ブラック・ブレット8 君は泥より出て泥に染まらず   作:簑都薇

1 / 12
第三章 うそつき
ユーリャ・コチェンコヴァ


・藍原延珠、ガストレアウィルスによる体内浸食率四四.〇%。

・予測生存可能日数消費まで、残り480日。

 

 

 1

 

 

 息が吹きかかるほどの至近距離で、少女の目が驚きに見開かれ、そのまま固まる。

 焦点の合わない瞳がユーリャ・コチェンコヴァを射抜いていた。

 返り血が跳び上がって、右目の下に塗られたスペードのフェイスペイントを赤で上塗りする。

 少女の握っていた二振りの曲刀が指から力なくすり抜けて、硬い床にカランと音を立てて転がる。

 

 目の前の少女の腹部には鉤爪が深々と突き刺さっていた。

 鉤爪の根本にはユーリャの拳が置かれていた。『虎の爪(バグ・ナウ)』の名の通り、虎の爪を模した婉曲する四連長爪付きの籠手を、ナックルダスターの要領で五指に握りしめている。

 一目で致命傷と知れた。

 

 ユーリャは力任せに鉤爪を振り抜く。少女の腹がパンクファッションごと鉤裂きになり、猛獣に襲われたかのように無惨に抉り抜かれる。内臓が溢れびちゃりと血が飛散。落ち着いた色の床に血の花を咲かせる。

 脱力してこちらに倒れかかってくる失命したばかりの肉塊を、無心のうちに肩で押し返して地面に突き飛ばす。

 既に死者となっている少女は抵抗も受け身も取ることはなく大の字になって仰臥した。

 もはや起き上がることはない死人を見下ろして、ユーリャは浅く息を吐き出した。

 反復して吸い込んだ空気は、ツンとする潮の匂いに混ざって酸化した血臭がする。

 目の前の少女による異臭ではない。血液の酸化は十数分ほど経過しなければはっきりしない。

 非常灯のぼんやりした光源に当てられ、監房の開け放たれた鉄格子が鈍く光を反射する。遠雷めいた銃撃音が硬い壁面を跳ね返ってここまで聞こえてきた。

 

 ──東京エリア第三十二区洋上特別犯罪者収容刑務所。

 東京湾上に位置する『巨大人口浮島(メガフロート)』に建設された刑務所、その管制室前にユーリャはいた。

 ユーリャは恩人であり主人であるアンドレイ・リトヴィンツェフの脱獄のために、仲間と共に刑務所へ襲撃を仕掛けた。

 既に獄中にあったリトヴィンツェフとは合流し、奪還した。今頃、計画通り仲間と共に逃走を行なっているはずだ。

 ユーリャに課された使命はモニター管制室を制圧した仲間の援護だった。彼らが無事に脱出するまでの案内と、脱出に際して脅威となり得る存在の排除を行う。

 駐在していたイニシエーターは脅威の筆頭だった。それを先刻排除した形になる。

 

 ──『お主のようなイニシエーターは、きっと強くて、いつも正しい選択ができるのだろうな』

 

 不意に脳内で、今日会ったばかりの、もう会うこともないはずの少女の声が響いた。

 藍原延珠。

『呪われた子供たち』の身でありながら、一般人の中に紛れる生活を望み、その希望をことごとく打ち砕かれたイニシエーター。

 ユーリャはここにいるわけでもない少女に、かぶりを振って返答とする。

 目の前で倒れ仰ぐ死体の血化粧を見て、正しいと胸を張ってよいものか。いくら考えても望んだ答えは返ってこない。

 

「……ユーリャ、手を貸してくれッ」

 

 足元から呻き混じりの声が聞こえて、ユーリャの思考は現実に引き戻される。

 見れば目出し帽を被った仲間が、もう一人の仲間を起こそうとしていた。だが肩口に受けた刺突のせいか、うまくいかないらしい。

 もう一人の仲間の負傷は重かった。レベルⅣクラスのボディアーマーが呆気なく割り裂かれ、皮膚が無惨に抉られている。出血が多いせいで顔面は蒼白に染まっていた。

 戦闘不能なのは明白。

 訓練された軍人といえど人の域を逸脱しているイニシエーター相手の戦闘は厳しい。

 ユーリャは膝を突いて、仲間二人に手を貸す。

 

「大尉は既にこちらが奪還しました」

 

 作戦成功を意味する情報に、蒼白だった仲間の表情が瞬く間に力を取り戻す。

 

「大尉が……戻ってきた。俺たちやり遂げたんだ……ッ」

 

「この負傷ではもうあなた達は戦えません。管制室は捨てましょう。大尉の逃走までの時間稼ぎは十分です」

 

「だが問題がある」

 

「問題?」

 

 聞き返すと、肩を負傷した仲間が廊下の奥を視線で示す。

 バリケードが管制室前と、少し離れた位置にそれぞれ展開されていた。

 管制室前に設置されたバリケードはユーリャの仲間が管制室に立てこもるために使用したものだ。何か強い力で引き裂かれたように破断されている。

 対してスチール机を横に倒しただけの簡素なバリケードは、刑務官たちのものだった。

 

 リトヴィンツェフを奪還するためにユーリャの仲間がまず行なったことは、管制室を制圧し、監房を開け放つこと。

 脱獄囚を溢れさせれば目眩しにもなるし、刑務官たちの処理能力が逼迫されるためリトヴィンツェフへの追手を封じることもできるからだ。

 思惑を知らない刑務官は当然、管制室を取り戻そうと制圧をかけにきた。だが。

 

「刑務官が逃げた。二名だ。武装している」

 

 逃走した刑務官たちは、これから同じように逃走する仲間にとって障壁となる。ただでさえこちら側は痛手を負っているのだ。

 排除しなければ。

 

「私が対処します」

 

「任せる。こいつは俺が運ぶ」

 

 負傷者に負傷者を任せることに一瞬抵抗を覚えるが、彼もまた信頼のおける仲間の一人だ。

 ユーリャは踵を返して、地を蹴る。

 身が引き締まるような加速感と共に、非常灯で照らされた廊下を突っ切る。力を解放した状態での疾走は暗闇に残光の尾を引く。

 真正面から叩きつけられるような空気の壁に圧を感じながら、ユーリャは顔が歪むのを自覚した。

 捻られたような痛みが心の内側から湧き上がる。

 なぜ今になってそんなふうに感じるのだろう。

 この痛みはとうの昔に、リトヴィンツェフのイニシエーターになった瞬間に捨てたはずなのに。

 

 ユーリャの母親は十年前、疫病王リブラのウィルス散布によってベラルーシを追われ、モスクワに難民として辿り着いた。そこでユーリャを産んだが、医者も設備も足りない難民キャンプで産褥熱を理由に亡くなったと聞いている。

 当時難民を受け入れたモスクワでは、ベラルーシ難民はリブラの遅効性ウィルスに蝕まれているという風説があったから、幼いユーリャは難民キャンプで過ごすしかなかった。

 十分な物資が補給されない難民キャンプで、しかも『呪われた子供たち』であるユーリャにまともな暮らしなどできるわけもなく、飢餓の中で蹲り死を待つしかなかった。

 そんなユーリャを、リトヴィンツェフは救い出してくれた。

 それが、ガストレアの脅威に対処するための戦力としての『保護』だと知ったのは、彼らの教育を受け、理性と思考の威光を頭蓋の内側に取り戻したときだった。

 でも別にどうでもよかった。大尉が私を救ってくれたことに変わりはない。

 大尉のためならなんだってできる。

 大尉が望むことならなんだってやる。

 そのはずなのに。

 

 そのときイニシエーターの強化された知覚が、正面方向で留まる二人の気配を察知する。

 刑務官の服装。体型から男女二人とわかる。男の刑務官が非常扉を押し除け、まさに脱出する直前。生存本能の発露か、はたまた偶然か、男は勢いよく振り向き疾走するユーリャを見咎めた。

 男の反応は速かった。

 

「来るぞぉッ」

 

 男は非常扉から身を引き剥がすと、抱えていた散弾銃を構えてユーリャに照準。二個繋ぎの銃口がユーリャを鋭く睨みつける。

 敵を視認してユーリャの瞳がさらに赤熱。力をより深く解放。意識の触手が体の隅々まで届き、肉体の全てを制御できるような錯覚。心臓を中心に熱が広がり四肢まで満たしていく。

 なおも疾走を続けるユーリャの速度は視認すら危ぶまれる域に突入する。

 男が速度に目を剥きかけるも、必死に喰らいつくような形相で銃口をユーリャへと追従させる。傍らの女性刑務官が遅れて拳銃を構えるが、銃口はユーリャを捉えていない。

 

「待て。味方じゃないのかッ?」

 

「違う! こいつはッ」

 

 直後、雷鳴めいた轟音をあげて銃口が火を噴き、散弾がユーリャへと殺到──だが遅い。

 トリガーが引かれるよりも早くユーリャは跳躍。高位イニシエーター特有の極限の踏み込みが灰色の床を反動で抉り跳ね散らし、建材を吹き飛ばす。

 壁に張り付いた直後、追撃の銃弾が来るよりも早く再度の跳躍。天井へと跳ね飛び、視界を逆さのままに重力を無視し天井を疾走。

 曲芸機動に刑務官たちが恐慌に陥る。

 

「くそがッ……イニシエーターはどうしたッ」

 

 返答する義務はユーリャにはない。

 怒りを吐き捨てる男性刑務官が散弾銃を跳ね上げ、天井、恐ろしい勢いで迫り来るユーリャを睨む。ユーリャの通過位置を見定めて引くトリガー。

 高速で放たれたシェルが破裂し封入していた散弾が放射状に乱れ飛ぶ。絶望的な飛散パターンがコンマ秒後のユーリャを狙って迫る。

 だが──。

 ユーリャは刹那の所作で天井に爪を突き刺し、自身の肉体に急制動をかける。身が引き絞られるような僅かな痛みの直後、ぴたりと静止したユーリャの足先数センチ前方を抉る散弾。

 ユーリャを追従していた銃口の動きが狂う。

 その隙を逃すユーリャではない。

 刑務官がしまったと叫びを漏らした瞬間には、ユーリャは天井を蹴り男刑務官の目前へと舞い降りていた。

 

「チックショォォォ」

 

 唾棄の咆哮を上げて男性刑務官が散弾銃を放棄。サブアームの拳銃を抜き、突き出すように構えるが、もう勝負はついている。

 ユーリャは踊るように身を翻し、爪で刑務官の肘裏を突き抉る。逸れる銃口。痛覚反射でトリガーが引き絞られ、発射された銃弾はあらぬ方向を撃つ。着弾した壁がパッとコンクリ粉を噴く。

 絞り出すような呻きが閉塞空間を跳ね返る。だが続かない。

 

「グッ──」

 

 男性刑務官の喉元には既に、ユーリャが返す刀で突き込んだ爪が埋まっていた。

 乱暴に振り抜き、頚動脈を断ち切る。絶たれた動脈から滝のように吹き出す血飛沫が壁を瞬く間に染め上げる。

 と、ユーリャの背後でトリガースプリングのかすかな音。

 ユーリャの引き伸ばされた知覚時間の中で、女性刑務官がこちらに照準しているのを視界の裏側で悟る。

 思考も僅かに、目の前にある男性刑務官の背後にユーリャは滑るようにして回り込む。女性刑務官からすれば、ユーリャと銃口の間に男が壁となる形。

 銃撃を躊躇するのを感じた瞬間、ユーリャは男の背を蹴り飛ばし、女性刑務官へとぶつける。

 成人男性の体重がもたれかかり、女がたたらを踏んで背後──半ば開かれた非常扉に背中を張り付かせる。

 

 ユーリャは一切の容赦なくイニシエーターの超膂力で男性刑務官の背を蹴り付ける。

 人外の力が加わった男性刑務官の体に押されて、女が非常扉に叩きつけられ、破鐘を突いたような破砕音声と共に扉の向こう側へと吹っ飛ばされた。生い茂った丈のある草むらに女性刑務官は転倒する。

 間髪入れずにユーリャも外へ飛び出して、倒れて動かないままの女の腰へ馬乗りに。突然の重量に女が呻く。

 

 やはり蹴りだけでは死んでいなかった。まだ生きている。殺す。

 

 衝撃で剥がれた壁材が宙を舞って、扉から吹き込んだ風にゆらゆらと揺れながら落下する。闇夜を月光の梯子が降りて、ユーリャと女を照らし出す。

 ユーリャは無心で腕を引き絞り、女の胸元を、奥で脈打つ心臓を爪で抉ろうとして。

 そして極限まで引き延ばされた知覚の中で、女性刑務官の胸元で月光を反射して輝くペンダントの中身を視覚が捉えた。

 

 収められていたのは赤子の写真だった。

 栄養状態はいい。目を閉じている。眠っている。不幸とは無縁みたいな平穏そのものを切り取った写真。よく見れば目元がこの女と似ている。血縁。家族。

 母親。

 不要な情報が瞬く間にユーリャの脳内を駆け抜けて。

 自分にも──母親が産褥で死なずにいたら、一緒にいてくれたら違う現在もあったのだろうか、なんて。

 

 ── 『お主のようなイニシエーターは、きっと強くて、いつも正しい選択ができるのだろうな』

 

 気付けば、動きが止まっていた。

 

「…………え?」

 

 足元から気の抜けた声がした。ユーリャ自身かと思ったが、違う。女性刑務官が漏らした声。見上げる彼女の怯え切った目を見て、急に目を合わせるのがひどく苦痛に思えて。

 ユーリャは咎められたように目を伏せる。

 

「──そっち済みました〜?」

 

 突如、背後を間延びした声が突き刺した。

 知っている声だった。ユーリャの仲間。つまり、この女性刑務官にとっては命の危機。

 目下に倒れ仰ぐ女の表情にも緊張が再び走るのがわかった。

 

 ほぼ咄嗟の判断で、ユーリャは腕を横に振り払っていた。

 勢いで爪に付着した血液が薮へと振り散って、青々とした草地に真っ赤な血が塗られて血液の重さでしなる。

 それを、藪中に倒れたままの女性刑務官は、何が起こったのかわからない表情で見つめていた。

 ユーリャは瞑目して息を浅く吐くと、立ち上がり声の主へ振り返った。

 

「ええ。……ミーシャは?」

 

「ばっちり大尉をボートまでお連れしましたとも。なんたって私はとびっきりのいい子ですからね」

 

 胸を張って言い切る少女は全身を甲冑めいたエクサスケルトンで覆っている。

 だがもっと目を引くのは身長の倍ほどある長槍と、胴体をすっぽり隠せるほど大きな円盾。どちらも月光を受けてブラッククロームの光沢を放ち、甲冑という異装をいっそ違和感なくさせている。重量級の武器でありながらそれぞれ片手で掲げている。

 スピード特化型であるユーリャの対極に位置する純粋なパワー特化型イニシエーター。

 それがミーシャ(ミハイル)・トラヴァーだった。

 

「また褒められちゃいました。で、管制室の二人とあなたのお迎えに来たわけです。偉いでしょ」

 

 ユーリャは藪の中、足を進めてミーシャの元へ歩み寄った。藪の中で今も生きている女刑務官の存在を隠そうとしていた。

 

「偉いですね……。ニコライとアントンは負傷しました。今アントンが担いでこちらに向かってます」

 

「えぇ、ケガしたんですかあのマッチョメン。相手は?」

 

「駐在していたイニシエーターです。私が対処しました」

 

「うわーん、お褒めの言葉はいただけなさそうだなぁ」

 

 追及はない。

 ミーシャは藪にぶちまけられた血を見て、状況の終了と取ったらしい。

 

 咄嗟の誤魔化しが成功したが、ユーリャは自身の理性を疑った。

 一人見逃したところで、この指先はとうに血で汚れているというのに。振り払った血だって、今まさに奪ったばかりの命だろうに。

 心を捻られるような痛みがじくじくと内側から溢れ出すが、ユーリャは首を横に振って痛みを頭から追い出す。

 

「じゃあ早くボートに行きましょ。あの鉄臭いアジトが待ってますよ」

 

 回れ右して中庭を歩き進めるミーシャにユーリャも続く。

 所内で脱獄囚が暴れているためか、夜の帷を喧騒が引き裂いていた。

 

 騒音に混じってミーシャの矢継ぎ早に続く会話を聞き流すユーリャの心中で、延珠の声が繰り返される。

 ── 『お主のようなイニシエーターは、きっと強くて、いつも正しい選択ができるのだろうな』

 延珠。私は正しいことなど何もできていません。それどころか選択さえ行なっていない。

 それでも。

 私は大尉の道具だから。

 大尉が望むことのためなら。

 私の心臓はそのために動いているのだから。

 だから私は。

 私は──。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。