夢現境界奇譚   作:堤明文

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第二章「魔法使い」

 

 

 事情があって、僕は幼い頃とある児童養護施設に預けられていた。

 

 そこでの生活のことは、もうあまり憶えていない。幼かったというのもあるが、それ以上に特筆すべき出来事がなかったからだ。

 

 仲の良い友達はいなかったし、施設の人達は特に厳しくも優しくもなかったし、記憶に残るほど楽しいことや嫌なこともなかった。良く言えば平穏だったけれど、悪く言えば無味乾燥で退屈な日々だった。

 

 だから、あの日のことだけは、今でも鮮明に憶えている。

 

 小学三年生の秋頃、一人の女の人が施設を訪れた。若くて綺麗なその人は僕と顔を合わせるなり、にっこり笑ってこう言ったのだ。

 

「悪の魔法使い、見参」

 

 嘘ではない。誇張とか脚色とか意訳とかでもなく、本当に第一声がそれだったのだ。

 

 何この人――と誰もが思うところだろう。僕も思った。

 

「いきなりでポカーンとしてるとこ悪いけど、君今度からうちの子ね。あたしが君のお母さんってことになるから、よろしく」

 

 どうやら、僕を養子として引き取るためにやってきたらしい。その場に同席した施設の人が詳細を説明してくれて、僕はようやく状況を呑み込んだ。

 

 自称「悪の魔法使い」の方は、その後も意味不明だったけれど。

 

「フフフ、怜ちゃんは運が良いぞー。何か磨けば光るっぽいものを感じたからゲットすることにしたんだぞー。ぶっちゃけ衝動買いみたいなノリだぞー。愛情とか実は薄めだから母性愛的なのを期待しちゃ駄目だぞー。信じてると痛い目見るぞー」

 

 率直に言うと、すごく胡散臭い人だった。溢れ出る胡散臭さを隠そうとする素振りさえなかった。ただひたすらド直球に胡散臭かった。

 

 けれど、何と言うのだろうか――妙に親しみやすいところがあって、気味の悪さや怖さといったものは感じなかった。

 

 どこまでが冗談でどこからが本気なのかよく分からず、ふざけた調子で意味不明なことばかり言っているのに、何故だかこっちを安心させてくれる。そんな不思議な雰囲気を持った人だった。

 

 だから僕は養子縁組を受け入れてその人の「長女」になり、同じ屋根の下で暮らすことにした。

 

 そして諸々の準備や手続きが済み、新たな生活を送る場所へと移動する日。その人が運転する車の中。

 

「あの……お母さん……」

 

 僕は初めてその人を「お母さん」と呼び、ずっと気になっていたことを尋ねた。

 

「最初に言ってた……魔法使いって……?」

 

「ふっふっふっ、よくぞ聞いてくれました」

 

 運転席に座る「母」はハンドルを握ったまま、思いっきり首をこちらに向け、物凄いドヤ顔で決め台詞らしきものを言った。

 

 すごく頭悪そうだったし、運転中だったからすごく危なかった。

 

「絶世の美貌を持つ地雷系アラサー女子は世を忍ぶ仮の姿! お母さんの正体は、悪の秘密結社を率いる世界最強の魔法使いなのだ!」

 

「く――車来てる来てる! 前見て前!」

 

 その人と僕――御神本夏海と御神本怜の奇妙な親子関係は、道路上で大惨事になりかけたところから始まった。

 

 

 

 

 

 

 七月三一日。辰木島に来て二日目の朝。

 

 みんなと一緒に朝食を摂って身支度を整えた僕は、家を出る直前、本土にいる父に電話をかけた。

 

「あっ、お父さん。怜だけど……」

 

『おう怜! どうした? 寝小便でもしちまって処理に困ってんのか? ハハハハハッ!』

 

 スマートフォンの向こうから返ってきたのは、色んな意味で最低のジョークだった。

 

 朝っぱらからげんなりさせられて、深く溜息をつく。

 

「何ていうか……いつもながら品性の欠如がすごいね、お父さん。僕や鞘香にはいいけど、職場の女の人にそのノリで喋っちゃ駄目だよ?」

 

『ハハハハハッ! 心配すんな! 自慢じゃないが、お父さんはガキの頃から宇宙一品のない男で通ってるからな! 今さら何言ったところで気にする奴はいねえよ! ハハハハハッ!』

 

「うん……セーフっぽい感じに言ってるけど、普通に駄目だからねそれ。大人としては完全にアウトだからね。別に許されてないっていうか、単に諦められてるだけだからね絶対」

 

『ん? そうなのか? 世の中ってのは難しいなぁおい! お父さんみたいな単純バカには生き辛くてかなわねえや! ハハハハハッ!』

 

「全然これっぽっちも生き辛そうに見えないけど……」

 

『おいおい、んなこたぁねえぞ。お父さんだって色々苦労してるし悩みだってあるさ。例えばあれだ、最近ビデオ屋が潰れまくってっから気軽にエロビデオ借りに行けねえこととかな! ハハハハハッ!』

 

「……」

 

 誠に遺憾ながら、やたら野太い声で下品な妄言と無駄な馬鹿笑いを連発しているこの怪人は、僕と鞘香の保護責任者なのだ。

 

 その揺るぎない事実を再認識して、僕は少し遠い目になった。

 

 悟りの境地というのは、こんな心境を指すのかもしれない。

 

『おっ、そうそう。鞘香の奴は昨日また定さんと稽古したんだろ? どうだ? ちったぁ敵うようになってたか?』

 

「駄目。全然相手になってなかった。おじいちゃん強すぎ」

 

『ハハハハハッ! だろうな! マジもんの達人だからなぁ、あの爺さん。素手で殴り合ったら多分俺でも負けるぞ』

 

「いや……流石にそれはなくない? 体格的に」

 

『いやいや、武道の達人舐めちゃいけねえって。ああいうのはマジで人殺せる技隠し持ってたりすっからなぁ。多分あれだ、実際やりあったら目玉か金玉潰されて何も出来ねえままぶっ殺されんのがオチだな! ハハハハハッ!』

 

 父は身長二メートル超の大男だ。単に背が高いだけではなく身体の厚みも相当なもので、何故この人は格闘家にならなかったのだろうと疑問に思ってしまうほど見事な筋肉の持ち主だったりする。

 

 いかに祖父が武道の達人でも、その有り余る筋肉の力でどうとでも出来るのではないか――と思ったが、そうはいかないらしい。武道の世界は奥が深い。

 

 いい年した大人二人に殴り合いなんかされても困るけれど。

 

「まあ、物騒な仮定は置いとくとして……今日は鞘香と二人で、伊室山の別荘に行ってるね」

 

『おう、家探しみてえなことすんだろ? 承知してるぜ! どうせ普段は使ってねえとこだからな、気が済むまでやっちまってくれていいぞ!』

 

「うん、ありがと……何かごめんね」

 

『ん? 何がだ?』

 

「いや……お父さん仕事で忙しいのに、僕達だけおじいちゃんのとこ行って、好き勝手やっちゃってて……」

 

『ハハハハハッ! 何だそんなことか! 気にすんな気にすんな! 子供は好き勝手に遊ぶのが仕事だからな! 俺なんか怜の百万倍くらい好き勝手やってたぞ! ハハハハハッ!』

 

「ありがと。……じゃあ、行ってくるね」

 

『おう! 気を付けて行ってこいよ! じゃあまたな!』

 

 通話が終わった。スマートフォンをショートパンツのポケットに入れると、台所にいた碧さんがこちらを向く。

 

「一馬さん、何だって?」

 

「いつも通りだったよ。下品なジョークとモラル皆無な妄言と無駄な馬鹿笑い。平常運転すぎてげんなりした」

 

「あはは……まあそういう人だから……」

 

 碧さんは僕より父との付き合いが長い。

 

 よって、僕や鞘香以上に御神本一馬という怪人の生態を熟知している。

 

「ちょっとアレなとこに目を瞑れば良い人なんだけどね……ちょっとアレなとこが、大分アレなわけで……」

 

「ほんとに、大分アレなんだよね。風呂上がりは基本全裸だし、それで僕の前を横切ったりするし」

 

「うん……何かその光景、すぐにイメージ出来たわ……怜ちゃんも大変ね」

 

 豪放磊落で野性味溢れる――と言えば聞こえが良いのかどうかは知らないが、とにかく常識とか品性とかを求めてはいけない種類の人なのだ。

 

 同じ屋根の下で暮らしていると色々な面で鍛えられる。良いか悪いかは別として。

 

「でも、何だかんだで良い人だよ。一緒にいると元気が貰えるしね」

 

 僕が零した本音に、碧さんは一瞬目を丸くした後、柔らかく笑った。

 

「……そうね。何だかんだで、良いお父さんよね」

 

 父には良いところもたくさんある。あの明るくおおらかな人が自分の養父で良かったと思っている。

 

 ちょっとアレだけれど。

 

「怜ーっ、準備できたよー! 早く行こ!」

 

 玄関から鞘香の声が飛んできた。

 

 僕は床に置いていた自分のリュックサックを背負いつつ、碧さんに言う。

 

「じゃあ行ってくるね。どのくらいかかるか分からないけど、夕方までには戻るから」

 

「行ってらっしゃい。暑いから水分補給は忘れずにね」

 

 そんなやりとりを経て、僕と鞘香は天崎家を出発した。

 

 

 

 

 

 

 天崎家がある西浦地区と島の反対側にある石宮地区の間には、島を東西に横断する形で両地区を繋ぐ県道が設けられている。

 

 今日の目的地である伊室山へと至る道は、その県道の中間地点から分岐した先にあった。

 

 綿飴のような入道雲が浮かぶ青空の下、西浦地区を抜けた僕と鞘香は、蝉のやかましい鳴き声を聞きながら横並びになって県道を進んだ。

 

 鞘香が妙なことを尋ねてきたのは、その道中だ。

 

「あたしってさ、まだ背伸びるかな?」

 

「どうしたの急に?」

 

 意図が読めなかったので問い返すと、鞘香は少し難しい顔をした。

 

「だって女子って中学くらいでもう伸びなくなるんでしょ? あたしもそろそろかなって」

 

「いや、全然そろそろじゃないよ。たしか平均的には一五歳前後だったはず。鞘香は十月生まれでまだ一二歳だから、あと二年ちょっとはある」

 

「んー……あと二年ちょっとかぁ……それで碧さんくらいになれるかなぁ……」

 

「碧さんくらいほしいの? 身長」

 

 碧さんは日本人女性としては長身な方で、一七〇センチ近くある。

 

 スタイルが良い人というのは、ああいう美人を指すのだろう。あのすらりとした長い脚には正直僕も憧れを覚える。

 

「できればねー……だってほら、背高いと手足も長いじゃん? 長い方が試合で有利かなって」

 

「……」

 

 ビジュアル的な意味で憧れているのかと思ったら、実用的な意味だったらしい。

 

 まあそうだよね、鞘香だし――と内心で思いつつ、我が妹の今後の成長について考察した。

 

「一五歳前後っていうのはあくまで平均だから、実際は個人差があるよ。高校生になっても伸び続ける人はいる。鞘香は身体の成長が早い方じゃない……っていうかわりと遅めな方だから、多分成長が止まる時期も遅いよ。一六か一七くらいまで伸び続けたりするんじゃないかな?」

 

「今、胸見て言わなかった?」

 

「気のせい」

 

 無駄に鋭い指摘はさらりと流しておく。

 

 正直なところ、鞘香が碧さんくらいの体格になれる可能性はわりとあると思う。

 

 今でも身長だけはそれなりにある方だし。色々な部分が未発達だし。胸とか頭とか。

 

「まあ……そういうのは親からの遺伝の影響が強いらしいから、断言は出来ないけどね。お父さんとお母さんは何センチくらいだった?」

 

「え……」

 

「いやだから、身長。うちのお父さんとお母さんじゃなくて、本当の両親の」

 

 数秒間、鞘香の表情が固まった。

 

 次いでその瞳が、左右に揺れ動く。

 

「あ……えっと……その……」

 

 ぎこちない笑みを浮かべ、懸命に言葉を探す素振りを見せてから、どうにか返答する。

 

「よ、よく憶えてないや……あたしほら、その頃ちっちゃかったから……」

 

 僕は自分の失言を悟った。

 

 そうだった。これは口にしてはいけない問いだった。

 

「……そうだね。変なこと訊いてごめん」

 

 謝ってから、妙な空気を引き摺らないように話題を変える。

 

「でも正直、鞘香に必要なのって攻撃のリーチじゃなくて判断力とか戦略性とかだと思うよ。おじいちゃんもそんな感じのこと言ってたし」

 

「うっ……」

 

「おじいちゃん以外の人が相手の時も、考えなしに攻めていって反撃受ける場面がやたら多い気がするし」

 

「か、考えなしじゃないってば! あたしだってちゃんと考えてるよ! こう見えても!」

 

「例えばどんな風に?」

 

「え……? えっと、ほら……えーっと……なんていうか、こう……ビュッていったらバコバコッてなるから、グラッとした後にビシッと打てばいいんじゃないかなー……とか……?」

 

「……とりあえず、課題が明確なのは分かったよ。あともうちょっと国語勉強しようね」

 

 わりとすぐ平常運転に戻った妹を見て、溜息と一緒に苦笑を零す。

 

 その後も他愛のない会話を続けながら、僕達二人は伊室山の別荘を目指して歩き続けた。

 

 

 

 

 鞘香は僕と同じく、養子縁組で御神本家に引き取られた身だ。僕の方が年上なので姉ということになっているけれど、御神本家に来た時期は鞘香の方が少し早い。

 

「御神本鞘香」になる以前のことを、鞘香は語ったことがない。

 

 生まれ育った家のことも、父親のことも母親のことも兄弟のことも、幼い頃の思い出も、一度として語ったことがない。

 

 その理由を、僕は何となく察していた。

 

 

 

 

 

 

 伊室山は辰木島の中心部に聳える、標高一四〇メートルほどの小さな山だ。

 

 島内にある山の中では一番標高が高いが、それでも山ではなく丘と呼んだ方が適切なのではと思える程度のものでしかない。

 

 母が所有する別荘は、その中腹の雑木林にひっそりと建っている。天崎家から歩いて行くと所要時間は五〇分弱であり、登る高さもせいぜい七〇メートルほどなため、体力もさほど使わない。登山と呼べるような道程では全然なく、ちょっと長めの散歩気分で行ける場所だ。

 

 今のような、クソ暑い夏の盛りでなかったならば。

 

「やっと……着いた……」

 

 山肌沿いに伸びる公道から分かれた私道を進んだ先。辿り着いた別荘の玄関先で、僕は額に浮かぶ汗を拭った。

 

 既に体中が不快なほど汗ばみ、呼吸も相当に乱れている。

 

 ここに来るまでの大して長くも険しくもない道程が、真夏の日射しのせいで耐え難い苦行に感じられた。

 

「だらしないぞー怜。こんなんでへばってたら兄貴失格だぞー。全国制覇なんて夢のまた夢だぞー」

 

「何の……全国制覇だよ……ていうか、そもそも……兄貴じゃないし……」

 

 鞘香の軽口に応じつつ、持参した水筒を開け、冷たいお茶を喉に流し込む。

 

 ぷはぁーと、駄目な酔っ払いみたいな吐息が自然と出た。

 

「だから運動しなよって言ったのに。無駄についちゃったお肉が邪魔で動きにくくなってるんじゃない?」

 

 疲労を隠せない僕とは逆に、普段ろくに勉強もしないで身体を鍛えてばかりいる我が愚妹は、その成果を誇示するかのように余裕をかましていた。

 

 お前のような軟弱者とは鍛え方が違うとでも言わんばかりのドヤ顔だ。地味にウザい。

 

「生憎と僕は……誰かさんと違って……筋肉じゃなくて頭脳の方に、リソースを割いてるからね……肉体労働は、専門外なんだよ……」

 

「えー? 毎日ゴロゴロしてデブってるだけじゃん」

 

「……鞘香、昨日のマグカップ代」

 

「ウソです。ごめんねお姉ちゃん。全然デブってないよ。スリムスリム」

 

 調子こいてるヒョロガリを大人しくさせてから、もう一口お茶を飲み、乱れていた呼吸を整える。

 

 そして水筒をリュックサックの中にしまい、目の前の別荘を見上げた。

 

 スレート噴きの赤茶けた屋根と白い塗装の壁で形作られた、洋館風の二階建て。少し古そうではあるが建物の造りはそれなりに立派で、瀟洒な雰囲気を醸し出している。

 

 僕達姉妹がここを訪れるのは、これで二度目。前回は母と一緒だった。

 

「にしてもさー……」

 

 僕と同じように建物を見上げながら、鞘香が疑問を口にする。

 

「何でお母さん、こんなとこに別荘なんか持ってたんだろね? 近くに実家あるのに」

 

「悪の魔法使いたる者、秘密の工房の一つや二つ持ってて当たり前……とか何とか言ってたよ。まあお母さんの言うことだから、そのまま受け取るのもあれだけど」

 

「あんまりほんとのこと言わない人だからねー、お母さん。むしろほんとのこと言ってる時あったっけ? って感じだし」

 

「家の外だと案外真面目だったりするんだけどね……まあ多分、僕達相手にふざけるのがお母さんなりの息抜きだったんじゃないかな? 魔法使いが云々言ってる時が一番生き生きしてたし」

 

「でもさぁ……おふざけとか息抜きとかで、これ買う? ふつう……」

 

 少しだけ真剣な顔になり、鞘香は首を傾げる。

 

「いくらするんだか知らないけど、すっごく高いんでしょ? こういうの」

 

 その疑問は、僕も以前から抱いていた。

 

 うちは両親共に収入の高い職に就いており、経済的にはわりと余裕のある家庭だが、金持ちというほどでもない。この別荘は決して安い買い物ではなかったはずだ。

 

 それに所有者である母自身、この別荘をさほど気に入っている様子がなかった。僕らを連れて来たのも一度きり。その時も軽く中を案内しただけで、ここでは一泊もしなかった。

 

 何を思ってこんな場所のこんな建物を買い、安くない維持費を払ってまで所有し続けていたのか。僕にもさっぱり分からない。

 

「……確かにね。鞘香でも不思議に思うくらいだから、いくらお母さんのやることでも、これはちょっと変だよ」

 

「わー……なんか今、さりげなくバカにされた気がするー……」

 

 微妙な顔をする脳筋をよそに、僕はリュックの中から小さな鍵束を取り出し、玄関の扉の前まで歩を進めた。

 

「でも、だからこそ……ここには何かある気がするんだ」

 

 銀色のリングに通されている鍵は二本。その片方を、扉の鍵穴に差し込む。

 

「無駄かもしれないけど、僕達の手で調べてみよう」

 

 解錠して、扉を開けた。靴を脱いで暗い屋内に踏み入り、壁のスイッチを押して電灯をつける。

 

 軽く見回したところ、前に来た時と比べて特に変わった点はなかった。

 

 玄関を抜けた先はソファとテレビが置かれた広い居間となっており、向かって左側に台所兼食堂、右側に八畳の和室がある。トイレと浴室があるのも一階だ。

 

 トイレの近くの階段から続く二階は吹き抜け構造で、木製の手すりに囲われている。二階にあるのは寝室と書斎だ。

 

 当然ながら、誰もいない。母の姿は見えない。

 

「とりあえずどうする? 兄貴」

 

「……」

 

「はいはいごめんごめん。そんなギロっとしないでよお姉ちゃん。まずはどの辺から調べたらいいの?」

 

「じゃあ……暑くてかなわないから、雨戸を開けて網戸にしとこうか。その後は僕が居間と台所を調べるから、鞘香は和室の方を調べて。何か見つけたら教えてね」

 

「りょーかーい」

 

 僕達は探索を開始した。

 

 

 

 

 

 

 五年前、僕を引き取ってくれた人――御神本夏海の住居は、山陽地方の都市部にある一軒家だった。

 

 そこでの生活は何というか、すごく雑な感じで始まった。

 

「説明いらないかもだけど、そこで筋トレしてるむっさいゴリラがうちのお父さんポジね。親父でもゴリ助でも筋肉ダルマでも何でもいいから、好きなように呼んじゃって。……で、あっちでビクついてるちっちゃいのが妹ポジのお子様。見ての通り小動物系だから取り扱い注意ね」

 

 家族の紹介の仕方からして雑だった。一応紹介したから後は適当にやっといてとばかりの雑さだった。形だけやっときました感がすごかった。

 

 そんな風に始まった、血の繋がらない四人家族による生活は――はっきり言って、楽しかった。

 

 養父の御神本一馬は初対面時に腕立て伏せをしているような人で、その後もまあそんな感じだったけれど、裏表がない性格で親しみやすい人だった。

 

 義妹の鞘香は最初僕を警戒していた様子で、しばらくの間はぎこちない関係が続いたけれど、しだいにお互いのことを理解し合って仲良くなれた。

 

 そして、養母の夏海は初対面時に抱いた印象の通り、良くも悪くも風変わりな人だった。

 

「フフフ、いい感じに怜もあたしに懐いてきたなー。でも油断してちゃ駄目だぞー。世の中そんなウマい話はないぞー。お母さんは悪の魔法使いだから裏がありまくりだぞー。豚は太らせてから食え的な作戦が水面下で進行中だったりするんだぞー。信用してたら痛い目見るぞー」

 

 本人の名誉のために言っておくと、別に常時この調子だったわけではない。

 

 家の外ではちゃんとした社会人だったし、ご近所さんと付き合う時や学校での三者面談の時などは礼儀正しく清楚な母親を演じていた。

 

 母の職業が大学の準教授だと知った時は、わりと本気で驚いた。実は頭が良かったらしい。

 

 人目を引く美人で、人当たりが良く立ち居振る舞いも洗練されていて、学も教養も社会的地位もある才媛。

 

 御神本夏海という女性を客観的な視点で表現すると、そういう風になる。

 

 が――

 

「わー、何か怜がゴミを見る目であたしを見てる気がするー。早くも反抗期に突入? ここぞとばかりにDV発動? あたし下克上されちゃう流れ? ひどいなもー。毎日薄めの愛情をたっぷり注いで怜を立派な魔法使いに育てようとしてるのにー」

 

 僕や鞘香と接する時は、大体こんな感じだった。

 

 相手するのがちょっと面倒になるくらいふざけていて、発言の九割以上が聞く価値のない妄言だった。出来る女の雰囲気など微塵もなかった。ただのアホにしか見えなかった。

 

 ついでに、気になる点もあった。

 

「何で、魔法使いなの?」

 

「うゆ?」

 

 一度、疑問を口にしたことがある。

 

 その時の母は珍しく、少しだけ面食らった顔を見せた。

 

「いや……何でお母さん、いつも魔法使い魔法使い言ってるのかなって」

 

「それは人は何故生きるのか的な哲学っぽい問いかな? インテリ系僕っ娘の怜ちゃん博士?」

 

「いや全然。ただ何て言うか、ノリと勢いでテキトーなことばっか言ってるお母さんにしては、その痛い設定だけ一貫してるんだなって」

 

「わー……何かさりげなく発言に棘があるぞー……わりと本気でグサっとくる感じの刺々しさだぞー……そんな白い目で見られたらお母さん傷つくぞー……」

 

 別に皮肉るつもりはなかったのだが、オブラートに包まずに言ったら皮肉のようになってしまった。

 

 まあ仕方がない。実際家族の前ではノリと勢いだけで喋ってるような人だったし。

 

 三〇代を目前にしてあの痛さは、なかなかのものだったし。

 

「ま、あれよ。マジレスしちゃうと、普通の一般ピープルには使えない力が使えるからよ。魔法的な超すごいやつ」

 

「使えてないじゃん。全然」

 

「使えるのっ! その気になれば使えるんだってばっ! ……でもまあ、ほらあれよ。お母さんの魔法はちょっと特別な仕様だから、そう気軽にほいほい使うわけにはいかないのよねー。あまりにも危険すぎるから封印してるってやつ? そんな感じよ」

 

「うん……何かごめんね、踏み込んじゃいけないとこに踏み込んじゃって。自分の世界って大事だよね」

 

「うっわ……全然信じてないなー、このガキんちょ……すごく可哀想なおばさん見る目でこっち見てるし……」

 

 痛い人だと思ってはいたけれど、知れば知るほど想像以上に痛い人だったことが判明した。

 

 外面だけはまともなのが救いだったと言える。もし家の外でもこんな感じだったら、僕は本気で反抗期に突入していたかもしれない。

 

「大丈夫だよ。お母さんがそういう方向性の人なのは、まあ察してたから……僕達の前では好きなだけ魔法使いしてていいからね。よその人の前では大人しくしててくれるなら」

 

「そんな優しい感じに憐れんでちゃ駄目だぞー。お母さんはそこらの残念なおばさんとは一味違うぞー。マジモンの魔法使いで悪の秘密結社の大ボスなんだぞー。手下に四天王とかいるんだぞー。モブ兵士も頑張れば千人くらい動かせるぞー。そのうち怜と鞘香を生贄にして禁断の最強魔法的なのを発動する予定なんだぞー。その頃になってお母さんの恐ろしさを思い知っても遅いぞー」

 

「はいはい」

 

 もう面倒臭くなってきたので、適当に流した。

 

 謎の魔法使い設定について突っ込むのはやめようと思った。時間の無駄だから。

 

 

 

 

 そんな馬鹿馬鹿しいやりとりもあったけれど――やっぱり、何だかんだで良い人だった。

 

 血の繋がらない僕と鞘香を自分の子として育ててくれたし、色々なことを教えてくれた。

 

 学校の成績が良かった時に褒めてくれたことも、忙しい中時間を作って運動会や授業参観に来てくれたことも、毎年誕生日が来る度に祝ってくれたことも、よく憶えている。昨日のことのように思い出せる。

 

 だから母が失踪した時は、胸にぽっかりと穴が空いた。

 

 白状すると、泣いてしまった。

 

 訳が分からなくて、母がいない現実が受け入れられなくて、母に帰ってきてほしくて、無事を祈りながら涙を流した。

 

 それから半年が過ぎ、表面上は平静を取り戻せた今も、胸の奥の穴は塞がっていない。

 

 むしろ時間が経過するほど、深く大きくなってさえいた。

 

 

 

 

 

 

 探索を開始してから一時間以上が経ち、最後は二階の寝室に行き着いたが、成果と呼べるものは何もなかった。

 

 当然と言えば当然だ。こんな場所で母の失踪の手がかりを見つけるなど、元より無理な話なのだから。

 

「ちょっと休まない? もうけっこう調べたし」

 

 寝室のベッドに腰を下ろし、鞘香はそう提案した。

 

 肉体的な疲労というよりも、徒労を重ねたことによる精神的な疲労が溜まったのだろう。

 

 僕も似たような心境だったので、それは理解出来た。

 

「僕はもうちょっとここを調べるから、鞘香は休んでていいよ」

 

「じゃあ、そうするけど……怜も休みなよ。暑いし」

 

「こまめに水飲んでるから平気だよ。それに、一度休んだら動きたくなくなりそうだからね。やる気がある内に色々調べたい」

 

 微妙な顔の鞘香をよそに、僕は窓際に置かれた机の引き出しを開けた。

 

 中は見事に空。これまでと同じく、母の居場所を教えてくれるような物品は見当たらない。

 

 それでも僕は諦めず、今度は部屋の隅にある書棚の前に移動した。

 

 自分で言った通り、今ここで一休みしたら気力が萎えてしまいそうだった。どうにか気力が残っている内に、やれるだけのことはやっておきたい。

 

「あのさ……こう言うと、あれなんだけど……」

 

 鞘香の遠慮がちな言葉が、僕の背中に投げかけられる。

 

「やっぱり……ここには、ないんじゃないかな? その……手がかりとか……」

 

 書棚の蔵書に伸びていた手が止まる。

 

 心臓を刃物で突かれたような気分だった。

 

「……そうかもしれないけど、もう少しだけ調べてみるよ。何かあるかもしれないし」

 

「でも……」

 

「飽きちゃったなら、鞘香はそこにいていいよ。後は僕一人でやるから」

 

 自分の声が硬くなっているのを自覚した。言い方も少し乱暴だったかもしれない。

 

 だが、声音や言い方を調節する余裕はなかった。鞘香の言う通りだと、僕自身が本心では認めていたから。

 

 分かりきっていたことだ。漫画やドラマと現実は違う。母の失踪に関する手がかりなんてものがあるわけない。たとえどこかにあったとしても、それを僕達のような子供が都合良く見つけるなんてことはない。

 

 だから今やっているこれは、ただの儀式みたいなもの。

 

 母の行方を調べるふりだけをして、僕の心に「自分はやれるだけのことをやった」という、免罪符に似た達成感を与えるための行為。母の件を割り切るために必要な儀式だ。それ以外の意味はない。

 

 そう悟っていたから、父は僕に別荘の鍵を貸してくれた。碧さんや祖父も今日ここに来ることを了承してくれた。鞘香も快く同行してくれた。

 

 全ては、好きにやらせた上で僕を納得させるためだ。こんな探偵ごっこが何の成果も生まないことは、僕自身を含めた全員が最初から知っていた。

 

 それでも、僕は――ここで、何かを見つけたい。

 

「ねえ、怜……もう帰ろうよ」

 

 既に冷静さを失い、意味もなく書棚をまさぐっているだけの僕に、鞘香は言った。

 

 ベッドから立ち上がり、振り返った僕と視線を合わせる。

 

「もう全部の部屋調べたんだし……これ以上やったって、何も出てこないよ。きっと」

 

「もう少し……もう少しだけだよ。いいだろ、少しくらい……」

 

「だって、今の怜……なんか辛そうだし……」

 

 その指摘も正しい。確かに今の僕は、辛い気持ちを抱えながら無理をしている。

 

 ここで何の成果も得られずに帰るのが、耐えられない。

 

 自分の前から母が消えたこと、そしてこの先も再会出来る見込みがないことが、未だに受け入れられない。

 

 そんな女々しい本音が、僕をこの場に縛りつけている。

 

「……お母さんのことは、もう諦めようよ」

 

 息が詰まる。一瞬だけ本当に呼吸が止まり、次いで心拍数が跳ね上がった。

 

「お母さんはいなくなっちゃったけど、うちにはお父さんがいるし……碧さんや師匠だって、あんまり甘えてちゃ駄目なんだけど……でも、困ったことあったら頼っていいよって言ってくれてるし……なんとかなるよ、きっと」

 

 分かっている。そんなことは分かっている。

 

 母が失踪した後も、父は変わらず僕達の保護者でいてくれている。生活に不自由はしていない。

 

 僕達だってもう中学生だから、身の回りのことくらいなら自分達で何とかやれるし、碧さんが色々と世話をしてくれている。今のところはどうにかなっているから、この先も多分どうにかなると思う。

 

 母の失踪直後は僕以上に沈んでいた鞘香だが、時間が経つにつれて悲しみや不安をどうにか乗り越えたらしい。近頃は失踪前と変わらない調子を取り戻した。

 

 立派な姿であり、正しい姿だと思う。僕のようにいつまでも引き摺っている方が間違いだし、仮にも姉なのにみっともない。

 

 自分が妹よりずっと子供じみた駄目姉だってことは、言われなくても分かっている。分かっているんだ。

 

 それでも、この感情はどうにもならない。

 

「だから怜、そんなに思い詰めな――」

 

「――ああもう! うるさいなっ!」

 

 僕の中で、何かが弾けた。

 

「もう少しだけって言ってるだろ! いいから黙って待っててよ!」

 

 自覚していた以上に、胸の奥には鬱屈した感情が溜まっていたらしい。気付けばかつてないほどの剣幕を鞘香に向け、凶暴な怒声を放っていた。

 

 直後、はっと我に返った僕は、自らの過ちを悟る。あまりにも理不尽な怒りを妹にぶつけてしまったことを後悔し、本気で青褪めた。

 

 もし――僕達が普通の姉妹だったなら、こういう場合どうなるだろうか。

 

 鞘香が顔をしかめて押し黙り、そのまま会話がなくなるのか。

 

 心配してあげたのにその言い方は何だと怒り、僕を非難してくるのか。

 

 もう知らないとへそを曲げ、一人で帰ってしまうのか。

 

 多分その内のどれかだろう。しかし僕達の場合は、どの展開にもならなかった。

 

 鞘香は、普通の子ではなかったから。

 

「あ……あぁ……」

 

 鞘香の顔が強張り、細い声が洩れ出る。

 

 次いで、身体全体が小刻みに震える。

 

「や……嫌……嫌……嫌嫌嫌嫌……」

 

 大きく見開かれた目の端に涙が浮かび、頬を伝って流れ落ちる。

 

「あ……ご、ごめ……」

 

 慌てて謝ろうとしたが、もう遅かった。

 

「ご、ごめんなさい……! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! ごめんなさいお姉ちゃん!」

 

 悲鳴に等しい金切り声が、洪水のように溢れ出る。

 

 大粒の涙が次々と零れ、床を濡らしていく。

 

「うるさくしてごめんなさい! 言うこと聞かなくてごめんなさい! もう言わないから……何も言わないで黙ってるから、怒らないで……!」

 

 完全な恐慌状態だった。

 

 もう鞘香は僕を見ていない。涙を流し、視線を泳がせ、髪を振り乱し、両脚をガクガクと震わせ、ここにいない誰かの幻影に怯えながら、必死に許しを乞うている。

 

 その痛ましい姿に、僕の胸は軋んだ。

 

「やだ……やだやだやだやだやだぁっ……! 怒らないで怒らないで……! ずっといい子にしてるから……なんでもするから……ごはんもおそうじもせんたくもぜんぶやるから……だから、ぶたな――」

 

「鞘香!」

 

 僕は鞘香を抱きしめた。

 

「大丈夫……大丈夫だから、ね……落ち着いて」

 

 左手を背中に回し、右手で後頭部の髪を撫でながら、出来るだけ優しい声で囁きかける。

 

 華奢な身体から伝わる震えが、今はこれ以上ないくらい痛かった。

 

「ごめん……本当にごめんね……今のは僕が悪かった……思ったようにいかないのにイライラして、鞘香に八つ当たりしちゃった。駄目なお姉ちゃんだね、あはは……」

 

 謝罪しつつ、精一杯の笑顔を作る。

 

 理不尽に怒鳴りつけておいて調子がいい変わり身だと自分でも思うが、鞘香を落ち着かせるには必要なことだった。

 

「鞘香は何も悪くないから、気にしなくていいんだよ。ね? 悪いのは全部僕だから。鞘香に当たっちゃったのがいけなかったんだから」

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……お姉ちゃん……」

 

「怜でいいから……いつもみたいに、怜って呼んで。鞘香に名前で呼ばれるの好きだから、僕」

 

 嘘ではない。僕は鞘香に「お姉ちゃん」ではなく「怜」と呼ばれたい。

 

 陽気に笑いながら同い年の親友のように接してくれる、いつもの鞘香が好きだからだ。

 

 今まで何度も馬鹿だとかアホだとか言ったり思ったりしてきたけれど――そんなのは全部、冗談みたいなものだ。

 

 この子は僕の大切な妹。この子の存在より大切なものなんて、僕にはない。

 

「あたし……頭悪くて、生意気だから……お姉ちゃんに……怜に……嫌われたんじゃないかって……」

 

「そんなことないよ……僕の方こそ、鞘香に嫌われるようなことしちゃってたね。一つ上なだけで年上ぶって、偉そうで……すごく嫌な奴だったよね。今度から気をつけるから……僕のこと、嫌いにならないで」

 

「ううん……そんなこと、ない……あたし……怜のこと、好きだから……」

 

「ありがと……僕も、鞘香のこと大好きだから。……ほら、鞘香が優しいから、甘えちゃってたんだよ。鞘香がどこでもついてきてくれて、傍にいてくれるのが当たり前だと思っちゃってた。……本当にごめんね、鞘香……大好きだからね」

 

 笑顔のまま気持ちを伝えると、ようやく鞘香は落ち着いてくれたようで、僕の胸に顔を埋めてきた。

 

 その頭をそっと撫で続けながら、小さく安堵の息をつく。

 

 義理の姉妹といっても一歳しか違わない。背丈もほぼ同じ。仮に取っ組み合いの喧嘩なんかになったとしても、鞘香の方がずっと強いのは間違いない。

 

 にもかかわらず鞘香は、僕に怯えている。僕に怒鳴られたり罵られたり暴力を振るわれたりすることを、病的なほど怖れている。

 

 いや、僕に限った話ではない。実のところ、鞘香は誰に対してもこうなのだ。

 

 普段は明るく元気に振る舞っていても、心の根はガラス細工。他人から怒りや敵意といった感情を向けられることに、この子の心は耐えられない。普段の姿が嘘のように取り乱し、悲痛なほど錯乱しながら泣き叫んでしまう。

 

 家でも学校でも道場でも、それで騒動になることが度々あった。鞘香を酷い問題児と見なす人や気味悪がって距離を置く人はその度に増え、色々な悪口が僕の耳にも届くようになったが、こればかりはどうしようもない。根が深い問題なのだ。

 

 僕には分かる。鞘香のこの異常な精神面の脆さは、先天的なものではない。

 

 生まれ育った環境――普通ではない家庭の中で刻み込まれ、一生の傷として残ったものだ。

 

 鞘香をこんなにした人達を、僕は憎む。

 

 いくら憎んだところで、何かが変わるわけでもないけれど。

 

「じゃあ鞘香……もう帰ろっか」

 

「いいの……?」

 

「いいんだよ。やっぱりここには何もなさそうだしね。……あっ、そうだ! 帰りに西浦のシラナミコーヒー寄って、アイス食べよう。鞘香好きだったよね? あそこのアイス」

 

「うん……好き……」

 

「よし決まり。嫌な思いさせちゃったお詫び……っていうか、色々手伝ってもらったお礼に僕が奢るよ。鞘香がいてくれなかったら今日ここに来れなかったしね。あはは……」

 

「ありがと……お姉ちゃん……」

 

「怜でいいってば。いつも通りの鞘香でいいんだよ……ね?」

 

 御神本鞘香は病んでいる。それは否定出来ないし、将来に不安がないと言えば嘘になる。

 

 でも、僕だって人のことは言えない。僕は僕で、生活に支障をきたすレベルの精神疾患を抱えている。

 

 冗談抜きに、僕は鞘香が傍にいてくれないと何も出来ない。中学二年生にもなって妹に頼りきりの駄目人間だ。

 

 鞘香の優しさに甘えているし、さらに悪い言い方をすれば利用している。この子を自分にとって都合の良い存在に仕立て上げ、それで安心を得ようとしている。健全な姉の姿とは到底言えない。

 

 僕達は歪だ。病んだ心を抱えたまま寄り添い、互いに癒しを求めて慰め合っている。

 

 そして厄介なことに、僕は心の奥底の本音では、この関係をいつまでも続けたいと願ってしまっている。

 

 たとえ歪でも、鞘香と一緒にいられる時間は、孤独の怖さを忘れさせてくれるから。

 

「待ってて。今雨戸を閉め――」

 

 帰る前の戸締まりを済ませようとした時だった。

 

 何かの機械が作動するような、耳慣れない不気味な音が部屋の外から届く。

 

 僕達は驚き、顔を見合わせた。

 

「何……? 今の……」

 

「さあ……」

 

 何の音かは分からなかったが、その出所が一階のどこかであることは感覚的に分かった。

 

「……行ってみよう」

 

 

 

 

 

 

 寝室を出て吹き抜けの手すりの前に立った僕達は、一階を見下ろして瞠目した。

 

 和室と食堂の間にある、テレビとソファが置かれた居間――その床の一部分が跳ね橋のように上がり、地下へと続く階段が現れていたのだ。

 

 よく見れば床下には「蓋」の部分を自動で開閉する装置が取り付けられており、さっきの音はそれが作動した音だったらしい。

 

「隠し……階段……?」

 

 脳裏に浮かんだ単語を、そのまま呟く。

 

 そんな馬鹿なとは思うものの、何度見直しても視線の先にあるのは隠し階段と呼ぶしかない代物だ。暗い地下空間に向かってコンクリートの足場が伸びている。

 

 あまりに非現実的な光景すぎて、他に言葉が出てこない。

 

「ね……ねえ……やばいよ、あれ……」

 

 不安そうな様子で、鞘香は僕の手を取った。

 

「なんか……怖い……」

 

 鞘香のそれは、当然の反応なのだろう。

 

 隠し階段の存在からして異常だし、あんなものが突如出現した点も不可解だ。

 

 僕達はこの別荘を探索していたが、別に隠されていたスイッチやレバーを見つけたりはしていない。あの隠し階段の開閉装置が作動するような真似はしていないのだ。

 

 それに作動前の数分間、僕達は手を止めて会話していたから、何か無自覚な行動が引き金になったとも考え難い。

 

「ねえ怜……早く帰ろ! なんだか分かんないけど……絶対普通じゃないよ、あれ」

 

 鞘香の言う通りだ。まともな感覚の持ち主なら、この状況に好奇心ではなく恐怖を覚える。あんな得体の知れない階段を調べたいとは思わない。

 

 下に何があるか知れたものではないし、万が一入口が閉まって中に閉じ込められでもしたら命に関わる。

 

 ここは下手なことをせず、大人しくこの別荘を出るのが賢明な判断なのだろう。

 

 けれど僕には、それが出来なかった。

 

「……鞘香は外で待ってて。僕は……ちょっとだけ、あの下を見てくるから」

 

 階段を見下ろしながら、そんな我儘を口にする。

 

 当然、鞘香は当惑した顔になった。

 

「な……なに言って……」

 

「気になるんだ……あの下に、何があるのか……」

 

 想定外の状況を前に、僕の中では奇妙な欲求が生じていた。

 

 諦めかけていた、母の失踪に関する手がかり――それがあの階段の下にあるのではという妄想を抱いてしまったのだ。

 

 そんなわけがないと理性は否定しているが、この目で確認するまでは感情が収まらない。

 

「や、やめてよ! あんなの、下に何あるか分かんないし……なんか、すごく気味悪いし……」

 

「ちょっと下りてみるだけだよ。何もなかったらすぐ戻るから……」

 

「でも……」

 

「ごめん……本当に、すぐ戻るから……」

 

 僕が譲らないでいると、鞘香は複雑な面持ちで俯いた。

 

 ややあってから、ぽつりと呟く。

 

「なら……あたしも、行く……下に」

 

「鞘香……」

 

「でも五分……五分だけね? あの下がどうなってても、五分したら一緒に出て。それでいいよね……?」

 

「うん……分かった。じゃあ五分だけ、一緒にあの下を調べよう」

 

 僕達は一階に移動し、僕が先を行く形で階段を下った。

 

 階段は普通の家屋の二階分ほどの長さがあった。暗闇に備えて、僕はリュックサックから取り出した懐中電灯を手にしていたが、その必要はなかった。

 

 階段を下り終えた先は細長い通路になっており、等間隔に設置された照明が人工の光を放っていたからだ。

 

 明らかに異常だった。隠し階段の入口が勝手に開いたことといい、点けた覚えのない電灯が当然の如く点いていることといい、まるで誰かが僕達を招き入れているかのようだ。

 

 それに、この階段と通路の長さ。こんなものを地下に設けるのは、どう考えても一個人に出来ることじゃない。

 

 費用の問題もあるし、多分法律にも抵触する。そして何より、こんなものを必要とする事情が想像出来ない。

 

 酷く奇妙な気分になった。ついさっきまで見知った場所にいたのに、今はもうこんな異様な空間を進んでいる。別の世界に迷い込んでしまったようで、言葉にし難い種類の不安と恐怖を掻き立てられる。

 

 ここはいったい何なのか。母はこの地下空間の存在を知っていたのか。知っていたから地上の建物を所有したのか。

 

 この先には何があるのか。母が隠れ住んでいるのか。それとも、母の死体が横たわっているのか。

 

 様々な疑問や憶測が頭の中で交錯する内、細長い通路は終わり、僕達は広い長方形の部屋に辿り着いた。

 

 面積はおそらく、別荘の一階部分の半分程度。天井はやや高く、中心部に備えつけられた円形の電灯が部屋全体を照らしている。壁は通路と同じくコンクリートの打ちっぱなしだが、赤と青の塗料で幾何学的な紋様が描かれている。

 

 そして部屋の最奥には、大きな石造りの台座があった。

 

「何……ここ……?」

 

「分からない……何かの祠堂……みたいにも見えるけど……」

 

「しどう……?」

 

「神様とか仏様とか……祖先の霊とかを祀るところだよ。確信はないけど、何だかそんな風に見える」

 

 上手く言葉に出来なかったが、この部屋の構造や内装からはどことなく宗教的な雰囲気を感じた。

 

 鞘香が前方を指差す。

 

「あそこにある、あれ……何だろ……?」

 

 部屋の最奥にある台座の上に、小さな黒い箱が置かれていた。

 

 近寄って手に取ると、箱は金属製の頑丈な作りで、蓋の部分の下に鍵穴があった。

 

「鍵……かかってる……?」

 

「うん……いや……ちょっと待って」

 

 まさかと思いつつリュックサックの中を探り、父から借りてきた鍵束を取り出す。

 

 リングに通されている鍵は二本。片方は別荘の玄関の鍵。もう片方は用途不明の鍵。

 

 その謎の鍵を、恐る恐る箱の鍵穴に差し込み、回す。

 

 箱の蓋が開いた。

 

「開いた……」

 

 自分でやっておきながら、驚いた。万に一つくらいの気持ちで試したことが、まさかの正解だったのだ。

 

 しかしながら、それについて深く考える間はなかった。箱の中にあった意外な物が、僕に新たな疑問を与えたからだ。

 

 金属製の二枚の薄い板――いや、カードと呼ぶべきか。その片面には、それぞれ異なる図柄が描かれていた。

 

 一枚は、犬を連れて崖の上に立つ男。

 

 カードの下部に「THE FOOL」の文字、上部に「0」の数字が記されている。

 

 もう一枚は、白馬に乗った骸骨の騎士。

 

 こちらは下部に「DEATH」の文字、上部に「13」の数字が記されている。

 

 それらの絵と文字と数字に、僕は心当たりがあった。

 

「愚者と死神……大アルカナか……」

 

「だいあるかな……って……?」

 

 隣に立つ鞘香に問いかけられる。

 

 学校で習うことではないし一般常識でもないので、知らなくても無理はない。

 

「タロットカードは知ってる?」

 

「えっと……占いとかに使うやつ……だっけ?」

 

「そう。タロット占いなんかで有名なあれ。一般的なタロット七八枚のカードで一組になってるんだけど、その内の二二枚は大アルカナって呼ばれる重要な意味を持ったカードなんだ。皇帝とか教皇とか月とか太陽とか……色々な物事を表す絵が描かれていて、それぞれに〇から二一までの番号がつけられてる」

 

 タロットには小アルカナと呼ばれるカード群もあるが、知名度が高いのは今説明した大アルカナの方だろう。

 

 〇番の「愚者」から始まり二一番の「世界」で終わる、二二枚のカード。

 

 そこに描かれた神秘的な寓意画には、人の運命に関わる様々な意味が隠されている。

 

「これが……その、大アルカナなの……?」

 

「うん。こっちの変な男が描かれてるのが愚者、そっちのガイコツが描かれてるのが死神って呼ばれるカードだよ。〇と一三って番号も書いてあるし、間違いない」

 

「……でも、何で……こんなとこに、こんなのがあるの……?」

 

「それは……」

 

 当然の疑問だが、それに対する答えは僕にも分からない。

 

 母が所有する別荘には隠し階段が設けられており、その先にあったのは謎の地下空間。

 

 奥に進んだ結果見つかったのは二枚のカード。大アルカナの「愚者」と「死神」。

 

 これがいったい、何を意味するのか。

 

「チケットみてえなもんだよ。そいつは」

 

 唐突に、声と靴音が聞こえた。

 

 成人男性の低い声。硬い床を踏む靴音。驚いて振り返ると、細長い通路の奥からこちらに歩み寄ってくる人影があった。

 

「野球場でも映画館でも、中に入って楽しむにはチケット買わなきゃいけねえだろ? 自分は金払ったから楽しむ権利があります、って証明するためにな。今お前らが持ってるタロットもどきは、その代用品。これから始まる催しに参加するためのチケット代わりってわけさ」

 

 通路を抜け部屋の出入口に立ったのは、見知らぬ男。

 

 中背だが筋肉質な体格。年齢は三十代か四十代。黒いタンクトップにジーンズという服装で、剥き出しの腕には刺青が彫られている。

 

 顔立ちは無骨で野性的。髪を乱雑に伸ばし、口元には濃い髭を蓄えている。

 

 明らかに真っ当な大人ではない、アウトロー然とした中年男性だった。

 

「ついてるぜ、お前らは。本当ならガキの小遣いじゃ買えねえ物を、タダで恵んでもらえたんだからよ」

 

 髭面の男は舐めるような視線を僕達に向け、不気味に笑う。

 

 普段なら絶対に関わり合いたくない種類の人間だったが、状況が状況だ。問わないわけにはいかなかった。

 

「誰……ですか……? あなたは……」

 

「久我山崇徳。見ての通り、小汚え生き方してるおっさんだよ。平たく言えば社会のクズだな」

 

 投げかけた問いに、男は飄々と答える。次いでその右手がジーンズのポケットに突っ込まれ、一枚のカードを取り出した。

 

 僕達が持っている物と同じ、大アルカナの一枚。

 

「でもって、この正義のカードの所有者。お前らと同じ、これから始まる催しの参加者ってわけさ」

 

 久我山と名乗った男のカードに描かれていたのは、剣と天秤を手にして玉座に座る人物の姿。

 

 下部に記された文字は「JUSTICE」、上部に記された数字は一一。

 

 大アルカナの一一番、「正義」だ。

 

「俺らはこいつを、典符って呼んでる」

 

 困惑する僕と鞘香をよそに、久我山は楽しげに語り続ける。

 

「百科事典の典に、呪符や護符の符って書いて典符だ。百科事典並に膨大な情報を一枚の符に書き記した物……って意味らしいぜ。どうでもいいけどな」

 

 言葉を聞き、典符と呼ぶらしいカードを注視しながら、僕は半ば無意識的に後ずさった。

 

 やばい。何か分からないが、この男はやばい。

 

 アウトロー然とした外見以上に、その眼光や佇まいから危険な匂いがする。

 

 これ以上この男に関わってはいけないと、僕の中にある生物としての本能が警告を発している。

 

「ま……百聞は一見に如かず、だ。使い方を見せてやるよ」

 

 久我山は「正義」の典符を、自身の頭より高く掲げた。

 

 笑みを深め、呪文を唱えるように呟く。

 

「――堕胎顕幻」

 

 直後、典符が消えた。

 

 いや違う。消えたのではなく、散った。

 

 薄い金属のカードだった物が突如四散し、無数の黒い粉塵となって宙を舞う。

 

 その粉塵の全てが、竜巻を生むように高速旋回しながら一点に集束。再度の結合を果たし、元のカードとは別の物体を形作る。

 

 それは、黒い剣だった。

 

 片手持ち用の短い柄。握り手を護る鍔と護拳。湾曲した片刃の刀身。

 

 刃先から柄頭に至るまでが漆黒に染められ、鮮血のように赤い筋が各部に浮き出た、鋭利なサーベル。

 

 そんな禍々しい武器が、久我山の右手に握られる形で顕現していた。

 

 信じ難い出来事に、僕は声も出ない。頭もろくに働かない。

 

 非現実的なんて域を遥かに通り越した超常現象を、たった今目にした。

 

 手品やカラクリの類では不可能な、この世の理に反する物質の変化が、確かな現実として眼前で成されたのだ。

 

 魔法。

 

 母がよく口にしていた言葉が、脳裏をよぎった。

 

「典符ってのは、運営側が俺ら参加者に与えた武器でもある。所有者が手にした状態で合言葉を口にすると、戦闘用の形態に早変わりするように出来てんのさ」

 

 部屋の出入口で立ち止まっていた久我山が、再び歩き始める。

 

 抜き身のサーベルを手にしたまま、僕に近付いてくる。

 

「つーわけで、説明終わり。こっから先は実技指導だ」

 

 悪意が滴る眼でこちらを見据え、草でも刈るように平然と、命を刈る武器を振りかぶる。

 

「うっかり死なねえように、せいぜい気張れよ。妹想いのお姉ちゃん」

 

 鋭い踏み込みから、黒刃の一閃。

 

 肉が裂ける痛みと共に、僕は自分の血が飛び散る様を見た。

 

 

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