ブラック・ブレット8 君は泥より出て泥に染まらず 作:簑都薇
3
「ユーリャ、……ユーリャ……ッ」
肩を強く揺すられて、意識がゆっくりと浮上する。
重い瞼を開けると急な光に網膜が刺激を受けて、思わず目を細めた。
「話聞いてますー?」
ぼやけたピントが合うと、真正面の座席から身を乗り出してミーシャが不満そうに唇を尖らせていた。
「すみません。疲労をとっていました」
「わ、私のスペシャルなお話が疲れると……ッ?」
「………………違いますよ」
目を逸らすや否や、ユーリャの体に横へ持っていく力が働いて上半身が揺れる。
止まったのだ、この車両が。
向かい合わせの形でそれぞれ伸びる長座席の中央で、ユーリャはシートベルトを着けずに座っていた。ユーリャを挟むようにして仲間が詰め込まれているので息が苦しいが、表には出さない。
すぐに車は再発進する。東京エリアの交通量はロシアと違って多いらしい。
「ミーシャは無駄口が多すぎる」
ミーシャが声の主の方へ、大袈裟に首を回して睨む。
「私のどこに無駄があるって言うんですかー? 私はフィジカルもメンタルも特別なんですが?」
まず目が行くのは茶と黒で二分する膨れ上がった鳥類の両翼。閉じた両翼から覗くクリアブラックに輝く両腕は軽量バラニウム合金の義手。本来腕となるべき部位が因子の影響を受けて変異し、ヒトの腕は消失したのだ。テクニカルな動きを可能とするために彼女は義腕を接続していた。
「装備を無駄に持つし、なにより存在を構成する情報の九割が無駄」
「んだとぉ……! 残りはッ」
「残った一割は装備。私が有効に使う。売ってお金に変える」
「結局私成分ぜんぶ無駄って言ってるじゃないですかッ。抜け毛が多いくせに。育毛剤買い漁ったって治りませんよそれッ」
「羽が落ちることを抜け毛と表現するのはやめて」
スンとした表情でサーニャが両翼を自身を抱くように深く閉じる。
ミーシャがわざとらしく咳を吐いてこちらに振り向いた。
「まあいいです。それより、なにかあったんですか? 疲れるようなことが」
「…………いえ」
「これは言外に、『お前との会話が疲れるんだよ、ミーシャ坊ちゃん』と言っている」
「そう思ってるんですかッ?」
「いいえ。ミーシャとのおしゃべりは任務中以外でなら良い息抜きになります」
「まあ当然ですよね。私は特別なので。出る言葉もスペシャルになってしまうんですよねー。もっと褒めても良いんですよ」
にへら顔で首をすくめるミーシャに、ユーリャは追従笑いをこぼす。
だが微笑みの裏では思考の渦があった。
昨夜から延珠の声がへばりついていた。
延珠のことを考えるからそうなるのだと思って、考える余地がなくなるほどの情報を得ようとした。最初はそんないい加減なきっかけだった。仲間のマックスの手を借りてIISOの記録をコピーしてもらって。
そこでユーリャは目を疑うものを見ることになった。
返ってきたデータに記されていたのは──。
伝えるべきなのだろうか。
だけどユーリャは犯罪者の身の上、延珠に会うことは互いにとって不利益につながる。ユーリャの思考と理性は、もう関わるな忘れろと言っている。
でもあの数字は、看過できない。
私はどうしたら……。
「見えてきました」
そのとき仕切りの向こう側、運転席に座っていた仲間がこちらに振り向く。
「ミーシャ。そろそろおしゃべりは終わりだ」
ミーシャにだけ隣の仲間、マーク・メイエルホリドが注意する。
「はい。マーク」
先の喧騒は水を打ったように消えて、ミーシャが開けっぱなしだった口を閉じた。
ユーリャは窓ガラスを見上げる。
横滑りするコンクリート・ジャングルの一画、一際丈のあるビルがあった。
マークはシートベルトを外して立ち上がる。
「作戦開始だ。気を引き締め直せ」
車内にマークの声がよく通った。
「司馬重工本社ビル──ここに大尉の求める最後のパーツがある」
*
「やあ」
「げっ」
エレベーターから飛び出た蓮太郎は、目の前の光景に絶句した。
ここにいるはずもない人間が目の前にいて、他人の空似を疑うが、いくら注意深く見ても知っている人間で絶望しかける。
伸び放題の髪に、日光に長い間当たっていないからか青白い肌。よれよれの白衣を引き摺りながら、片手をだらしない風にあげているのは室戸菫だった。
「出会って早々ゲッとは失礼だね君。うめき声を上げたいのは私の方だよ。短い間に君の不幸面を二度も見るなんて災難だとは思わないか。おや、妙に血色がいいな。ああ、わかった。また新しい幼女を連れ込んでチュッチュしてるんだろう。このゴミペド野郎め、死ね地獄に落ちろぺっ」
「きたねーな、唾吐くなよ」
「おっと、連れ込んでるのは幼女じゃなかったな」
菫には『指輪』と『首』の件で知恵を借りるため、聖天子の滞在を開示していた。
エレベーターホールの壁にもたれて菫がにやける。
「くれぐれも国家元首に手を出すんじゃないぞ。君も天童の家で政の基本は習っただろ。聖天子を身篭らせてみろ、東京エリアは赤ん坊をどう扱うと思う? 晴れて四代目だとお祝いムードになると思ってるなら大間違いだよ」
「バッ。だ、誰が手なんて出すかよッ」
蓮太郎は口元を引くつかせた。
だいたい俺は木更さん一筋だ。……とはいえ、昨晩悶々としたものを一瞬とはいえ覚えてしまったので、口に出す勇気はない。
「だろうね。なんせ君は十歳以下の女児にしか興奮しない難儀な嗜好の持ち主だ」
「ちくしょう、会話が一回りしやがった」
邪魔になるといけないので蓮太郎はケージ前から退いて、菫のもたれる壁へと寄った。
蓮太郎は洋上刑務所から去った後、浅からぬ仲である司馬未織に協力を要請した。連絡を入れてから真っ直ぐここ、司馬重工本社ビルへと足を運んだ。総ガラス張りのエントランスでスタッフに声をかけたら、なんと顔パス。エレベーターに乗り込んで地下三階に辿り着いたとき、出迎えたのが菫だった。
以前来たときと異なり勤務時間中のスタッフが今もいるためか、空調が効いていて地下特有のじめじめとした感じはしない。
白を基調とした清潔感のある空間を、透明な強化ガラスでいくつにも区切った印象を受ける。壁まで見通せるおかげで開放感がある。
奥に覗く実験器具と白衣の菫が並ぶと、まるで今も彼女が最前線で探求を続ける研究員にさえ見えてくる。
あるいは、菫が本来いるべきなのは死者が眠るあの静かな解剖室ではなく、こういう場所なのかもしれない。
「でも意外だな。先生がこんなところにいて、しかも俺を出迎えてくれるなんて」
菫は引き攣りを起こしたような笑い声をあげた。
「何を勘違いしているんだ。私はただ箱の中のスタッフを観察して、死体になったら好みだないっそ今死体にしてやろうかと考えていただけだよ。君を出迎えたわけじゃない。私がここにいるのは未織に呼ばれたからだよ」
「呼ばれただけでこねーだろアンタ」
菫は間違いなく世界最高の頭脳の一人なのだが、天才の例に漏れずというべきか、変わった嗜好の持ち主だ。生者に見切りをつけた彼女は大学病院の地下解剖室を占領して死体と共に過ごしている。外に出ることを極端なまでに嫌い、貯蓄した食料が尽きても自ら買い出しに出ることもなく地下で餓死しかけたことさえある。
もっとも延珠の定期検診には必ず外に出るし、かつて蓮太郎が身を投じた第三次関東会戦、巻き込まれた冤罪事件のときには蓮太郎のもとに来てくれたが。
「そうでもないがね。里見くんの愚痴をタネに楽しく女子会さ。十六時間断食してでも向かう価値はある」
「女子って年齢か?」
「もう生に未練はないな?」
あまりに昏い眼光で射抜かれてギョッとする。
「殺そうとするなよな。仮にも医者だろ」
「医師免許を持っている人間の全てが命の価値を重んじるなどという幻想は捨てたまえ。資格の有無で精神の気高さは測れないさ」
そのとき廊下の向こうからパタパタと音を立てて、見知った和装美人が姿を現す。
「ここにおったん? 探したわぁ、里見ちゃん!」
草履を鳴らしながら蓮太郎の前で止まったのは勾田高校の生徒会長にして司馬重工の社長令嬢、司馬未織だ。
「よ、未織」
蓮太郎は手を軽くあげて挨拶をかわす。
と、その手をひんやりとした未織の両手に包まれた。走ってほんのり赤みが差した頬で、上目遣いに蓮太郎に微笑む。
「とうとう木更のとこ辞めて、ウチんとこ来る気になったんね!」
「悪いけどちげーよ」
「や〜ん、いけずぅ」
未織は腰をくねらせて悶える。
未織には時折りこんなふうにスカウトを受ける。蓮太郎の所属する天童民間警備会社社長である木更とはかなりの犬猿の仲で、木更への対抗意識が働いてか、やや扇情的な誘いまでするのだ。蓮太郎は未織のそういうところが非常に苦手なのだが、なかなか分かってはくれない。あと感極まるとマグナムオートぶっ放すのが普通に怖い。
断じて、嫌ってはいないけれども。
「前にも言ったけど、こぉんな美少女のあんなトコやこんなトコを好きにしてもええで? もちろん、このオプションは里見ちゃん限定や」
未織は蓮太郎の手を自身の胸元まで寄せる。ぎりぎり触れない距離で止まったかと思うと、今度は未織の整った顔が近付いてきて思わず硬直する。
「お、おい未織いくらなんでも……」
「なぁに里見ちゃん」
いくら木更に操を立てているとはいえ、こうも寄られるとドキッとする。
そこで菫が蓮太郎たちを呆れた表情で見つめているのに気付き、真っ青になる。
まずい、こんな姿木更さんに密告されたら終わる。
菫はため息は吐いて、手のひらを振った。
「ああ、蓮太郎くん。悪いが君の想像しているようなことは私はしないよ。私が熱意を注ぐのは君を幼児性愛者として社会的に抹殺することであって、順当に木更あたりと仲を深めるとかいう極めてどうでもいい事象には興味が湧かない」
「そうかよありがとよッ」
そこまでして俺を社会的に殺そうとするのはどうしてなんだ?
短い語らいで一挙に老け込んだ気さえする。
挨拶もそこそこに未織の案内に従って廊下を歩く。
未織は振袖を上品な所作で翻す。
「そうそう、実は里見ちゃんにサプライズがあってなぁ」
「なんだよ?」
「それはあとのおたのしみ♡」
「はあ?」
言うだけ言って満足したのか、未織は黄色い声をあげて「いやん。またウチと里見ちゃんの距離が近うなってしもたわ」とか言いながら身を捻る。
そうしていると分析室前に辿り着いた。
未織は振袖からパスケースを取り出すと、傍の台座にかざす。天井に取り付けられたセンサーが未織を見下ろして、大した間も無く自らガラスドアが開き道を譲る。
壁一面に巨大なモニターが広がり、その前をいくつも並んだデスクには大勢のスタッフが着席している。
確か以前訪れたときは、ここまで奥には行かなかったなと内心で思いながら感心の吐息を漏らす。
未織が振袖から鉄扇を出しざまぴしゃりと振り広げる。口元を覆って妖艶な目つきで蓮太郎を見た。
「それで頼みって?」
「ああ、実は」
どう切り出したものかと悩んでいると、菫が割って入る。
「その前に蓮太郎くん。未織には全て話しておきたまえ。話がシンプルになる」
「それもそうだな」
蓮太郎は頷いて、ことのあらましを打ち明けた。
ガストレアと意思疎通を可能とするかもしれない『ソロモンの指輪』と『スコーピオンの首』のこと。その二つがアンドレイ・リトヴィンツェフの手に落ちたこと。那須岳に出現したリブラは彼らが呼び出したものかもしれないこと。地理的制約を無視するために彼らは衛星へのリンク機能を有しているはずということ。
「それで頼みってのが、リトヴィンツェフの居場所を探してってこと?」
「そうだ」
蓮太郎は首肯して、尻ポケットからメモを取り出して渡す。
「奴ら、というか、奴らのイニシエーターの一人が無駄口の多いやつみたいでな。生存者が聞いてる場所で、アジトに関する情報を漏らしてる。……つっても、大したことじゃねーんだけど」
鉄扇をぴしゃりと閉じた未織がメモを読んで目を細める。
「うわ、なにこれ。戦場でこの子喋りすぎやろ。なんなん、『今のアジト鉄臭くって我慢ならないです……。廃車に囲まれてるのも嫌な感じですし』って。この子アホちゃう? あからさま過ぎて罠疑うわ」
「それはどうだろうな……」
ユーリャが生存者を残したことにそのアホが気づいているならあり得るが。
未織がコンソールを指で叩くと、蓮太郎の前に眩い光が飛び込んで思わず目を細める。
蓮太郎たちの前には投射されたホログラムが東京エリアの概形を形作っていた。
「リトヴィンツェフが東京エリア内部にアジトを構えているって前提をまず置く。次に、この長ったらしい無駄口の端から読み取れる情報で絞り込む」
エリアの枠組みに赤い光点がいくつか浮かぶ。
「まあここらが限界やね」
蓮太郎は暗い面持ちで光点を見つめた。
ウィンドウ下部のカウントによると、全部で五十一箇所。手がかりがない以上、虱潰しで当たるしかないのか。
「なあ未織、ほとんどが外周区だけど、この辺に放棄された衛星施設とかはねえか?」
「ないよ」
「そうか……」
エリアの目が届かない外周区なら、もしやと思ったが。
と、蓮太郎の思考に疑問が浮かぶ。
「……いや待てよ、そもそも衛星施設って必要なのか? 減衰にしたって、出力を大きくすれば補えたりしねーのか?」
菫がかぶりを振った。
「なるほど、君はリトヴィンツェフがそもそも衛星を経由していないと考えているわけだね。残念ながらそれは無理だ」
「無理……? ちゃんと計算してくれ」
「いや里見ちゃん。距離は関係なく、無理なんよ」
「なんでだ?」
「送受信できるデータ量は周波数に依存する。高周波数だと大量の情報を少ない時間で送れるということだ。波のひとつひとつにデータを詰め込んでいくイメージでいい。
ただ、周波数が高いと障害物、地形や雨などの影響を強く受けて、目標受信ポイントにデータそのものが届かなくなる」
未織が言葉の接ぎ穂を拾った。
「そやからこういった場合、障害物を迂回できる低周波で送るんやけどね。それにしたって遠すぎ、障害物多すぎでまともに届かへんよ。減衰だけじゃなくノイズの問題も無視できひんやろうし、詰め込めるデータ量が少なくなってまう。受信側でエラー処理したり、複数回長時間の送信が必要になってくるやろうね」
「補足すると、低周波といっても地上直通の場合と衛星のダウンリンクの場合で周波数は違うからね。衛星が比較的に高い周波数で、高速でやり取りできると思ってもらって結構だよ。まあ降雨減衰……雨雲の影響も無視できないがな」
「電波は水粒でも跳ね返されるってことでいいか」
「ああ。光がレンズで反射するように、電波も影響を受ける」
思考の網に何かが引っ掛かる。蓮太郎は顎に指を当てて目を細めた。
「じゃあ…………電波って深海にまで届くもんなのか?」
蓮太郎が深海について言及したのには理由がある。
ゾディアックは大戦時に人類の生存圏を蹂躙し尽くしたが、現在多くはその位置を掴めていない。人類の目が届かない領域にいると考えられていて、深海深くにいるのではと考えられている。
リブラは那須岳で出現が捕捉されたが、正確には太平洋側から浮上し、元茨城県を通過して栃木県最北の那須岳で停止したのだ。リブラもまた深海で身を隠していたという考えはそう外れたものでもないだろう。
なぜ深海にいるリブラを呼び出せたのか。障害物そのものである水の層のさらに奥深くにいる存在に、信号をどう届けたというのだ。
「低周波信号だろうと、深海数千メートルに送ることは簡単ってわけでもねーだろ。非現実的な超低周波信号で送れたとして、詰め込めるデータ量はたかが知れている。意味のあるデータを送るのならば、必要な時間は……」
菫が首を傾げた。
「可能かどうかでいえば可能だ。とはいえ、我々には『指輪』の詳細な情報がない。意思疎通というのも少ないデータ量で行えるものなのかも知れんし、リブラだけを呼び出せたのも信号が届く浅い領域にいたのがアレだけだったからかもしれん。
それに時間にしても、『首』と『指輪』が揃ったのは一週間ほど前だろう。十分な時間はある。不思議に思うことか?」
「…………そう、だな」
そうなのか……?
菫の説明に納得する自分がいる一方で、この引っ掛かりを放置すべきではないと感じる自分もいた。
「じゃあ音波ならどうだ。『首』が発するのは電波と音波の混成だろ? 音波は水中で減衰しにくいから、深海奥深くだろうと問題なく伝わる」
「だが衛星通信で音波は送れないよ。宇宙空間を経由するからな。……やけに衛星を選択肢から外すが、何故だ?」
「……聖天子様はリンクが行える衛星施設は一つだけだと言っていた。そこだけはありえないとも」
「確証があるのか? 第三次関東会戦の原因はヒューマンエラーだった。同じように天童家の某かがリトヴィンツェフと繋がっていて、衛星の利用を許した可能性だってあるだろう」
蓮太郎があえて思考から追い出していた可能性を突きつけられて気圧される。
押し黙っていた未織が、鉄扇を開いて優雅に煽ぐ。
「それはないナ。衛星の通信量は常にモニターされてるし、ログも残る。司馬重工は国の宇宙機関にもそれなりに関わらしてもろてるから、運用も半ば共同でやっとんのやけど、使用の申請するのってほぼ固定なんよ。使用する枠にすり替わったり、使用したのをしてないって誤魔化すんはムリ。セキュリティはウチが太鼓判押すで」
じわりと汗が滲み出た手のひらをズボンの端で拭う。
何か決定的な前提を欠いている気がする。今あげた要素以外に、必要なピースがある予感が蓮太郎にはあった。
衛星を使えば電波しか飛ばせず、電波では深海深くまで到達できない。
衛星を使わなければ地形の影響を受けて、那須岳にも信号は届かない。
では東京エリアの外、未踏査領域に飛び出し、太平洋まで向かってからリブラにコンタクトをとるのはどうだ────無理だ。東京エリアの研究所から『首』を奪ったのが一週間前。そこから未踏査領域を一週間で行き来するのは高位序列者でも絶対に不可能だ。
ピースが足りない。
菫が結論付けたように、衛星を何らかの方法で使って、電波が届く浅い領域にいたリブラを呼び寄せたのか…………?
思考が暗礁に乗り上げる。これ以上考えても進展はないかも知れない。
今は動くしかない。
蓮太郎は深く息を吐くと、未織に目をやった。
「未織。頼んでたものは」
「もちろん用意は済んでる」
未織はイタズラっぽく頬に指を押し当てて笑うと、傍の通路からボストンバックを取り上げて目の前のデスクに置く。
開けて中を覗いてみて、蓮太郎は思わず苦笑してしまう。
取り出したタクティカルポーチの中を検めると、必要なものは全て納まっていた。
蓮太郎が電話ではなくわざわざ司馬重工現地に来た理由が、装備の補充だった。
「相変わらず、俺が欲しいもんを分かってるよな……」
「当たり前やん」
こそばゆい気持ちになって振り返ると、未織は珍しく顔を伏せて後ろ手にもじもじしていた。
「お礼なら言葉でより行動で示してな」
「お、おう」
少し予想外の反応に蓮太郎は気まずくなって、デスクに視線を逸らす。
ポーチを閉じるとホルスターと共に腰に装着。シュアファイア社の軍用ライトを腰のホルスターに差し込み、試しにその場で小さく跳んで感覚に変化がないか確認する。問題ない。
こうしていると、蛭子影胤事件の夜を思い出す。
「そうだ先生、AGV試験薬って」
「ないよ」
硬い声音で否定が返ってくる。
「な、ない?」
蓮太郎はかつて機械化兵士・蛭子影胤に勝利するために、AGV試験薬という細胞を爆発的に活性化させる薬剤を使用した。ガストレアウィルスを利用した薬剤であるため、二〇パーセントという超高確率で使用者がガストレア化してしまうのだが、あろうことか蓮太郎は全て使い切ってしまった。今人の身であるのは奇跡か悪い冗談としか思えない。
「ああ。全て使ってしまったからね」
──使った?
「まあ、あったとして、四本同時に使用するようなバカにはやらん。君がガストレアにならなかったのは奇跡以外の何者でもないんだよ。奇跡は二度も起きん。お前には二度とやらん」
「まだ言うかよそれ、しつけぇな。ああでもしなきゃ死んでたんだ」
「なら次同じ目に遭った時は諦めて大人しく死にたまえ。安心しろ、君の死体は剥製にして霊安室に保管してやる。延珠ちゃんのパンツを頭に被せてな」
「死んだ後も尊厳を破壊されるのかよ俺は」
蓮太郎は口が引き攣りそうになった。
だが、わかりづらいがこれは菫の心配なんだろう。もう二度と無茶をするなと。菫には悪いが、無理な相談だ。
「まあ、その、なんだ……助かったよ。先生も早く病院に戻れよ。日光に浄化される前にな。未織、俺は行くよ。ありがとう」
告げて足早に去ろうとする蓮太郎だったが、未織が慌てて引き留める。
「もう行くん?」
「ああ。アジトの候補ももらったしな」
「待ってや里見ちゃん。これはとりあえずの暫定。警察の方からも現場の状況が回ってきとる。今は分析の最中やけど、そっちが済んだら絞り込みの条件も増える。探し回るんは、さらに絞り込んでからの方がええんやない?」
蓮太郎は勢いよく首を振った。
「でも、知ってるだろ今の状況。時間がねえんだ。俺はやるべきことをやらなきゃいけない」
菫が声を差し込む。
「落ち着きたまえ。東京エリア中を回ってへとへとなコンディションで、リトヴィンツェフと立ち回れると思ってるのかい?」
「そ、それは……」
ユーリャの序列は元七十七位。延珠と同じスピード特化型で、おそらく延珠以上の速度を持つ。
蓮太郎は左目を手で覆う。
この手の下には菫から授かった『二一式
「一人で焦るな、蓮太郎くん」
菫が宥めるように肩に手を置き、分析室の奥へと踏み入れていく。全ての分野が専門分野だと豪語する彼女も助力するらしい。
それを蓮太郎はしばらく黙って見ていた。
今の俺にできることはないのか……?