夢現境界奇譚   作:堤明文

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第一章「家族」

 

 

 七月三〇日の午前一〇時。

 

 僕は山陽地方の瀬戸内海沿岸に位置する、今年オープンしたばかりの水族館にいた。

 

 何故そんな場所にいたのかと問われれば、答えは簡単。うちの妹が「水族館に行きたい」と主張したからだ。

 

 今は夏休み期間中。毎年夏の恒例行事として、我が家では母方の祖父の家に家族全員で泊まりに行くことになっているのだが、今年はその時期がやや早まった。

 

 どうやら、祖父はお盆の時期に外せない用事が入ってしまったらしい。そのため今年はお盆前に来てほしいと言われたのだが、うちの父は仕事の都合でそういうわけにもいかず――結局、暇な僕と妹の二人だけで行くことになった。

 

 その後二人でどうやって行こうかと話し合う内に、せっかくだから少し寄り道しようという話になり、妹の希望を叶える形で道中にある水族館に寄ることが決まった。そんな流れだ。

 

 個人的には海洋生物を見るより芸術や科学技術を見る方が好きなので、この近くにある科学系の博物館に行きたいなという本音はあったが、まあそこはいい。水族館だって別に嫌いじゃない。

 

 これでも一応、妹に夏休みを満喫させてあげたいとは思っているし、こういう場面で年少者の希望を優先するのは年長者(一歳しか違わないけれど)の務めというものだろう。

 

 だからこの日の午前中、電車とバスを乗り継いでこの水族館に足を運び、ちょっと高めの料金を払って入場したことに対して、不満は特にない。正直僕も少し浮ついた気分だったし、大きな水槽のガラス越しに見るサメやエイの姿はなかなかに感動的だった。

 

 ただ一つの問題は――

 

「見て見て怜! あの魚! なんかあの顔、うちのお父さんに似てない? 激似だよね絶対! アハハハハッ! マジ似すぎ!」

 

 一緒に館内を巡る、額を露出させたロングヘアが特徴の一二歳女子。

 

 我が妹の御神本鞘香が、すごく馬鹿っぽいノリで大はしゃぎしていることだ。

 

 タコやらナマコやらウミガメやらを見る度に何かしらの感想をでかい声でのたまい、一人で勝手に爆笑するという行為を既に十回以上繰り返している。

 

 割と本気で、もう少し落ち着いてほしかった。恥ずかしいから。

 

「うん……似てるね確かに。あのぎょろっとした目なんか特に」

 

「でしょでしょ? ちょっとサイコ系っぽいっていうか、微妙にイッちゃってる目つきがお父さん感出してるよね! やばっ……顔とっかえても別に違和感なさそう。アハハハハハッ!」

 

「あはは……まあ、それはいいんだけど鞘香……その……もうちょっと声を……」

 

「あーっ! 何あれ!? 超でかっ!? 次あっちいこ! あっち!」

 

「……」

 

 言うが早いか、鞘香は別の水槽の方に小走りで行ってしまった。こちらの話など一ミクロンも聞いていないというか、そもそも聞く気がない様子だった。

 

 駄目だこりゃと内心で呟きつつ、僕は愚妹の後を追った。

 

 今年の春から中学生になり、身長だってもう一五〇センチを超しているというのに、鞘香の脳細胞の発育度は未だ小学生レベルに留まっているらしい――などと言ってしまうと、小学生に失礼だろうか。

 

 ともあれ、あれはアホだ。残念ながらアホだ。大人びた落ち着きとか成熟した立ち居振る舞いとかを求めてはいけない。その手のものを身に付けるには、少なく見積もってもあと三年はかかる。

 

 そんな感じの残念な奴なので、仕方なく生温かい目で見守ることにした。

 

「このクラゲもさ、敵が来たら電気出すのかな? バチバチバチって」

 

「それは電気クラゲじゃないよ。あと電気クラゲって毒持ってるだけで、放電出来るわけじゃないから」

 

「えぇっ!? そうなの!?」

 

「電気ウナギみたいな生き物もいるから誤解されがちだけどね。電気クラゲの電気ってのは、毒のせいで刺された人が感電したみたいに錯覚するのが由来だよ」

 

「うぇ、何それ……全然ダメじゃん。戦いになったらかっこよく電気ビーム出すって信じてたのに……」

 

「電気ウナギだってそんな真似は出来ないよ……水中で狙った方向に電気飛ばすとか無理だからね。物理的に」

 

「あー……夢が壊れた。もういいよクラゲ。電気出せないんじゃ魅力ゼロだよクラゲ。もう地球から消えていいよクラゲ」

 

「いや、クラゲにそんな失望されても……」

 

 クラゲが電撃を放てるか否かがそこまで重要事項だったのだろうか。アホの脳内はよく分からない。

 

 ちなみに「電気クラゲ」と呼ばれる生き物は二種類いて、その内の片方は厳密に言うとクラゲとは違う生き物なので、クラゲ相手に失望されても困る。

 

「ねえねえハカセハカセ、あっちのシマシマのやつは? あれは何てやつなの?」

 

「いつから僕が博士に?」

 

「えー、ハカセじゃん。キャラ的に」

 

「まあいいけど……気になるなら下の説明文読めば? 色々書いてあるんだからさ」

 

「やだ。あたし字読むと眠くなる体質だから」

 

「それは体質じゃなくて気力の問題だよ。ていうか鞘香は活字を嫌いすぎ。たまには本読んだりしなってば」

 

「いいじゃん別に。あたしはほら、怜と違ってリクツじゃなくてカンセーで生きてるタイプなんだから」

 

「それ勉強しない人の典型的な言い訳だからね。感性で生きてるんじゃなくて何も考えてないだけだからね絶対。ついでに言うと、何を頼りに生きてるにしても最低限の教養は必要だからね」

 

「あっ! あっちにアザラシいる! うわカワイイ! 超カワイイー!」

 

「……聞いてないし」

 

 都合の悪いことは受け付けない仕様の脳味噌らしい。呆れて溜息をつき、駄目だこりゃとまた内心で呟いた後、僕は口許が自然と綻ぶのを自覚した。

 

 うちの妹は子供っぽさ全開のアホだけれど、アホなりに可愛くはある。

 

 よく喋るのは決して悪いことじゃない。理屈っぽい話は得意でも楽しい話をするのが下手な僕は、実のところ鞘香の活発さに助けられてもいる。

 

 もしこの子が僕と同じような性格だったら、鏡に向かって話しかけているような気分になるだけで、こうして一緒にいても楽しくはないだろう。人間同士の関係というのは多分、少し個性が違うくらいが丁度良いのだ。

 

 だから、傍目にはそう見えないかもしれないけれど――僕は僕なりに今のこの時間を楽しんでいた。

 

 すぐ傍に妹がいる。気兼ねなく何でも話せる家族がいる。

 

 自分の足で自由に歩き回れて、自分の目で見たいものを見て、一緒にいる相手と好きなだけ言葉を交わせる。

 

 ただそれだけのことが、本当はかけがえのないことだと僕は知っていた。

 

 今のこの時間は、僕にとっては奇蹟みたいなものだったから。

 

 

 

 

 

 

 順路に沿って一通り見て回った後、僕達二人は館内の売店に入った。

 

 これから祖父の家にお邪魔するので、何かお土産でも買っていこうかと思ったのだ。

 

 祖父の家は本土ではなく瀬戸内海に浮かぶ小さな離島にあり、そこへはこの近くの港から出るフェリーで行ける。実はこの後遠方から帰省する叔母と落ち合う約束をしていて、その人を加えた三人でフェリーに乗り込む予定だった。

 

「あっ、この焼ショコラ買ってかない? 師匠こんなの好きだったよね?」

 

「そうだね。じゃあ、この十二枚入りのやつにしようか」

 

 鞘香の提案に僕は同意し、商品棚から焼ショコラの箱を取る。

 

 師匠というのは祖父のことだ。日本広しといえども、自分の祖父を日常的に師匠と呼ぶ女子中学生はうちの鞘香くらいだろう。多分。

 

「うゆ? こんなとこにマグカップがあるぞー?」

 

「さっきからちらちら見てたじゃんそれ。滅茶苦茶気にしてたじゃん」

 

「うーん……このマグカップいいなー、デザインがすっごくあたし好みだなー、でもちょっと高いなー、もうちょい安かったらいいんだけどなー」

 

 死ぬほどわざとらしい説明台詞を言いつつ、鞘香はちらっとこちらを見てくる。

 

 アホなりに知恵をつけてきたのか、最近はこういう駆け引きも仕掛けてくるようになった。

 

 まったく、誰に似たのやら。

 

「……いいよ。僕が買ってあげる」

 

「やった!」

 

「せっかく来たんだし、記念にね。でも今回だけだよ?」

 

 多分今回だけにはならないんだろうけど、一応釘を刺しておく。この手のたかり魔をあまり図に乗らせてはいけない。

 

 まあ自分で言った通り、記念のつもりでカップの一つくらい買っておくのもいいだろう。普段の僕は極力無駄遣いをしないように心がけているので、ここで少し買い物をするくらいの金銭的余裕はある。

 

 そういうわけで自分用にも何か記念の品を買っておこうかと思い、周囲に視線を巡らせると、一枚の栞が目に留まった。

 

「あっ……」

 

 何てことのない、ただの商品。プラスチック製で、アザラシとウミガメの絵がステンドグラス風に描かれただけの、小さな栞。

 

 そんな物から目が離せなくなった。

 

「どしたの? 怜」

 

 栞を凝視したまま固まった僕に、鞘香が不思議そうな目を向けてくる。

 

 少し間を置いてから、僕は口を開いた。

 

「いや、あれが……」

 

「あの栞?」

 

「うん……ちょっと思い出してさ……」

 

「何を?」

 

「……北海道行った時のこと」

 

「あー……」

 

 言葉足らずな返答になってしまったが、鞘香には通じたらしい。

 

 薄く笑って栞を手に取り、懐かしそうに言う。

 

「一昨年の夏だっけ? たしかあの時、怜がよく本読むからこんなの買ってあげるってお母さんが言ったんだよね? 怜はいらないって言ってたけど」

 

「うん……」

 

 一昨年の夏、家族旅行で北海道に行った。

 

 その時立ち寄った道の駅のお土産屋で、そんなやりとりがあったのだ。

 

「お母さんって意味分かんないセンスしてるからねー……ていうかあれ、ギャグのつもりだったのかな? オバケか何かみたいなのが描いてある不気味なやつ持ってきて、怜に呪いのアイテムはいいよとか言われちゃってさ」

 

 鞘香の言葉を聞きながら、僕は母の悪戯っぽい笑顔を思い浮かべる。

 

 僕達の母親――御神本夏海は掴みどころのない人だ。一言ではとても言い表せないような性格をしている。

 

 しっかりした大人の女性に見える時もあれば、僕達よりずっと子供っぽく見える時もある。

 

 陽気で自由奔放なようでもあり、冷静で理知的なようでもある。どこまでが冗談でどこまでが本気なのかも判然としない部分がある。

 

 そんな感じの不思議な人なのだけれど、僕にとっては大切な人だ。

 

 今の僕があるのは、あの人のおかげなのだから。

 

「どうせ買うならあんなキモいのじゃなくて、こういうカワイイのにすればよかったのに……あっ」

 

 僕の顔色を見て言葉を止めた鞘香は、慌てた様子で苦笑した。

 

「あはは……ご、ごめんね、変なこと言っちゃって。今そんなことどうでもいいのにね……」

 

「いや……」

 

 先に思い出させるようなことを言ったのは僕の方だ。鞘香が悪いわけじゃない。

 

「こっちこそ、変なこと言ってごめん。……行こっか。もうすぐ待ち合わせの時間だし」

 

「そ、そうだね。碧さん待たせちゃ悪いしね。あはは……」

 

 少しだけ気まずい空気になりながら、僕達はお菓子とマグカップを買うためレジの前に並ぶ。

 

 暗黙の了解というほどではないけれど、母に関する話は僕達二人の中である種のタブーになりかけていた。

 

 僕達の母は、半年前に失踪していたからだ。

 

 

 

 

 

 

 僕は家族の誰とも血が繋がっていない。

 

 五年ほど前、養子縁組によって御神本家に引き取られた身だからだ。

 

 実は鞘香も同じ境遇なので、僕達は同じ夫婦の下で育てられただけの他人同士ということになる。

 

 こう説明すると、何やら複雑な事情を抱えた小難しい家庭に思われるかもしれないが、実態は全然小難しくない。

 

 養父母はともに普通の人――に分類していいかどうかは若干微妙なところもあるものの、とりあえず普通に優しい人達で、僕と鞘香を実の子のように可愛がってくれた。距離感とか心の壁みたいなものを感じたことは一度もない。

 

 僕と鞘香の仲も普通に良い。ちょっとした文句の言い合いはあっても大きな喧嘩をしたことはないし、休日は大体いつも一緒にいる。世間の血の繋がった兄弟姉妹より仲が良いのではと思う時もある。

 

 だから、要するにうちは円満な家庭なのだ。

 

 同じ屋根の下で日々を過ごして、夕食の時は和やかに談笑して、時々みんなでどこかに遊びに行ったりもする、何の変哲もない一般家庭。血縁関係はなくても、確かな繋がりを持った四人家族。

 

 そんな家族関係が僕は好きで、これから先もこれまで通りの日々が続いてほしいと思っていたし、当然のように続いていくものだと信じていた。

 

 それなのに、半年前――

 

「怜ちゃんはどう思う?」

 

「え?」

 

 急に話を振られ、きょとんとした。次いで自分の現在位置と状況を思い出す。

 

 僕が今いるのは、陸地ではなく海の上。より正確に言うと、瀬戸内海を航行するフェリーの屋上部分にあたる展望デッキ。

 

 ほんの一メートルほど先には、約一時間前に水族館の近くで合流した叔母が、海と青空を背にして立っている。

 

「だから夕飯の話。怜ちゃんはどっちがいいのかなって」

 

「え……あ……」

 

 まずい。考え事をしていて話を全然聞いていなかった。

 

 どっちがいいとか言われても、まず選択肢が何なのか分からない。

 

「あっ、また魂飛んでたでしょ怜。全然聞いてなかった顔だそれ」

 

「うっ……」

 

 隣にいる鞘香に意地悪く茶化されたが、残念ながら反論出来ない。

 

 そんな僕の反応を見て、デッキの手すりの前に立つ叔母はくすくすと笑った。

 

「いいのよ別に。全然大事なことじゃなくって、単に今日の夕飯どうしようかってだけの話なんだから」

 

 この人の名前は天崎碧。

 

 鞘香が師匠と呼ぶ祖父の娘で、僕達の養母である御神本夏海の二歳下の妹。以前から何かと面倒を見てくれている僕達の叔母だ。まだ二七歳と若いので、感覚的には叔母というより年の離れた姉に近い。

 

 腰まで届く長さに伸ばした黒髪とやや垂れ気味の目が特徴的な、優しい顔立ちの美人だった。

 

 現在僕達はこの碧さんと一緒にフェリーに乗り、祖父の家がある瀬戸内海の辰木島に向かっている。というよりも、碧さんの里帰りに僕達が同行させてもらっていると表現した方が適切だろうか。

 

「本当は私、洋食作る方が得意なんだけれど……それだとお父さんがやだって言いそうなのよねー……あの人根っからの和食派だから。そういうわけで何か和風の魚料理にしようかって思うんだけど、サバの味噌煮とアジフライだったらどっちがいい?」

 

「んー……どっちかっていうなら……サバ、かな?」

 

「あら、そっち? てっきり怜ちゃんはアジフライのが好きかと思ってたわ」

 

「いや、味としては好きだけど……揚げ物だと、カロリー高いし……」

 

 小声で答えると、碧さんはまたくすくすと笑った。

 

「ふふっ……なるほど。怜ちゃんもそういうの気にするわけね」

 

 四月の身体測定で想定外の事実(体重増加)に直面して以来、僕は自らに節制を課している。

 

 間食はなるべく摂らないようにしているし、一日の摂取カロリーの総量だってきちんと計算した上で、徹底的な自己管理を行っているのだ。

 

 目に見えた効果はまだ表れていないが、きっと近い内に表れる。

 

「太るの嫌なら運動すればいいのに。怜って努力家なんだか怠け者なんだか微妙なとこあるよね」

 

 鞘香が呆れた様子で言ってきた。

 

 このアホに呆れられるなんて、屈辱以外の何物でもない。

 

「無理に運動しなくたって、食事制限すれば痩せられるよ。僕は無駄が嫌いなだけ」

 

「えー、痩せれてないじゃん。前に測った時と変わってなさそうだし、あたしより大分肉あるし」

 

「そっ……それは鞘香が細すぎるだけだから! 僕は普通だから! むしろ普通より痩せてるから!」

 

 思わず声を荒らげてしまった。落ち着け僕。

 

 確かに僕は鞘香より少しばかり体重があるが、身長も二センチほど上だということを忘れてもらっては困る。年齢だって一歳上なのだから、成長期の関係で多少肉付きが良くなるのは仕方がない。

 

 それに鞘香は平均より明らかに細い体つきをしているので、そのもやしみたいな体型を基準にするのはどう考えても間違っている。

 

 要するに、相対評価では鞘香より僅かに太い僕だが、絶対評価では別に太っていないということだ。色々な資料に目を通した上での結論なので、そこに疑問を差し挟む余地は一切ない。

 

 繰り返すが、僕は太っていない。決して。

 

「怜ちゃん、食事制限で痩せるのは大人になってからでいいのよ。成長期の内はしっかり食べてしっかり身体動かさないと」

 

「うっ……」

 

「そうだぞー怜、運動しないでゴロゴロしてるからお腹がボコっと出ちゃうんだぞー」

 

「出てない! そんなに太ってないから!」

 

 悪質な風評被害に抗議すると、碧さんと鞘香は楽しそうな笑い声を上げた。

 

 地味に腹立つ。

 

「ごめんごめん、怒んないで……あっ、そうだ。怜ちゃんもサヤちゃんと一緒にお父さんに揉んでもらったら? どうせ今日もやるつもりなんでしょ? サヤちゃん」

 

「もちろん! 秋にも大会あるから、師匠にみっちりケイコつけてもらわないとね。目指せ全国制覇! って感じで」

 

 話の雲行きが怪しくなってきた。僕の意思を置いてけぼりにしたまま、碧さんと鞘香の間で不穏な合意が形成されつつある。

 

 無駄な運動を極力しない主義の僕としては、全く歓迎出来ない流れだった。

 

「てなわけで、怜も一緒にやろうよケイコ。これ以上デブ化しないためのダイエットってことで、いい汗流そ」

 

「やだよ。この暑い中、熱中症になるような真似したくない」

 

「大丈夫だって。最初はちょっと死にかけるけど、慣れればどうってことないから」

 

 さらっと死にかけるとか言うな。

 

「……遠慮しとくよ。僕はインドア派で体力ないから、鞘香やおじいちゃんにはとてもついてけない」

 

 丁重に辞退すると、鞘香は楽しそうな顔から一転。物凄く不満そうな顔になった。

 

「そんなことないと思うけどなー……怜ってスジは良さそうだし、がんばればけっこう強くなれそうに見えるんだけど? ……ていうかさ、いざって時のために身体鍛えて頼れる兄貴感出そうとか思わないの?」

 

「何で僕が頼れる兄貴にならなきゃいけないのさ……」

 

「えー、だって兄貴じゃん。キャラ的に」

 

「……鞘香、さっきのマグカップの代金請求していい?」

 

「ウソウソ! 冗談だって! ごめんおね――あっ」

 

 何かに気付いた様子で、鞘香は僕の後ろの方に視線を移す。

 

 つられてそちらを向くと、デッキの上をころころと転がる一個のボールが目に映った。テニスボールくらいの大きさの青いゴムボールだ。

 

 そのままだと海に落ちていきそうだったので、手を伸ばして拾い上げる。直後に「あ……」という声が聞こえ、今度はそちらを向くと、幼稚園児くらいの小さな男の子がいた。

 

 状況から察するにその子が落とした物なのだろうけれど、人見知りする子なのか、自分の物だと主張出来ずにいるようだ。

 

 仕方なく、僕の方から声をかけることにした。

 

「これ、君の?」

 

 問いに、男の子はこくりと頷く。

 

 僕は怖がらせないために笑顔を作り、掴んでいたボールをその子に差し出した。

 

「はいどうぞ。落とさないように気を付けてね」

 

 男の子の顔がぱっと明るくなった。

 

 小さな手がボールを受け取ると同時に母親らしき女性がやってきて、「ごめんなさい、この子がそれ落としちゃって」と言いつつ、軽く頭を下げる。

 

 船の上で子供にボールを持たせるのはやめた方がいいと思うけれど――何はともあれ、少しだけ良いことをしたような気分だった。

 

 男の子の口から爆弾発言が飛び出すまでは。

 

「ありがと! おにいちゃん!」

 

「ウェッ!?」

 

 かつてないくらい変な声が、反射的に出た。

 

 男の子は何故そんなに驚かれたのか分からない様子で、こちらの顔を見上げたままきょとんとしている。

 

 助け舟を出すように、母親が苦笑しながら言った。

 

「ほら、違うでしょう? ありがとうお姉ちゃん、でしょう?」

 

 言われた男の子は一瞬固まった後、こちらの顔をまじまじと観察して、探るように問いかけた。

 

「おねえちゃん……なの?」

 

「あ、あはは……い、一応、ね……」

 

 これでも一応、生物学上は女性に分類される身だ。

 

 なので男と間違われたのは、正直かなりショックだった。

 

 ついでに言うと、すぐ隣でうちの馬鹿妹が心底から愉快そうに大笑いしていることには、わりと本気でイラっときた。

 

 マグカップの代金、本当に取り立ててやろうかな。

 

 

 

 

 

 

 島に着くまでまだ時間があったので、船内のトイレに行った。

 

 用を済ませた後、蛇口から出る水で手を洗いながら備え付けの鏡を見る。

 

 ショートヘアの中学二年生――御神本怜という名の自分自身が、鏡の向こうで難しい顔をしていた。

 

「そんなに男っぽいかな……? いや、そんなことは……」

 

 ない、と思いたい。

 

 確かに男っぽいと評されたことはこれまでにもあるし、鞘香からは時々「兄貴」と呼ばれるけれど、それは僕の口調や性格に起因するもののはず。顔の造形が男っぽいなどという話ではないはずだ。多分。

 

 髪を短めにしているせいだろうか。いやでも、一般的な男子のそれと比べるとやや長めだろうし、これくらいの長さの髪の女子なんていくらでもいる。服だって今はそれなりに女子らしいものを着ている。身長だって高くはない。むしろ同年代の平均よりやや低い。

 

 おそらくさっきの子は、幼さ故に男女を識別する能力が未発達だったのだろう。そうに決まっている。そうでないと困る。

 

 家族や友達の前では少年風の口調で話す僕だが、それは自分にとって一番しっくりくる話し方を選択した結果であって、別に男になりたいわけではないのだ。女が嫌なわけでもない。

 

 だから男と間違われたり男扱いされたりするのは、はっきり言って非常に不本意かつ不名誉なことだった。

 

「髪伸ばそうかな……でも手入れが面倒だし……」

 

 脳内会議の場に提出された案は、反対多数で否決された。

 

 僕が髪を短くしているのは、髪が長いと色々と面倒になることを知っているからだ。無駄な手間や労力を嫌う性分なので、見た目を女子らしくするためだけに日常生活をかったるいものにする気にはなれなかった。

 

 それに下手に髪を伸ばすと、「あっ、怜が色気づいてるー。思春期だ思春期」とか鞘香に茶化されそうだ。あのアホは絶対そんな感じのことを言う。想像しただけで地味に腹立つ。

 

「ま、いっか……見た目にこだわるなんてガラじゃないし」

 

 そう結論付け、濡れた手をハンカチで拭いてからトイレを出た。そのまま船内を進み、鞘香と碧さんがいる屋上の展望デッキに続く階段を上ろうとした矢先、ふと気付く。

 

 左斜め前方――広い船内に整然と並ぶ座席の一つに、変わった髪色の少女が腰かけていることに。

 

 その姿を目にした時、外国人かと一瞬思った。肌が白に近い色で、長い髪はほのかに赤みを帯びた色だったからだ。

 

 しかしよく見れば顔立ちは日本人風で、肌の色も白人ほどの白さではない。

 

 白人と日本人のハーフ、あるいはクォーターだろうか。両者の特徴が混在した容姿から、そう推測した。

 

 少女は窓際の席に座り、頬杖をついた姿勢で海を眺めている。家族や友人らしき人達は周囲に見当たらない。

 

 どことなく大人びた雰囲気を漂わせているが、顔は幼く身体も小さい。多分僕より一つか二つ年下だ。

 

 何故わざわざ立ち止まってじろじろ観察したのかと問われれば、答えは僕にも分からない。

 

 今時外国人など珍しくもないし、この船にも外国人らしき乗客は他に大勢いる。今視線の先にいる少女だけに注目する理由などありはしない。

 

 にもかかわらず僕の目は、名も知らない赤毛の少女に釘付けになっていた。

 

 どういうことだろう。我ながら意味が分からない。

 

 知り合いではなく特に用もない他人を、何故僕はじっと見続けているのか。

 

 そんな自問を頭の中で繰り返していると、赤毛の少女が首を回してこちらを見た。

 

 深く澄んだ瑠璃色の瞳。

 

 その視線に射抜かれた瞬間、胸の奥で何かがざわついた。

 

「――っ」

 

 得体の知れない感覚だった。

 

 心臓の内側で無数の蛆虫が蠢き出したかのような、酷く不快で生々しい忌避感。背筋を駆け巡りながら粘りつく、重苦しさを伴った悪寒。

 

 それが僕の意識を黒い泥沼に沈め、身体の自由を奪った。

 

 誇張ではなく本当に、何も考えられない状態に陥り、指一本動かせなくなっていた。

 

「何かご用ですか?」

 

 意識を引き戻す、静かな問いかけ。

 

 赤毛の少女に冷ややかな目を向けられていることにようやく気付き、びくっとした。

 

 不審な奴と思われたのだろう。棒立ちになったまま数十秒も彼女を凝視していたのだから当然だ。

 

 物凄く気まずい状況だった。

 

「い、いえ……何でも……ないです……」

 

 もごもごと口を動かした後、逃げるように背を向け、展望デッキに続く階段を足早に上る。

 

 羞恥心やら何やらが一気に込み上げてきて、鼓動が早まるのを自覚した。

 

 まずい。本当にどうかしている。

 

 何故意味もなくあの子を凝視してしまったのか。目が合っただけであんなにも狼狽えてしまったのか。

 

 僕らしからぬ失態だ。夏の暑さに頭をやられてしまったのかもしれない。何か冷たい物でも飲んで落ち着こう。

 

 そんなことを考えながら、鞘香達の元に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 祖父の家がある辰木島は、瀬戸内海に浮かぶ無数の島々の一つ。観光業、養殖業、製錬業の三つを主な産業とする有人島だ。

 

 南北に細長い米粒のような形をしていて、面積は約八平方キロメートル。海岸線の長さは約二〇キロメートル。人口は島の規模の割には多く、約三千人。島の西側の西浦地区、東側の石宮地区、南側の八木地区にそれぞれ集落が形成されている。

 

 西浦地区の港で下船して道路を一本渡ったところに小さな神社があり、その裏手には細い路地が東側に向かって伸びている。そこを少し進んだ先に建つ、漆喰の塀に囲まれたやや古めかしい瓦屋根の家屋が、祖父の住居である天崎家だった。

 

 午後一時半頃に到着した僕達を祖父は温かく迎えてくれて、そのまま四人で遅い昼食をとることになった。

 

 そして、食後のお茶の時間。

 

「それでね、その時の怜の顔ったらすごかったんだよ! 口でっかく開けたままワナワナしちゃっててさ! アハハハハッ! しかもその後、あのちっちゃい子のことめっちゃガン見してなかった? ぶっ殺すぞクソガキ、って感じの顔で」

 

「睨んでないしそんな顔してない! ちょっとびっくりして固まってただけ!」

 

「ははははは」

 

 フェリーでの一件を誇張して伝える鞘香に僕が抗議すると、テーブルの向かい側に座る祖父はおかしそうに笑った。

 

「よりにもよって男の子と間違われちゃったか。災難だったね怜」

 

 白髪交じりの頭をした初老の男性で、温和な印象を与える細い目が外見的特徴のこの人は、天崎定治。

 

 うちの養母と碧さんの父親で、碧さんが「お父さん」と呼び、鞘香が「師匠」と呼び、僕が「おじいちゃん」と呼ぶ、天崎家の主。

 

 この社島で海苔の養殖業を営む、僕と鞘香の血の繋がらない祖父だった。

 

「でもまあ、あれだよ。怜くらいの年頃なら女の子みたいな男の子だっているからね。間違えられたってそう不思議じゃないさ」

 

「そうそう。それにほら……怜ちゃんはかっこいい男の子みたいな凛々しさがあるから、きっとそういう風に見えちゃったのよ」

 

 祖父の発言を補足する形で、碧さんもフォローしてくれた。

 

 二人とも優しい。どっかの馬鹿とは大違いだ。

 

「でもさー、怜ってぶっちゃけ中身の方も男っぽいよね。女子力ゼロだし」

 

 心の綺麗な大人達とは対照的に、どうしても僕を下げたいらしい馬鹿が約一名。

 

 もうこいつが何をねだってきても絶対買ってやらないと、僕はこの時固く誓った。

 

「女子力なんて定義が曖昧すぎる言葉に意味はないよ。だいたい、女らしさっていう観念自体が前時代的で――」

 

「あっ、出たヘリクツ。都合が悪くなるとすぐそれで逃げるんだよねー、いつも」

 

「むっ……」

 

「そんなんだから兄貴とか女装男子とかショタもどきとか言われちゃうんだぞー、中二にもなって料理も出来ないままなんだぞー」

 

「う、うるさいな! 全部鞘香からしか言われてない! ていうか僕だって料理くらい出来る! チャーハン作れる!」

 

「えー、チャーハンしか作れないじゃん。しかもよく焦がすし」

 

「ぬぐっ……」

 

 痛いところを突かれ、言葉に詰まった。

 

 誰しもに得手不得手があるように、僕にも当然得手不得手がある。前時代的観念では女子の領分とされる家事全般は、残念ながら僕の不得手な分野だった。

 

 一方で鞘香は、見かけによらず家事全般が得意だったりする。特に料理の腕は主婦顔負けで、ちょっと馬鹿に出来ないレベルのものだと認めざるを得ない。

 

 それ自体は結構なことなのだが、最近は反抗期的な症状で根性がひん曲がってきたのか、女子力やら何やらをネタに僕をこき下ろすことを覚えたので困りものだ。

 

 率直に言って、クソうざい。

 

「ほらほらサヤちゃん、そうやってお姉ちゃんをいじめちゃ駄目よ。怜ちゃんには怜ちゃんの良いところがあるんだから」

 

「そうだよ鞘香。毎年夏休みの宿題を手伝ってくれてる優しいお姉ちゃんなんだから、もっと感謝しないと」

 

 碧さんと祖父が、調子こいてる馬鹿をやんわり窘める。

 

 せっかくなので、その流れに便乗させてもらうことにした。

 

「そう言えばそうだったね。誰かさんのおかげで毎年この時期は二人分の宿題をやらなきゃいけないんだった」

 

「うっ……」

 

 今度は鞘香がたじろぐ番だった。

 

 恩着せがましい物言いは好きじゃないけど、日頃の行いが悪いので容赦はしない。

 

「特に読書感想文書いてあげるのは大変だったよ。代筆がバレないように誰かさんの貧弱な語彙力に合わせなきゃいけなかったからね。わざと馬鹿っぽく書くのって結構難しいんだよ?」

 

「あ、あぅ……」

 

「それに誰かさんは計算能力にも致命的な問題を抱えてるからね。この前のテスト勉強の時だって、どうやって数式を理解させたらいいのかと悩ませられたよ。何かあれだね、犬とか猿とかを調教する人の苦労が分かった気分――」

 

「わ、分かったよもう! ごめんお姉ちゃん! あたしが悪かったから、もうその辺で……」

 

 普段はアホ丸出しの鞘香だが、実は頭脳明晰で成績優秀――なんてことはない。学業の面では見た目通りのアホであり、非常に低品質な頭脳の持ち主だ。

 

 よってこいつの手に負えなくなった宿題を処理してやったり、テストで悲惨すぎる点数をとらないように家庭教師の役を務めたりするのは僕の仕事となる。これまでさんざん面倒を見てきてやったので、その方面でこいつは僕に頭が上がらない。

 

 要は、僕を相手にマウントをとるなんて百年早いということだ。こっちはその気になればいくらでも弱みを突けるのだから。

 

「ははは、まあ持ちつ持たれつってところだね。怜と鞘香は」

 

 祖父はまた笑い、湯呑みに入れていたお茶を一口啜った。

 

「しかし勉強だったら一馬君が見てあげればいいのにな。彼も頭は良いんだし」

 

「駄目よお父さん。一馬さんは頭は良いけど……ほら、ちょっとアレだし」

 

「うん……ちょっとアレだからね、うちのお父さん」

 

 碧さんの意見に僕は同意する。

 

 うちの養父は高学歴で頭は良いのだが、残念ながら「ちょっとアレ」な人だった。

 

「頭良くても全然そんな風に見えないからねー、お父さん。見た目も中身もゴリラだし」

 

「失礼だよ鞘香。ゴリラは繊細な生き物なんだから、お父さんと一緒にしちゃいけない」

 

「あはは……怜ちゃんも結構手厳しいのね……的確な指摘すぎて納得しちゃったけど」

 

「繊細さとは無縁だからなぁ、一馬君は……女の子の相手はちょっと難しいか……」

 

 まるで僕達が一丸となって父の悪口を言っているかのようだが、そんなことはない。御神本一馬という人の個性をそのまま述べているだけだ。

 

 仮に本人がこの会話を聞いたとしても、別に傷ついたり怒ったりはしないだろう。むしろ何故か大笑いして、楽しそうにゴリラの物真似でもし始めるかもしれない。

 

 そういう感じの、博士号を持つ研究者とは到底思えない人なのだ。うちの父は。

 

「ま……それはそれとして、だ」

 

 祖父は湯呑みをテーブルに置き、居間の壁にかけられている時計を見た。

 

「そろそろ三時になるし、やろうか鞘香」

 

「待ってました!」

 

 鞘香は元気な声で反応し、椅子から勢いよく立ち上がる。

 

 その顔は、他のどんな時より嬉しそうだった。

 

「今日は絶対一本とってみせるから、本気でやってね師匠!」

 

「分かってるよ。というよりいつも本気だろう? おじいちゃんは」

 

「えー? 思いっきり手加減してたじゃん。そういうのナシで、今日はほんとの本気ね? あたしめっちゃ稽古してきたんだから、今までとは違うよ。絶対」

 

「ははは、それは楽しみだ。じゃあ先に行ってるから、むこうで着替えておいで。今日はお互い本気でみっちりやろう」

 

「うん!」

 

 まるで遊びに出かけるようなノリで話す鞘香と祖父だが、これから二人がやろうとしていることはすごく真面目なことだった。

 

 鞘香が祖父を「師匠」と呼ぶのは、冗談や悪ふざけによるものではない。

 

 この二人は、歴とした師弟関係にあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 日本拳法という武道がある。

 

 柔道着に似た道着の上から剣道の面や胴に似た防具を装着し、両手にグローブを嵌めて戦う競技だ。

 

 日本発祥の総合格闘技と呼ぶべきもので、突きや蹴りなどの打撃を主体としながら投げ技や関節技も用いられる。空手と柔道を合わせたようなものと表現すれば伝わりやすいかもしれない。

 

 祖父は日本拳法を長年続けている有段者で、鞘香はその教え子だった。

 

「さて、それじゃあ防具稽古に入ろう。来なさい鞘香」

 

「はい!」

 

 防具を着けた姿で板張りの床に立ち、僅かな距離を置いて向き合う祖父と鞘香。

 

 天崎家には母屋と隣接する形で小さな道場が設けられており、三〇分ほど前から二人はそこで稽古に励んでいた。

 

 これから行われるのは、防具稽古と呼ばれる試合形式の稽古。空手でいうところの組手だ。稽古に不参加の僕は、道場の隅で正座しながらそれを見学させてもらうことにした。

 

 蹲踞というしゃがんだ姿勢になり、右の拳を床につけた後、同時に立ち上がって構えをとる二人。その一連の流れが、日本拳法における試合前の作法だった。

 

 そして試合開始。両脚を前後に開いて拳を中段に置いた鞘香は、泰然と構える祖父にすり足でにじり寄る。祖父の身体が自身の間合いに入ったところで床を蹴り、先制攻撃を仕掛けた。

 

 深く鋭い踏み込みから、右拳の突き。空手の正拳突きともボクシングのストレートとも違う、縦拳と呼ばれる日本拳法の基本技だ。前腕部を捻らず拳を縦にしたまま突き出すことで、相手の身体に到達するまでの時間を短縮する効果があるとされる。

 

 傍から見てもキレのある攻撃だったが、祖父には通じなかった。僅かに後退することで攻撃の有効射程から外れ、空振りに終わらせる。そのまま間を置かずに繰り出された反撃の縦拳は、鞘香に手本を示すかのように見事だった。

 

 地面を縮めたかのような踏み込みから、鞘香と同じ縦拳。だが素人目に見ても、鞘香のそれとは練度がまるで違っていた。刹那の内に放たれた拳の一閃が、鞘香の腹を防具の上からしたたかに打つ。

 

 そのまま教本か何かに載せてもいいくらい、迅速かつ完璧な反撃だった。これが本当の試合なら間違いなく一本となっていただろう。

 

「粗い」

 

 反撃を受けて後退した鞘香に、祖父は言う。

 

 その声音は、普段より幾分か厳しいものだった。

 

「技の出所が分かり易すぎるよ、鞘香。いくら突きが速くても、それじゃ強い相手には通じない。攻めに移る前に余計な力みを見せちゃ駄目だ」

 

「はい!」

 

 僕には分からないが、攻撃前の予備動作のようなものがあったらしい。祖父の目はそれを見逃さなかったということなのだろう。

 

 厳しい指摘を受けてか、鞘香は攻め手を変えた。今度は蹴り技。足裏を正面に突き出す前蹴りで祖父の胴を狙う。

 

 祖父がそれを横に動いてかわすと、すかさず追撃として右脚を軸にした回し蹴りを放つ。流れるような連続攻撃であり、体格の割に長い脚を持つ鞘香の得意戦法だ。

 

 しかしここでも、祖父の方が上手だった。脇腹を打つはずだった蹴りを右腕で防ぎ、同時に巻きつけるような動きでその脚を取る。蹴り脚を引き戻せなくなった鞘香は行動不能に陥り、続く祖父の突きを面の上から受ける結果となった。

 

 これで二本目。三本勝負なら既に勝負ありだ。

 

「動き自体は良い。だが、技の使い方を間違えている」

 

 鞘香の脚を放して自由を取り戻させてから、祖父は言った。

 

「回し蹴りは動作が大きいため対処され易く、今のように脚を取られてしまう危険もある。得意だからといって安易に使うべきものではないよ。有効な場面もあるけれどね」

 

 技の練度だけではない。戦術の組み立てや要所での判断力といった面においても、師弟の間には大きな差があるようだ。

 

「回し蹴りに限らず、全ての技には使うべき場面と使ってはならない場面がある。鞘香はもう基本技術は身に付いているから、その有効な使い方を覚える時期だ。相手との距離や体格差をよく考えて、常に最善手を選べるようにしないとね」

 

 淡々と語ってから、祖父は前に踏み出した。

 

 その挙動だけで山が迫ってきたような威圧感を覚えたのは、きっと僕だけではないだろう。

 

「次はこちらから仕掛けるよ。腕を取って投げ落とすから、上手く対処してみせなさい」

 

「はい!」

 

 力強く返答する鞘香だったが、ろくな抵抗は出来なかった。

 

 祖父を近付けまいと左右の拳を小刻みに放つも捌かれ、いとも容易く腕を取られ、足払いで体勢を崩された後に投げ落とされる。

 

 倒れた鞘香への止めの一撃を寸止めして、祖父は告げた。

 

「腕を取られたくらいで動揺してはいけない。落ち着いて頭を働かせればやれることはいくらでもあるし、体格で劣っていても投げ返すことは出来る。いつも言っているが、審判が決着を判定するまでが勝負だよ。それを忘れないように」

 

「……っ! は、はい!」

 

「よし、では続けよう。今度はおじいちゃんは左の手足を使った当身しかしないから、どうにかして一本取ってみせなさい。鞘香なら出来るだろう?」

 

「はい! やってみせます!」

 

「良い返事だ。じゃあ、来なさい」

 

 その後しばらく稽古は続いたが、祖父の圧倒的な優勢は変わらなかった。

 

 

 

 

 

 

「強すぎでしょ、おじいちゃん……」

 

 試合の模様を見学しながら、僕はそう呟いた。

 

 視線の先では今も、左腕と左脚しか使わない祖父に鞘香が苦戦を強いられている。というより、一方的にやられ続けている。

 

 鞘香は決して弱くない。むしろ実はかなり強い。普段は地元にある日本拳法の道場に通っていて、小学生の頃から全国大会に何度も出場した経験を持つ。今年春の大会では個人戦で準優勝を果たした。同学年の女子の中では上から数えて二番目ということだから、相当に立派な実績の持ち主なのだ。

 

 そんな鞘香でさえ、祖父の前では全く相手にならない。入門したての初心者か何かのように見えてしまうのだから恐ろしい。

 

 ああいう人を達人と呼ぶのだろう。もう六〇過ぎで身体に不自由を覚えてもおかしくない年齢だというのに、衰えや付け入る隙を微塵も感じさせない。僕のような素人が見ても分かるくらい、一挙手一投足が洗練されている。

 

 いったいどれほどの鍛錬を積めば、人はあの域に達するのか――なんて考えていると、丸い木の盆を両手で持った碧さんがこちらにやってきた。

 

 盆の上には、切り分けられたスイカが載っている。

 

「怜ちゃん、スイカ食べるでしょ?」

 

「あ、うん……食べるけど……ここで?」

 

 仮にもここは道場なので、飲食をするのは無作法に当たるのではないだろうか。

 

「いいのよ気にしなくて。こんなの、お父さんが趣味で作っただけのインチキ道場なんだから」

 

「はは……じゃあ、お言葉に甘えて……」

 

 気にしなくていいそうなので、遠慮なくいただくことにする。よく冷えたスイカは瑞々しくて美味しかった。

 

 僕の隣に座って自分の分のスイカを食べながら、碧さんは笑う。

 

「それにしても、怜ちゃんも律義ね」

 

「え?」

 

「この暑い中、無理に見学なんかしなくたっていいのに。こんなところにずっといたって退屈でしょう?」

 

「あ……えっと……」

 

 碧さんの誤解に、僕は適切な返答を探す。

 

 僕が二人の稽古を見学しているのは、真面目さや律義さからくる行動ではない。

 

「僕はほら……ここにいる方が落ち着くから……」

 

「あっ……」

 

 碧さんがしまったという顔をする。

 

 自分のことではあるけれど、これは少しだけデリケートな問題だった。

 

「そ、そうよね……ごめんね怜ちゃん……その、悪気はなかったのよ……? ちょっと忘れてただけで……」

 

「あ、いや……気にしないで碧さん。ほら、全然大したことじゃないから……」

 

 稽古に参加する気がなく、武道に興味もないくせに、道場の隅で見学などしている。傍から見れば確かに奇妙な行動に映るだろう。

 

 けれどそれは、僕なりの事情があってのことだ。

 

 一人で部屋にこもって読書に耽るような真似が、僕には出来ない。出来ない事情がある。

 

「それよりさ……いつも思うけど、おじいちゃんって強いよね。確かもう五〇年くらい拳法やってるんだっけ?」

 

 少し気まずくなった空気を打ち消すため、無理やり話題を変えた。

 

 碧さんも気を取り直し、それに応じてくれる。

 

「十歳から始めたって言ってたから……うん、大体そのくらいね。子供の頃は喧嘩ばかりしてるやんちゃ坊主だったみたいで、性根を叩き直すために道場に入れられたんだって」

 

 今でこそ温厚な祖父だが、少年時代は粗暴な一面があったらしい。

 

 きっと武道との出会いが、人格と人生を変えたのだろう。

 

「それ以来すっかり武道にのめり込んじゃって、今はこの有様。武道一筋なのは結構なんだけど、一筋すぎてこんな道場まで作っちゃったからね……すごくお金かかったのよ? ここ建てるのには」

 

「はは……やっぱりお金かかるよね、道場は……」

 

「まあ、これがお父さんの唯一の道楽だから仕方ないけどね……こうしてサヤちゃんの稽古場にもなってるし、良しとしましょうか」

 

 呆れた様子で溜息をつきつつ、碧さんは穏やかな顔になる。

 

 鞘香に向けるその眼差しは、我が子を見守る母親のように優しかった。

 

「そこは鞘香も感謝してるよ。自分が拳法やっていられるのはこの道場でおじいちゃんが教えてくれたからだって、いつも言ってる」

 

「自分が好きなことを孫にもやらせたかっただけよ。……でも、そう言ってもらえると嬉しいでしょうね。お父さんとしては」

 

 鞘香が日本拳法を始めたのは五年前。御神本家の養女になって間もない頃のことだ。

 

 生みの親に代わる新たな両親となった二人に連れられてこの家を訪れ、義理の祖父となった天崎定治と引き合わされた。その際祖父に日本拳法をやってみないかと尋ねられ、首を縦に振ったことから二人の師弟関係が始まった。以来長期休みの度にこうして稽古をつけてもらっている。

 

 普段は一緒に暮らしているわけではないから、祖父に師事した日々は始めた頃から合わせても一月程度でしかない。祖父の勧めで通うようになった地元の道場で過ごした日々の方が遥かに長い。

 

 しかし鞘香にとって、最初の師である祖父の存在と、この家の道場で初めて拳法を習った日の記憶は特別なもののようだ。

 

 地元の道場の指導者を、鞘香は「先生」と呼ぶ。「師匠」とは呼ばない。

 

 鞘香が「師匠」と呼んで慕うのは、祖父ただ一人だけだ。

 

「少し見ない間にまた強くなったみたいね、サヤちゃん。背もどんどん伸びてきてるし……大人になる頃にはお父さんより強くなってたりしてね」

 

「中学卒業までに三本勝負でおじいちゃんに勝つのが目標だって、いつも言ってるよ」

 

「ふふっ、壮大な目標ね。でもサヤちゃんなら本当にやり遂げちゃいそうな気がするわ」

 

「僕としては、ちゃんと受験勉強して無事に高校生になることを目標にしてほしいけどね」

 

「あはは……そこはまあ、怜ちゃん先生の腕の見せ所ってことで……」

 

 約一名の学力と学習意欲の低さを危惧する発言に、碧さんは苦笑を返した。

 

 

 

 

 

 

 長く続いた防具稽古を締め括ったのは、鞘香が突き出した縦拳だった。

 

 祖父の攻撃をかわしながら踏み込み、カウンターの形で胴に拳を叩き込んだのだ。

 

 面の下で、祖父の顔が笑みを作る。

 

「良い一撃だ。申し分のない動きだったよ、鞘香」

 

 それが優しい嘘であることは、傍で見ていた僕にも分かった。

 

 今日の鞘香が見せた攻撃の中では一番良かったかもしれないが、祖父から一本を取れるほどのものではなかった。本当ならこれまで通り、避けられるか防がれるかで終わっていただろう。

 

 それを祖父は、あえて何もせずに受けてくれたのだ。「自分から一本を取る」という条件を鞘香に達成させ、稽古を終わらせるために。

 

「さて、今日はここまでにしようか。おじいちゃんも年だからね。これ以上は体力がもたないよ」

 

 これも嘘。明らかにまだまだ余裕がある。鞘香が体力の限界を迎えつつあることと、簡単には音を上げられないその性格を知っているから、こんな嘘をついてくれている。

 

 祖父はどこまでも優しい。

 

 この人が鞘香の師で良かったと、僕は心から思った。

 

 防具稽古を終えた二人は距離を置いて正座し、グローブと面を外す。鞘香が汗塗れの疲れ果てた顔を見せる一方、祖父は普段通りの穏やかな顔に戻っていた。

 

「また一段と強くなったね、鞘香。稽古中は色々言ったけれど、正直鞘香の成長には驚かされたよ」

 

 褒められても、鞘香の表情は冴えない。師との間にある大きな差を痛感しつつ、自分の未熟さを噛み締めている様子だった。

 

 普段はやんちゃで不真面目な面が目立つ鞘香だけれど、武道に関しては本当に真剣だ。気力と体力の全てを稽古の時間に注ぎ込み、必死に強くなろうとしていることが傍目にも分かる。

 

 だからこそ、祖父にとっては可愛い弟子なのかもしれない。

 

「今日の稽古で、おじいちゃんは最初から最後まで真剣だったよ。気を抜いていたら負けてしまいそうなくらい鞘香が強くなっていたからさ。それは確かな成長の証だから、自信を持ってくれていい」

 

 そう励ましてから祖父は居住まいを正し、真っ直ぐな視線を鞘香に向けた。

 

 この流れは知っている。稽古の後の恒例として、祖父が「大事な話」をする時の流れだ。

 

「鞘香は才能があるし、努力もちゃんと出来る子だ。もう何年かしたら、きっとおじいちゃんより強くなる。……だからこそ言わせてほしい」

 

 小さな離島の片隅に建つ、西日が差し込む道場の中。

 

 義理の孫であり弟子でもある少女を諭すため、武道の達人は言った。

 

「ここで身に付けた技を試合以外で使ってはいけないよ。武道を喧嘩や脅しの道具にするような、心の歪んだ人間になってはいけない」

 

 日本拳法は歴とした武道だ。そして武道とは、単なるスポーツでも伝統芸能でもない。

 

 その目的は人格の育成。厳しい稽古を通じて健全な肉体と精神を育み、礼節を学び道徳心を養い、人として歩むべき道を知ることこそが、現代武道の理念であり存在意義。

 

 それを誰よりも心得ている祖父は、稽古が終わると必ず、こうして鞘香に「道」を説く。

 

 長い人生で得てきたものを、次の世代に手渡そうとするように。

 

「例えば、だ……今はまだおじいちゃんの方が強いから、その気になれば鞘香をいくらでも痛めつけることが出来る。殴って蹴って、脅して言いなりにしてね……そんなおじいちゃんは嫌だろう?」

 

「……はい」

 

「それと同じように、鞘香と関わる人達だって、鞘香がそんな人間になってしまったらきっと嫌なはずだ。自分の強さを他人の心や身体を傷つけるために使う人間は、この世の誰からも愛されない」

 

 そこで一旦言葉を切り、祖父は右手を胸の高さまで上げた。

 

 老いを感じさせるその手が小指から順に折り畳まれ、拳を作る。

 

「強い者は優しくなければならない。優しく在るためには、強く在らねばならない」

 

 自らの拳に目を落とし、詩を詠むように呟く。

 

「おじいちゃんが子供の頃、道場の先生に教わったことだ。喧嘩しか知らなかった悪ガキに人の道を示してくれた、大切な教えだよ」

 

 それは、本当に大切な教えなのだろう。

 

 懐かしそうに語る祖父の横顔は、どこか誇らしげでもあった。

 

「武道は使い方によっては恐ろしい武器になる。だから武道を修めた者は、普通の人より優しくなくてはいけないんだ。そして本当の意味で優しい心を持つためには、日々の稽古で自分を鍛え続けなくてはいけない。……おじいちゃんはそのことを、鞘香に伝えたいと思う。他の何よりも大切なこととしてね」

 

 人を傷つけないこと。稽古の日々で得たものを支えにして、家族や友達を大切にしながら生きていくこと。

 

 祖父が鞘香に伝えたいのは、きっとそういうことだ。

 

 高尚な理念でも難解な哲学でもない。誰もが人生のどこかで教わり、胸に刻んでいく、人として当たり前のこと。

 

 でもそんな当たり前のことが、実は一番難しいのかもしれない。

 

「すまないね、また退屈な長話をしてしまった……年寄りの悪い癖だな、はは……」

 

 祖父は真面目な雰囲気を崩し、気恥ずかしそうに苦笑した。

 

「繰り返しになるが、鞘香の上達には本当に驚かされたよ。こんなに胸が弾む稽古は久しぶりだった。ありがとう鞘香」

 

 感謝の言葉が与えられると、応じる形で鞘香は床に両手をつく。

 

 そして恭しく頭を下げ、澄んだ声音で言葉を紡いだ。

 

「――はい。ありがとうございました。師匠」

 

 鞘香が「師匠」と呼ぶのは祖父だけ。

 

 それは決して、冗談や悪ふざけによるものじゃない。

 

 祖父の強さだけではなく、その優しさと人間の大きさを深く知っているから、敬意と感謝を込めて「師匠」と呼ぶのだ。

 

 鞘香にとって祖父は、武道の師であると同時に、人生の師でもあった。

 

 

 

 

 

 

「ほんと……いっつも同じ話するのね、お父さん。他に話のネタないのかしら?」

 

「はは……」

 

 碧さんが言うように、祖父の「大事な話」の内容はいつも大体同じだったりする。

 

 ワンパターンと言えばその通りだし、いくらありがたい教えでも何度も聞かされていれば退屈に感じる。

 

 実際僕も、話の最中は少し眠かった。

 

「でも鞘香は退屈そうにしてないよ。多分学校の授業の一万倍は真面目に聞いてる」

 

「それは聞いてなさすぎでしょ、授業の方」

 

「真面目に授業聞くような奴だったら、普段の僕は苦労してないって」

 

「……残念だけど、その通りなのよね」

 

 何とも言い難い種類の笑みを交わす僕と碧さんだった。

 

 ともあれ稽古が終わったので、スイカの皮が残る皿を持って立ち上がろうとしたが――

 

「あっ、そうそう。ねえ怜ちゃん、明日はみんなで丘の上の美術館に行かない?」

 

「え……」

 

 突然の提案に、僕は一瞬硬直する。

 

「まだ行ったことなかったでしょ? あそこなかなか面白いのよ。変なオブジェとか大きな彫像とかがたくさんあってね。見晴らしが良くてお洒落なカフェもあるし――」

 

「あ……ご、ごめん碧さん! 明日はその……ちょっと行きたいところがあって……」

 

「あら? そうなの?」

 

 意外そうに目を丸くする碧さん。

 

 せっかくの誘いを断るのは気が引けたけれど、明日の予定だけはどうしても変えるわけにはいかなかった。

 

「鞘香と二人で、伊室山に行ってみようかなって……」

 

「それって……姉さんの……」

 

「うん……お母さんが持ってた、あの別荘」

 

 伊室山というのは、島の中心部にある低い山。その中腹のあたりに、母が所有する小さな別荘がある。

 

「ちょっと調べてみたいことがあって……」

 

「鍵は持ってるの?」

 

「うん。お父さんから借りてきた」

 

「そう。ならいいわ」

 

 碧さんは納得した様子で、微笑みながら頷いた。

 

「行くのは構わないけれど、人気のない場所だから気を付けてね。暗くなる前に帰ってこなきゃ駄目よ」

 

「うん……ごめんね、勝手に変なとこ行って」

 

「いいのよ、謝るようなことじゃないんだし。せっかく遊びに来たんだから、怜ちゃん達の好きなように過ごしてくれて」

 

 快く了承してくれた後、碧さんはやや複雑な顔を見せた。

 

 こちらの内心を見抜いた上で、憂いに近い感情を抱いている――そんな顔だった。

 

「でも……あまり思い詰めないでね。姉さんのことは、怜ちゃん達のせいじゃないんだから」

 

「うん……」

 

 僕と鞘香の養母は、今から半年前に失踪した。

 

 ある日突然、何の前触れもなく、書置きの一つもなく、僕達家族の前から姿を消した。

 

 半年経った今も、事情は分からない。

 

 何かの事故か犯罪に遭ったのか、自分の意思でどこかに行ったのか、生きているのか死んでいるのか、そんなことさえ僕は知らない。いくら考えても答えは出ない。

 

 だから、手がかりを得たいと思った。

 

 母の「工房」である伊室山の別荘に行けば何かが分かるかもしれないと思い、淡い希望に縋りたくなったのだ。

 

 その行為が、滑稽なほどの徒労だったとしても。

 

 

 

 

 

 

 母屋の一階。仏間の隣にある八畳の座敷が、僕と鞘香にあてがわれた部屋だった。

 

 入浴と歯磨きを終え、後は寝るだけとなった午後一〇時。寝間着姿の僕と鞘香は横並びの形に敷いた布団の上で横になり、就寝前の時間を思い思いに過ごしていた。

 

 ちなみに何をやっているかといえば、僕は読書で鞘香は携帯機によるゲームだったりする。

 

 すぐ隣から聞こえてくる効果音やBGMが地味にうざいが、まあいつものことだ。

 

「うわっ、ムービー長っ……いつまでやんのよこれ? そういうのいいから早く戦わせてほしいんだけど? この悪いやつズバーっとやってスカっとしたいんだけど?」

 

 稽古中の真剣な雰囲気はどこへやら。我が愚妹はすっかり平常運転に戻り、プレイ中のアクションRPGに対する愚痴を零していた。

 

 イベントシーンの長さが不満らしいが、多分アホだからストーリーの内容とか意義とか奥深さとかが理解出来ないのだろう。

 

 こいつに読書は一生無理そうだなと、宇宙物理学の本を読みながら僕は思った。

 

「見るの嫌ならとばせば? スキップ機能ついてるでしょ?」

 

「だってとばしたら話分かんなくなるじゃん」

 

「……」

 

「あーっ、どうせ見たって分かんないだろとか思ったでしょ、今」

 

「思った」

 

「さらっと言うし……怜ってたまにヤなやつだよねー……たまにってわりには頻度高い気がするけど」

 

「頻度なんて言葉よく覚えたね。偉い偉い」

 

「わー、ヤなやつー……」

 

 布団に寝そべって背中を向け合いながら、他愛のないやりとりをする僕達。

 

 寝る場所以外はいつも通りの、緩くて穏やかな夜の一時。

 

 けれど夜が明けた後に来る明日は、いつもとは少しだけ違う一日になる。

 

「……鞘香」

 

「うゆ?」

 

「やっぱり明日は、僕一人で行くよ。別荘」

 

 一緒に行ってもらうつもりだったが――自分の我儘に妹を付き合わせるのはよくないと思い直し、予定変更を告げた。

 

 伊室山の別荘に行ってみようと言い出したのは僕。母の失踪の件にこだわっているのも僕。

 

 ならばやはり、自分一人でやるべきだ。

 

「鞘香はおじいちゃんと稽古したいでしょ? おじいちゃんと碧さんだって鞘香と一緒にいたいだろうし……だから……」

 

「いいってば」

 

 明るい声で、鞘香は言った。

 

「あたしも行くよ。なんだか面白そうだもん。ちょっとした探検みたいで」

 

 ゲーム機を枕元に置き、ごろんと転がってこちらを向く。

 

「それに怜一人じゃ、万が一通り魔とか変態おじさんとかに襲われたりしたら危ないからねー。悪いやつをやっつける役のあたしがついてないとさ」

 

 僕は本の頁から目を離し、鞘香の方を見る。

 

 日溜まりのような笑顔が、ほんの数十センチ先にあった。

 

「あれ? あたしの実力信用してない? そりゃ師匠にはまだ勝てないけどさ、相手が大人でも素人なら勝てるよ、たぶん。クマとか出てきても何とかなりそうな気がするし」

 

「流石に無理でしょ、猛獣相手は」

 

「そっかなー? めっちゃがんばればいけそうな気がするけどなー……こう、急所っぽいところに必殺技をぶちこむ感じで」

 

 軽く拳を握り、シュッとパンチを打つ真似をする鞘香。

 

 その様子を見て、思わず笑ってしまった。

 

 分かっている。全部冗談だ。鞘香だって本気で僕のボディーガード役になるつもりじゃないし、祖父の教えを忘れてもいない。

 

 鞘香が稽古と試合以外で拳法の技を使ったことなんて、今までに一度もない。この先もきっとない。

 

 にもかかわらずこんな冗談を言うのは、僕を気遣っているからだ。

 

 つい見栄を張って一人で行くなどと言ってしまったけれど、それが無理なのは自分でも分かっていた。

 

 もし本当に一人で出かけていたら、ほぼ間違いなく目的地に辿り着けない。途中で引き返してこの家に戻ってくることになる。

 

 そんな僕の駄目さを知った上で、傷つけないように言葉を選びながら、自分も一緒に行くと言ってくれている。

 

 何だかんだで、鞘香は優しい。僕なんかよりずっと大人だ。

 

「……ありがと、鞘香」

 

「だからいいってば。いつも一緒って決めてるでしょ、あたしと怜は」

 

 いつも一緒。確かにそう決めている。

 

 一人になれない駄目な姉を気遣い、いつだって鞘香は出来る限り側にいてくれている。

 

 この妹の優しさには、感謝しないといけない。

 

「さーて、それじゃもう寝よっかな。明日の探検にそなえて充電充電っと」

 

 楽しげに言うと、鞘香は仰向けになり掛け布団を被った。

 

 昼間の稽古で疲れていたのだろう。その寝顔から微かな寝息が洩れ出るようになるまで、そう時間はかからなかった。

 

 静まり返った部屋の中、本の頁をめくりつつ思う。

 

 僕は、今の生活が好きだ。

 

 みんなと一緒にいられる今この時が、僕にとっては何より大切なものだ。

 

 血縁のない僕達を受け入れ、孫として扱ってくれる祖父。

 

 いつも柔和で親切で、年の離れた姉のように接してくれる碧さん。

 

 ちょっとお馬鹿だけれど根は優しい鞘香。

 

 みんな、僕にとっては大切な「家族」だ。祖父と碧さんは「親族」と表現した方が適切なのだろうけれど、「家族」という表現の方が感覚的にはしっくりくる。

 

 温かな家族に囲まれた穏やかな日々が、いつまでも続いてほしいと思う。

 

 御神本家に引き取られた五年前から、ずっとそう願っている。

 

 でも――

 

「……違った……のかな……」

 

 小さく呟く。

 

 僕にとっては大切な家族でも、母にとってはそうではなかったのかもしれない。

 

 僕達と過ごした日々は、母の視点では苦痛なだけの、無価値で無意味な日々だったのかもしれない。

 

 だから僕達を捨て、どこかへ消えたのかもしれない。

 

 そんなことはないと思いたいけれど、確証はない。書置きの一つも残さず消えてしまったから、母が何を考えていたのかは分からない。

 

 その答えを得るためには、行動しなければならない。

 

 明日鞘香と一緒に伊室山の別荘に行き、失踪の理由に繋がる手がかりを探す。それが、今の僕に出来るただ一つのことだ。

 

「知りたいな……答え」

 

 もう一度独り言を呟いてから、自分もそろそろ寝ようと思い、読んでいた本にプラスチックの栞を挟む。

 

 変な白いオバケが描かれたそれは、二年前の旅行で母に買ってもらった物だった。

 

 

 

 

 

 

 辰木島の東岸――天崎家がある西浦地区とは反対側に位置する、石宮地区。

 

 海沿いの大通りから一本入った細い通りに、一軒のカフェがひっそりと建っていた。

 

 カフェといっても、古い木造の家屋を改装した店だ。店内の客席は窓際のカウンター席と二つのテーブル席だけで、飾り気などは皆無に近い。

 

 そんな簡素で小ぢんまりした店に、この夜一人の来客があった。

 

 とうに営業は終わっている時間だったが店内の明かりは灯されており、来客は当然のように入口の引き戸を開ける。

 

 奥の厨房で洗い物をしていた店主は、深夜の来客を快く迎え入れた。

 

「お待ちしていましたよ。霧村さん」

 

 来客は、赤みがかった髪色の少女だった。

 

 年の頃は一二、三ほど。日本人と白人の中間的な容姿をしており、ハーフかクォーターであることが窺い知れる。

 

 小柄で顔立ちも幼いが、その佇まいはどこか大人びていた。

 

「立ち話も何ですし、座って下さい。お飲み物は何にしましょうか?」

 

「ココアを下さい」

 

 短く答え、少女はテーブル席に座る。

 

 店主の男は笑顔で注文を承り、少ししてからグラスが載った盆を持って少女の席に歩み寄った。

 

 氷が入った冷たいココアを、慣れた所作でテーブルに置く。

 

「どうぞ」

 

「いただきます」

 

「少し意外ですね。霧村さんはブラックコーヒーがお好きと聞いていたので」

 

「疲れている時は、糖分がほしくなります」

 

 淡々と言いつつ、グラスに差し込まれていたストローを口に運び、冷たいココアを啜る少女。

 

 その横顔には、陰鬱な翳りがあった。

 

「明日からの面倒な日々を思うと、それだけで気怠くなるので……こんな物でも飲まないとやっていられません」

 

「なるほど」

 

 店主の男は唇を曲げ、皮肉げに笑う。

 

 喫茶店の店主というには、些か若い男だった。年の頃は二〇代の半ばほど。銀縁の眼鏡をかけており、知的な気配を帯びた秀麗な顔立ちは学者か教師を思わせる。

 

 しかしながら背丈はそれなりに高く、アスリートのように均整の取れた身体の持ち主でもあった。

 

「では霧村さんのご健康のため、仕事の話は手早く済ませましょう」

 

 店主の男は少女の向かい側に座り、グラスと一緒に持ってきていた物をそっと差し出す。

 

 鈍い光沢を帯びたそれは、名刺入れほどの大きさのステンレスケースだった。

 

「今回、協会から霧村さんに貸与される典符です。といっても、いつもと同じ物なんですけれどね」

 

 少女はケースを手に取る。

 

 蓋を開けると、中に収められていたのは薄い板状の物体――漆黒の金属で作られた、一枚のカード。

 

 その片面には、細緻な寓意画が色鮮やかに描かれていた。

 

 雲を纏いラッパを吹く天上の天使と、それを仰ぎ見る地上の人々。

 

 タロットの名で知られるカード群の一枚。大アルカナの二〇番。『審判』の寓意画だ。

 

「ご負担をおかけして大変申し訳ありませんが……今回もまた、審判の役をお願い致します」

 

「承知しています。それが私の役目ですから」

 

 当然のように答えるものの、その声はやはり冷めていた。

 

 漆黒のカードに目を落としながら、静かに問う。

 

「祭儀の準備は、問題なく進んでいますか?」

 

「ええ、順調です」

 

 店主の男は笑みを深める。

 

 眼鏡の奥にある両眼が、猛禽の眼のように細まった。

 

「第一二回窮神祭儀の参加予定者二二名は、本日この辰木島に全員集結しました。あとは明後日の開幕を待つのみです」

 

 七月の末。瀬戸内海の小さな離島。外界と隔てられた箱庭のような地域を舞台に、祭儀とは名ばかりの闘争が始まろうとしていた。

 

 これまでに多くの犠牲者を生んできたそれは、今回もまた同様の道を辿り、惨劇の連鎖をもたらすだろう。

 

 島全体が地獄絵図と化したとしても、何ら不思議ではない。

 

「協会の一員として、祭儀の成功を共に祈りましょう。――骸の神に哀悼を」

 

 恭しく、しかしどこか白々しく、店主の男は胸に手を当て、自らが信じる神に祈りを捧げる。

 

 赤毛の少女は溜息をつき、いかにも仕方なく付き合うといった風に言葉を紡いだ。

 

「骸の神に哀悼を」

 

 

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