

 そして彼がこんなふうなのは、彼女をとめるため、なのだから。

 

 また彼は、彼女を助けに来てくれたのだ。

 ……こんなふうになってまで。

 

 誰に、彼自身にどういうふうに見えようと、彼女には責められるものには、思えない。

 

 痺れているのなら涙なんて出ていく器官からしてうまく働かなくなってしまえばいいのに。

 

 ふうふうと浅い呼吸を繰り返す彼女の頬を彼は撫でる。

 彼女にはその彼の手のひらの感触もぴりぴりしたものの向こうにあってぼんやりしているけれど、確かに触れられているのは認識できていた。唇の感触も、それを重ねている距離の近さで降って来る彼の赤い髪が見えていたのも、グ・ラハと彼女がそうしていたのを彼女に認識させていた。

 

 けれどそれは夢のように思えることではあって。

 どうして、こんなふうに、してもらえているのだろう。

 

 この行為の果てに彼が描いてくれている未来は、彼女には優しすぎるものだった。

 

「……ね……え、や……っぱ、り……グ・ラハ、とは……たくさん、話が、し……たい……だから……」

 

 うまく出て行ってくれない言葉をそれでもどうしても絞り出したくて、彼女は必死に空気を貪る。

 

「そんな、かお……するくらい、だったら……げん、き……や……く、を……」

 

 麻痺をといてくれないか。

 彼女が自力ではできそうもなかった。

 

 彼は悲しげなまま、苦し気なまま、そのうえ更に真剣な表情にまでなって、少し考え込んだようだった。

 まだまだ、彼女は必死に空気を貪る。

 

「……あな、た、から……逃げる、つもり……な、い、か……ら……」

 

 逃げるつもりはないけれど、話した後で彼がやめようと思ったなら。

 もう、もう……それでよかった。

 こんなになってまで彼女を追いかけてくれた彼は、彼女なんかから解放されてほしくて、もう自由に生きてほしくて。

 

 ふと、最初の記憶が、呼び起こされる。

 

(……このひとは)

 

 自分を捨ててばかりだった。優先しなかった。そんなひとだった。

 それが、いやだった。

 そのあとやっと、彼自身の人生を選び取ってくれたのかもしれなくなって、そういう時間を見せてくれて、そんな姿に彼女はしあわせを感じられて。

 

 それなのに。

 

 彼は。

 

 あの、月に至る戦いで。

 

 

 

 

 彼女より、さきに、しんでしまった。

 

 

 

 

 いくども、いくども。

 

 

 

 

 

 

 

 いや、だった。

 

 

 

 

 

 それでも、ずっと、見届けた。

 

 

 もっと、もっと、強くなって、彼の、あのさいごのときを、変えたかった。

 

 

 ……変えたかったら、同じ歴史のさきで乗り越えなければ、そこまでたどり着けないことすらきっとあって、どれほど悔しい過去だろうと、みんなの選び取った決断を見届けて、そのさきを、切り拓かなければいけないと、ずっと、ずっと、思っていた。

 

 己の視点の中にまだ見ぬ未来しか、変えようとしてはならない。

 

 そう、思っていた。

 過去をいたずらに変えることをよしとしなかった、あの蛮神の決断も眩しかったから。

 

 ただし、例外が一つ。

 彼女は、そのアレキサンダーが嫌った慢心の繰り返しとは絶対的に異なる過去改変を知っている。

 だから、その『もうひとつの未来』をもたらしてくれた多くの人々とグ・ラハ・ティアには、世界には、確かに別の未来があったのだ。

 

 ただし、グ・ラハ・ティアが彼女の視点に届けてくれた希望のおかげで、第八霊災が起こった未来は彼女には見えなくなった。だからすでに知っている歴史へ反逆することも、それゆえに未来を切り拓くことができることを教えてくれていた。

 ただ、このひととこのひとを送り出した人々は、特別だ。

 彼女ひとりが彼女ひとりの視点の中で歴史を変えたくて過去になにかしようとしても、彼らのような、アレキサンダーさえ認めてくれそうな『長き歩みの果てにひとびとがつかみ取った成果』にはなれなかった。それこそただの独りよがりで傲慢な破壊になった。

 

 

 世界の行く末というのはきっと、どこかをすこし違えただけで、ちがうものになってしまう。

 それは彼女自身が変えに変えてきことなのだから、実感すら、あることだった。

 

 

(……どうしたらいいのかがもう今はわからない。それほどまでに進みすぎてしまった。皆があるいた道を覚えて、抱え続けて、進むことが、つらいと、思ってしまった)

 

 彼女が破壊しなかった歴史に、ふたたび戻れることは、あるのだろうか。

 だってもう、すでに第一世界が百年前に滅びた世界線しか知らなくて、その前には手が、届きそうもない。

 アルバートたちと対峙することさえもが、存在しなくなってしまった。

 

 今、この先のどこかでミンフィリアの決断を妨害しなかったとしても、ミンフィリアは第一世界には、行けない。

 

(たいせつな失いたくない人たちを失わないようにしたさきで、膨大なものを、失わせてしまった)

 

 どうしたら、いいんだ。

 もう、私にはなにができるんだ。

 どうしたらいいんだろう。

 どうしたら……。

 

 

 

 

 麻痺しているからなのか彼女の中でぐるぐると袋小路かもしれない思考がめぐる。

 たいせつな彼に話を聞いてほしいと言ったがゆえ、なのかもしれなくても。

 

 わけがわからなくなっていた。

 

 話したとして同情を求めるだけにならないか?

 

 もう、なにも、わからない。

 

 

 

 

 少しの間彼女を見つめ続けていた彼は、やがて黄緑色の透明な液体の入った小瓶をとりだした。

 エスナやピーアンを使用できる彼女にとってはもう随分目にしたことがないものだったけれど、錬金術師の心得があるおかげかその効果がきちんと見えたような気がした。元気薬だ。

 

 彼女は微笑んだつもりだった。ただ、ぴりぴりと麻痺しているからそうできたかは分からない。

 

 けれどその小瓶の中身はグ・ラハのほうがすべてあおってしまった。

 彼女は目を見開いた、と思う。どうして?

 

 けれどそれから彼は彼女の口を塞いだ。彼女は甘いながら薬味の感じられる液体が少しずつ口内をたどっていく気配を感じる。

 これは。

 彼が……口移しに飲ませてくれている。

 考えてみれば麻痺しているから自力ではうまく嚥下できたかはあんまり分からないなと思いながらも、彼女は状況にくらくらした。

 

(こんな、の……物語のなかの、話じゃ、ないのか……)

 

 そういうものを彼女はあまりたくさん読んだことがあるわけではないけれど。

 現実味が無くて、夢、みたい、すぎる。

 

 ぽーっとしながら、彼女は眠気のようなものに襲われた。

 この薬に眠くなるような副作用があるなんて聞いたこともないのに。

 

 考えられるならヒトの身体の自浄作用が少しは働いて来ていて、服用量が過剰ぎみになったのかもしれない、が。

 

(たしか、ウルフの牙、も、材料に……でも成分的なもの、思い出せない、な……)

 

 あまり使用しなくなった薬品のことなんてど忘れしていてもおかしくはないだろう。

 

 彼女はすぐに糸が切れたように眠ってしまった。

 グ・ラハもそんな副作用があるなんて聞いたこともなく、彼女に無理を強いたことのほうが心に影を落とす。

 

 労わるようにそっと、彼は眠ってしまった彼女を抱きしめた。

 

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 石の家に一番近いアパルトメントはリリーヒルズにあるものだった。

 ミンフィリアをはじめとする暁の皆からの厚意はあれど、正体を隠したい身では石の家で寝泊まりまではしたくなかった。

 

 はじめのうち彼には五十万ギルなんて部屋代を払えるほどの手持ちはなく、野宿や宿屋の利用を転々と繰り返しながら冒険者として貯金を続けた。そんな生活の中で無駄にサバイバル能力も伸びていく実感は、あまり時を経るべきではないかもしれない身体ではなんだか複雑でもあったり、しかしそうやって生き延びるためのたくさんの知識や技術を得ていけていることは役立たないものでは有り得ないから、どこか充実しているような感覚があったりも、した。

 

 そして彼の所持金は時間を繰り返すほどに大きくなっていったため、今の彼は自身のものとして一部屋を保有している。

 ……どういうわけか最初に購入できた時以降、遡ったのちに再度購入手続きを経ずとも、その部屋はグ・ラハ……もとい、『ル・ヴェト・ティア』名義のままになっていた。

 これについては、冒険者登録についても似たような現象が起きている。

 

『……ん? きみはどうやら、既に登録済みのようだけれど』

 

 ミューヌにそんなふうに不審がられて、最初はグ・ラハも困惑するしかなかった。

 冒険者登録というのには単に紙の上だけのモノではなく、魔法的な何かで『本人確認』のような認証システムが内在しているらしい。それで重複登録が起こらないようになっている。

 考えてみればそうではないと詐称などが起こりかねないだろうから、そういうシステムがいつかの時代に開発されていたのだろう。

 

『もしかして、他の都市でむかし登録していたら必要がないのか? 冒険者ギルドって、それぞれの都市の独立した組織ではなかったりするのか?』

『ああ、そういうことなんだね』

 

 なんとかそう誤魔化すと、ミューヌは笑ってくれたのだった。

 

 しかしこれはどう考えても、同じ名前で再び登録しようとしたから、とか、よく似た別人がいるかもしれない、とかいうせいでは、ないはずだ。時間の流れが歪んでいる?

 世界の仕組みというものがいったいどういうモノなのか、本当にまったく掴めない。

 

 霊災後への時間転移を繰り返している彼の身体がいったいどういうふうになっているのかも、どうもよく分からない。……ただ、過ごした時間の通りに年を重ねている自覚はあった。

 この塔と似たようなふうに、遡った時点に存在しているもともとのそれと融合のようなものを果たしているのではという推測がたてられてはいた。

 何せ、何度も何度も繰り返しているというのに、この時代のグ・ラハ・ティアが別に存在していること以外で、彼自身が増殖していく様子はない。

 所持金や持ち物が繰り返すたびに増えていくのは、この今現在のクリスタルタワーが、未来の塔と現在の塔の両者のスペックを同時に保持している点と、きっと似た状況なのだろう。

 時間の流れについても、もしかしたら『前回』と『今回』がずっと融合していっているのかもしれない。ただし、転移をしているわけではないヤ・シュトラとサンクレッドの話を聞く限りでは、『以前』になかった記憶が増え、『以前』あったはずの記憶が消えている、というそれぞれがしばしば、という認識があるらしいことから、『以前』との融合が起こっているというより上書きされていっているのかもしれず、確かなことはやはり掴めない。

 

 ちなみに、最初二人にバレたあたりまで時が進むと、あの会話を経ないのであっても彼らは『ル・ヴェト・ティア』の正体が『グ・ラハ・ティア』だと突然はっきり確信するらしい。そしてあの会話をぼんやりと思い出すとかなんとか。

 こうして繰り返しを行っている本人だけではなく、『以前』の記憶が残っている、あるいは思い出す人がいる。今の所そういう人物はヤ・シュトラとサンクレッドだけだったが、その理由もよく分からない。

 

 グ・ラハ・ティアが実際に転移する現場を知ったことがあるからなのだろうか。

 

 そして更に、グ・ラハ以外の誰も、彼と似たように年を重ねている者はいない。

 これは、ループしている本人だけにそういう影響がでているにしては、同じく時間を繰り返していると言ったレイにそういう様子はみられない。

 彼女とグ・ラハは繰り返しかたが違うのだろうか。

 彼女の死は彼女自身で行っていることでは決してないようだから、グ・ラハが塔を利用して繰り返し続けたように自発的なものではない。その相違なのかもしれなかった。しかしやはり、考えても正確な所はよく分からない。

 

 彼女が寝てしまっているのを起こしたくはないが、彼も同じく寝てしまう気は起きず、眠気も来ず、彼の部屋の寝具に彼女を横たえて、彼はそのそばに椅子を持ってきてじっと座っていた。寝ている彼女のことをずっと見つめていたらなんだか悪い気がして、腿の上で手を組み、それに突っ伏している。

 

 その状態のままにして、動きたくなかった。

 だからぐるぐると色んなことに思考が飛んでいく。

 

 どれくらいそうしていただろう。

 気づけばすっかり暗くなっていて、ああ、灯りをつけなければと思ったところに、きぃと小さく木材の軋む音がして、ほとんど同じく衣擦れの音も聞こえて、そしてくいっと彼はローブの袖を引かれた。

 彼がはっとして顔をあげると、半身を起こした彼女に気づかわしげな表情で見つめられていた。

 

 視線が交わったのは一瞬だけで、彼女はすがりつくようにグ・ラハに抱き着いて来て、受け止めながら彼は驚きで瞳を揺らした。

 

 その抱きとめた姿勢で彼女の顔はグ・ラハからは見えなくなってしまった。その状態で少し硬直していた彼だったが、小さく聞こえてくる彼女の息遣いからまた泣き始めてしまったのだと察して、そっと彼女の身体を離す。

 そしてまた彼女の目からこぼれていく透明な雫を、拭くように指ですくっていく、が。

 

「……指でやっていたら……腫らしてしまうかもしれない、な」

 

 そう言ってタオルを取てこようと寝台から離れようとしたら、彼女がグ・ラハの袖を掴んで放してくれない。

 彼は小さく苦笑する。

 

「……そんなことしなくても、どこにも、行かない」

「……あ」

 

 彼女はほとんど無意識に動いてしまっていたのだ。寝起きの状態だったからなのかもしれない。

 そろそろとグ・ラハの袖を離した彼女は身を引いて俯く。そんな彼女が微笑ましく見えてしまって、グ・ラハは彼女の頭をふわりと撫でた。手のひらが耳の片方の上を滑ってそれはぴんと跳ねて、彼はますます微笑ましい想いを抱える。

 彼女にふわっと笑いかけてから、ゆっくりと部屋の中を歩いてカーテンを閉め、天井照明を点し、棚からタオルを取りだして彼は椅子に戻った。

 

 彼女は眩しそうに目のあたりをやんわり押さえている。そう強い光ではないが、眠っていた後でもあるからか、急に明るくなって少し目がくらんだのだろう。

 椅子に座り直したグ・ラハが彼女のそんな目元にタオルを当ててくれる。ふわふわして彼女は心地良かった。

 

「……」

 

 照明を点けたことで彼女の顔色がはっきり分かるようになって、やはり目元が少し腫れているのが分かった。あれだけ泣いていれば無理もないのだろう。乾いたタオルでは足りない気がして、彼はまたそっと彼女から離れて、タオルを手にウォッシュスタンドの蛇口をひねった。流し始めた水はそれなりに冷たかったが今ひとつな気がして、しかしあまりひんやりさせすぎると刺激が強いのかもしれないと思い、それで少し湿らせた程度で彼女のもとに戻った。

 

 再度彼女の目元にタオルを当てていると、彼女は心地よさそうにして見えた。

 

「……ありがとう」

 

 はにかむようにほんのり笑ってそう言う彼女に、グ・ラハも微笑む。

 

 彼のほうを見つめていた彼女の視界には部屋が映るからだろう、彼女はふっと周りに目をやっていた。

 

「……あ……ここ、は……?」

「ああ、オレの家……部屋?」

「そうなのか……あの柱なら、リリーヒルズ、か……」

 

 ぽつりと彼女は呟いていた。グ・ラハは彼女の目に懐かしそうな色をみる。

 

(……そういえば二百年後……彼女の紀行録が部分的に残っていた。あれは宿屋の備え付けじゃなくて、自宅、だったのかな)

 

 冒険者としてある程度活動した者にギルドが解放してくれる宿屋の部屋は、太っ腹なことに人それぞれに一部屋、専用のものがあてがわれるもののようだった。そんなだから『ある程度の活動』が条件なのだろうか。ただ、冒険者の数だけ設えるには物理的に無理があるから、建物の構造的には何か魔法的な仕掛けがあるのかもしれない。こんな一般人には読めない仕組みがありながら、宿代などというものが存在しない厚遇は、驚くべきことな気がした。

 そしてそんな部屋に個人用の紀行録が必ずぽんと置かれている。

 掃除等の手もこまめにいれてもらえているようだから、個人的なものを置いたままにしているのはどこか不安で、宿の部屋ではグ・ラハは日誌をつけない。ただそんなものを覗くような人が本当に居るのかはあんまり疑ってはいなかった。……彼女はこまめに書いていたようだったし。

 

 柱だけでリリーヒルズだと気づくなら、彼女もラベンダーベッドのどこかに家か部屋を所有しているのかもしれなかった。もしかしたらそこで過去書いていたのかもしれない。

 

 そのままふよふよとあちこち部屋の中を見ていた彼女だったが、しかしはっとしたようにグ・ラハに視線を戻す。

 

「……ご、ごめん、ジロジロと」

「いや、見られて恥ずかしいような部屋にはしていない、はずだから」

 

 グ・ラハはふふっと笑う。

 彼女もつられたようにふっと笑った。

 

「でも、プライベードな空間をジロジロしてしまうのは……けど、結構手をかけているんだな。綺麗だ」

 

 彼女は眩しげに目を細めていた。

 

 冒険者にはこうした内装作りを楽しんで、なかなか凝っている者も多いと聞く。彼女もそういう類の人間な気がした。しかしもしかしたら繰り返す中でそういう楽しみも手放してしまったのかもしれない。部屋は持っていないのかと聞きかけて、グ・ラハは言葉を飲み込んだ。

 ……グ・ラハは過去冒険者ではなかったから、冒険者居住区に家を持つことがそもそもなく、こんな今にあってはひっそり楽しみにできている数少ないことの、ひとつだった。

 

「オレは……こんなことはしたことがなかったから、新鮮で楽しいものかもしれなくてさ。気分転換できる趣味のようなものになっている、気がする」

「そっか……」

 

 彼女はやはり、眩しげに目を細めて、そしてグ・ラハに視線を戻していた。

 

 彼にはもう遥か過去に思える、最初に転移してきた頃。

 レヴナンツトールで商人に、からかうように、クラフターの心得はなさそうだと判じられたことがある。それが今では、植生調査でギャザラーの知識が増えていったのもあり、つられたようにこまごましたものを作るのが楽しくなっていた。彼女もそういえば色々と作ることが好きなように見えたな、と、過去のクリスタルタワーを調査していた頃を思い出して、彼は少し彼女の歩いた道をトレース出来たような気にもなれていた。

 彼が『グ・ラハ・ティア』だと彼女に明かさない時間を過ごしたのはもう長い。そんな小さなトレースだけでも心の支えになってくれていた。

 

 そして彼はふと婉曲的になら聞けるかもしれない件を思い出した。そうしつこく聞く必要はない気しかしないにしても、彼女が家や部屋に凝っている様子がないのはどこからしくなくて、心配だった。

 

「……しかし、この部屋……最初に買えた時から時間をさかのぼっても、またオレの部屋のままだったんだ。ずっとそういうふうになった。……なにがなんだか分からなくて、さ。あんたはこういう経験がないか? ……こんなの考えても、世界のことなんてよくわからない気もするけど、なんか引っかかることで、さ……」

 

 それを聞いて彼女はきょとんと目を丸くした。そして真剣に考え込む仕草をとる。

 

「過去に戻っても……それより先でやったはずのことが、残っている、ってことか……? ……私は……ぼんやり……いつか、ゴブレットビュートにあった家を引き払ったことなら、覚えている、けど……そもそもどういう買いかたをしたものだったか……その随分後に、持っている書籍とかがばかみたいな量になって、かばんを圧迫して……どこかでアパルトメントの部屋を買ってめちゃくちゃに押し込めて……それから、居住区関係には、触って、ない……気が、する」

「……そっか」

 

 額に手をあてた頭を抱えるような仕草でぽつぽつとこぼれるその言から、やはり彼女は趣味にもなり得ることに関心が失せてしまう程、心荒んでいったかもしれない。そんな部分を感じて、グ・ラハは少し沈痛な面持ちをする。家をいじるというのは、先述の通りグ・ラハにとっては息抜きになっていたくらいなのだから。

 しかし居住区に触ってすらいないとは、書籍類はあとで読み返すことがなかったのだろうか。知識として吸収してそれ以後は必要がなくなったのだろうか。だったら、彼女の知識への貪欲ぶりに、すさまじさを感じる。それは、つらかった歴史を変えたいがための、がむしゃらな、努力の結果、なのだろうが。

 

「……でも、……そうだ。居住区のことじゃないけど、冒険者登録に関して……繰り返す中で……やることを、忘れていた。そんなことしなくても顔役の皆に冒険者と認識はされていて……不思議な、ものだな」

 

 今度はグ・ラハが目を見張る。

 

「そう、なんだな。そこはオレもそうなんだ。……本当になんなんだか……しかし……こう、事実だけを確認してもやっぱりまったく推測が建てられない、な……いったいこれから、どうしたら……」

 

 そこまで言ったグ・ラハはじっと彼女と視線を合わせる。口を引き結んで少し眉が寄っていて、どこか決意のようなものを感じる、苦しそうな顔、だった。

 

 彼は椅子から腰を上げて寝台の縁に座る彼女に迫る。

 肩をふっと掴むように抑えられて、彼女ははっと焦ったような表情を浮かべた。

 

「グ・ラハ、グ・ラハ! あ、話は、まだしなきゃいけない話が」

「……あんたにどんな事情があっても……どんな自責があろうと……オレは、あんたと共に在る。もう、決めている。勝手だと、押し付けだと恨んでくれていい、オレは……」

「だとしたら、ますます聞いてもらわないといけないことなんだ!」

「!」

 

 必死に言い募る彼女が、逃げないと言ってくれていながら、聞いてほしいこととは、いったいなんなんだろう。

 

 確かに、彼女が背負うものを何も耳に入れようとせずただグ・ラハの願いを押し付けることは、ますます間違えるだけになる気が、した。

 

 けれど。

 

 ぴっと遠隔で天井照明を落として、グ・ラハは彼女を寝具の上にゆるりと沈めて、そして自身も転がって、それできゅうっと彼女を抱きしめてから、言う。

 

「……この状態で聞きたい」

 

 独りだけで頑張りすぎた彼女の話は、対面しただけの状態ではきっと聞いていられない。

 押しつけだとしても労わりながらでなくては、聞いていられない。

 

「……」

 

 小さく小さく、彼女が息をのむ。

 けれど躊躇うように少しの間があってから、彼女は彼の胸に顔をうずめてきてくれた。

 

「また眠くなったら、寝てしまっていい。……そんなだったらさすがにしたりしないから」

「……ッ」

 

 少しだけ彼女が身を竦めて、彼は抱きしめる腕を少し強めた。そうして、彼女の頭の後ろを、幾度か柔らかく撫でる。

 

「泣き疲れて寝てしまうくらいに、あんたは弱っているんだ」

 

 グ・ラハがそう言うと、腕の中の彼女がふっと苦笑の呼気を漏らした。

 

「……こんな弱いはずじゃ、なかったんだけどな」

「……弱くて、いい」

 

 優しい言葉に、しかし彼女は眉を寄せる。

 

「もう前に立たなくていい。……今回だけと思ってくれても、それでいい。ここに……オレのそばに、居てくれ。ずっと……これから、ずっと。それだけで、いいんだ。あんたがここにいてくれる。それだけ、で……」

 

 彼女はくしゃりと表情を歪める。

 それは彼女が彼にもずっとずっと、願い続けてきたことだった。片時も放したくなかった願いだった。

 

 けれど。

 

 どうしてこんなあなたは優しくしてくれるんだ。

 

「……私は、あなたの大切な人たちをいなかったことにしたんだぞ。……どうして、優しくしてくれるんだ……!」

 

 彼は一瞬目を見張ってそして、苦しげな顔になってそして、更にますます彼女をきつく抱きしめる。

 

 そうか。

 

 第一世界がなくなっていなかったら、グ・ラハ・ティアはそちらに渡っていた。

 どう過ごしたかは彼には分からないが、彼女はそうであった未来を、知っているのだ。

 

 こんな様子なのだから、彼がかの世界で過ごしたかもしれなかった日々には、きっと幸せなこともあったのだろう。

 

「……そうだな、行けていたら……知り合いも色々できていたんだろう。けれど、それをなかったことにしたのはあんたじゃない。……あんただけじゃない」

「……!」

 

 彼女は息を飲んで肩をすくめる。

 

「第一世界の光の氾濫を止められたかもしれない道は、ミンフィリアだけに任せるべきものじゃない。そんなものだけを背負って生きる人じゃない。彼女の終わりがそれしかないなんて、きっと間違いだ。だから、彼女にしか第一世界を救えないような『現在』が、全て悪い。……ほかの方法が、あるはずなんだ」

「……っ、で、も……」

 

 彼は、ミンフィリアがいったい何を決断し、何を成し遂げたのかがそう正確には分からない。今は知ることができない。

 

「『世界』は、誰か一人だけが背負えるほど小さいものじゃない。背負わせていいものじゃない。……あんただだってそうやって、独りだけで抱え込むな」

「……っ」

 

 もう、現状の彼女の何もかもがおこがましいようにしか思えない彼女には、その言が深く深く刺さる。

 

「……第一世界のことを、もっと……教えてくれ。そんなに小さなあんたが一人で抱えようとしているその大きな世界を、オレに、聞かせてくれ」

 

 グ・ラハに直接関係のあったことだから、こんなにも彼女は話したがったのだろう。

 それを、独りだけで、抱え続けて来た。……いったいどれほど彼女は繰り返したのだろう。

 

 彼女はグ・ラハの腕の中で、小さく頷いた。

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