東方無限者 〜the Infinitous's Second Life. 作:影のビツケンヌ
療養期間中とはいえ、何もしないというのはいささか気が引ける。俺は鈴仙と食事を作ったり、永琳の纏めた患者のカルテの整理をしたり、てゐ率いる妖怪兎らと餅を搗いたりした。…輝夜が何をしていたかは把握できていない。
そして今まさに、俺は自分の病室で眠りに就こうとしている。療養期間第2日目が終わるのだ。
思えば、自分は幻想郷に来てから5日も経つのに、まだ永遠亭以外の場所を知らない。永琳に許可を取って『人里』にでも行かせて貰おうか。鈴仙の置き薬の手伝いがてらに。
そんなことを考えている自分に気付き、苦笑する。少し前までは寝る前に明日に期待するようなことはしなかったし、むしろ常に一日を無駄にしているかのような錯覚に囚われていた。随分と呑気になったものだな。
そして俺は、布団の中に潜り、自分に手招きしてくる眠気の誘いに乗って、意識を切り離していった。
突然目が覚め、同時に強烈な腹痛に襲われた。
見れば、自分は布団とほぼ直角に寝転がっていた。腹は完全に丸出し。いくらインフィニタスでも、それでは腹が痛くなって当然だろう。
「トイレ…厠に行かねば」
とにかく、用を足すことにした。
厠ではそれはもう酷い有り様だった。筆舌に尽くし難い。拙い言葉で言い表すならば、まだあまり水分を吸収し切れていない大便が、悲鳴をあげる肛門から我先にと溢れ出てきて、それはまるで腐ったチューブ入りのチョコレートスプレッドのような様相だった。…気持ち悪い。
そういえば、
下痢という形で出してしまうと、同時に体力も精神力も持っていかれる。何故自分はあのような格好で寝ていたのか、己の寝相を少々恨めしく思いつつ、俺は重い足取りで病室の前に戻った。
「ん?」
障子の向こうに、バイオエナジーの流動が視えた。俺が眠っていた布団に、何者かが横たわっている。背丈から計算するに大体10歳程度の女児だろうか。
「てゐ…ではないな」
彼女特有――他の妖怪兎の中にも同じ特徴を持つ者がいた為この表現は不適だが――のロップイヤーは見当たらない。
俺は障子を開き、部屋の中を確認してみた。
「…部屋を間違えたか」
部屋は自分の病室より若干奥行きが小さく、布団の位置も僅かながら違った。寝ぼけていたのか。
障子を閉じる前に、改めて布団の中の女児の姿を確認した。
少々ウェーブのかかったセミロングの茶髪の少女だ。体は痩せ細り、心なしか顔色も悪い。部屋の隅にあって気付かなかったが、点滴に繋がれていた。
その点滴に言い知れぬ不安感を覚え、俺は彼女のバイオエナジーの流動を更に詳しく観察した。
免疫力の著しい低下が見られる。ほとんど抗体が機能していないようだ。普通ならば感染しても全く影響がないような病原体で体に――
「?!」
しまった、と思った。自分はここにいるべきではない。彼女の為には、すぐに障子を閉め、自分の病室に戻らなくては。
「…HIV」
あの部屋は、隔離用の部屋だったのだ。
療養期間第3日目。
今朝はどういう訳か俺と永琳だけが皆より遅く起床したらしく、今食卓を囲んでいるのは俺と彼女のみ。俺は昨夜見た“あの少女”について話すことにした。
「永琳」
「何かしら?」
「俺の隣の病室で眠っている少女…彼女は」
「貴方なら、彼女がどういう状況なのか、わかるでしょう?」
「…ああ」
「…後天性免疫不全症候群――
やはり、俺の予想は的中していた。
「貴方は竹取物語の描写について、大袈裟なSF的解釈をしていたと言ったわね?」
「ああ」
「…信じられないかもしれないけれど、月の文明は恐らく貴方のいた世界よりも高度に科学が発達しているわ」
「なら、あの少女のAIDSも…」
「出来ないのよ」
「何?」
「私達が地上から月に移住した理由――穢れという、寿命の存在する原因に関係するのだけれど、その穢れの内にヒト免疫不全ウイルス――HIVも含まれるのよ。月には生物に寿命をもたらす穢れが存在しない、すなわちAIDSの特効薬を作る必要もなかった。だから――」
「彼女はどうにもならない、と?」
俺の言葉に彼女は俯き、暗い表情で応える。
「…情けないわよね、薬師のくせに」
「気にするな。コーカサスにいた俺の知り合いの医者もAIDSだけはどうにもできなかった」
自分の言葉が果たして慰めとなるかはわからない。だが、俺にはそうするしかなかった。
「
永琳がそれを言い終わるか言い終わらないかのタイミングで、薮から棒に障子が開き、てゐが顔を真っ青にして飛び込んできた。
「大変だ!! 翔子が…翔子が心肺停止状態に!」
「何ですって!?」
翔子、というのはあの少女の名前だろうか。だとすれば、今彼女は非常に危険な状態のはずだ。
「今、鈴仙が心臓マッサージをしてる。永琳もすぐに!」
「ええ、わかっているわ」
その時、あることを思い出した。確かアームキャノン・ジェネラルカスタムには、頼んでもいないのにハルベルトが大量の機能を載せていた。その中に、バイオダイナモを使用したAEDも含まれていたはずだ。
「永琳、待ってくれ」
「え?」
「俺のアームキャノンはどこにある?」
「診療所の一番奥の棚にあるけれど…何をするの?」
「説明している暇はない! 早く翔子とやらの所へ!!」
俺は廊下に飛び出し、診療所のある右手側へと駆けて行った。
俺がアームキャノンを持って翔子なる少女の病室にやって来た時、心臓マッサージを行っていたのは永琳だった。
アームキャノンの左上部――丁度右腕にはめた時に内側に来る部分、長方形に溝が入っている所の中央を押す。途端にそこが5㎜程度せり出し、コーカサスでも未だ隆盛を誇るガラケーよろしく上方にパカッと開く。現れたのはカメラと有機ELディスプレイ、そしてアナログパッドとタッチパネル。
ディスプレイに表示された項目から『特殊プログラム』を選択。アナログパッドでカーソルを移動し、『疑似AED』を選択。
すると、アームキャノンの銃口からおよそ10㎝程度の場所にぐるりと走る溝を境に、銃口側が4つに分割、後方にスライドした。更にアームキャノン内部からマルチシューターマシンの一部が前方にせり出し、それに合わせて、分割した部分の先端がまるで花のように開く。
ハルベルトが無駄な機能を大量に搭載できたのも、この特異な変形ギミックによるものだ。あの男は最後まで“胡散臭い奴”だったが、なかなかどうして役に立つ。
「全員翔子から離れろ。これより電気ショックによる心肺蘇生を行う」
「電気ショックって…そんなこと本当にできるの?!」
「できないならわざわざアームキャノンを持ってきたりしない。安心しろ、実績もある」
食らい付いた鈴仙をなだめ、その場にいる者――永琳、鈴仙、てゐ、輝夜の4人――を俺と翔子から離す。衣服の隙間から右腕にはめたアームキャノンをねじ込み、通常のAEDで電極を配置する場所の中央に垂直に押し当てる。
「3、2、1、
引き金を引くと同時に、電流で神経回路を刺激された少女の体が大きく跳ねる。だが、まだ心臓は動いていない。
「3、2、1、
再び引き金を引くが、それでも心臓は動かない。
だが、諦める訳にはいかない。俺はこんな幼い子供が、これから先の人生を経験せずに死ぬのは許せない。故に俺は、再び引き金を引く。
その後およそ30分間続けたが、効果は見られなかった。
翔子というこの少女は、死亡したのだ。
「…午前9時53分」
俺は、救えなかった。
結局、死亡が確認された翔子の遺体は親元に送られることとなった。鈴仙が人里にいるという彼女の母親の下へと報せに行った後も、俺は一人で遺体の安置された病室に残っていた。
俺は無力だ。師匠がサイボーグ手術を受ける直前も、こんな風に――
「…そうだ」
翔子の遺体を見る。まだ体内にバイオエナジーは残存している。なぜ俺はこんな単純なことに気付かなかったのか、不思議でならない。
ヒトは蘇る。寿命を迎えて死なない限り、何度でも――