東方無限者 〜the Infinitous's Second Life. 作:影のビツケンヌ
自分が外の世界にいると気付くことには、さして時間はかからなかった。場所は東京都千代田区、西日暮里駅の近くだ。
日暮里舎人ライナーが走る下の横断歩道を、幻想郷の住人達とはうって変わって現代的な人々を避けて歩きながら、何故自分がここにいるのか思案してみた。
第一に考えたのは、紫の仕業であるという可能性だ。だがそれは最も可能性が高いと同時に、絶対に有り得ないものでもあった。冬眠している彼女に、俺を外の世界に放り出すことなどできはしない。彼女に近しい藍についても考慮したが、いまいち主体性に欠けるあの狐が自分の意図でこのような行動を起こすなど天地がひっくり返ろうとあるはずがないし、たとえ紫が事前に藍に指令を出していたとしても、俺がいないメリットが分からない。
次に考えたのが、妖怪の賢者達に敵対する何らかの勢力が、計画の実行に邪魔な俺を追い出した、というもの。それもすぐに否定される。あの切れ者達に楯突こうものなら、何が起こるか知れたものではないし、唯一それに対抗しうるであろう存在、世界最高の携行兵器『アームキャノン・ジェネラルカスタム』を、奪いもせずにわざわざ俺に持たせているのは如何なものか。
様々な可能性が浮かんでは消えていく。交差点を渡り終えても、出てきたのはむせるような咳2発のみ。
「…まずいな」
早速、俺はある問題に直面している。完全に風邪をひいた。金の持ち合わせがないから、コンビニエンスストアで食料を得て体力の回復を図ることも、病院で診察を受けることもできない(第一保険証がない!)。一刻も早く幻想郷に戻らねば、俺はこのコンクリートジャングルの中で、戸籍の存在しない死体として都市伝説を呼ぶことになろう。
同時に、俺はある衝動に駆られていた。
埼玉県八潮市八潮7丁目26番地1号。どうしても、そこに行きたい。
よって俺は、自分が一つしか知らないそこへのルート――JR山手線の線路に沿って、鎖で繋がれた囚人のように日暮里駅へと歩いていった。
幻想入りならぬ、現代入り10日目。現在地、南千住駅付近。
正直なところ、状況は絶望的。
症状は悪化する一方だ。食事を摂れないのが何より大きな打撃である。あちこちで雨風を凌げる場所を確保して眠っても、警察の補導や職務質問を回避する為にふらつく足で移動せねばならず、俺は徐々に衰弱していった。
寒い。発熱による悪寒もそうだが、ビルの間を吹き抜ける風が堪える。顎が震え、打ち鳴らされる歯がガチガチと音を奏でる。フードを被っても気休め程度にしかならなかった。
街灯が照らす夜の公園で、ベンチを見つけ、そこに座り込んだ。今や俺の生活はホームレス以下だ。
「…帰りたい」
熱に浮かされて譫言を呟く。自分が帰りたいのはどこなのか。幻想郷? コーカサス? それとも、まだ日本に住んでいた頃の自分の家に? それすらもはっきりしなくなってきた。
「お、おい君! 大丈夫か?」
見れば、目の前にはいつの間にかスーツを着こなした男が立っている。こんな輩の接近にも気付けないとは、自分も落ちたものだな。
「どっこいしょ、っと…待ってろ、君を助けたい」
無抵抗のまま――氷嚢より冷たいアームキャノンは手放さず――男に背負われ、糊のきいたスーツから僅かに漂うタバコの臭いに顔をしかめる。それでも身体を預けられるものを得たからか、俺の思考は為す術もなく闇の底へと落ちていった。
どこからか聞こえてくる、目覚まし時計の耳障りなアラーム音で、俺は睡眠を阻害された。
天井の木目は永遠亭の自室のものではなく、羽毛布団もカバーから柔軟剤の香りがする。自分の好みで硬く高くしていた枕もふかふかだ。
「…何故だか、こういう状況にも慣れてしまったな」
いつの間にか布団の上、という状況のことだ。恐らく4、5度目になろう。『変化に適応する』の趣旨がずれているような気がして、俺は自嘲気味に嗤った。
片手でどうにか上体を起こし、畳張りの部屋を見回す。障子で密閉され、カーテンで窓の日差しが遮られていて部屋は暗いが、暗所でも色覚を犠牲に物体を捉えられる俺の目は、自分の右手側に箪笥とその上の薬箱を見つけることができた。
障子のすぐ向こうはダイニングとキッチンになっているらしく、女が一人何かを調理している。2階から降りてきた男が壁を壁を伝うように、時折つんのめりながら、手探りでこちらに歩いてくる。驚いたことに、女は妖怪、男は半妖であった。
「おや、丁度起きたみたいだね」
そして男は障子を開け、敷居を跨いだ。ぼさぼさとした黒髪が頭頂部の耳を巧く誤魔化している。鈴仙はスカートに入ったスリットから尻尾を外に出しているが、この男の場合、それはズボンの中に隠していた。そして、
「――何故俺を認識できる? 見えないんじゃないのか?」
彼は、視覚中枢が麻痺していた。要するに盲目だ。この半妖が自分を拾ったらしいことはスーツを見てわかったが、まずその時点で俺をどうやって発見したのか非常に不可解だ。
「言うに事欠いていきなりそこを突いてくるなんてね…まあ、能力を使ったと言っておくよ。僕は
その刹那、師匠の教え通り常時鋭敏に働かせている戦闘意識が首をもたげた。コーカサスで乗り越えてきた死線が脳裏に去来する。瞬きする間に腹を貫かれるのではないかという予感めいた疑いが、一挙に心を埋め尽くした。「目的は何だ? 誰の差し金だ?」その言葉が喉元まで出かかる。初対面の人物が俺の名を口にすることは珍しくない、だがそれでも、コーカサスでは常に警戒を怠らなかった。ファンを装い暗殺を謀るなどよくある話だ。何度経験したことか。
しかし海生と名乗ったこの男が何ら悪意を持たぬことは、その至極穏やかな表情と、バイオエナジーの流動が証明していた。ああそうか、ここは日本だ。コーカサスよりも、ずっと思いやりと気遣いに溢れた国だったな。
「そうとも。俺が四島小櫃。どうして俺の名を?」
「ああ、それは――」
ひょっこり、障子の陰から、普段よりよれた長い耳の付いた頭が現れた。
「彼女に訊いたのさ」
「…鈴仙?」