夢現境界奇譚   作:堤明文

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第四章「夢と現」

 

 

 僕は争い事が好きではない。

 

 剣戟や格闘や戦争を題材にした物語を観たり読んだりはするけれど、それは自分の中の知識を増やして心を豊かにするために目を通しているのであって、別に流血沙汰が好きなわけではない。

 

 勝ち負けにこだわるような性分でもないし、無駄に汗を流すのが大嫌いなので、スポーツもやらない。その手のものを観戦する趣味もない。

 

 もちろん殴り合いの喧嘩なんてしたことはない。そんな幼稚で野蛮で反知性的で非生産的なことをする奴らは馬鹿じゃないのかとすら思っている。よくニュースで見る、いい年の大人がつまらない喧嘩の末に病院か刑務所送りになる話は本気で馬鹿だと思う。

 

 口調やら何やらのせいで「男っぽい」と評されがちな僕だけれど、こういう根の部分は真っ当に女らしく出来ているようだ。暴力や流血や死に興奮を覚える男臭い趣味には到底ついていけない。人生は平穏無事が一番だといつも思っている。

 

 だから今の状況は、僕にとっては悪夢に等しかった。

 

 何の因果か、こんな人気のない山中で、突如現れた得体の知れない男を相手に命懸けで戦わなければならないなんて、本当に最低最悪だ。

 

「悲鳴の一つでも上げるかと思えば……涼しい顔してやがんなぁ、可愛げのねえ」

 

 酷く勝手な言い種だった。どうせ僕が悲鳴を上げて取り乱したりしたら、それはそれで好き放題虚仮にしてくるだろうに。

 

 こっちだって見た目ほど冷静なわけじゃない。正直言って怖い。今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られている。

 

 でも少しむかついたので、冷めた声を作って言い返す。

 

「……僕のこの指輪に特殊な力があるんだ。そっちにも何かあると考えるのが自然だよ」

 

 黒い湾刀から畸形の肉塊へと成り果て、使い手の右腕と一体化した怪物。

 

 漆黒の邪龍とも形容すべき姿のそれは、まるで本当の生物であるかのように息を吐き、涎を垂らし、耳障りな鳴き声を上げている。

 

 冗談抜きに気色悪い。こんな状況でなければ絶対に直視しないほどの醜さだ。

 

「思ったより見た目がアレだったけど……まあ納得かな。見れば見るほどあんたらしい力だよ。それ」

 

 相手の小汚い髭面を見据え、挑発する。

 

「汚らしくて醜くて、よくお似合いだ」

 

「ハハハハハハハハッ!」

 

 何度目かの哄笑。それと同時に邪龍が長大な鞭のように跳ね動き、その身を近くの木に叩きつけた。

 

 重い衝撃と振動。轟く破壊音。大質量との激突で幹が折れ、木が倒れる。

 

 途轍もない威力の打撃――いや、「噛みつき」と表現した方が正しいか。

 

 激突の瞬間、刀身の前面に並ぶ牙を幹に突き立て、破壊しながら喰い千切る様が確かに見て取れた。

 

 巨大な口がばりばりと音を鳴らし、数多の木片を咀嚼する。

 

「言うじゃねえかよ、ガキ……いいなぁお前……マジでいいぜ……クソ生意気で最高だ」

 

 怒りからくる無意味な破壊行為、もしくは自身の攻撃力を見せつけることによる威嚇かと誤解しかけたが、違った。

 

 喰っている。右腕と一体化した大口の邪龍は、数日ぶりの餌にありついた獣のように、叩き折った木の幹を貪り喰っている。

 

 それに伴い、大量出血で青褪めていた久我山自身の顔が血色を取り戻していく。

 

 回復しているのか。

 

「俺のクソ下らねえ人生に、喜びやら生き甲斐やらいうもんがあるとするなら、それは……」

 

 膨れ上がる殺気。最低の男が両眼を血走らせ、右腕を上げる。

 

 その動きに従い、木片を喰らい尽くした邪龍がゆっくりと身を起こし、鎌首をもたげて僕を見下ろす。

 

「てめえみたいなクソガキを、滅茶苦茶にしてやることだなぁ!」

 

 爆ぜるような声と共に、真下への振り下ろし。牙を持つ長大な肉塊が黒い落雷となり、頭上から僕を襲う。

 

 一瞬視界を覆ったその一撃を、僕は真横に跳んで回避した。直後に地面が爆発。一瞬前まで立っていた場所が後ろの木ごと叩き割られ、土砂と木屑が宙を舞う。

 

 恐ろしい攻撃だと思った。先程僕の逃走を阻んだ怪現象の正体がこれだ。長く太く厚く重い邪龍の身を鞭のように振り回すことによる殴打。たった一撃で地面を陥没させ、樹木をも粉砕する威力を持っている。

 

 まともに受けたら一溜まりもない。仮に何らかの方法で打撃力に耐えることが出来たとしても、あの大口に喰いつかれたら終わりだ。鋭い牙の列の餌食となり、無惨な血達磨に成り果てる。

 

 よって防御は不可能。ならば避け続けるしかなさそうだが、それも至難。典符の力で強化された反射神経と脚力により一撃目はどうにか凌げたが、元々が運動能力も戦闘技術も皆無な僕だ。そう何度も今のようにはいかないと確信出来る。

 

 二撃目を避けられるかどうかさえ怪しい。運良くぎりぎりで避けられたとしても、多分そこで大きく体勢を崩す。そうなれば詰みだ。すぐには動けない状態の僕に容赦なく三撃目が襲いかかり、不可避の死を与える。

 

「ハハッ! いいねえ! ド素人なりに上手く逃げるじゃねえかよ! だが、てめえのそれは……長続きしねえだろうが!」

 

 全てを見透かした様子で久我山が叫び、間髪入れず二撃目を繰り出す。

 

 二撃目は横薙ぎの一振り。邪龍の身が水平に近い軌道を描き、僕の胴体を側面から襲う。

 

 残念だがこいつの言う通りだ。マグレや幸運は何度も続かない。このままではすぐ手詰まりになり、無惨に死ぬ未来しか待っていない。

 

 そう、このままでは。

 

 この窮地を凌ぎ切る術が、僕には一つだけあった。

 

 意識を集中。脳に書き込まれた知識に従い、術式を構築。効果範囲及び効果持続時間を指定し、発動を命令。

 

〈愚者〉の典符を起動して得た力、〈虚夢の黒薔薇〉を行使。

 

 闇色の指輪に嵌まる宝玉が血色の光を仄かに放ち、持ち主である僕の身体全体を変質させる。

 

 直後、轟音と共に木が倒れた。

 

「……あ?」

 

 久我山が怪訝な声を零す。

 

 当然だろう。僕の胴体に命中するはずだった攻撃が空振りに終わり、その先にあった雑木林の木に命中していたのだから。

 

 僕が後ろに跳ぶか身を屈めるかして避けたのではない。もしそうなら久我山は何の疑問も抱かない。必死に逃げ回る様を嘲笑いながら次の攻撃へと移っている。

 

 そうならなかったのは、今の薙ぎ払いがこちらの身体をすり抜けていく瞬間を、奴自身が視認したからだ。

 

 攻撃を受け止めるわけでも身を動かして避けるわけでもない、透過という超常現象による特殊な回避。それが〈虚夢の黒薔薇〉の力であり、僕がこの状況で身を守れる唯一無二の手段だった。

 

「確かに長続きしないね。だから……虚構魔法だっけ? この指輪に宿る力を使わせてもらったよ」

 

 先程と同じように右手を上げ、薬指に嵌った指輪を久我山に見せる。

 

「〈虚夢の黒薔薇〉って名らしいよ。この指輪。典符を起動した時僕の頭に書き込まれた情報が本当ならね」

 

 訊かれてもいないのに説明を始めたのは、律義さや親切心の表れでも自己顕示欲を満たすためでもない。単に相手の気を引くためだ。

 

 僕の攻撃は、既に始まっている。

 

「別に自慢するわけじゃないけど、本当に不思議な力だね。極めて概念的かつ形而上的で、この世の物理から大きく外れてる。まさに魔法だ」

 

 わざともったいぶった言い回しをしつつ、指輪の力を密かに行使。

 

 今度の効果対象は、十数メートル先――久我山の斜め後ろに立つ木の幹。

 

 左手を狙った時と同じく、その一部分に球状の力場を形成。効果により力場内の物質を変質させ、事実上の空洞化。支える力を失った木が自重で折れ、久我山に向かって倒れるよう仕向ける。

 

「言語化は難しいけど、あえて簡潔に言い表すなら――」

 

 話が核心に至る寸前、久我山の身体を覆う影。目論見通り木が折れ、巨大な落下物となって無防備な男を背後から襲う。

 

 今更気付いても遅い。話に気を取られて反応が遅れた今なら、確実に圧し潰せる。

 

 ――と思ったが、甘い見通しだったようだ。

 

 久我山は振り返りもせず、右腕だけを動かして邪龍を操作。自らの頭上にその身を持っていき、圧死を免れるための盾として用いる。

 

 奇襲は失敗。あえなく防がれた倒木は、そのまま邪龍の体表を滑る形で地に落ちた。

 

「話に気を取らせといて後ろからズドン、か……いい性格してんな、お前も」

 

 どうやら、読まれていたらしい。

 

 相手が思ったより鋭かったと見るべきか。こちらの演技が白々しすぎたと見るべきか。

 

 どちらにせよ、一工夫足りなかったのは確かなようだ。実戦は甘くない。

 

「どうしたよ? もう能力説明はしてくれねえのかい?」

 

「……喋る意味がなくなったからね」

 

「くくっ……なるほど……」

 

 久我山は笑いつつ、後方の折れた木を一瞥する。

 

 指輪の力が生んだ力場は既に消え失せ、効果対象となっていた幹の一部分が、傷一つない姿のまま断面の部分に残存していた。

 

「まあいいさ……お前の力はこれで三度見た。頭脳明晰とは到底言えねえ俺でも、大体どんなもんかくらいは察しがついてきたぜ」

 

 まずい流れだった。未知の奇怪な能力として効果を発揮してきた僕の魔法は、その利点を失いつつある。

 

「左手からの出血、攻撃の透過、今の倒木……一見ばらばらの出来事に見えるが、よく見りゃ共通点があるよなぁ」

 

 濁った眼が僕を見る。指輪の力の効果が持続中で、シャボン玉のように複雑な色味を帯びたままの僕の全身を、じっくりと舐め回すように観察する。

 

「何て言うのが適切なのかは知らねえが……まあさしずめ、現実の一部を幻影みたいなもんに変える能力……ってとこか?」

 

 僕の表情に変化はない――つもりだった。

 

 しかし僅かな緊張は隠しきれなかったようだ。久我山は自らの推測の正しさを確信した顔になり、右腕を振り上げる。

 

「――ハッ! 図星かよ! クソ下らねえなぁおい!」

 

 再び始まる攻撃。邪龍の身が今度は一直線に伸び、射撃じみた突きとなって僕の上半身に迫る。

 

 僕はそれを右に動いて避けようとしたが、無理だった。攻撃の軌道から逃れきれず、身体の正中線近くを邪龍が通り過ぎていく。指輪の力のおかげで無傷で済んだが、安穏としていられない状況だった。

 

 やはり僕の反射神経で避けられる攻撃速度ではない。身を守るにはこの指輪の力が必要不可欠。故にやむをえず、効果が切れかけていた力を再度発動。透過によって攻撃を無効化出来る状態を二分ほど延長させる。

 

 その直後、邪龍が螺旋を描くような動きで僕の全身に巻きつこうとする。本来なら絞め殺されて終わるところだったが、間一髪で効果の延長が間に合ったためそこから脱出。とぐろを巻く邪龍の身をすり抜け、後方へと退いていく。

 

 綱渡り的な緊急回避を続ける僕に、久我山は言う。

 

「やはり無傷か。薙いでも突いても巻きつけても手応えなくすり抜けちまって、傷一つつけられやしねえ。えらく便利な力だってことは認めてやるよ」

 

 次なる攻撃のため邪龍を操りつつ、黒薔薇の指輪に冷徹な視線を注ぐ。

 

「便利で応用が利く力が、実戦で使い物になるとは限らねえけどな」

 

「……っ」

 

 僕は密かに歯噛みした。下から斬り上げる形で繰り出された三撃目もやはり透過で避けるしかなく、それ以外に打つ手がない苦境が胸中に焦りを生む。

 

 この久我山という男、下劣で粗暴で最低な人格の持ち主だが、馬鹿ではない。初めて見る不可思議な力にも大して動じず、深く観察しながら自身にとって必要な情報を正確に読み取っている。対処の仕方も的確と評するしかない。

 

 ああ、本当に厄介だ。嫌になる。

 

 このクソ野郎が得意げに披露した推測は、概ね当たっていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 ここで一つ、例え話をしよう。

 

 漫画でも小説でもアニメでもドラマでもいいけれど――とにかくある人物がある架空の物語を目にして、その内容に不満を抱いたとする。

 

 その人物が自分の趣味に合わない物語をぶち壊してやりたいと願っても、そんな願いは叶わない。本の頁を破ろうが踏みつけようが燃やそうが、テレビ画面を叩き割ろうが、それで作中の登場人物が死亡したり作中の世界が崩壊したりはしないからだ。

 

 当人の視界には入らなくなっても、物語自体は何の問題もなく予定通り進行していく。作者を脅迫か殺害でもしない限り、現実世界の人間が物語の中の虚構世界に干渉することは出来ない。

 

 逆もまた然り。虚構は現実に干渉出来ない。物語の中でどんな惨劇や天変地異が起ころうが、それで現実の人間が死亡することはない。せいぜい少し嫌な気分にさせる程度で、物理的には何の影響も及ぼさないのだ。虚構世界の出来事などとは無関係に現実世界は平常通り営まれていく。

 

 現実と虚構は地続きではなく、断絶している。

 

 現実の事象は虚構の領域を侵せず、虚構の事象は現実の領域を侵せない。

 

 言ってしまえばただそれだけの、わざわざ説明するまでもないくらい自明なこと。小学生でも知っている至極当然の道理。

 

 僕の虚構魔法〈虚夢の黒薔薇〉は、そんな道理を司る力らしい。

 

 あえて簡潔に表現するなら、「事象の虚構化」といったところだろうか。

 

 黒薔薇の指輪には僕が指定した場所に特殊な球状の力場を発生させる機能があり、その内側にある事象を一時的に虚構の存在へと変質させることが出来る。

 

 虚構化した事象は目に見えるだけの幻影に等しい存在となり、現実世界に干渉する術を失う。それは存在を消されることとほぼ同義であり、そうなっている間はいかなる手段を用いても破壊はおろか接触さえ不可能。現実に何の影響も与えず現実から何の影響も受けない、空虚な幻と化すのだ。

 

 この効果によって出来ることは数多い。

 

 最初の攻撃では久我山の左手を力場で覆い、手首を切断したのと同じ状態にして大量出血させた。

 

 二度目の攻撃では木の幹の一部を力場で覆うことで事実上の空洞に変え、久我山に向かって倒れるよう仕向けた。

 

 そして今は衣服や所持品を含めた僕の全身を虚構化することで透過能力を獲得し、久我山の攻撃から身を守っている。

 

 自画自賛みたいになるけれど、便利な力だとは思う。普通なら不可能なことを可能にしてくれるため応用の幅が広く、使いこなせば様々な場面で役立つに違いない。

 

 しかしながら久我山が言及した通り、平時に便利なことと戦闘時に強いことは別。その程度は素人の僕にも分かる。

 

 一見すると万能無敵に見える〈虚夢の黒薔薇〉の力には、二つの大きな欠陥があった。

 

 

 

 

 

 

「俺らに与えられた虚構魔法ってのは面白えもんでよ。誰がどんな力を得ようが無敵にはなれねえようになってんだわ」

 

 木が次々と薙ぎ倒される。地面が幾度も砕かれ、土煙が濃霧のように立ち込める。

 

 絶え間なく攻撃を続けながら、久我山は悠々と語る。

 

「発動さえすりゃ敵は無条件で全員死ぬ、自分は何があっても絶対死なねえ……なんて都合が良すぎる力は生まれねえ。一見万能無敵に見える力でも、必ずどっかに弱点がある。だからある意味じゃ平等で、クソ下らねえお遊戯として成立してるんだがよ」

 

 吹き荒れる嵐の如き連続攻撃も、雑木林の木々や地面を破壊するばかりで、虚構の存在と化した僕の身体には掠り傷一つつけられない。

 

 そんなことは承知の上で、久我山は嬉々として邪龍を操り続ける。

 

 傍から見れば徒労でしかないような猛攻には、ある重要な意味があった。

 

「例外もなくはねえが、てめえのそれのように大仰なことをする力ほど、基本的には燃費が悪い。ちっと使っただけですぐ魔力切れになっちまうんだよなぁ」

 

 そう、それだ。僕がこの状況に危機感を覚える理由がそれであり、全て透過するだけと知りながら久我山が攻撃を続ける理由もそれだった。

 

〈虚夢の黒薔薇〉の力は、無制限に使い続けられるものではない。

 

 魔力という表現が適切か否かは知らないが、面倒なのでそう呼ぼう。黒薔薇の指輪の内部には魔力と呼ぶしかない特殊なエネルギーが蓄えられていて、それを消費して虚構魔法を発現する仕組みとなっている。機械を動かす電気のようなものだ。

 

 これは人間の体力と似通った性質を持っていて、何もせずとも時間経過で自然と回復する。しかし一旦使い果たせば、動きすぎて体力切れとなった人間と同様、しばらくは活動不能な状態に陥る。

 

 要は、魔力が切れたら魔法が使えなくなるということだ。そうなれば僕などただの子供でただの素人。何の抵抗も出来ず邪龍に喰い殺される結末しか待っていない。

 

 そして今、久我山は明確にそれを狙っている。こいつが攻撃を続ける以上、自力で身を守れない僕は指輪の力に縋り続けるしかない。全身虚構化による無敵状態を維持すればするほど魔力は減少し、枯渇に近付いていく。

 

 残念ながら指摘された通り、僕の虚構魔法はあまり燃費が良くない仕様らしい。別にゲージのようなものが見えているわけではないけれど、消費量や残量がどの程度かは感覚的に分かるのだ。だから限界が近いこともおのずと分かってしまう。

 

 もってあと二分。その間に決着をつけなければ、僕は終わる。

 

「一方でだ。俺の〈顎門〉はクソしょうもねえカス能力だが、粘り強さだけは自慢でな。持久戦ならお手の物なんだわ」

 

 喰い千切った木々の破片をその大口から零す邪龍は、確かに疲労や消耗の色を全く見せていなかった。

 

 使い手である久我山も同じだ。今やその顔は完全に血色を取り戻しており、攻撃を始める前より遥かに生き生きとしていた。

 

「こいつは酷え悪食でな。有機物なら何でも喰える。虫だろうが獣だろうが草木だろうが手当たり次第貪り喰って、自分の血肉と力に変える。ついでに俺自身もその恩恵にあずかれる仕組みになってんのさ。早い話が、喰えば喰うだけ俺ともども回復していく化物だ」

 

 その発言で理解する。やはり「喰う」という行為自体があの邪龍の能力であり、僕への攻撃は食事の意味も持っていたのだと。

 

 外見から察するに、邪龍と久我山の胴体を繋ぐ幾本もの赤黒い管が医療器具の管のような役割を果たしているのだろう。暴れ回って消費した分の魔力を、邪龍は雑木林の木々を喰うことで補充し、同時にその体内で久我山が失っていた分の血液を作り、管を通して主の体内に送っている。

 

 単純だが、極めて厄介な仕様だ。動けば疲れて魔法を使えば魔力切れに近付く僕と違い、久我山の体力と魔力は事実上無限。反則的なまでの回復能力によって、疲れも魔力切れも知らず半永久的に攻撃を仕掛けてくる。

 

「喰う物にさえ困らなけりゃ、多分一昼夜だって戦い続けられるだろうぜ。まあ……」

 

 強固な自信を覗かせて言い、長大な邪龍を空中で旋回させる。

 

「んなクソかったりいことしなくても、てめえはあと数分で終わりだろうがなぁ!」

 

「くっ……!」

 

 袈裟斬りに近い形で振り下ろす、もう何度目かも分からない攻撃。このままでは相手の思う壺だと痛感した僕は、それに対する迎撃を試みた。

 

〈虚夢の黒薔薇〉の力を使い、攻撃の軌道上――僕と邪龍の間の空中に球状の力場を設置。先程木を倒した時と同様、長い身体の一部を事実上の空洞に変えることで断ち切るのが狙いだった。

 

 だが、ここで二つ目の欠陥が露呈した。

 

「ハッ! 遅え!」

 

 邪龍の身が力場に呑まれた瞬間、久我山は巧みな操作で攻撃を中断。即座に身を引かせて力場から離れ、切断を免れる。

 

 時間が足りなかった。一瞬力場の中に誘い込むことは出来たが、その効果が邪龍の身に及ぶ前に逃げられてしまったのだ。

 

 苦し紛れの拙攻は当然のように実らず、僕の圧倒的不利は依然として変わらない。

 

「最初の攻撃の時から違和感はあった。二度目の時の妙に回りくどい攻め方でそれが膨らんで、今ので確信に変わった」

 

 久我山は自らの思考の流れを語ってから、鋭く核心を突く。

 

「お前のそれ、能力の発動から効果が表れるまで時間がかかるクチだろ? 自分に使う時だけは例外みてえだがな」

 

 否定する術はなかった。僕のこれまでの立ち回りと今の迎撃失敗が、奴の推測の正しさを裏付けてしまっていた。

 

「色んな前例から考えりゃ、お前自身……いや、その指輪から離れた場所に効果を及ぼそうとするほど時間がかかるって仕組みか? だとしたら……」

 

 一旦引き戻されていた邪龍が再び殺気を滾らせ、僕めがけてその身を伸ばす。

 

「面白え力だが、やはり実戦向きじゃねえな」

 

 宣告と共に繰り出された攻撃を、僕はもう避けない。おぞましい邪龍が自分の身体を通り抜けても背後の木が砕け散っても無視を貫き、その場にじっと立つ。

 

 どうせ無理なことに時間と体力を割くくらいなら、動かず打開策を考えることに専念した方がましだと開き直っていた。

 

〈虚夢の黒薔薇〉が抱える第二の欠陥は、致命的な遅さ。効果が表れるまでに要する時間が能力の発生源である指輪との距離に比例することだ。より正確に言えば、距離が約一メートル離れるごとに所要時間が約一秒増す。

 

 従って、指輪と接している僕の身体は瞬時に虚構化出来るが、一メートル先の事象を虚構化する場合は約一秒、五メートル先なら約五秒もかかってしまう。日常生活では気にもならないほど短い時間だが、刹那の攻防を繰り広げる実戦では気が遠くなるほど長い時間だ。遠距離武器としてはありえないほど遅すぎる。

 

 しかも能力発動時に力場が可視化されてしまう仕様なため、相手からすればこちらの狙いが事前に丸分かり。格闘技で例えるなら、無駄に予備動作が大きいテレフォンパンチのようなものだ。避けるのは容易い。

 

 その奇抜さから初見殺し的な強みを持ってはいるものの、種が割れてしまえばただ鈍くて迂遠なだけの攻撃なのだ。実戦向きではないと酷評されても反論は出来ず、確かにその通りと頷くしかない。

 

 正直、ハズレを引いたと思う。本当に戦わせる気があるのか怪しいくらいのクソ能力だと思う。出来ることなら久我山が操っている醜い化物と取り換えてほしいとさえ思う。

 

 とはいえ、不運を嘆いていても始まらない。僕は僕に与えられたこのクソ能力でこの苦境を打開するしかないのだ。

 

 たった一人の妹を守り、二人で家に帰るために。

 

「あ……あぁ……」

 

 耳に届く、細い声。視線を少し横にずらすと、地面に座り込みながら震えている鞘香の姿が目に映った。

 

 醜悪な化物が暴れ回る悪夢のような光景に圧倒され、ろくに声も出せないほど怯えきっているのだろう。今すぐ一人で逃げろと言ったところで動けそうには見えず、久我山がそれを許すとも思えなかった。

 

 自分は妹の命を背負っているのだと改めて実感し、拳をきつく握り締める。

 

 ここで僕が久我山に敗れて死ねば、次は鞘香が標的になる。たった一人の妹で、五年前からずっと僕の傍にいてくれた子が、絶望の淵に突き落とされ、恐怖と苦痛で泣き叫びながら悲惨な死を迎える。

 

 ――させてたまるか。そんな理不尽でふざけた結末、絶対に訪れさせない。眼前のクソ野郎に勝たない限りそうなるのなら、どんな手を使ってでも勝つ。僕が殺される前に、僕がこの手で殺してみせる。

 

 自分自身にそう言い聞かせると、自然と上体が前に傾き、心身から余分なものが削ぎ落とされたような気分になった。

 

 実のところ、起死回生の一手は既に思い浮かんでいる。

 

 問題は、それを実行に移すか否かだ。

 

「分が悪い賭け……なんてものじゃないな、正直……」

 

 思わず独り言が出た。いくら甘く見積もっても成功率が怪しく、一か八かの博奕に近い手だったのだ。

 

 しかも二度は使えない。一度仕掛けて失敗すれば、久我山は間違いなくこちらの狙いに気付く。つまらない小細工だと嘲笑われると同時に警戒され、通用しなくなってしまう。

 

 ただでさえ難しい行動を、一発勝負で成功させなければならないのだ。命を託すにはリスクが高すぎる。

 

「でも……他に手なんかないだろ……」

 

 目を逸らせない事実を言語化し、思考を前に進める。

 

 安全に行えて確実に成功する良策があるならとっくにやっている。今こんなことで迷っているのは、他の策が何も浮かばないからだ。

 

 あれこれと考えを巡らす時間自体、もうほとんど残されていない。

 

「鞘香を失いたくないだろ……独りは嫌だろ……」

 

 弱く臆病で愚かな自分に、強く勇敢で賢い自分が語りかける感覚。

 

 意識の何処かから湧き上がってきたその感覚に身を任せ、土埃が舞う中で言葉を吐く。

 

「尻込みするなよ……やれよ、馬鹿」

 

 弱さを押し込めるため、強く命じる。

 

「やれ」

 

 その命令に背中を押された僕は、決意を固めて行動に移った。

 

 走る。後ろでも左右でもなく、前に。勝利を確信しながら邪龍による攻撃を続けていた久我山に向かって、一直線に走る。

 

 全身虚構化中は地面を蹴って反発力を得ることが出来ないため、その移動は疾走ではなく飛行と呼ぶ方が適切なのだが――実態はどうあれ外形上は疾走であり、移動速度も全力疾走のそれだった。

 

 狙いは勿論、距離の短縮。この疾走で可能な限り久我山に近付き、残りの魔力を振り絞った一撃で仕留める。

 

「ま、そうくるわな」

 

 ここでも僕の行動を読んでいたらしく、僕が走り出すと同時に久我山は退避行動に移っていた。

 

 近くに立っていた高い木の上部に邪龍を喰いつかせ、アンカーロープを巻き取るような要領で自身を引っ張り上げる。一瞬二メートル前後まで縮まっていた彼我の距離が、上方向への急速な移動によって再び開いていく。

 

「狙いは接近戦だろ? 指輪の近くなら瞬時に能力を効かせられるから、どうにか距離を詰めて俺を仕留めようって魂胆だ」

 

 頭上から冷めた声が降ってくる。見上げた先にある髭面には、僅かながら失望の色が滲んでいた。

 

「安直だな。んな誰でも思いつくような手で意表を突けるとでも――」

 

 言葉が途切れる。見かけによらない鋭さでこちらの行動を先読みしてきた男も、ここで披露する奥の手だけは読めていなかったようだ。

 

 立ち止まった僕はショートパンツのポケットから銀色の物体を引き抜き、上昇中の久我山に向かって投げつけていた。

 

 緩い放物線を描いて飛ぶそれは、小さな円筒形の懐中電灯。地下に行く時リュックサックから取り出したけれど、通路に明かりが灯っていたため使わずにいた物だ。それを僕は今、本来の用途とはまるで違う、投擲武器の代用品として使っていた。

 

 その行動の理解し難さに、久我山は呆然となる。

 

 当然の反応だろう。僕が投げたのはナイフでも鉄球でもなく、ただの懐中電灯だ。刃なんて付いていないし重量も軽い。こんな物が身体のどこに当たったところで致命傷には到底ならない。

 

 そもそも僕の所持品だった懐中電灯は僕自身と一緒に虚構化している最中だから、久我山の身体に当たらない。邪龍が僕をすり抜けるのと同じ現象が起きるだけだ。

 

 僕以外の人間の視点では、一見無意味。何のつもりでやったのか咄嗟には理解出来ず、正気を疑うほどの奇行として映るだろう。

 

 だからこそ、これは意表を突く起死回生の一手だった。

 

「安直なのはお前だ」

 

 懐中電灯が久我山の身体をすり抜ける瞬間、告げる。

 

「誰でも思いつく手が奥の手なわけないだろ。間抜け」

 

〈虚夢の黒薔薇〉の力は、事象の一時的な虚構化。決して永続的なものではなく、時間経過で効果が切れるか僕が解除命令を出すかのどちらかで、虚構化していた事象は現実の事象に戻る。

 

 事象を虚構化する際は所要時間が指輪との距離に比例するが、その逆――僕の意思で虚構化を解除する場合ならば、距離に関係なく一瞬で済む。

 

 そして今、上空に向かって飛ぶ懐中電灯と久我山の左大腿部が重なった瞬間、僕は解除命令を発信。懐中電灯を現実世界の位相に還す。

 

 そこで一つの矛盾が生じる。懐中電灯が実体を取り戻すその場所には、既に久我山の肉体という実体が存在しているからだ。

 

 そこに懐中電灯があるという現実。

 

 そこに久我山の肉体があるという現実。

 

 矛盾する二つの現実が混ざり合い、侵食し合い、拒絶し合い、凄惨に破壊し合う。

 

「ぐっ……おおっ……ああああああああああああ!?」

 

 左大腿が爆裂。血と肉と懐中電灯の破片が弾け飛び、絶叫が迸る。

 

 これが真の狙い。虚構化の解除を利用した、肉体の内部破壊だ。

 

 先の疾走で久我山の至近距離まで行けずとも構わなかった。投げつける懐中電灯をその身に正確に当てられそうな距離まで近付ければよかったのだ。

 

 この作戦の問題はタイミング。久我山の身体と懐中電灯が上手く重なった瞬間に解除を行わなければならなかったため、タイミングを見計らうのが非常に難しく、狙い通りにやれる自信が乏しかった。

 

 本当に一か八かだったが、典符の力による身体強化のおかげで感覚の精度も上がっていたのか、どうにか及第点の成果は出せた。

 

 僕の勝ちだ。

 

「があっ……! ぐっ……!」

 

 苦痛のあまり邪龍の制御を失い、久我山は地面に落下する。

 

「はぁっ……はぁっ……クソガキが……! クソ下らねえ、小細工しやがって……!」

 

 自分が何をされたのか理解したらしく、息を乱しながら顔を上げ、憤怒が滾る眼差しを僕に向ける。

 

 だが直後、その顔は凍りつく。久我山の眼前に立つ僕は、予定通り残り少ない魔力を振り絞り、止めの一撃の発動に入っていた。

 

 直径三十センチほどの力場が、膝立ちの姿勢になった久我山の頭部の左半分を覆う。その状態で虚構化の効果が及べば、それは脳の左半分を消し飛ばされるのと同じ。確実に即死する。

 

 指輪と効果対象の距離は、現在一メートル未満。即時発動が可能。

 

 深手を負った苦痛で反応が遅れたこともあり、最早久我山に逃れる術はない。

 

「終わりだ」

 

 殺意を口にした時、命の重みを感じた。

 

 ここでこのまま能力を使えば、僕は殺人者になる。手段が手段なだけに罪に問われることはないだろうけれど、自分の意思で人を殺した事実は永遠に残る。

 

 それでいいのだろうか。他に手はないのだろうか。もしかしたら、殺す以外の方法でこの状況を切り抜ける道もあるのではないだろうか。

 

 何を馬鹿な――と、内なる自分が否定する。

 

 殺さなければ殺されるだけだ。この機を逃せばもう次はない。久我山に反撃され、僕も鞘香も無惨に死んで終わる。

 

 そんな結末でいいのか。それがお前の望みか。

 

「……っ」

 

 当然、違う。僕はこんなところで終わりたくない。鞘香を失いたくない。もう二度と何も失わず、この先の平穏な人生を歩んでいきたい。

 

 だから殺そう。やはり殺そう。今の葛藤は単なる気の迷いだ。止めの瞬間を前にして少し感傷的になっただけの話。大した問題ではない。

 

 大丈夫、やれる。自分と状況を客観視したおかげで冷静になれた。僕達二人の生存のため、下らない迷いを振り払い、今やるべきことを冷静に完遂出来る。

 

 そう自分を納得させ、止めの一撃がもたらす結果を見届けようとした時だった。

 

「三分経過」

 

 背後から届く、男の声。

 

 それに僕が反応するより先に、明確な異変が生じた。

 

 魔法の消失。久我山の命を奪うはずだった球状の力場が、その役目を果たすことなく唐突に消え失せたのだ。

 

「な……」

 

 理解不能な事態に、絶句して固まる。同時に、久我山もほぼ同じ様子であることに気付く。

 

 久我山の仕業ではない。僕の意思に反する力場の消失は、別の要因――第三者の介入によるものだ。

 

「やはり僕の力は有効か。一分……いや、三十秒でも足りたかな?」

 

 再度聞こえてきた声に引っ張られる形で、後ろを向く。

 

 いつの間に近寄られていたのか。僕の立ち位置からほんの数歩だけ離れた場所に、一人の男が立っていた。

 

 上下共に黒い服を着た、若い男だった。

 

「それにしても、相変わらず弱いね久我山。虚構魔法を覚えたばかりの子に負けるなんてさ」

 

 黒ずくめの男は繊月のような冷笑を見せた。

 

 

 

 

 

 

 男は右手に時計を持っていた。

 

 腕時計ではない。細い鎖が取り付けられ、時刻を表すローマ数字と針以外が黒の一色で統一された、アンティーク調の懐中時計だ。

 

 男の顔の次にその時計に目がいった僕は、ある共通項に気付いて戦慄する。

 

 黒い懐中時計。深淵の闇が凝固したかのような漆黒の物体。久我山の湾刀や僕の指輪と同じ色の所持品。

 

 つまり、この男は――

 

「勝負が決まる前に勝ち誇るからそうなる。油断大敵だよ」

 

 時計を持った右手を下げつつ、男は久我山に言う。

 

「別に自慢するわけじゃないが、僕なら最後の手は読めていたし対処も出来たよ。日野や梶谷さんでも多分同じだっただろうね。能力や戦法がどうこうって話以前に、あんたは戦闘者としての程度が低すぎる。ただでさえクソ弱いんだから、せめて用心深さくらいは持ち合わせてないと」

 

「どこの馬鹿が割り込んできたのかと思えば……てめえかよ、楊」

 

 久我山は男を「ヤン」と呼んだ。

 

 ヤン――漢字表記で「楊」なら、それは漢民族の姓だ。言葉の発音にやや癖があるとは感じたが、中国人なのだろうか。

 

 そんな僕の戸惑いをよそに、二人は僕を挟んで会話を続ける。

 

「割り込んだっていうより、助けてやったんだけどね。今あんたに脱落されたらあの人にとって都合が悪いみたいだからさ」

 

「……あいつは?」

 

「帰ったよ。この場は僕に任せるってさ」

 

「ちっ……勝手な奴だ」

 

「あんたと違って忙しいんだよ、あの人は。……まあそんなわけだから、あんたもここは退いていいよ。この子達の面倒は僕が見る」

 

「用済みの雑魚は失せろってか? 俺はしょうもねえやられ役で、お前はお子様達の面倒を見る優しい案内役か? 泣きたくなるくらいの扱いの差だな」

 

「適材適所ってやつさ。僕は敵の役もこなせるけど、あんたに案内役は無理だろ? 見た目も中身も最悪すぎて、誰も信用してくれやしない」

 

 見たところ楊は久我山より大分若い。おそらく二十代半ばだろう。

 

 典型的な無法者然とした風貌の久我山と違って、こちらは何処にでも自然と溶け込める普通の若者といった風貌だ。粗暴な雰囲気が一切ないばかりか、整った顔立ち、引き締まった痩身、清潔な身なりといった各要素からは、洗練された役者のような好印象さえ受ける。

 

 だからこそ、久我山とは別種の不気味さがあった。

 

 この男は何者なのか。自らの魔法で僕の魔法を打ち消してみせたようだが、久我山の仲間なのか。

 

 僕達の面倒を見るなどと宣言しているが、それはどういう意味なのか。

 

「ハッ……まあ、否定はしねえよ。実際俺も、ガキのお守りなんざ御免だしな」

 

 苦笑してから、久我山は動きを止めていた邪龍を動かす。

 

 再び攻撃が来るのかと思い身構えた僕だったが、次の行動を見て目を疑った。

 

「これだけはやりたくなかったが……しゃあねえな……」

 

 血塗れの脚に黒い巨躯が覆い被さる。牙の列が肉に喰い込む。苦鳴と共に血飛沫が飛ぶ。

 

 久我山が攻撃対象にしたのは、僕ではなく自分自身。いったい何を思ったのか、先の攻撃で重傷を負った左大腿に邪龍を咬みつかせ、餌食にさせていた。

 

「づぅ……ぐぅっ……! 痛ってえな、クソ……! ったく……クソガキが……クソ面倒臭えことさせやがってよ……!」

 

 自傷行為と呼ぶべきか、自食行為と呼ぶべきか。左脚の負傷箇所から爪先までの全てを自らが操る怪物に喰わせるその行いは、事故や暴走の類ではなく明らかに本人の意思によるものだったが、とても正気の沙汰とは思えなかった。

 

 身の毛がよだつような光景に、僕は声も出ない。

 

「何を逆恨みしてるんだか。祭儀のルール通り戦った結果だろ? 不覚を取る奴が悪い」

 

「るせえな……んなこたぁ分かってんだよ、クソが……」

 

 楊の指摘に悪態を返しつつ、左脚を失った久我山はすぐさま近くの木に邪龍を食らいつかせた。

 

 太い幹が巨大な口に砕かれて消えていき、直後に僕は一連の行動の意味を知る。

 

 骨まで喰われて無惨な有様となり、夥しい血を流していた左大腿の断面――その部分の肉が急激に膨らんで伸長し、失った脚の再構築を始めていた。

 

〈顎門〉という名らしい醜悪な怪物の能力は、主である久我山の血や体力を回復させるだけではなかった。肉体の欠損を復元することさえ可能だったのだ。

 

 単に負傷しただけなら手近な有機物を喰うだけで事足りたのだろうが、今は左脚の内部に懐中電灯の破片が残っていたため一度丸ごと除去する必要があったのだろう。

 

 こいつ以外の誰にも出来ない、常軌を逸した荒療治だ。

 

「ああ……痛え痛え……ったく、年甲斐もなく決闘ごっこなんてするもんじゃねえな……酷え目に遭ったぜ」

 

 僅か数十秒で、久我山の左脚は健全な姿を取り戻した。

 

 首を左右に振ってから立ち上がり、何事もなかったかのような足取りで僕と楊の横を通り過ぎていく。

 

「じゃあ、俺は行くぜ。後はてめえらで勝手にやってろ」

 

 投げやりに告げ、山肌沿いの公道へと続く未舗装路を進む。そのまま視界から消えていくのかと思ったが、十歩ほど歩いたところで急に立ち止まった。

 

「ああ、そうそう……二度と会わねえかもしれねえから、一応言っとくか」

 

 振り返り、僕の顔を見る。

 

「お前みたいなゴミは、死ぬまで何も得られず、何処にも辿り着けずに終わる……確かさっき、そう言ったな?」

 

「……それが、どうかした?」

 

「くくっ……いや何、妙に的を射た物言いだなと思ったんだがよ……くくくく……」

 

 久我山は笑う。愉快そうに笑いながら、全く笑っていない眼で僕を睥睨する。

 

 憎悪や殺意よりも重く深い、濃密で混沌とした感情が、その視線に込められていた。

 

「お前も同じさ」

 

 呪うように、言葉を吐く。

 

「俺と同じで、お前も何処にも辿り着けねえよ。この先どう足掻こうともな」

 

 それを聞いた瞬間、心臓が凍りついたような錯覚に陥った。

 

 下らない戯言として聞き流すことが出来なかった。単なる意趣返しや負け惜しみとも思えなかった。

 

 どうしてか分からないが、この骨の髄まで腐りきった下種の言葉が、運命を告げる予言に等しいものに感じられた。

 

「お前の末路は決まってる。独りよがりで一方通行な想いを捨てられねえお前は、最後の最後までそれに踊らされたまま終わるだけさ。運命の操り人形らしく……な」

 

 言い捨てて視線を切り、歩みを再開する久我山。遠ざかっていくその背中を、僕は何も言わず見送るしかなかった。

 

 後になって判明したことだが、この時投げかけられた言葉には一片の虚偽もなかった。

 

 奴は僕以上に御神本怜という人間を知り、御神本怜の人格が抱える歪みを知り、その行く末に待つものを知り抜いていた。

 

 ある意味で奴は、僕と同じ穴の狢だったから。

 

「雑魚のくせによく喋る。いや、雑魚だからよく喋るのか。どっちにしろつまらん奴だね」

 

 久我山の姿が道の向こうに消えると、楊は呆れた様子で言った。

 

 そこで僕は現状を再認識し、数歩後退する。

 

 久我山は去ったが、まだこの得体の知れない男が残っている。気を抜いてはいられない。

 

「そう警戒しなくていいよ。僕は君達の敵じゃない。今のところはね」

 

 楊は右手を上げ、持っていた黒い懐中時計を見せてから、耳慣れない単語を発声した。

 

「帰胎還現」

 

 僕が〈虚夢の黒薔薇〉を得た時と同様――いや、その巻き戻しのような現象が起きた。

 

 黒い懐中時計が形を失い、膨大な文字と複雑怪奇な数式の羅列と化して飛散。空中を高速で旋回しながら、再び一点に集束し結合。典符と呼ばれる黒いタロットの姿に戻り、表をこちらに向ける形で楊の人差し指と中指の間に挟まる。

 

 表に描かれた寓意画は、天空に浮かぶ車輪と、四隅に配された有翼の聖獣。

 

 上部に記された数字は「10」。下部に記された文字は「WHEEL of FORTUNE」。

 

 大アルカナの十番、〈運命の輪〉だった。

 

「典符が武器化した状態を虚装形態と呼ぶんだが、虚装形態は持ち主が今と同じ発声をすることで解除出来る。やってみなよ」

 

 今この場で交戦する気はないから武器を収めろ、ということらしい。

 

 僕としても穏便に済むならそれに越したことはないのだが、ここで大人しく従うのは抵抗があった。丸腰になった途端、楊が態度を一変させて襲いかかってくるのではないかという懸念を抱いたからだ。

 

「僕が君を殺す気なら、君はとっくに死んでるよ。それにもう魔力切れだろう?」

 

 確かにその通りだった。先程から僕はこの男に隙を晒してばかりで、労せず殺せる機会などいくらでもあったのだろう。

 

 魔力も既に空。全身虚構化は解けており、この先数時間は魔法を一切使えない状態だ。

 

 今襲いかかられたら、もうどうしようもない。

 

「きたい……かんげん……」

 

 仕方なく解除の言葉を呟くと、右手の薬指に嵌っていた指輪は元の〈愚者〉の典符に戻っていった。

 

 楊は薄く笑い、姿勢を正す。

 

「では改めて、自己紹介といこう。窮神学協会辰木島支部祭務員、楊志偉だ。よろしく」

 

 フルネームと一緒に肩書きも告げられたが、その団体名と職名は僕の知識の中にないものだった。

 

 どう応じるべきかと迷った後、一応の礼儀としてこちらも名乗る。

 

「……御神本怜です」

 

「知ってるよ。君達姉妹の情報は大体頭に入ってる」

 

「……だと思いました。それなら、楊さん……あなたにいくつか質問したいことがあります」

 

「ははっ、随分と硬くなってるね。まあ、あんな中年男にいきなり襲われた後じゃ当然か」

 

 警戒心が露わな様子に理解を示しつつ、楊は僕が持つ〈愚者〉の典符に視線を落とす。

 

「質問には可能な限り答えるよ。……だがその前に、質問することが増えそうだね」

 

「え……?」

 

 意味深な物言いに疑問符を浮かべた時、背後から鞘香の声が聞こえた。

 

「え……な、何……? きゃあ!」

 

 振り返ると、地面に座る鞘香の前に眩しく発光する物体が落ちていた。

 

 何事かと思い凝視すれば、その正体は典符だった。

 

 あの地下空間で〈愚者〉と〈死神〉の典符を見つけた時、鞘香は〈死神〉の方を手に取っていた。手放す間もなかったため所持し続けていたその典符が、何故か突然光を放ち始めたらしい。

 

 光の色は深紅。迸る鮮血じみたその光は周囲を赤々と照らした後、一条の細い光線となって斜め上へと伸び、鞘香の胸元に命中した。

 

「わっ……! ああっ……!?」

 

「鞘香!?」

 

 同時に声を上げる鞘香と僕。最悪の想像が脳裏をよぎったが、幸い攻撃の類ではなかったようで、鞘香の身体に外傷は生じなかった。

 

 深紅の光線はすぐに消え、無傷のまま呆然とした鞘香が残る。僕も状況に理解が追いつかず、何も出来ないまま立ち尽くす。

 

 混乱した頭で、今のはいったい何だったのかと考えた矢先――

 

『契約完了』

 

 地面に落ちていた典符が、機械的な音声を発した。

 

『第十三番典符〈死神〉の契約者として、御神本鞘香を認証。契約に従い呪縛を施し、解除の条件を告げる。窮神祭儀期間内に自身以外の参加者を三名以上、自身の手で殺害せよ。期間内に条件が達成されない場合、契約者に死の罰を与える』

 

 何かの条文を読み上げるように伝えられたそれは、僕の精神に激震を与えた。

 

 世界という足場が崩れ、自分と鞘香を含めた全てが暗闇の奈落に呑まれていく様を幻視した。

 

『繰り返す。窮神祭儀期間内に自身以外の参加者を三名以上、自身の手で殺害せよ。期間内に条件が達成されない場合、契約者に死の罰を与える』

 

 解除の条件とやらを二度繰り返し、一方的な通告は終わった。

 

 鞘香は大きく目を見開き、酷く青褪めた顔で僕を見る。

 

「な、何……? 何今の……? 何だったの!? ねえ!?」

 

 問われても、答えられない。今の通告の意味が理解出来なかったからではなく、ある程度だが理解出来てしまったために、怖くて答えられなかった。

 

 それは僕にとっても、世界の終わりに等しいくらい絶望的な意味だったから。

 

『契約完了』

 

 再び聞こえた、機械の声。視線を落とすと、僕も今しがたの鞘香と同様、深紅の光線を胸元に受けていた。

 

『第零番典符〈愚者〉の契約者として、御神本怜を認証。契約に従い呪縛を施し、解除の条件を告げる。窮神祭儀期間内に第二十一番典符〈世界〉を入手せよ。期間内に条件が達成されない場合、契約者に死の罰を与える』

 

 お前も逃がさない。平穏な日々など与えない。

 

 禍々しい光を放ちながら無機質な音声を発する〈愚者〉の典符は、言外にそう言っているかのようだった。

 

『繰り返す。窮神祭儀期間内に第二十一番典符〈世界〉を入手せよ。期間内に条件が達成されない場合、契約者に死の罰を与える』

 

「こ……れは……」

 

 理解したくない。受け入れたくない。

 

 けれど、もう理解してしまった。意識の中の冷静な部分が状況を受け入れてしまった。

 

 典符が発した音声は明瞭で、通告の内容は明確で、誤解や曲解の余地はなかった。

 

 これから何をやれと言われているのかと、それを拒めばどうなるのかが、これ以上ないほどはっきりと分かってしまった。

 

「呪縛が発動した。これでもう、君達は祭儀から逃げられない」

 

 僕の理解を裏付けるように、楊は淡々と言った。

 

「勝ち残って呪縛を解くか、呪縛を解けずに死ぬか、他の参加者に敗れて死ぬか……待つ未来はその三つのどれかだけだ。棄権や逃亡は許されないんだよ。残念ながらね」

 

 残酷な運命を突きつける言葉。

 

 この時の僕には、それが事実上の死刑宣告に思えた。

 

 

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