ブラック・ブレット8 君は泥より出て泥に染まらず   作:簑都薇

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第四章 The courage to trust beyond doubts
迷いの果てに①


 6

 

 

 気付けば延珠は、故郷の三十九区に足を運んでいた。

 地面は瓦礫で覆い尽くされて、粉々になったコンクリートが風に巻かれては薄く空に溶けていく。曇り空から差し込んだ光の梯子が最奥部の一角に降りて、マンホールの蓋を露わにしていた。

 そこはかつて延珠が通っていた、青空教室の『子供たち』が暮らしていた下水道の入り口だった。

 いつもは閉じられていたのに、今は乱雑に蓋が外されていた。奥の下水道から少し汚い匂いが漏れ出してきて、延珠は鼻が痛くなった。

 前に来た時はマリアという少女がマンホールの穴から顔を出して迎えてくれたが、もうそんな日は訪れないだろう。

 

 彼女たちはもういない。このマンホールの下にも、この世界のどこにも。いくら探したって死者と言葉をかわす術などない。

 生暖かい風に背を打たれて振り返ってみれば、遠く鉄橋の向こうに屹立する鈍銀色の高層建築群がこちらを見下ろしていた。

 

 目を閉じて、関東会戦のことを思う。

 ミッちゃんたちを──青空教室のみんなを奪った人たちも、あの中には居て。延珠の心の弱い部分が、戦って守る価値があるのかと疑問の尾を振ったこと。

 民警が体のいいゴミ処理だと言われて、何も言い返せなかったこと。

 それでも戦うことを選んだのは、蓮太郎が、俺を信じてくれと言ってくれたから。蓮太郎を信じて、戦った。同じ方向を向いていると確信したから一緒に戦えた。戦い続けようと、そう決めた。

 でも今それが揺らいでいる。

 蓮太郎を信じている。信じているけど。

 蓮太郎のことが、ほんの少しだけ、よくわからなくなった。

 

 どうして蓮太郎は本当のことを話してくれなかったのか。

 ユーリャは蓮太郎のことを、延珠を使い捨てにしようとしていると訴えていたが、延珠はそんなことは絶対ないと知っている。

 ただ、侵食率のことを打ち明けてくれなかったことが嫌だった。それがどう嫌なのかまでは、よくわからないでいるけど。

 延珠だって別に自分が無限に生き続けるだとかは思ってない。そんないきものはいない。『呪われた子供たち』としての寿命が、蓮太郎のそれよりも遥かに短いことくらい理解していた。だから蛭子影胤事件のとき二年以内に好きにして見せるとタイムリミットを設けた。

 だが実際の時間は、おそらく一年ほどだろう。ここまで短いとは夢にも思わなかった。

 もっと早く知っていれば、もっと蓮太郎と──。

 訳のわからない焦燥と、どうにもならない後悔と、その他たくさんの感情が小さな頭の中で渦を巻いて瞼の裏まで熱くなる。

 しゃがんだまま膝を抱え、顔を埋めた。

 

「延珠さん?」

 

 不意の声に顔を上げると、黒い制服を着込んだ少年がいた。

 一瞬、蓮太郎かと思ったが、違う。中学生くらいの少年だった。どこかの学校の制服を着ている。

 少年は延珠の顔を見るや、見てはいけないものを見てしまったような気まずい表情になり、後ずさろうとする。だが砂塵に足を取られ、転倒しかけたところを崩れた瓦礫に手をかけてなんとか姿勢を保つ。

 

「……その、大丈夫かい?」

 

 そこでようやく延珠は、自分の頬が濡れていることに気付いた。コートの袖でごしごしと拭って立ち上がる。

 鼻をすんと鳴らしてから、少年を見る。

 

「お主こそ」

 

 少年は困ったように笑うと、頬を指で掻いた。

 

「前に会ったことあるんだけど、覚えてる? ……遊園地の」

 

 追って付け足された遊園地というワードで、朧げだった記憶が像を結んだ。

 

「イホーコーザンから抜け出してきた奴か?」

 

 ぱぁっと綻んだ少年の顔を見て、当たりだったらしいと知る。

 

 記憶の中の少年はボロボロの作業着を着ていて、隣には同じく作業着の女の子がいた。

 少年の名前は小星常弘、『子供たち』の方は那沢朱理。父親の借金が返済できず、未踏査領域の鉱山で違法労働をさせられていた常弘は、あるきっかけで出会った朱理と共に脱走。鉱山お抱えの民警の依頼で蓮太郎たちは彼らを捕獲したが、事情を聞いて依頼人を倒し、二人は晴れて自由の身になった。

 

「あのときは……すまなかったな」

 

「謝ることなんてないよ。あの日助けてもらったから、多田島さんに会えて、今の僕たちがいるんだ」

 

 常弘は続ける。

 

「今は多田島さんのところでお世話になってる。あれから朱理と離れ離れになりそうだったり大変なこともあったんだけど、大勢の人の力を借りて、なんとかなったんだ」

 

 常弘は懐かしむように目を細めると、真剣な表情に変わって、延珠をじっと見据えた。

 

「あの日、お礼も言えなくてごめんなさい。ありがとうございました」

 

 目の前にある真剣な顔つきと、記憶にあるあの日の姿は重ならない。

 

「お主は、強くなったのだな」

 

 常弘はゆるく首を振る。

 

「僕は弱いから、朱理と力を合わせてなんとかしてるだけ」

 

「じゃあ、お主は頑張ってるのだな」

 

 延珠が言い直すと、常弘は照れくさそうにして、やがて笑った。

 

「朱理と一緒にいたいから」

 

「そうか」

 

 そう言い切った常弘に、なんだか眩しいものを感じて。

 そのとき、「ツネヒロ」と涼しい声音と共に角からひょこりと顔を出したのは半袖カットソーの少女だった。

 

「朱理」

 

 名前を呼ばれた朱理が常弘に表情を緩ませようとして、「あ」と延珠に気づいて後退る。

 

「あのときのやつ! ……まさかまた捕まえにきたの? もう何も悪いことしてないし、あのときだって別に悪いことはしてないから」

 

「たまたま会っただけだぞ」

 

 朱理はムッとした表情で常弘の腕にしがみついた。

 

「ツネヒロは私のだから。もう遅いよ」

 

「何が遅いの朱理……延珠さん困ってるよ……」

 

 困り果てた表情の常弘だが、されるがままといった感じで朱理に身を任せていた。

 そんな二人を見て、延珠は自ずと口元が緩む。

 

「お主たちは、本当に仲がいいのだな」

 

 二人して頬を掻いた。仕草まで似ているらしい。

 常弘がわざとらしく咳をつく。

 

「呼びにきたんだよね。何か用?」

 

「用がなくてもツネヒロに会いに来るしツネヒロの名前を呼ぶよ。……そんな目で見ないでってば。長老さん来た。おっちゃんの手伝い、さっさとやろ?」

 

 長老? お手伝い?

 意味がわからないワードだったが、聞こえてきた声で全て吹き飛んだ。

 

「延珠さんではないですか」

 

 間延びした声だった。視線を投げると、延珠より少し大きいくらいの老人がいた。

 顔は薄く日焼けしていて、大きな鼻の上にちょこんと小さな丸メガネが乗っかっている。

 延珠がよく知る人物だった。

 

「松崎の、おじちゃん」

 

 

 *

 

 

 すんと鼻から空気を吸い込めば、陽だまりの匂いがした。

 延珠が連れてこられたのは、青空教室跡からそう遠くない場所に立つ小屋だった。外から見た分にはボロボロだったが、中に入ってみれば掃除が行き届いていて、埃くささとは無縁な住まいだ。

 視界の端で「私たちがセンヤクだけど」と不服そうに頬を膨らます朱里を、常弘があたふたしながら宥めていた。

 

「朱里、いいから待とう。ね?」

 

「だって。私とツネヒロが先だった」

 

「延珠さん松崎さん、僕たちはちょっと外出てきますから気にしないでください」

 

 常弘はそう言い残すと、不貞腐れる朱理を抱えて玄関から外へ消える。やんややんやの嬌声もすぐに遠のいていった。

 

 そんな二人を見ていたら、ふと蓮太郎のことを思い出して。

 周りから見たら自分たちもあんなふうに見えているのかな、なんて。

 

「下水道の登り降りも辛くなってしまいましてね。今はここに住んでいます。どうぞ中へ」

 

 松崎の背を追うようにしてこじんまりとした居間に出る。

 壁際に立つ木象嵌のタンスは材木が剥がれて光沢を失っていたが、その上に置かれた写真立てに延珠の目が留まった。

 写真立ての中にいたのは、青空教室のみんな。簡素な仏壇の脇に置かれているものを見て、延珠はあっと声をあげた。

 

「それ、ミッちゃんの……」

 

 延珠が指差したのは白い人形だった。

 ピンクのリボンを首に留めているシロクマは、青空教室で仲良くなったミレイという少女がいつも胸に抱いていた人形だ。

 爆破テロの跡地で至る所がちぎれて中のワタが飛び出しているところを見つけて、延珠の手でつぎはぎして供えたものだった。

 もとは小顔だったのだが、下手なせいか頬のあたりが膨れてしまっていて。結局は蓮太郎の手も借りて、元はクマの丸い耳だったのが今はウサギのとんがった耳になっている。

 

「あのまま朽ちるのも偲びなく思えましてね。手元に置いています」

 

 松崎の瞳に、過去を見るもの特有の色が過った。

 見つめる延珠の視線に気づいたのか、こちらに薄く微笑んで。

 

「里見さんはどうされたんですか」

 

「蓮太郎は……」

 

 どう言えばいいか分からなくて、延珠は言い淀んだ。

 逃げ出してきたと言ったら、それも違う気がして。

 でも実際、逃げている。どうしようもなく。

 目を伏せるだけで解答になったらしく、松崎は「そうですか」とだけ漏らすと深く追求することはせず、よっこらせと座布団に腰を下ろした。

 

「いつかのときを思い出しますね」

 

 勾田小学校で延珠の正体が暴露されたとき、延珠はひとり蓮太郎から逃げ出して、外周区のコミュニティに身を寄せたことがあった。

 

「あのときも、あなたはそんな表情でここにきました」

 

 咄嗟に頬に手を当てるが、鏡がないからどんな表情なのかは分からなかった。

 取り繕うような言葉が自然と喉に迫り上がって、だが飛び出たのは全く別の言葉だった。

 

「お主は……いつかいなくなるってわかってるのに、一緒にいたいと思うのは、迷惑だって思うか?」

 

 松崎が浅く息を吸ったのがわかった。

 延珠としては随分と婉曲した表現だったが、教師には何があったのかを理解するには十分だったらしい。

 

「……とても、難しい質問ですね」

 

 松崎の浮かせた視線が青空教室の写真立てに止まる。

 

「叶うことなら、あの子達が地下から出ていくのは、幸せな理由であって欲しいと思っていました。今でも思っています」

 

「最初から、会わなければ……」

 

 会わなければ、別れなくて済む。

 悲しい思いをさせずに、済む。

 松崎はゆるくかぶりを振る。

 

「でもね、延珠さん。もう、会ってしまったんです。会わなかったらなんて、考えてもしかたがないじゃないですか」

 

 瞼を震わせて、落ち着いた瞳で延珠を見つめて。

 

「いついなくなるのかと怯えるより、今をどう過ごすのか、時間をどう使うのか。そちらを考えた方がいいと私は実践してきたつもりです。……『呪われた子供たち』なんて呼ばれてますけどね。呪われた人生じゃないって彼女たちがそう思えるように。そばにいることで、そうなるようにと」

 

「蓮太郎は、妾と戦うの、嫌がってる」

 

「里見さんに守られるのは、嫌ですか」

 

「嬉しいぞ、とっても。でも、妾だって蓮太郎を守りたいのだ」

 

 そうですか、と延珠の話をただ頷きながら聞いてくれる。

 

「では、どうして里見さんはひとりで戦うのだと思いますか」

 

「……それは」

 

 それ以上、見守るような瞳と目を合わせるのがきつくて。それさえ今の延珠にはひどく困難なことで。剥がれた視線が延珠の足元に落ちる。

 その言葉を出すのには、時間が必要だった。

 

「妾が、弱いから。蓮太郎だけが強くなって、妾だけ置いてけぼりで……」

 

 途端、目の奥がカッと焼けついて。漏れたのはひどく鼻が詰まったような声。

 

「延珠さん」視線を上げれば松崎の穏やかな瞳とぶつかって、「それは違いますよ」

 

「え……?」

 

「里見さんは、あなたが弱いからって置き去りにするような人なのですか」

 

 延珠は慌てて首を振る。

 違う、蓮太郎は。

 

「蓮太郎はただ、ひとりで背負おうとしてるだけだ。妾だって一緒に戦いたいけど、妾が傷ついたらって考えて、それが……」

 

 松崎の促すような視線に乗せられて、延珠の心の中でごちゃ混ぜになっていた言葉がしっかりと形をとっていく。

 そうか。蓮太郎は。

 

「蓮太郎は、それが怖いんだ。怖いをとってあげたいのに。妾にはそれができない。それが、たまらなく悔しくて、ものすごく嫌なのだ」

 

「里見さんが全てを背負おうとしているのが、嫌なんですね」

 

「うん」

 

 きっと、その通りだった。

 延珠が蓮太郎を信じるように、蓮太郎も延珠を信じて。二人で侵食率という大きな敵に戦ってくれると思っていた。ひとりでは挫けてしまうような絶望でも、二人手を取り合ってさえいれば戦えるんだと。

 そう、望んでいた。

 そうすれば自分は大丈夫なんだと。

 自分のことばかりで。

 

「里見さんは、大事な人を失わないようにもっと強くなろうとあがいているのかもしれませんね。

 私は、その点で言えば諦めた側の人間です。もがくのは、とても苦しいです。人は誰しも弱さを抱えているものです。でも見せたくないのでしょうね。弱さを握って、覆い隠して、そうしてひとり足掻いている」

 

「蓮太郎……」

 

 一番近くで蓮太郎を見てきたはずなのに。

 蓮太郎の強さの分だけ、蓮太郎の弱さも知っていたはずなのに。

 自分の弱さにばかり囚われていて、蓮太郎を見れていなかった。

 蓮太郎はきっと怖かったんだ。延珠がいなくなるいつかが怖かったんだ。ずっと、そんな怖いを抱えて、弱さを殺してひとりで食いしばっていたんだ。それを。自分は気づいていなかった。気持ちも考えずに酷いことを言った。

 

「蓮太郎に……会いたい」

 

 蓮太郎に会いたい。蓮太郎に謝りたい。蓮太郎の奴も変に気にしてるだろうから謝ってもらって、お返しにとびっきり過激なお願いだって聞いてもらって、それで。

 それで。

 それでおあいこにして。大好きだって伝えたい。ずっと一緒だって安心させてあげたい。一緒に戦えばきっと大丈夫だって。ひとりじゃないんだって。

 この想いを伝えたい。

 

「心は決まったようですね」

 

 松崎が柔らかく微笑んでいた。

 延珠はうんと頷いてみせる。心の最奥は確かに針路を決めていた。

 

「妾、いかなきゃ。蓮太郎に会いに」

 

 安堵の頷きが返ってきて。

 延珠の足は自然と動いていた。

 体当たりするみたいな勢いで玄関に飛び出して、そこで忘れ物をしたように居間を振り返り、松崎を見る。

 

「妾も、みんなと会えて良かった。悲しいこともあったけど、でも! 楽しかった」

 

 呆けたような松崎に、延珠は満面の笑みで返す。

 

「呪われてばかりじゃなかったのだ。──おじちゃんのおかげだ!」

 

 松崎がハッとした表情を見せる。

 瞼が震えて、何度か閉じて、鼻が皺くちゃになって、それらはやがて穏和な表情に溶けていった。

 それが涙を押し留めるのに必要な時間だと知っていたから、延珠は待った。

 

「私こそ、ありがとう。あの子達といてくれて。ありがとう」

 

「うむ。では行ってくるのだ!」

 

 延珠は扉を軽々と押し開けて、昼空の光の中へ身を投じた。

 

 

 *

 

 

 不思議な気分だった。

 細かく砕けた瓦礫で白い絨毯みたいになった地面に足を蹴り付けて、延珠は飛び跳ねるように走る。

 今までになく足が軽い。

 どこをどう進めばいいかが手に取るようにわかった。

 延珠の小さな体の中に大きな何かが渦巻いて満ちて、進む先を教えてくれていた。

 

 考えているのは蓮太郎のことだった。

 

 延珠の心が絶望の淵で悲鳴をあげたとき、蓮太郎はいつも引っ張り上げてくれた。

 だけど蓮太郎もまた絶望の谷底にいた。

 じゃあどうするか。そんなの、やることは一つだ。引っ張り上げるんだ。大丈夫だって声と一緒に。

 谷底で二人悲しみに暮れるのではなく、陽の光降り注ぐ地上で二人笑い合っていたいのなら。

 

 鉄橋にさしかかったとき、突風が延珠の横を通り過ぎる。波打つツインテール。

 ふいに背後に出現した気配に、延珠はさっと振り向き。

 そこで、腹部を貫く圧迫感に目を見開く。

 鈍い動きで視線を上げれば、鼻先すれすれに銀長髪の少女の顔が浮かんでいた。瞳を真っ赤に染め上げ、突き出した拳が延珠の土手っ腹に突き刺さっていて。

 

「ユーリャ、なんで」

 

 かろうじて出たのは掠れた声。

 返ってくるのは凍りついた瞳。張り詰めたような無表情。

 

「ごめんなさい延珠……ごめんなさい。でもわたし、私は、大尉の道具なんです」

 

 ふっと体が底なし沼に沈み込む錯覚。

 意識が落ちる間際、無表情の裏側にユーリャが隠したものに、延珠は気付いた。

 

 

 *

 

 

 耳元で電話のコール音が鳴り続ける。

 しばらくして不通を知らせるアナウンスが流れ、蓮太郎は空っぽな心のまま機械的な動作でもう一度だけコールをかける。

 普段から座り心地が悪い天童民警事務所の応接ソファは、今の蓮太郎には電気椅子と等しかった。

 

 どこをどう歩いて辿り着いたのか覚えていない。

 ただ地面の水平が失われたような、あるいは背骨が引き抜かれてしまったような錯覚の中にいた。鉛のように重くなった頭、視界が歪んで、行き交う人にぶつかってしまっては舌打ちされたが、すぐに怯えた視線が返ってきた。自分の現状を思い出して納得した。戦闘で血塗れだったから、感染者が動き回っていると思われたのかもしれない。通報もされたかもしれない。

 だがそんなことはどうでもよかった。

 そうして辿り着いた自宅には当然延珠の姿などなく。

 蓮太郎の意識が次に現実と波長を合わせたときには事務所にいた。

 

 鳴り続けるコール音が、蓮太郎の意識を現在にかろうじて縫い付ける。

 瞼が重い。平衡感覚がぼやけて天地を見失い、体が奇妙な傾斜をとっていた。

 顔に力が入らなくて、無表情になっているのを自覚する。力が入らないのは顔だけじゃない。

 のろのろとした動きでガラステーブルに手を伸ばし、一枚の紙をとる。自宅に寄った折に持ってきたものだ。

 それはいつか読まされた誓約書だった。

 延珠の下手くそな字で『一人で敵に向かっていったりしない』『なんでも二人でする』などの条項が並んでいる。

 どちらも破ってしまった。

 このぼろ紙にはもう意味がない。蓮太郎が意味を捨ててしまった。

 延珠は去った。蛭子影胤テロ事件のときと同じように。

 だが決定的に違うのは、蓮太郎が延珠を欺いてしまった点だ。もう、延珠は戻ってこないのではないか。

 

 落ちていく思考が、もう通話をやめろ無駄だと訴える。

 ぼうっとする頭で従おうとして。

 そのとき、コール音が途切れ、蓮太郎は驚愕に目を見開く。

 繋がった。

 

「延珠かッ? ああ、よかったッ。今どこにいるッ?」

 

 気付けば身を乗り出していた。

 反応はない。

 蓮太郎は慎重に言葉を選んで、出来るだけの自制心を働かせて声を落ち着かせる。

 

「……延珠、お前と話したいんだ。いいか?」

 

 鼓膜を撫でる細やかな呼気から、怒っているわけではないことがわかる。無視しているのか。ことの次第を考えれば当然と言えたが、そうじゃないと蓮太郎の直感が告げていた。

 なにかおかしい。

 

「延珠? 聞いてるのか? 延、珠……?」

 

 不意に蓮太郎の脳内に嫌な予感が込み上げてくる。

 電話の向こうにいるのは延珠ではない。ならば誰だというのか。

 いや、決まっている。

 根拠などなかったが、蓮太郎には誰なのかわかった。

 

「おまえ、……ユーリャ、なのか…………?」

 

 電話口の向こうで息を吸う音。

 

「延珠は」電話越しでも、冷え切った声音だった。「延珠は今、私のもとにいます」

 

 頭が真っ白になった。

 

「延珠は、無事なのか」

 

「それはあなた次第です」

 

「…………」

 

「これ以上邪魔すれば、あなたは死体と再会することになる」

 

 乱暴に通話が打ち切られ、不通音が耳元から滑り落ちる。落下した端末が音を立てて床を跳ねる。

 無音の事務所に口蓋を撫ぜる掠れた呼吸音。

 打ち消すような心臓の怒号に、蓮太郎はようやく事態を理解する。

 

 

 延珠が…………攫われた?

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