平野梣さん(X:@hirano_everyday)の同人誌「WILL Part1」に寄稿した小説「716」です。
こちらの小説は、乙倉悠貴の担当Pについてや、渋谷凛との年齢差など、平野さんのオリジナル設定に準拠した三次創作です。
女子、千五百メートル、一着、背番号、七一六番──。
青天井の安っぽいグラウンドの、これまた安っぽい黄色のプラ製の椅子に細い体の体重を預けて、トラックと緑のフィールドの境目に立つその少女を見つめていた。すっからかんの客席なのだから、小学生である自分の席からも見える、だから見ている、そういう訳じゃない。あの少女の知り合いとか家族とかで、あの少女を前から応援していて、その少女が一着だったから、とか、そういう訳でもない。ただ、見入っていた、魅入られていた。
私も、ああなるんだ。
何か、今ここから見える何かに、自分にそう思わせる確実な要素があった訳じゃない。未来を知る未来の誰か、若しくは予言者のような誰かに、そう教えられた訳でもない。ただ、あの少女の姿を見ていると、不思議とそう思ってしまうのだ。
今まで散々なほど甘やかしてきた自分の肢が、脚が、腿が、脛が、滾り疼くのを感じた。
脛は第二の心臓とも言う。熱く興奮する脛からどくどくと全身に流れ出す流体が体を満たして、すぐにそれは頭まで上って、やがて体ごと包まれているような気さえするようになった。
震えている。らしくない、柄じゃない、見合わない、この体には似合わない小刻みの振動を覚えている。
全身を包む、脛から排出される何かのせいか、その震動のせいかは分からないが、これほどの灼熱を生む燦々たる太陽が雲の影一つ作らずに見えているというのに、しばらくは目を閉じられずにいた。額からにじむ汗が滴って目の近くを通るのも、普段ならびびって瞳をしまってしまうのに、今ばかりはそんなことも忘れていた。
グラウンドの彼女は、一つに黒の長髪をまとめていたゴムを取って、仲間から渡されたタオルに顔を埋めていた。
やがて競技が順序よく進行していき、その全てを終えたあとの表彰台では、七一六の番号を携えた彼女がやけに爽やかな笑顔で表彰状を見せびらかすように持っていた。
かっこいい。
少女に対して抱く気持ちや感想、その他似た言葉で表されるものなんて、たったのそれだけで十分だった。
あの少女の勇姿を見納め、背中に向けて競技場を去った。あのヒーローに毒されたか、今すぐにでも走り出したくて仕方がない。真新しいスニーカーのひもを結び直した。
*
『残念なニュースです。つい先日、結婚したばかりの……』
いちごジャムをたっぷりと乗せた焼きたてのトーストをさくっと噛んで、耳の固さと口の中で広がるジャムの甘味、酸味をゆっくりと味わいながら、寝ぼけて上手く瞳に映らないテレビを見ていた。
先日、仲の良い同級生に誘われて、あるアイドル事務所の新人オーディションを受けた。地元の岡山を離れて、その同級生とも離れて、今はこうして東京都にある事務所の女子寮で何気ない朝を過ごしている。
ここまで来るのに、驚くほど苦労が無かった。
歌は元々得意だった。躍りも人並みよりはできる自信があった。同級生に誘われたのはあまりにも急であったが、それでもこうして合格できるくらいの才能なんかは持っていた。
オーディションも、雪が融け始めた春の初めに開催されたもので、それは悠貴が中学校に入学するのとほとんど変わりない時期であった。
偶然、本当に偶然、親の仕事の都合上、夏あたりには、岡山から神奈川の方へ引っ越すことが分かっていた。親の意向もあり、東京の中学へ通うことも決まっていた。悠貴を誘った同級生も似た境遇の人物で、せっかく中学で東京に行くのだからと、憧れのあったアイドルに誘ったのだという。が、誘われて受かった悠貴に対し誘った本人が落選してしまってはつまらないものである。仕方がないかとすぐに腹をくくって、あとはあのこが二度目のチャレンジで受かってくれるのを祈るだけだと思っていたが、誘った同級生は、今回のオーディションに後悔はしていないし、また受けるつもりはないと言う。一人になってしまったアイドル生活は寂しいやとひっそり泣くこともせず、じゃあ一人で頑張ればいいや、とポジティブに捉えるのが悠貴である、同級生のそんな言葉もすぐに受け入れてしまった。
またトーストをかりっとかじって、飲み込んだあと、口の周りについたジャムをティッシュで拭う。そしてプラ製のコップについだ緑茶をぐびと一口で飲みきって、新しく一杯、緑茶をつぐ。すっきりと口内をすすぐように喉奥へ流れていく冷たさを感じて、またトーストをかじった。
ふと時計を見た。八時四十五分。今日は十三時から宣材写真の撮影があったなとふと思い出した。
やっと一枚を食べ終わって、皿とコップを片付けた。中学の陸上部の部活も無く暇だったので、部屋の片付けでもしようと華奢な脚を動かした。
朝の寝起きばかりはだらしない悠貴だが、小学四年生のころに始めた長距離走のタイムを伸ばすため、毎日五キロのランニングをしている。岡山にいたころは家を出発して直近の道の駅をターニングポイントとして一周することでだいたい五キロになると分かっていたが、東京の、事務所の女子寮から出発してどれくらい走れば五キロになるのかは分からない。岡山にいたころの感覚とよく比較しながら、だいたいこのくらいかといくつも目処をつけてみるばかりである。
今日は最寄りの駅まで行ってみることにした。
人の流れの激しいホームを見送って、元来た道とは別の方向へ、遠回りしてみようかと走っていった。寮から駅まで、感覚を測ってみると二キロほどしか無さそうだったためである。
シャッターのしまったさびれた店、一人の店員で仕込みをする定食屋、朝早くから戸を開けて客を待つ本屋。似たようなものが立ち並んでいるのだけれど、かつていた町とは明らかに違う空気が新鮮で楽しくて、どっちに曲がればいいとか、そういうことを忘れて、道路と店の間の幅広い歩道を走り抜けていく。
「おじょうちゃん、ジョギングかい? 元気だね!」
通りかかった肉屋の主人に声をかけられる。
「おはようございます! 習慣になってるんです」
「若いねえ」
この肉屋は、前に一度、自分のプロデュースとマネージメントを担当するプロデューサー、佐倉心という、その人と訪れたことがある。そのときはおやつと言って二人でメンチカツを食べたのだが、それがあまりにも自分好みの味、食感で、とても強い印象を受け、それ以来何度か一人で来ていた。
「そろそろ十時だ、うちのコロッケでも食べていきな」
「私、今お金持ってないんですよ」
「いいよそんなの。おじょうちゃん、アイドルなんだろ? 出世払いってことでさ」
「……ありがとうございます!」
「はい。そこのベンチで食べていくといい、紙袋捨てるゴミ箱もあるからさ」
「はい!」
お言葉に甘えて、主人の差し出した、紙袋に入ったコロッケを受け取ってベンチに座る。
コロッケと言えばじゃがいもであるが、その味付けやさつまいもの食感なんかは人それぞれである。こしょうを入れたり、塩を入れたり、たまにマヨネーズを入れると言う人もいる。どんなコロッケなのかと楽しみに噛みついた一口は、とても柔らかかった。
塩に引き立てられたさつまいもの優しい甘さに、こしょうが加えるわずかのスパイシーな香り、舌で転がってとけていくさつまいものペーストは、揚げたてであろう衣のさくさくとした食感と、平凡ながらも暖かみのある、落ち着いた味わいを見せる。期待通りのものだった。
「私にもコロッケ一つ」
カウンターの方から、落ち着いたややハイトーンの男性が注文する声が聞こえた。気がついて目を前に向けると、道路端に自分も何度か乗ったことのある白のプレミオが停まっていた。
「あんた、そのおじょうちゃんのプロデューサー? なんだろ、出世払いでいいよ」
「裏方も出世払いでいいんですか」
「そのおじょうちゃんが出世したら、あんたも出世ってことでさ。とにかく、金はいらんよ」
「ありがとうございます」
彼も悠貴と同様に、紙袋に入った揚げたてのコロッケを受け取って、店前のベンチの、悠貴の隣に座った。
「ここのお総菜、何でもおいしいですよね」
細い体に見合わない男物のスーツを着る彼は、これまた細い指でコロッケを袋から引っ張って、ちょっとだけ頭を出してかじった。
「はい! くせになっちゃいました」
「じゃあ、これからも通いましょうかね」
そう言って、二人でまたコロッケをかじった。さくっと衣の割れる二重の音が商店街の片隅で鳴っているのだ、そう考えると、この一瞬が何だか愉快に思えてきて、コロッケの熱さをごまかす一息とともに笑みがこぼれた。
彼は食事をするのが早い人で、あっという間にコロッケを食べ終えて、ゴミ箱に紙袋を放っていた。口を開いてこう言う。
「乙倉さん、道に迷ってませんでした?」
「……確かに、迷っちゃってたかもしれません」
「女子寮まで送りましょうか、その様子じゃここから女子寮までの道も分からないでしょう」
「はい、ありがとうございます……」
これでもう五回目だ。悠貴の若さ故の好奇心をそそるものは東京のいたるところにあって、ランニングをするたびにそちらへ惹かれてしまい、道に迷ってしまうのだ。今日はきっと、この肉屋のおいしそうな匂い。
彼の社用のプレミオに乗り込んで、東京の平坦な道路で微かに揺れる。
さすがにそろそろ申し訳ない、早くランニングのルートを決定して、好奇心やら誘惑やらに負けないメンタルを以て鍛えるべきだ、そんなことを助手席で考えていた。
*
近い内、親が悠貴の様子を心配して東京に来るらしく、そのついでに東京の観光でもどうかと、そのような旨の家族らしい簡潔な短文が白のふきだしで送られてきた。東京で働くのは父だが、まだ仕事場以外には行けていないのだという。ならば自分は仕事場以外も案内できるよう予習しておくべきだ、そう考えたは良いが、東京の名所など誰もが知る名所中の名所くらいしか分からない。せっかくなので自分の周りにある良い所をどこか見繕って案内したい。寮の仲間に訊いても良いが、折角なら自分で見つけたものを勧めたい。先日佐倉と二人でコロッケを食べた肉屋や、チーズケーキが美味しい駅前のカフェ、その他には何があるだろう……。実のところ悠貴本人も周りの環境のことなどあまり考えないで今まで生活してきたのだから、家族に紹介できる良い所もあまり思い付かないのである。そうして、何か面白いものは無いかと散歩に出たは良いが、実を言うと悠貴の興味を惹くものなどほとんど見つからない。
困ったものだと思いながらスニーカーを履いた足を進める。
そうだ、ここに無いなら隣町にでも行けば良い。東京ならお出掛けに電車は必須とも聞く、電車で隣町に行くくらいなら普通のことだろう。そう思い立ち、切符を買って乗り込んだ。
駅から出れば、その景色は大きく変わる。
駅前はどこも賑やかではあるが、寮から最寄りの駅前とここでは、田舎者であった悠貴にも分かるほどその具合が違う。ここは確かに多くの人で賑わっていた。
幅広い歩道を歩いていると、ふと鼻に当たったほのかな甘い香りに気がついた。直感的にその方向へ歩くと、それに若干の酸味が混じっていることも分かった。
その香りの発信源にはすぐに辿り着いた。
アルファベットで店名の書かれた緑と白のテントの下には、色とりどりの花が置かれている。ピンク、青、黄色。赤、白、紫。優しく太陽の光を反射して咲くその花々は美しかった。
店内に入ると、より一層鮮やかな花が並ぶのみならず、綺麗な緑の葉を持つ観葉植物やサボテン、冷蔵庫に入った大きな花などが、人一人が通れるくらいの通路をぎりぎり作っていた。
地元に花屋は無かった。隣町に行けば一軒あったが、わざわざ車を二十分も走らせてまで買いに行くほどでは無かった。バス代だって小学生には高かったものだ。つまり、悠貴にとってここは初めて訪れる花屋だった。初めての刺激にどぎまぎしながら、ゆっくりと通路を歩いて花を眺めた。
「何をお探しですか」
横から、緑のエプロンを着た女性店員に話しかけられた。
「……あ、えっと、特に探してるものは無いんですけど」
「ご家族やご友人への贈り物ですか」
「えっと……、迷ってます。今度、親が東京へ遊びに来ることになったんですけど、親の知らない所へ案内したくて、色々探してて」
「そうですか。ご家族へのプレゼントなら、イチゴがオススメですよ。花言葉は『尊重と愛情』、『幸福な家庭』。安直ではありますが、実がなれば食べられもするので」
「これは何ですか?」
「イベリスです。花言葉は『心を惹き付ける』『初恋の思い出』」
「これは……」
「オダマキですね。花言葉は『愚か』なので、プレゼントには向いていないかもしれません」
「このピンクの花は」
「これはスイートピー。『門出』『ほのかな喜び』が花言葉です」
一つ花を指差せば、その店員は丁寧にその花のことを教えてくれる。悠貴はそれが楽しくて、他に客がいないのを良いことに、何べんも花を差しては店員に説明を求めた。
「ありがとうございましたー」
「明日、また来ます!」
「はい、お待ちしています」
結局、この日は、最初に教えてもらったイチゴの花一輪を買った。明日も来るのだ、少しずつ買えば良い。そう思いながら、花を大切に抱えて揺れる電車で帰った。
この花屋に通い初めて早一ヶ月が経つ。親に花を贈り、小学校からの友人、中学で新しくできた友人と一緒に花を見て、一人で来てはあの店員と話して、その生活をほぼ毎日して、いつの間にか悠貴も花について詳しくなってきていた。それと同時に、あの店員との仲もどんどん深まっていった。
「いらっしゃいませ。今日は何?」
「花を見に来ました!」
毎日、開店直後の朝だったり、飯時の昼だったり、閉店三十分前の夜だったり、日によって時間はまばらではあるが、この会話は変わらず交わしていた。
悠貴は人との距離を縮めることが得意だった。店員の彼女と出会ってからまだ一ヶ月だが、もう彼女と私生活の話をするようになった。趣味は何かとか、最近あの曲にハマっているだとか、昨日食べたあれが美味しかったとか、そういった他愛ない話だ。彼女は自らを口下手な人間だと話したことがあるが、そんな彼女から色々な話を聞いた。彼女の雰囲気に不思議なデジャブを感じながら。
「部活は何やってるの?」
「陸上です! 小学校の時に見た中学の陸上記録会で、格好いい女の子の選手がいて、それに影響されて始めたんですけど……」
「へえ、奇遇。私も陸上だったんだ」
「そうなんですか? 競技は何でした?」
「長距離。一番千五百を走ったかな」
「私も長距離です! さっき言った女の子の選手も長距離で、いつか一緒に走りたいんです! 店員さんは大会で賞を取ったことありますか?」
「……うん、あるよ」
彼女は、若干苦い顔でそう答えた。
「もう三年も前だけどね」
苦し紛れに笑っているように見えたが、すぐにそれを隠してカウンターから立つ。
「今日は何か買っていくの?」
「えっと、今日は……」
一つ、花を指差す。四百五十円ですとの彼女の声に五枚の硬貨と「ありがとうございます」を返して、その日は花屋を後にした。
「どうして陸上をやめたんですか?」
先日の『私も陸上だった』という言葉がどうしても気になって、ある日、思いきって訊ねてみた。いきなりそう訊かれたものだから、彼女は少しの間ぽかんと悠貴を見つめ、そして口を開いた。
「……何でそんなこと訊くの?」
「えっと、今は陸上をやってない、みたいなことを前に言ってて、それが気になって」
「……足を、怪我しただけ」
彼女は、先日と同様、苦虫を噛むような顔でそう答えた。
……しまった、訊いてはいけないことだったか。
「……そうなんですね」
「本当に、それだけだよ。陸上をやめたのは」
甘酸っぱい香りに満たされた花屋の空気は少し、重苦しくなっていた。カウンターの前で立ち止まったままであるのは少し落ち着かなくて、花を一輪取って差し出した。
「今日は、これ買っていきます」
「はい、五百円です」
硬貨を一枚出して、引き換えに包装されたその花を取る。カウンターに背を向けた。
「訊かないんだね」
その声が、軽く悠貴の体を引っ張った。
「私の名前とか、学校はどこだったとか。……あと、隠してることは無いのか、とかさ」
「……あくまで、客と店員なので」
「……そ。なら別に良いけど」
彼女は、悠貴が心配していることを見透かしているらしかった。彼女のことは確かに気になる。でも、あくまで二人は客と店員の関係、それ以上でもそれ以下でもない。より深く彼女のことを、自分はまだ知るべきではないと思っていた。いつか知ることができるようになると言っても、それはたぶん、まだまだ遠い未来のこと。
「ありがとうございました!」
「明日も来るの?」
「……明日は、忙しくて」
「じゃあ、また今度。お待ちしております」
小さく手を振る彼女を背に、寂しく帰路につく。少し、彼女との仲が気まずくなった気がした。
*
『怪我の調子はどうですか』
白のふきだしで送られた、仕事仲間の男からのメッセージ。彼とはもう一ヶ月近く、顔をあわせては話していない。
『治るまでもう少しかかるかも』『病院で安静にって言われたのはあと一週間だけど、余裕を持って二週間か三週間かな』
画面をタップして文字を打ち込む。連絡についてまめな彼は、既読を付けるのが早かった。
『そうしたら復帰できそう?』
答えに悩んだ末、一度は『できそう』と打ってみたが、消した。『待ってて』とだけ送ったメッセージへの回答は、『待ってる』の四文字だけだった。
彼には本当に長い間、待っていてもらったものである。脚の骨を折る大怪我をしてからもう二ヶ月近く休んでいるが、彼はそんな自分のことを急かさないで待ってくれている。
彼への申し訳無さもあるが、今はそれより、頭の中で繰り返す過去のトラウマによる苦しみが大きかった。
ごめんとスマホに向かって呟いた。
どうして、こんなことになっているのだ。
私が何か、悪いことでもしたか。そんな記憶は一切無い。
あの時だってそうだった。不意の事故に一旦の選手生命を断たれ、次の結果への期待に応えられないまま去っていった。一度復帰しても、かつてのブランクが体感を忘れさせ、思うようにも動けなくなってしまった。周りからの期待なんてとうに失くしてしまって、人知れず消えていった。
どうしてあんなことになったのだ。何も悪いことなんてしていないのに、周りの目は期待とは真逆の、軽蔑するものになっていた。
悔しくてたまらなかった。たった一度の怪我のせいで、自分の評価が大きく下がってしまったことが。それを振り切ってかつての名誉を取り戻すこともできず諦めてしまった自分の精神が。
満月の月光が差す中で、ひっそりと枕を濡らした。
もう何度、これほどに苦しい夜を過ごしたろう。足の痛みなんてとっくにひいているのに、心はまだ痛むままだった。
この怪我が完全に治ったって、きっと、あの時と同じ結果になる。
涙ながらに頭を漂うその未来への不安が、涙の止まるのを阻害する。
もう、嫌だ。こんなに苦い涙を流すのは。
どうしようもない不安と過去の苦痛に首を絞められながら、夜に沈むように眠りについた。
ある土曜の昼、テレビにあの子が映っていた。
乙倉悠貴と言うらしい、あの子は自分と話すときと同様に、楽しそうに共演者たちとトークを繰り広げている。
私にもあったんだっけ、こんなころ。
悠貴が花屋に来なくなってから、もうどれほど経つだろう。あの時の『明日は忙しい』と言ったのが、このアイドル活動のことだったのか、または気まずくなった自分との関係を案じて、花屋に訪れるのを避けたのか、そんなことは判りやしなかったが、少なくとも、今の悠貴はアイドル活動を楽しんでいるということは分かった。
「あったわよ、こんなころ」
食べ終わった昼食の皿を洗う音とともに、シンクの方からの母の声がそう答える。
「もう二年も前だけどね」
「まだ二年でしょ」
「まあ、そうだけど」
プラスチック製のコップに緑茶を注いで飲む。
「この子、前からうちに来てた子じゃない? まさかアイドルがうちの常連だなんてねえ」
「もうしばらく来てないけどね」
「アイドルのお仕事で忙しいのよ。それにまだ中学生なんでしょ? 勉強も部活もあるんだもの、うちに来る時間なんて中々作れないじゃない」
「それはそうだけどさ、それはもう常連じゃないじゃん」
「一ヶ月も通い続けてたら常連さんよ」
「……まあ、そうだけど」
悠貴は、自分の今の身分──花屋じゃない、本当の職業、そして、今はその仕事を休んで花屋で過ごしていること──そのことを知らないようであった初めての人で、そんな人が毎日花屋に通っていてくれたことが嬉しくて、だからこそ、そんな悠貴が忙しくなって来なくなってしまったのが、少し、寂しいのだ。
悠貴に期待していた。もしかしたら、悠貴が、自分のかつての苦悩や今抱えている不安を受け止めてくれて、自分を励ましてくれる、数少ない、心を開ける存在になるのではないか、と。悠貴が花屋に通ったあの一ヶ月でそう感じ始めていたが、そう感じ始めたその日以来、悠貴はめっきり来店しなくなってしまった。何だか、悠貴に裏切られてしまったような、簡単に他人に安心を頼る自分が馬鹿らしいような、もしくはそのどちらでもない、車の通った後の草原に残った、雑草を倒したタイヤ痕のごとき不快な後味が胸の中でいつまでも残り続けているような、そんなもやもやとした煙みたいな感覚が胸の中にたまっていた。
そのむなしさを流そうとコップの緑茶を飲み干した。
「お久しぶりです!」
平日昼の花屋に、悠貴の声が響く。
「いらっしゃいませ」
冷淡に挨拶をした。
「久しぶりだね。アイドルの仕事で忙しかった?」
「え、何で分かったんですか」
「テレビで見たよ。楽しそうじゃん」
「はい! 同じ事務所の子たちがすごく優しくて、毎日楽しいです!」
「そ、良かったじゃん」
悠貴には期待しないことにした。悠貴に勝手に期待していた自分が馬鹿らしくなってきたから。勝手に裏切られた気分になっているのが、かつて自分の嫌った周りの視線に似ていたから。それらと同じ自分にはなりたくなかったから。
だから、あっさりとした答えを用意して悠貴に向かう。
「今日は、お話したいことがあって来ました!」
「何?」
だけれど、悠貴はそんな彼女の心情などお構い無しに、以前と同様の明るい態度ではつらつと話す。
「えっと……!」
両手を握って、悠貴は口を小さくパクパクと動かす。
期待なんてしていない。決して、悠貴に期待なんてしていない。だから、悠貴がこの後に何と言ったって、彼女の心の動きには関係が無い。悠貴への諦めの念を持って、その顔を見る。
「来週、陸上の大会があるんです! 見に来てくれませんか!」
顔を赤くしながら、悠貴はそう言い放つ。うつむいていたのを前に向けたその顔は、若干の汗を流していた。
「……それ言うためだけに来たの?」
「……はい、私の走るところ、見てもらいたくて」
恥ずかしいですけど、と頬をかきながら悠貴は言った。
馬鹿馬鹿しい。
彼女の心はそう呟いた。
私と悠貴は客と店員だ。それ以上でもそれ以下でもない。友達なんかじゃない。
そんなことを言ったって、私が見に行く保証は無い。もう何ヵ月も会っていないのに、今さらそんな話をされたって、あまりにも急なことで、行けるかどうかも分からないし、行くかどうかも分からない。そんな人を誘ってどうする。
ただ、一ヶ月花屋に通い続けた客と、その花屋の店員、ってだけ。陸上経験者と陸上選手ってだけで、他に接点なんて無いのに、そんな人を誘ってどうする。
彼女は悠貴に対して、期待していないどころか、ある種の失望の念を持って向かっていた。
「まあ、行けたら行くよ」
「はい、お願いします!」
悠貴はまた、彼女の気持ちを探ろうともせず、ただ素直にその言葉を受け取って答える。
「それじゃあ、今日は帰ります! 来週、見に来てくださいね!」
「行けたら行くよ」
花屋から去っていく悠貴の背中に小さく手を振った。
大会、ね。
私にもそんなことがあったな、なんて思いながら、沈み行く夕日を眺めていた。
*
この日、悠貴にとって中学で初めての陸上の大会が開かれていた。
悠貴は才能に溢れた選手だった。脚は長く、その間接はよく動き、大きな歩幅と速い回転力で男子すら颯爽と追い抜いていく。普段のトレーニングが効果したこともあるが、やはりその強さは長く強い脚にあった。
その頭一つ抜けた圧倒的な速さと普段のトレーニングによって身に付けたスタミナを持った悠貴が、部内のみならず学校から期待されることは明らかであった。大会の最後に控えた長距離走、自校の大きなテントから多くの仲間が応援してくれている。そして、同じ方向の観客席には彼女がいる。
大きく手を振った。彼女はそれに応じて小さく手を振り返す。
頑張らなきゃ。
スタートの合図に合わせて、大きな一歩を踏み込んだ。
「見に来てくれたんですね!」
大会の撤去作業も終わり、仲間と現地解散をした悠貴が彼女に走り寄っていく。
「悠貴が見に来てほしいって言ったんでしょ」
「そうなんですけど……、でも、嬉しいです」
悠貴は七一六の番号を抱えたまま、左手に一枚の賞状を持っていた。
今日の地区大会、悠貴は初めてながら二位という結果をおさめた。閉会式では、周りよりも身長の高い悠貴が目立って見えていた。
「二位、おめでとう」
「ありがとうございます! 次は一位目指して頑張ります!」
額に流れる汗をふかないまま、悠貴は元気に笑ってみせた。
本当に、馬鹿馬鹿しい。ただの客と店員の関係なのに、一方的に相手の名前や仕事まで知って、プライベートまで干渉して。相手がどんな人かも分からないと言うのに、目の前の悠貴は純粋な笑顔を見せていた。
「あのさ」
悠貴の首元を見て言う。
「どうしてそんなことするの」
唐突な彼女の言葉に、悠貴は驚いたのか、口をぽかんと開けていた。
「どうして私にそんな風にするの、私が誰かも分からないのに」
一度開いた口は止まらない。しばらく溜め続けていた彼女の思いが、その口を通してどんどんと漏れ続ける。賞状を片手に持った悠貴は何かを言い掛けようとしたが、彼女の言葉に圧倒されてしまう。
「私は悠貴のことを知ってる。悠貴が中一だってこと、誰かに憧れて陸上を始めたこと、今は部活とアイドルを両立してること、強いて言うなら好きなアイドルは渋谷凛だってこと、他にもいっぱいある。けど、悠貴は私のことを陸上やってた花屋ってほどしか知らないじゃん」
「それは……」
本当のことだった。確かに悠貴は彼女のことを全く知らない。
「何も訊かれてないもん! 名前は何て言うのかとか、何歳だとか、学校はどこだったかとか、どうして花屋で働いてるのかとかさ! 私は色々隠してる」
彼女はその心情のありったけを伝えようと口を絶えず動かす。とうとう、悠貴の言葉が入り込む余地は無かった。
「私は渋谷凛! 中学のころに陸上の都大会で優勝しても、部で嘘の疑惑かけられて、足首を怪我して引退して! 高校に入ってからアイドルになって、二年間一生懸命頑張って、やっと総選挙で一位になったのにすぐに嘘のスキャンダル報道がされて、事故で脚の骨を折って今は休んでる! 運動できるようになっても、スキャンダル報道で色々言われるのが怖くて休んで、罪滅ぼしのつもりで実家の花屋手伝ってるだけ!」
凛の精一杯、自らの事情を晒した。ヒートアップするその顔は必死そのもので、炎天下に大粒の汗を流していた。
「これが私! こんなみっともないのが渋谷凛なの! 分からなかったでしょ、事務所はどこか分からないけど好きだった渋谷凛がこんな人間だったなんてさ! こんな下らないアイドルに憧れて、こんなひどいアイドルと同じ事務所であんたは働いてるの!」
そこにもはや、悠貴への配慮なんてものは無かった、。ただ自分の思いを叫んで、それが純真な悠貴に伝わりでもすれば良いとしか思わなかった。汗を流して泣きそうになる悠貴の顔など見ないまま、凛は言葉を続ける。
「もう止めにしようよ、こんな関係。馬鹿馬鹿しいからさ……」
そう言う凛だって、今にも泣きそうなほど感情が不安定だった。今までの思いを全て伝えきったその頭を、今はぐちゃぐちゃとした何かが支配する。
後悔なんてしていない。これで悠貴との関係が断ち切れるならそれでいい。これで十分なんだ。
でも、そう頭の中で反芻しても、頭の中のぐちゃぐちゃはそれを押し潰して、凛にぼろぼろと涙を流させる。
悟られまいと、ただ一生懸命に走り去った。泣きながらその場に立ち尽くす悠貴を置いて。
*
あれから一ヶ月後、悠貴が足を怪我して一時の活動休止を発表するのと入れ替わるように、凛は見事にトップアイドルとして芸能界に復帰した。かつてのスキャンダル報道は事実無根であることが証明され、批判の先はその報道をしたテレビ局へと向かっていた。そうした現在、凛の心配することなどほとんど無く、安心して復帰することができたのだ。
でも、あの時の頭の中のぐちゃぐちゃは、まだ凛の中でうごめき続けている。
凛は行動力のある人間だった。そのぐちゃぐちゃの原因であろう悠貴の所へ行けば何かが分かるだろうと思い、自らのプロデューサーを介して佐倉と連絡を取り、自分も何度か訪れたことのある女子寮の内の悠貴の部屋番号を聞き出すことができた。
そうして今はその部屋の前まで来ていたが、いざ対峙してみるとそのドアをノックする勇気が湧かなかった。
どう話せば良いのだ。馬鹿馬鹿しいと言って自ら関係を断ったと言うのに、気になるからと自分勝手に訪ねては迷惑でないだろうか。もし会えたとして、悠貴に拒否されてしまったらどうしよう。
そんな不安も良いところにして、今はドアを叩くだけだと手を伸ばした。
「……あの、凛さん、ですか……?」
が、ノックはいらなかったようだ。
「今、お茶いれてきますね」
悠貴は足を怪我したと言ったが、それはもう完治にほぼ近づいているようであった。今は何の違和感もなく歩いている。
「どうぞ」
目の前のテーブルに、緑茶の入ったコップとお菓子が置かれた。だが、どうもそれらに手を伸ばす気にはなれなかった。
凛と向かい合うようにして悠貴は座った。
「……本当に、すいません、凛さんのこと知らなくて。今も正直、凛さんのことがあまり分からないんです。考えれば考えるほど、よけい分からなくなってきちゃって」
あわせた膝に握った両の手を置いて、悠貴は淡々と言葉を吐き出していく。凛は同様の姿勢でただそれを聞くだけだった。
「あれから、何度も、何度も、凛さんのこと色々調べて、お花屋さんで話してきたときの凛さんのことを思い出しながら考えて、考えて……。そうしたら、部活で足を怪我しちゃって、お医者さんには一ヶ月くらいは部活を休みなさいって言われて。もう都大会も近くて、アイドルの方でも大きなイベントがあって、どっちでも期待されてたのに、両方とも休まなきゃいけなくて。それで気がついたんです、凛さんの気持ち。陸上を怪我で離れなきゃいけなくなって、アイドルになっても、一位になったら期待されてたのにまた怪我して、休まなきゃいけない、それって本当につらいことだったんだって」
悠貴はまた、泣きそうになりながら、それを我慢して話し続ける。
「お花屋さんの店員さんが凛さんだって、顔見てれば簡単に分かることだったのに、気が付かなくて、そんなことも分からなかったんだって、そう思うと申し訳無くて……。それでも、考えても考えても、まだ凛さんのことが分からないんです」
やっと気持ちを伝えきることができたのか、袖でわずかにこぼれた涙の粒を拭って「ごめんなさい」と言った。向かいで聞き続けた凛は、静かにうつむいたままだった。
コップのお茶をすすって、悠貴も静かに凛の言葉を待つ。二人の保った沈黙は長かった。やがて凛がそっと口を開く。
「あんな風に言ったけど、私だって、悠貴のことはよく分からない。花が好き、友達が好き、話すのが好き、陸上が好き、アイドルが好き、強いて言うなら好きなアイドルは渋谷凛、でも、それ以外のことはあんまり分からない。……本当はさ、嬉しかったんだ。悠貴が一ヶ月もずっと毎日通ってきてくれたこと。嬉しくてさ、もっと話したくなって、悠貴なら私のトラウマだったことも受け止めてくれるんじゃないかって期待してた。でも、悠貴が来なくなって、怖くなったんだ。正直に話せる人がいなくなって。その時は悠貴に失望なんてしてたけど、それって、私が気にしてた周りの視線となんら変わりなかった。本当に……、ごめん」
凛はそのまま言葉を吐き出していく。
「本当はさ、もっと話したいんだ。悠貴と、花のこととか、陸上のこととか、アイドルのこととか、色々話したりしたい。一緒に花を見て、走って競ったりして、共演したりして、そんなこともしてみたい。もっと仲良くなりたいのに、悠貴を見てたら、何だか前の自分を思い出してきて、苦しくなってきちゃって。いつの間にか、馬鹿馬鹿しいって思ってた。……でも、それでも、悠貴と仲良くなりたい」
凛はそう言って、静かに立ち上がった。
まだまだ、言い足りないことはある。謝りたいこととか、伝えておきたいこととか、他にも色々ある。それでも、その話をするのは今じゃないと思った。伝え足りないことは、いつ来るかも分からないけれど、きっといつか来る次の機会にでも良いと思った。
「……ねえ、悠貴。走れる?」
「……はい、でも、どうしてですか?」
「走ろうよ、一緒に」
スリッパからスニーカーに履き替えて、背中越しにそう言う。「……はい!」と言う悠貴の声の後に、慌てて部屋を駆ける足音が聞こえた。しばらくしてドアの前に来た悠貴はジャージ姿になっていた。
女子寮を出てすぐ右に曲がり、しばらく直進した後、今度は左に曲がる。次の交差点まで真っ直ぐ進み、そこを曲がらず次の交差点の所まで進めば、角に公園がある。待ち合わせ場所として近所ではまあまあ有名な場所だ。
女子寮からそこまでは、歩けば二十分程度、道のりにしておよそ千五百メートルだ。
「その公園に先に着いた方の勝ちね」
スニーカーの紐をきつく結び直して、凛はそう言う。
怪我は確かにほぼ治っているし、自分の感覚ではもう走れる。だが、まだ医者に言われた安静にすべき期間ではあるし、まだ怪我してから一度も走っていない。そんな状態で競争だと言われて、悠貴は少し困惑していた。
「大丈夫、私も復帰こそしたけど運動はあんまりしてないから」
「でも……」
「ほら、始めるよ」
凛は入念にストレッチをして、走り出す姿勢に入った。それに合わせて、悠貴も慌てて同じ姿勢をとった。
よーい、ドン。
凛のそう言う声で、二人は走り始めた。
燦々と晴れた夏空の下、強い向かい風を受けて走る。アスファルトを強く踏みつけて走っていく久しぶりのスニーカーの感触に、若干の不安と興奮を覚えていた。
凛は今、自分の隣にいる。今できる精一杯の走りで、凛の姿を横目に進み続ける。
凛はとても速かった。足首が少しずつ痛む悠貴を追い越し、その姿を背に加速度をつけ悠々と走り続ける。
幸運にも、交差点の信号は程好いタイミングで青に変わった。二人は止まらずその縞模様を踏んで走っていく。凛は悠貴から逃げるように、悠貴はその凛を追いかけるように。
汗はだらしなくだらだらと二人の額からあふれ、目尻をかわして頬を伝い、顎まで滴り落ちていく。やがてその汗はアスファルトに小さな玉模様を描くと、乾いて消えていく。
みるみる内に、二人の距離は大きくなっていく。凛の背中が遠くなっていく。その背中に、悠貴はふと悟った。
ああ、あの人が、私のずっと追いかけ続けたあの少女なんだ。
走り続ける凛の背中は、七一六番のあの少女に重なる。颯爽と駆けていくその体に伴って、黒の長髪がなびく。
渋谷凛は、悠貴が憧れ追いかけ続けた一人の少女であった。目標のいちばん近くにいた少女であった。陸上についても、アイドルについても。
燃えてきた。
そのことを知った悠貴のすることと言えば、唯一つ。
あの背中を、追い越すことだ。
怪我の痛みを伴った悠貴の脚は、ゴールの見えるほど残り僅かな道で回転のペースを上げていき、やがてその速度は目前の少女のものを越える。少しずつ、少しずつ、少女の背中に近づいていく。
公園の門を通った。横には少女がいた。
二人は同時に土に混じった砂の舞う地べたに落ちるように寝転んで、切れた息を整える。広げた右腕と左手が重なっていた。
「女子、千五百メートル」
すぐ近くでその声が聞こえる。呼応して自分も声を出す。
「一着、七一六番」
「渋谷凛さん」「乙倉悠貴さん」
七月十六日の昼。曇り後雨と予報された今日の空は、眩しいほど青かった。