東方無限者 〜the Infinitous's Second Life. 作:影のビツケンヌ
人間が精神的に強いショックを受けた後、その出来事に関連する事物を異常に忌避するようになったり、その当時の記憶が欠落したりする、心理的防御現象。かつてコーカサスの暁風荘に住んでいた頃、同居していた沖田源三という老人が患っていたらしい。彼は催眠術師の友人にかけられた催眠で猟奇殺人を犯してしまい、正気に戻ってからPTSDになったという。自分のドッペルゲンガーが次々人を殺す幻覚や悪夢に悩まされ、自殺を考えたこともあったようだ。
「どうしたんだ!! 鈴仙!」
『ごめんなさいごめんなさいごめんなざい…申じわげありまぜん…』
無線の向こうで泣きじゃくる鈴仙も、何かしらのトラウマを持っていて、それが刺激されたのだろう。だが一体どんなものなのか?
『小櫃さん、聞こえますか?』
鈴仙の無線に何者かが割り込んでくる。柔らかい物腰のその声の主は、本来なら空の監督として参加している妖怪だ。
「さとりか、鈴仙は一体?」
『たった今、能力で彼女の過去を見ました。鈴仙さんはかつて月にいた頃、狙撃訓練中に射線上に入った自分の飼い主を誤射してしまったようです。以来筒状のものを覗き込む度にフラッシュバックが起こるみたいですね』
「筒状のもの…」
考えてみると、鈴仙は自分からはアームキャノンを触ろうとしなかった。てゐの部下が古井戸に落ちた時も助けに行かなかったし、彼女の湯呑みはやけに口が広くて、それ以外で茶を飲んでいるところを見たことがない。無意識下で筒状のものを忌避していたのか。
「落ち着くんだ鈴仙。スコープを覗いて、狙いを定めトリガーを引く。それだけだ」
『嫌あ! 無理よ!! もうフレンドリーファイアはしたくない!!』
最早聞く耳も持っていない。想像を絶する凄惨な心の傷に、俺は触れるべきか否か判断しかねた。
もっと早くに気付くべきだった。鈴仙の方からアプローチを受けて付き合い始め早半年以上。だというのに、スキャニングという力を持っていながら、何故俺は彼女の痛みや苦しみを見つけることができなかったのか。
本当はあの時、彼女は俺に助けを求めていたのかもしれない。俺を頼りにしていたのかもしれない。だというのに、俺は彼女のトラウマを癒すことはおろか、その悲痛な叫びに耳を傾けることすらできていなかった。あまりに不甲斐ない。
「ん?」
ハイドラからの発射音と、シールドを叩く音が止んだ。風のない空間に、水を打ったような静けさが広がる。
「…おい、四島小櫃」
エリオットが呼びかけてくる。バイオエナジーの流動は、薬が切れて少し正気に戻っていると見えた。
「お前は、自分の過去を夢に見たことはあるか?」
「無論だ」
幻想入りする遥か以前から、俺はそんな体験をしている。俺に正義の道を歩ませる要因となった、血塗られた過去の経験。恐怖の記憶としてではなく、人の心に巣食う悪に対する怒り、そして自身の正義に従った結果が悪と見なされ認められぬことへの葛藤として、常に記憶の中心にある。忘れることなどできないし、忘れたくもない。間違いなく、それは今の俺の根幹として存在する。
「知ってるぜ、お前の過去位」
エリオットが口の端を歪めた。続く彼の言葉。
「丁度5歳の時に、インフィニタスを差別していた男に家族全員を殺害され、肺結核で両親を失った親友の霧崎剣弐と共に孤児院に入った。1年後、二人同じ里親に引き取られるも、その男は自分の家族を全滅させた張本人だった。テレビを観ている剣弐を射殺しようとする男を、背後から蹴り倒し、パン切り包丁で喉を掻き切って殺害した。それが原因で剣弐と仲違い、警察に捕まって元の孤児院に逆戻り。…間違いないだろう? 意外に簡単で拍子抜けしたよ、お前の過去を調べるのは」
間違ってなどいない。バウンティハンターの黎明期、過去の経験についてインタビューに応じたことがある。その内容はウィキペディアにも載った。そこからの引用だとすぐに気付いた。
「…お前の家族を殺した奴はもう死んでいるからいいさ」
エリオットが俯く。無精髭の生えた顔に影が落とされた。
「でもな、…お前のと違って、俺の悪夢は終わんねえんだよ。寝ても覚めても、社会の闇には常に奴らの残党が潜んでやがる。忌々しいこの世のゴミ共が、いつもどこかを彷徨いて、俺に復讐しようと企んでんだ。本当に復讐されるべきは自分達なのにな」
その台詞は俺の中に、吐き気を催す程に重々しく響いた。ギロリ、目だけがこちらを睨むエリオットの表情。バイオエナジーを見るまでもなく、かつて自らの身体を弄んだVRANEへの偏執的な敵愾心が垣間見える。
だが、同時に俺は、彼に鈴仙との共通点すら見出していた。
そのどちらも、自らの過去を見つめ、立ち向かおうとしていない。鈴仙は過去を遠ざけようとし、エリオットは過去を消そうとする。
俺からすれば、同じこと。
自分で解決しなければ、何の意味も為さない。
『嫌…嫌…』
「俺は英雄じゃねえ。ただの殺人鬼だ。VRANEは消す。この世から、一人残らずな」
無線の向こうの鈴仙、眼前のエリオット。その二人に言うべき言葉が纏まった。無線機のスイッチは入れたまま、静かに、かつ大きく息を吸い込み、
――怒号を上げる。
「逃げるなッ!!」
その一言だけで、周りの全てが音を失った。
「貴様は逃げているだけだッ!!」
無意識に発動したバイオロケーションの力場で、周囲のあらゆるものが自分に戦慄している。時間が止まったかの如く風が止み、それさえも偶然でないように思えた。
「逃げて逃げて逃げ続けて、その先にあるものが本当に貴様の望むものなのか?! 歩んできた過去から逃げるな! 踏み出すべき今から目を背けるな!! それすら出来ぬ者に、望んで辿り着ける未来などありはしない!!」
たとえ他の誰かに助けられたとしても、結局は自分の力で乗り越えなければならない。俺とてそうであった。自分を引き取ったあの男を殺したのは、男に殺されるかもしれなかった親友や人々を守る為だったというのに、当時の親友も警察もそれを正当防衛と認めることはなかった。理解されぬ哀しみも苦しみも、師匠の援助があったとはいえ、自分の力で呑み込み、求めた正義を歩み始めることができたのだ。
「…わかったような口をきくなガキ。お前に俺の何がわかる?」
「わかるさ、貴様のバイオエナジーの流動は視える。この世界から消える前に教えてやろうエリオット。真に進むべき道をな」
ちなみに、なろうに残っている鋼鉄雲はあくまで外伝でパラレルワールドであり、次の章でもそれが明記され…いや何でもない。