ブラック・ブレット8 君は泥より出て泥に染まらず 作:簑都薇
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立ち並ぶ煙突から噴き出た白煙が、青空に溶けるようにして流れる。
吹き込む風が汗と共にサマーコートの端を掴んで揺らす。
目を細めて涼しい風に身を委ねながら顎を跳ね上げると、漆黒の巨板モノリスが雲を貫いて天へと伸びていた。遠方にあるせいで今はその巨像も随分こじんまりとして見える。
ずきん、と鋭い痛みが延珠の頭蓋を走り抜ける。
モノリスから発せられる磁場はガストレアと『呪われた子供たち』にとって毒になる。
長時間晒されれば死、短期間でも体調不良は免れない。この距離で影響を受ける者はそうそう聞かないが、体質の問題かもしれないとユーリャが言っていたことを思い出す。
最近は影響を受ける距離が目に見えて長くなっているような気がする。
「気分悪いの、延珠ちゃん?」
柔らかい声に振り返ると、ふんわりカールボブ少女が心配そうに延珠の顔を覗き込んでいた。
控えめに閉じた目で人見知りの激しそうな少女は比恵田百花という。転校してきたばかりの延珠を気にかけてくれる優しい少女だ。
延珠は外周区発電プラントへ社会見学に訪れていた。
小学校からここまで延珠たちを運んできたバスが、百花の背後で移動している。どうやら生徒を掃き出し終えたらしい。
延珠は心配を吹き消すように、にんまりと笑ってみせる。
「平気なのだ。なんでもないぞ」
「そう? 集合かかってるから、はやく行こ」
百花に手を引かれるかたちで延珠は広場へ向かった。
広場には既に生徒たちが集まっていた。ガヤガヤと友人たちと騒ぐ生徒もいれば、それを注意する声も響いていて。それぞれのクラスの列に加わって、整然と並んでいく。
ふと、生徒の数が多いことに気付く。
延珠の学年は四つのクラスに分けられているが、列の塊が倍ほどあった。二学年合同なのかもしれない。
延珠も自分のクラスの列を見つけて、列に加わった。
整列が完了すると、体育座りに移った生徒たちの前に大人たちが並ぶ。
中には身覚えのある中年女性も混ざっていた。延珠の担任の八柄だ。
八柄はキッと睨め付けるようにして延珠たちの列を視線で射抜いていた。整列が遅れたことを指導したいのかもしれない。
視線に刺された瞬間、女子生徒たちの間に冷たい緊張が走るのを延珠は知覚する。
百花から聞いた話では、八柄は都合の悪い女子生徒をガストレアウィルスのキャリアだとしてIISOに送りつけているらしい。たとえ『子供たち』でなくとも、一度そういった疑念を抱かれると、もう小学校には居られない。
彼女たちは整列のせいで自分も追い出されるのではないかと怯えているのだ。
だが延珠は彼女たちとは別種の悪寒を感じていた。
延珠が『子供たち』であることを、百花もクラスメイトも知らない。知られてはいけない。
かつて通っていた勾田小学校とは『子供たち』に対する感情の濃度が違い過ぎる。こんなところでバレでもしたら。
延珠は、人に囲まれていてなお孤独に陥ることもあるのだと学んだ。
──『辛くなったら思い出して欲しい。あなただけが苦しい思いをしているのではないと』
延珠の脳裏でユーリャの声が再生された。
身分を隠して小学校に通う『子供たち』は延珠だけではない。孤独に耐えているのも延珠だけではない。
だから、延珠はきっと孤独じゃない。
大丈夫だと自分に言い聞かせていると、スタッフが壇上にあがった。
スタッフは簡単な挨拶をして、施設の目的だったり重要性だったりを授業していく。小学生の興味を引くために時折り冗談を混ぜて、ノリのいい生徒がノって笑いが溢れる。
延珠はずっと上の空で、説明を聞き流していた。
所在なさげに右手首を撫でると、指先に凹凸と共にメッキの感触が返ってくる。
延珠の右手首にはシルバーのブレスレットが嵌っていた。『天誅ガールズ』の劇中アイテムで、蓮太郎と一緒に買った……というか、延珠がお金を出して買った思い出の品だった。
本当はペアリングなのだが、蓮太郎の分は惜しくも壊れてしまった。でも延珠としてはやはりお気に入りアイテムでもあるわけで、仕事のとき以外はこうして折を見て着けていた。
考えているのは蓮太郎のことだった。
蓮太郎は力が必要なときは呼ぶと確約してくれたが、本当に呼んでくれるかは怪しい。
関東会戦で置いてけぼりを喰らったのは、延珠にとって結構なショックだった。
隣で戦ってくれると思っていた。隣で戦うんだったら、アルデバランだとかガストレア二千体だとか関係なく絶対勝てると思っていたから。不安がなかったわけではないけれど、蓮太郎なら、蓮太郎と自分が一緒なら大丈夫だと信じていたから。
やはりティナとの戦いで敗北したせいだろうか。
自分が弱いから、置いてけぼりを喰らったのだろうか。
冤罪事件だってそうだ。
延珠は逃亡中の蓮太郎が死んだと聞かされたとき、全く信じていなかった。
IISOでマッチングの待機をしているときも、今に蓮太郎がやってきて、力を貸してくれと手を差し伸べるに違いないと思っていた。
でもいくら待ったって蓮太郎は来なかった。いよいよ新しいプロモーターに引き合わせられる段階になって、もしかして本当に蓮太郎は死んでしまったのではないかと怖くなった。
そんなときに木更がやってきて、ひとりで全部片付けたらしい蓮太郎が帰ってくるのを迎えに行って。
いやちがう。一人で片付けたわけじゃない。
延珠が知らないところで、蓮太郎があるイニシエーターと道中を共にしたのは後になって知った。その少女は既に敵の凶弾によって斃れたことも。
悲しいこと辛いことが起こったに違いないのに、蓮太郎は涙一つ流さずに、「一緒に墓参りに行ってくれ」とだけ延珠たちにお願いした。
あのとき蓮太郎はきっと、涙を流していないだけで泣いていた。
何も言ってくれないのは、何も背負わせてくれないのはやはり──自分が頼りないからなのか?
思考が暗がりに行ったとき、スタッフの施設説明が終わり、八柄教諭が代わって壇上に登った。
八柄が厚ぼったい唇を開いて。
そして、延珠は電撃に貫かれたように目を見開いた。
「──本日の社会見学は勾田小学校の方々も参加されています。あなたたちも当校の生徒として恥ずかしくないように、言動にはくれぐれも──」
ハッとして視線を横に投げると、いた。
延珠の列から三つ挟んで隣に、見覚えのある小学生が大勢並んでいた。
極短髪で頭の形がくっきりわかる少年を視界に収めたとき、延珠は喉が引き攣りを起こした。
──『気持ち悪ぃんだよ。人間のフリすんなよッ』
──『黙れ化け物!』
脳裏を爆竹が爆ぜるような勢いで、過去にかけられた怨嗟の声が噴き上がる。
それを延珠に向かって吐き出した、かつて延珠が通っていた勾田小学校の生徒たち。彼らがそこにいた。
「──これから自由行動ですが、スタッフの方の迷惑にならないように」
八柄がそう締めくくった瞬間、延珠の足は驚くほど俊敏に地を蹴った。
「延珠ちゃんッ?」
隣で体育座りしていた百花がびっくりした声を上げるのを背中で延珠は聞く。
だが無視する。八柄の声でのろのろと動き出すクラスメイトたちの間を縫うようにして延珠は走る。力は使っていなかったと思う。
心臓が跳ねる。心臓までもが一刻も早くこの場から逃げ出したいと叫んでいた。
なんで。
クラスメイトの森を抜け出し、通路を前のめりになって走り続ける。延珠の心の底から沸いたのは理解不能の叫びだった。
なんで、逃げなきゃならないのか。
クラスメイトだったのに。
友達だったのに。
あんなに一緒だったのに。
展示用スペースの一画に辿り着いた頃には、延珠は肩を上下させて荒く呼吸をしていた。
壁に背中を擦り付けて、ずるずると崩れ落ちた。抱えた膝に顔を埋めるようにして俯いた。
逃げ出したくて一人になったのに、いざ一人になると暗い思考が触手を伸ばし始めた。
極短髪の少年は、蛭子影胤事件のとき、『子供たち』だとバレてしまった延珠を拒絶したクラスメイトの一人だった。
別に彼は悪い男子じゃない。クラスメイトとして一緒に笑い合ったし、くだらないいたずらをされてやり返したりして、そんなたわいもない関係で。
嫌いなんかじゃなかった。
いいところだっていっぱい知っている。
だから、悪いとするならば──
あまりに弱り切った結論が出てこようとして、ハッとする。
ああ、これは誤魔化せないな。自分が思っていたより、これは重症だ。
「なんだ。妾、弱いじゃないか……」
頭が裂けそうな激痛が走る。きっとモノリスが近過ぎるせいだ。溢れた涙もきっとそう。
「──延珠ちゃん……?」
百花の声ではなかった。聞き馴染んだ、もう聞くこともないと思っていた声に、延珠は硬直する。
恐る恐る顔を上げると、くせっ毛の強い少女が延珠を見つめていた。
「……舞、ちゃん」
勾田小学校時代の親友が、延珠の前に再び現れた。
「やっぱり延珠ちゃんだ。よかった。……あのね、わたし。わたしね、ずっと──」
もう逃げられない。
耳を塞ごうとして、そこで延珠はようやく舞の様子に気づいた。
舞は唇をきゅっと引き結んで、今にも泣きそうな目をしていた。
「ずっと謝ろうと思ってた。ごめん延珠ちゃん。本当に大変なときに、私、なにもできなくて。しなくて。逃げて……」
舞の表情は、自分が何を言っているのか、よくわかっていないようだった。
言おうとして出る言葉ではなくて、ただ勝手に飛び出る言葉で。
つまりはそれはきっと余計なもので覆っていない正真正銘の本心で。
「おうち、わからなくて。八月は、その、大変なことが起きたから」
舞のまなじりから涙が膨れ上がって、我慢できずにこぼれ落ちる。
「生きてて、よかった……よかったよぉ、延珠ちゃん」
「舞、ちゃん……」
肩を震わせて涙をぽろぽろと落とす舞を見て、延珠の中に渦巻いていた黒い感情までもが一緒に流れ落ちるような気がした。
それは別に『謝られた』という形式があったからなどではなくて。
感情の根元で腐っていた、見捨てられたという体験が、必ずしもそうではなかったという理解からもたらされるものだった。
延珠が苦しんだように舞もまた苦しんでいて、それは裏返せば、それだけ延珠のことを想っていてくれたからこそで。ただ、同じように無力さで苦しんだだけなのだと理解したからだった。
勾田小学校の旧友たち。
みんな、嫌いなんかじゃなかった。
いいところだっていっぱい知っている。みんな、ともだちだった。
だからきっと、悪いのは延珠でも、舞でも、あの野球帽の少年でもなくて。
だからこそ舞にはもう苦しんでほしくなかった。もう、いいんだよと伝えたかった。
そんな些細なこと、なんてことないんだよと。
ひとりではないのだから。
もはや作ろうなんて思わなくても、延珠は柔らかく笑っていた。
「妾も、会えてよかったのだ」
「──あッ、ここにいたんだ。延珠ちゃん」
横から新たな声が延珠の耳朶を叩いた。
通路を振り返ると百花が足をもつれさせながら走ってきている。延珠は舞と百花に挟まれるかたちになっていた。
百花が延珠たちの前で立ち止まって、膝を手で突いて喉をひゅうひゅうと鳴らす。
「探したんだよ、もう!」
「百花、ちゃん」
「急に飛び出すからびっくりしちゃった。やっぱり気分悪いの?」
「だいじょうぶ、なのだ。妾は」
延珠は気づかれないように目元を袖で拭った。
「あれ? その子、誰?」
百花の視線が舞に滑り、舞がびくっとする。
百花はキョトンとした表情で延珠を見つめた。
「前の学校の……ともだちなのだ」
舞が小さく息を呑むのがわかる。
泣き出しそうな気配がしたが、ぐっと耐えたらしい。舞はぎゅっと目を瞑って涙を殺してから、何事もなかったように微笑んだ。
「私、舞っていうの。はじめまして」