「ふぅ……、寒いなあ」
キュッと握りしめたマフラーの熱が、冷えた手のひらにじんと伝わる。ポケットの中にはホッカイロが入っていて、いつでも手を暖めることはできるけれど、こうして得る布の暖かみには得も言われぬ魅力がある。
登校のために登る並木道からは、わざわざ見ようとしなくても、いろいろなものが目に飛び込んでくる。葉が落ちて来た木、朝を知らせてくれない曇り空に、そろそろ霜が見つかりそうな白んだ道路。それらすべてが、冬の到来を教えてくる。あっという間に訪れた、高校生活2度目の冬を。
もし仮に、本当に仮にだけど、来年北宇治高校が強豪高校になったとして、全国大会に行ったとしても――まあそんなことは億が一にもありえないけれど――きっとこの時期になってまで、楽器を吹いてはいないだろう。
どんなに長くても、全国大会が終われば吹奏楽部への参加も終わるだろう。そうなると、吹奏楽部を続けられるのは10月までだ。
そもそも、将来のことを考えたら、受験で手一杯のこれからに楽器とばかり向き合ってはいられない。中学生の時がそうだったように、この生活もいつかは終わりが来るのだろう。
なんて、意味もないことを空想する。
ふと足を止めて見た校門がやけにまぶしかったのは、きっと冬の朝の、底冷えするような空気のせいだろう。
そうして、吹奏楽部にいる最後の冬を、中世古香織は歩いていた。
「みんな、おはよう」
「お、よーやく来たの香織ぃ」
「あすか、やっぱり朝早いね」
自分で言うのもよくないと思うけれど、金管のアンサンブルは上手くいっていると思う。
その何よりの象徴があすかの協力だ。
私たちが行う『晴れた日は恋人と市場へ』は金管八重奏曲だ。編成はトランペットが3、ホルン、トロンボーン、バストロンボーン、チューバ、そしてユーフォニアム。
トランペットからはやる気のある後輩2人、優子ちゃん、純一くん。そして、チューバからは後藤くん。ついてきてくれる経験者の後輩が3人もいてくれた。
ホルン、トロンボーン、バストロンボーンも、お願いをしたら同級生たちが2つ返事で了承してくれた。必ずしも練習を真面目にやってくれる人たちではないけれど、そこはある程度なんとかできる自信があった。
だからこそ、やっぱり一番問題だったのは、あすかの勧誘だ。あすかはいつも、自分に損がない立ち位置にいるのが好きだ。そして何が自分にとって得になるかを理解する聡さも持っている。そんなあすかが、大人数のアンサンブルに誘われることの意味を理解できないわけがなかった。
――私、香織が考えてるほど関わる気ないよ?
初めて誘ってこう言われた時、流石の香織ですら面食らった。イベントにすると決めたのには、あすかだって噛んでいるのだから、そこまできっぱり断らなくてもいいじゃない。なんて弱音を吐きたくなったが、きっと晴香たちを超えるにはあすかの協力は不可欠だ。それに、香織はこの曲を誰よりもあすかと吹きたかった。
だからあすかが嫌がるのはわかっていても、根気強く勧誘を続けていた。するとなぜかはわからないが、ある日急にあすかが参加してくれることになったのだ。曰く、なんとなくとのことだけれど、香織からすると参加してくれるならそれ以上のことはない。
その結果、実際にアンサンブルが始まったのは夏休みも終わりかけだった。夏休みという重要な期間は上手く使えなかったけれど、それ以上にあすかの存在が大きかった。
「今日はどこを練習しようか」
「うーん……。ま、それは考えてたとこだけど、最終盤の作り込みが足りないからそこを重点的にかな。それに、全体の完成度もまだ足りない。より合わせるために、基礎練習を交えつつ、ってとこ」
「わかった。始める時は言ってね?みんなを集めるから」
「んー」
なんて、やる気なさげな返答が返ってくる。だけど香織は知っている。これはやる気のない時の声ではなく、集中している時の声だって。
やっぱりあすかは特別だ。1年生も2年生も、やる気のあるなしでさえ、あすかの前では何も関係がなかった。練習指導や取り組み不足への注意の仕方、所作のひとつひとつがアンサンブルに取り組む空気を作り上げるのに繋がっていった。
香織としても、ここまであすかがアンサンブルに肩入れしてくれるのは想定外だった。大量退部の時でさえ誰かに肩入れしなかったあすかが、どうしてここまでやってくれるのか聞いてみたかったけれど、“なんとなく”以上の言葉を返してくる気はしなかった。
ただ、理由なんて大した問題ではない。香織にとっては、ただ一緒に音楽を作れるだけで、それだけで十分だった。それほどには、この時間が愛おしかった。
「あ、あの!香織先輩、この小節からのフレーズ教えてくれませんか……?俺ちょっと合わせるの苦手で……」
「うん、もちろん。一緒に吹こう?」
「あ、香織先ぱーい!私も混ぜてください!」
「なあっ……!お、お前……!」
「あらあ滝野くん、なにか文句でも?練習するのってすごい大事なことだと思うんですけどぉ?」
純一くんと優子ちゃんはいつも元気だ。加えてその明るさを、しっかりとアンサンブルのために使ってくれる。その優しさには、本当に感謝している。いくら香織が場を整えようとしても、彼らの協力がなければ、きっとそれは無駄になる。まあ、肝心の彼らが助け合っているかどうかはきちんとわからないのだけれど。
「滝野、やめとけ。お前じゃ勝てない」
「そうだぜ滝野。無駄な抵抗はやめて、大人しく投降せよぉ!」
「ご、後藤お前……!野口先輩だって……酷いっすよお!」
練習の合間。たった少しの休憩時間だというのに会話も笑いも絶えなくて、そんな時間が好きだった。
しかし、時計を見ればそんな時間ももうすぐ終わりを迎えようとしていた。ここから合わせを行っていたら、そのまま練習が始まってしまう。その前に、少しだけ水を飲んで来よう。
「もう、みんな元気なのはいいことだけど、喧嘩はダメだよ?あと合わせる前に、ちょっとお水飲んでくるね」
そう言って颯爽と教室を飛び出る。すると後ろからかわいい後輩2名ほどの悲鳴が聞こえた気がしたが、そんなことは気にしない。あすかの練習指導は一筋縄ではいかないのだから、少しくらいひとりの時間も大切だ。
「晴香先輩。その部分昨日も言いましたよね?ひとりだけ音程が外れています。確かにバリトンが第一音になることは多くてそのように吹いてしまうのはわかりますが、ここは第三音で和音を作らなくては絶対にダメです。それに音の処理も甘い。もう校内オーディションは目前にまで迫っているんですから、いい加減適当に吹くのはやめてください」
「う~ごめん!いい加減気を付ける!」
「それに終盤、3人ともフレーズ感の意識がまだまだ足りません。このソロを続け様に吹いていく場所は3人でフレーズを作らなければならない場所なんですから、3人でもっと音の処理や音程を同化させて、まるで1本の楽器で繋いでいるかのように吹いてください。いいですか?次、その場面をもう一度お願いします」
水を飲みに行く途中、そんな声を聞いた。水飲み場に行くまでの間に、晴香たちサックスパートの練習教室はある。直前まで聞こえていたフレーズは、綺麗に繋がっていたと思うのだけれど、どうやら彼にとってはそうではなかったようだ。だがもうそんな指摘にも慣れたのか、彼の言葉の後、間髪入れずに演奏が始まった。それは確かに美しい演奏だけれど、練習中のびりびりとした緊張感がこちらにも伝わってくるかのようだった。
ふ、と息を吐く。彼……創くんはいつも言葉を選ばない。いや、どちらかといえば言葉を選べないのだろうか。代わりにその音楽への執念はまさに傑出していて、サックスパートは今それを受け入れている。教えるのは上手いが、受容できなければ部の崩壊を招きかねないのが、彼だ。きっと、彼に教わる1年生は大変だろうなと苦笑する。
初めてここを通りすがった時、もしかしたらこれは危険な兆候なのかもしれなくて、半ば不戦勝でコンテストに出られるのではないかと香織は思った。もちろん本気でそんなことを考えたわけではなく、何よりも心配が勝って、わざと練習中に水を飲みに行く時があった。それが今では、彼らだけの不思議な関係を築いている。
心配する必要がなくなった今、態々こんなことをする必要ない。だから今しているのは、きっと力をもらうためだ。折れずに成長を続ける晴香たちの姿勢と音を、身体に刻んで練習する。それはきっと、誰よりも、晴香のライバルになることを選んだ自分に恥じないために。
そしてまた、1週間が経った。
冬はより一等厳しさを増して来て、部活になると打楽器以外の全員がまず息を吹き込んで楽器を温めるのを見るのが恒例行事になった。そういえば、この冬の間に梨香子先生が産休に入るらしい。お陰で香織にも学指揮の仕事が回ってきた。それはそれで楽しいけれど、仕事が増やされるのは少しだけ憂鬱だ。
「香織先輩……」
そうして現実逃避をしていると、不意に袖を握られた。こんなことをするのはきっと、後輩の中ではあの子しかいないだろう。
「どうしたの、優子ちゃん」
「私……、なんか凄く緊張してきちゃって……。こんな事言われても気持ち悪いと思うんですけど、本番まで、こうしててもいいですか……?」
「……うん。折角なら、手、繋ご?」
そうして握った手には、少しの震えがあった。ああでもこれは、どちらのものかはよく分からないな。
アンサンブル発表会、今日がその当日だった。飾り付けられた壇上からは、思い思いの音楽が聞こえてくる。流行りのポップス、映画音楽、ジャズ、それらすべてが今日のために用意された音楽だった。そんな音楽ももうすぐ終わりを迎える。その後には、香織たちとサックスパートのコンテスト出場をかけたアンサンブルが控えている。つまり、1つ目の本番はもうすぐそこだ。
そして、まともに聞くことなどできないまま、舞台袖に移る時間がやってきた。
舞台袖で集まると、つい笑ってしまいそうなくらい緊張しているみんなの顔があった。後藤くんなんて、変わっていないように見えて、動作がカチカチだ。
そんな状況だから、なのだろうか。あすかの言葉がみんなに染み渡ったのは。
「ね、みんな。今日までついてきてくれてありがとう。正直最初、このメンバーでアンサンブルなんて、京都大会ですら絶対無理だと思ってた。……でも、それはちょっと間違ってたみたい、ごめん」
「あすか……」
「今の私たちなら、全然上を目指せる。今日まで私ができることはほとんどやってきた。だけど……だけど、相手も凄く上手い。正直勝てるかどうかなんて分からない……。だからこそ、みんなにお願い、勝とう。
簡潔で、やりたいことが伝わって、誰の緊張も吹き飛ばしてしまいそうなあすかの言葉に、誰もが気合を入れなおした。その後のチューニングは今までで一番音が合っていた、最高のハーモニーだったと、そう思う。
◆
隣の教室では、既に拍手が鳴り響いている。その音は自分たちの出番を告げる合図の中で、最も分かりやすいものだろう。
「ううう、私、なんか凄く緊張してきちゃいました!どうしましょう晴香先輩!?」
「だだだ、大丈夫だよ澄子ちゃん!?わわわ私達ならきっと大丈夫大丈夫!」
……明らかに大丈夫ではないこの様子のほうが、ある意味わかりやすいかもしれないが。
「ねえ、後輩」
「はい?」
「……あんたって、こういう時緊張しないの?」
そう聞いてきたのはアンサンブルのもう1人、来夢先輩だ。いつからか、“後輩”だけでなく、“あんた”とも呼ばれるようになっていた。
「まあ、そうですね、していないことはないです。でもそれは本番に必要な分だけと決めているんです。多少の緊張感があったほうが、素晴らしい演奏ができると思いますから」
「そ、そうなのね……。やっぱり後輩、あんたは変わってる人よね……」
心外だ。自分はただ演奏に必要だからそうしているだけだというのに。とはいえ、そんなことを聞くということは来夢先輩もそれなりに緊張しているのだろう。仕方ない、ここは少しだけ話をすることにしよう。
「すみません、少しいいですか?」
「「は、はい!」」
「……んん。確かに、皆さんが緊張するのも分かります。校内とは言え本番ですから、むしろ油断しないでいただいて十分嬉しいです。ですが、無駄に緊張しすぎるのは全くもってよくないです。一度深呼吸しましょう、どうぞ」
ブレスの音が鳴り響く。思えば、先輩方も澄子も以前より大分肺が強くなったものだ。
「……しましたね?これだけで緊張はなかなか解けないとは思いますが、大丈夫です。今日は勝てます」
確かに金管アンサンブルは強敵だった。素晴らしい選曲と素晴らしい演奏、恐らくしっかりと練習指導が行われている、だが、そんな事は問題ではない。
「自分はついてきていただければ一歩駒を進めると約束しましたから、それを裏切ることは絶対しません。もちろんまだ完璧ではないですが、それも込みで勝てます。だから、緊張する前に信じてください。自分と、何よりもついてきてくれた貴方方自身を」
……神妙に聞かれると少し照れくさいが、きっとこれも必要なことだろう。その証拠に、晴香先輩や澄子も少しは落ち着いてくれたようだ。
「次!サックスパートお願いしまーす!」
「は、はい!すぐ行きます!」
恐らく退場と準備が終わったのだろう、吉川さんが呼びに来た。晴香先輩が返事をしたということは、いよいよ本番のようだ。音楽室の扉の前で待機する。すると、後ろから小声で話しかけられた。
「ねえ、後輩」
「なんですか?」
「ありがとう」
なんと、そんな事を言うためだけに来夢先輩は話しかけてきたのだろうか。まったく、そこはもう少し緊張感を持ってほしいところだ。そして何よりも――
「そういうことは、せめて終わってから言ってくださいよ」
――この先に進むのは絶対なのだから、そのお礼は言い損だ。
◆
「香織先輩……本当にすみませんでした……!」
「まだそれを言うの優子ちゃん?もう本当に辞めてってば」
夕暮れ時、部活が始まって少ししか経ってないというのに、もう空は綺麗な茜色に染まっている。やはり冬の太陽はやる気がない。
……アンサンブルの結果は敗北だった。こちらに投票してくれた人もいたが、票が多かったのはサックスパートで、香織たちではなかった。
もちろんみんなショックだったが、これに一番ショックを受けたのはあすかだった。普段ほかの誰にも見せないような顔をして、副部長なのにアンサンブルの応援も行かなくていいと言い出していた。……わかってはいたけれど、きっと彼女の中には、何か不思議なモチベーションが存在していたのだろう。それがなんなのかまでは、香織には分からなかったけれど。
「あ、そうだ。打ち上げでもしよっか。せっかくみんなアンサンブル頑張ったし、それくらいは許されるよね?」
「香織先輩……」
目の前のかわいい後輩も、普段だったら喜びそうなのだが、今日はなかなか喜んでくれない。それもそうかと自嘲する。この悔しさはきっと、簡単に晴れるものじゃない。それは多分、この胸の中にあるものも同じなのだろう。
「ねえ、優子ちゃん。来年はコンクール……このアンサンブルくらい頑張れるといいね。私、せっかく最後だし、ソロ吹きたいなー。……それもこのくらい、頑張ったらさ、きっと努力が実るよね」
漏れ出た言葉は半ば愚痴のようで、きっと先輩が後輩に言っていい言葉ではないだろうと気づくのは、言い終わったあとだった。
「……なんてね?あ、来年はソロくらいオーディションで決めても良いのかも!今回、凄く緊張感あったし、いい演奏できたと思うよね?……あ、それなら優子ちゃんがソロなんてことも、きっとあるよね。……だから頑張ろ?来年も」
途中から何も言わなくなった後輩を抱きしめる。その暖かみは不思議と、こんな痛み忘れてしまえると思ったほどだ。背中を擦って更に抱き寄せて、漸く少し体重を預けてくれた。全く、この子はせっかくかわいいのに、強がりすぎるところがある。ちゃんと助けを求められるか、今から心配だ。
静かになった教室には、今もまだサックスの音だけが響いている。けれど、あの日響いた旋律は、きっと生涯忘れることはないと思った。