■ ■
―――世界は悪意に満ちている。
人類はその最たる例であり、人類こそが地球という星に住まう生物の中で最も悪意に満ちた存在と言っても過言ではないだろう。
暴力、暴言、欺き。この三つこそ、人類が最も悪意に満ちている証明と言える。
人類は今に至るまで、様々な歴史を築き上げてきた。
猿の様な祖に始まり、手足ではなく足だけを支えに立ち上がり、手を武器や道具として利用し、それを応用させる知恵を手に入れた。
人類が猿の祖から始まったのか、或いは神が創り出した原初の男女から産まれたのかは定かではないし、それは大して重要な点でもない。
過去を遡り解明されていった歴史であれ、聖書に描かれた虚実であれ、どちらにせよ人類が悪意というものを持ち始める事に何ら変わりはないのだから。
弥生時代にもなれば、既に戦争は始まっていた。田んぼがなんだ、領地がなんだ、食料がなんだ、様々な理由があって人が人を殺し、貶すという行為は当時からあった。
日本に限る事なく、外国においてもそれは変わらなかった。内であれ外であれ、人は闘争という悪意を持っていた。
邪魔立てするものを悉く破壊し尽くす行く末にある破滅。それを理解せぬ無知。理解しても動けぬ無力。それに絶望し、恐怖に支配される民と戦士。
神が人に教えを説く聖書にすら、人の愚かさは語られる。
創世記の第四章、カインとアベルによれば、こうだ。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
日が経って、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物は顧みられなかった。故にカインは大いに憤り、顔を伏せた。
主はカインに言った、
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔を上げたら良いでしょう。もし正しいことをしていないのならば、罪が門口に待ち伏せている。それはあなたを慕い求めていますが、あなたはそれを治めなければなりません」と。
カインは弟アベルに言った、
「さぁ、野原へ行こう」と。
彼らが野に居た時、カインは弟アベルに襲い掛かり、彼を殺した。
神が人に教えを説く聖書にすら、人の原罪が刻まれている。或いは人の心の弱さが書かれている。
エデンの蛇に唆され、人類の祖たるアダムとイブが知恵の実を食らった失楽園の物語だ。
人の心の脆さとは何たるや、人の心に巣食う嫉妬と憤怒、憎悪とは何たるや。
今の世のみならず、人は遥か古の昔から愚かであった。虚実たる聖書が、もし虚実でなく真に神が人の言を真似て描きしものなれば、神とは何と非道いものだろうか。
人とは愚かであると理解していながら、人の悪意を認知しておきながら、しかしそれを訂正する事なくあまつさえ殺人が起きても放置するなどと。
人に悪意あり。人に恐怖あり。人に憤怒あり。人に憎悪あり。人に絶望あり。人に闘争あり。人に殺意あり。人に破滅あり。人に絶滅あり。人に滅亡あり。
人は必ず悪意がある。それは恐れとなり、怒りとなり、憎しみとなり、絶望となり、争いとなり、殺意となり、破滅となり、絶滅となり、滅亡となる。どうしようと、それらに繋がっていく。
それこそが結論であり、それ以外にはありえない。
だが―――決して、完璧にはなり得ない。
「うるせェェェェェェェェェェェェ知らねぇェェェェェェェェェェェェェェェッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
何処だか分からない街の真ん中で、青年は喉が張り裂けんばかりに声を荒げて叫び出す。
それは絶叫の様で、怒鳴る様でもあった。自らの内に巣食う悪意の権化を鎮め、地の底へと叩き付けて起き上がらせなくする様な熱意があった。
青年には小難しい事など分からない。何故此処に居るのか、何なら自分が誰であるのかすら分からぬ。
しかし正義に燃える心だけは、誰よりも強かった。
「アンタの方がうるさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
そんな青年の叫びに耳を塞ぎ、負けじと大きな声で怒鳴りつける少女が居た。
「さーせん」
「よろしい」
青年は素直に謝罪し、頭を下げた。
少女は満足げにうんうんと頷いた。従順な態度の謝罪はお気に召したらしい。
「それで、アンタ誰? 此処は何処なのよ?」
「さぁ…? 俺には分かりかねますな」
「はぁ? 自分の事も分からないの?」
「うーん………………分かんないね!」
「そんな明るい笑顔で!?」
考えに考えて、わざわざ顎に手を添える様な仕草までしておいて、しかし帰ってきた答えは分からないである。
しかも良い笑顔だ。ぶん殴りたくなるくらいには良い笑顔だ。
変な奴を見る様な視線を刺してくる少女に、仕方ないじゃんと青年は反論する。
「だって本当に分かんねぇんだもん。此処が何処なのかも、自分が誰なのかも」
「はぁ?」
ぶすっとしながら答えた青年に、少女は不思議に首を傾げる。
此処が何処なのか分からない。それならばまだ理解出来る。自分が気がつけば此処に居た様に、この青年もまた気がつけば此処に居たのだと。
だが―――その後半。自分が誰なのかも分からないというのは。
「アンタ、名前は?」
「分からん。けど、言葉とか物とか、常識とかそういう知識はあるっぽい。自分の事はさっぱりだけど」
「なんだっけ…こういうのって確か、きおくそうしつって言うのよね」
「ほー、俺って記憶喪失なんだ。……あれ、結構ヤバいそれ?」
「さぁ? 落ち着いてるし、別にヤバくないんじゃない?」
「それもそっか。じゃ気にしなくていいや」
それにしても何処だよ此処ー、と辺りを見回す青年と少女。ツッコみ不在の恐ろしさが此処にある。
青年も少女も見慣れていない街の景色は、どこか色が抜け落ちているかの様だ。それに加えて、人の気配が全くない。人っ子一人として姿が見当たらない。
まるで、世界に二人だけが取り残されてしまった様な感覚だ。
当の本人達は、全く不安ではなさそうだが。
「取り敢えず、見て回る? もしかしたら誰か居るかもだし」
「やだ、面倒くさい、アンタが行ってきて」
「おっとー? これはすっごい自己中だな。自己中の三段活用だ。でもさ、ちょっとは考えよ? 一人より二人の精神で考えよ?」
「記憶が無いアンタに言われてもねぇ…」
「あー、そういう事言うんだ! 酷いわー、ほんっと酷いわー。いけないんだーいけないんだー、先生に言っちゃおー」
「なんか腹立つわね、アンタ…!」
「そりゃ巫山戯てますし。なー、一緒に行こうぜ? 赤信号、皆で渡れば怖くないだろ?」
「なにそれ」
「え、知らないの? マジか、結構有名だと思うんだけどな…なんで俺知ってんだろうな?」
「それこそ知らないわよ!?」
「それもそっか」
「本当に何なのアンタ…」
「さぁ?」
肩を竦めて、首を振る名もなき青年。
少女は疲れた様にベンチに座り込んだ。ただ少し会話しただけなのに、何故か疲労感を覚えている。
だが―――不思議と不快感はない。それどころか、どこか面白さを感じてもいた。
「取り敢えず見てくるわ。いざ、楽しい冒険の旅へ!」
「あっそ」
「冷たいなぁ…」
「……いいわ、やっぱりあたしも行く。一人だと退屈だもの」
「お、マジ? いいね、やっぱ一人より二人だよな」
「感謝しなさいよね」
「ありがとな、自己中ちゃん」
「その呼び方止めて。あたしにはレジーナっていう名前があるのよ」
「へー、
「ふふん、でしょ? アンタは…アンタで良いわね」
「まさかの固有名称すら無し? 仕方ないと言えば仕方ないけど、それはそれでちょっとショックなんだけど」
そんなこんなで。
悪意を宿した名もなき青年と、ジコチューと呼ばれる組織の王女にして、トランプ王国の王女の影の半身たる少女―――レジーナは、色褪せた都市を歩き出した。