ブラック・ブレット8 君は泥より出て泥に染まらず   作:簑都薇

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藍原延珠②

 *

 

 

「えっ。じゃあファーストシーズン八話に出てくる青果屋の娘・不離には元ネタがあるのか? 嫁ぎ先の妹端城(いもたんじょう)にどうみてもおかしい車がいっぱいあったのも? 首に変な装置巻きつけた白化粧の男も?」

 

「うん。ある映画に出てくるヒロイン役と悪役が元ネタなんだって。車も実際に作ったんだけど、そっちにお金かかりすぎて倒産寸前になったらしいよ」

 

「私、その映画見ようとしたんだけど、お母さんに止められちゃった」と百花。

 

「まあ無理もないかな。かなり過激だし。……こっそり見たけど面白かったよ」

 

「舞ちゃんずるい。見たくなっちゃうじゃん!」

 

 百花が頬を膨らませてぷりぷり怒り出す。

 奇妙なデジャブを覚える会話だが、解説役の座には百花だけではなく舞が座っていた。延珠といた頃はこんな専門的な会話はなかった記憶があるが。

 百花が胸の前で両掌をふんわり突き合わせて、もじもじと唇を開く。

 

「最近嬉しいことがいっぱい。『天誅ガールズ』のこと話せるクラスメイトってなかなかいなかったから」

 

 延珠は内心で百花との出会いを思い出した。

 だから延珠の天誅グッズを見たときあんなに嬉しそうな表情だったのか。

 

「舞ちゃんって詳しいんだね」

 

「……百花ちゃんも」

 

 延珠は二人と並んで、通路を歩いていた。

 百花と舞が顔を合わせたときはどうなるかと思ったが、百花が目敏く舞のリュックに引っ提げてあった天誅グッズに目をつけて空気が一変。人見知りの気がある百花だが、共通の話題が潤滑剤となって既にスムーズな会話になっている。

 

「延珠ちゃんって前の学校ではどんな感じだったの」

 

 百花が急に思いついたみたいな軽い口調で延珠に顔を寄せた。

 あまりに急に、それもウィークポイントを突く質問だったせいで、延珠は身を強張らせてしまう。

 赤目だとバレて追い出された──そんなこと言えるわけない。

 不審になってしまった延珠に、百花が首を傾げる。

 

「みんなに好かれてたよ。優しくて、勇気があって、みんなを守ってくれた」

 

 舞が助け舟を出してくれた。

 

「大事な友だち。今も。ずっと」

 

「舞ちゃん……」

 

「そうだったんだ。転校ってやっぱり寂しいよね。……仕事の関係で転校したんだよね。ご両親って何してるの?」

 

「えっ」

 

 延珠にとって記憶にある両親は藍原夫妻だ。でも言葉に出したくない。

 言葉に詰まる延珠を庇うように、舞が声を差し込む。

 

「お父さんが警備員をしてるんだよね」

 

「あー……そうなのだ」

 

 急に何を言い出したのかと思ったが、舞が言っているのはおそらく蓮太郎と民警のことだろう。職名には民間とつくし、業務内容にガストレア駆除が入るが、確かに警備の関係だ。

 でもどう取り繕ってもそれは嘘でしかないわけで、百花に嘘をついたことと、舞に嘘を言わせたことで延珠の心が軋む。

 

 いけない、弱気が弱気を呼んでいる。

 延珠は暗い雰囲気を振り払うように首を小さく振った。ツインテールが波打つ。

 にしてもあの蓮太郎が父親か、となんだか妙に思えて頬が緩んだ。

 絶望的に似合っていない。

 

「延珠ちゃん、どうしたの?」

 

「“お父さん”のことを考えてた。思い出し笑いだ」

 

「えー? 気になる! お父さんってどんな人?」

 

 よくぞ聞いてくれたなと延珠は胸を張った。

 

「うむ。まずなんといってもカイショウナシだ」

 

「うん? かいしょうなし?」

 

「おっぱいの木更をいつも目で追ってるし、おまけに妾よりも弱いぞ」

 

「……ダメな人ってこと?」

 

「ああ! ダメなやつだ! 妾がいないとダメダメッ!」

 

 延珠は両手でバッテンを作って唸る。

 何がおかしいのか、百花が破顔して笑みをこぼす。

 

「仲良いんだね」

 

「うむ! だが『仲がいい』の一言ではとても言い表せない仲だ」

 

 延珠は得意げにふんすと鼻を鳴らして、思い出の中からエピソードをばら撒かせる。

 

「夜は凄くて妾を寝かせてくれないし」

 

「へー」

 

「将来も誓い合った」

 

「へぇ……!」

 

 恐ろしいことに誰も突っ込まない地獄がここにあった。

 

「風呂も一緒に入って、火照ったからだを押し付けあっているのだ!」

 

「ん?」

 

 一転空気が凍りついた。

 里見家ではちゃんと体があったまるように湯船に浸かるのだが、浴槽がぶっちゃけかなり狭い。

 

「一緒だと安心できて、一緒でならなんだってできる気になる。妾は……蓮太郎と一緒にいられて……」

 

 続く言葉は飲み込んだ。

 きっと蓮太郎の子供は幸せものだな。絶対苦労するだろうけど。

 なら母親は誰になるのだろう。木更? 未織? まさかの菫?

 

「そっか。……いいなあ」

 

「百花ちゃんのお父さんはどんな人なのだ? 妾の蓮太郎よりかっこいいか?」

 

 むふふと笑いを堪えていると、百花の表情に影が差した。

 

「わかんない」

 

「えっ」

 

 面食らっている延珠に気づいたのか、百花は目を伏せて控えめに続ける。

 

「実は…………うち、お父さんいないんだ。ガストレアにやられて、だからお母さん人一倍気を張ってて。……ちょっとうざったいんだけどね」

 

 ああ、と母を知る延珠は納得する。

 あのいっそ病的ともとられかねない心配性と潔癖症はそういう理由でか。

 

「──赤目も嫌になるよね。なんで人間に紛れ込むんだろ」

 

 何気ないように、百花が苦笑を浮かべて言い放った。

 延珠は心が凍てつくようで、諦めた心地で目を閉じる。聞きたくないことを跳ね返す耳蓋はないけれども、聞きたくないことを言っている友達の姿を見えなくする目蓋はある。

 だが延珠の心が真に凍てついたのは、直後の舞の声が聞こえた瞬間だった。

 

「そんな言い方、よくないと思う」

 

 思いがけず鋭い声音で、延珠は耳を疑った。

 舞は立ち止まり、地面をじっと見るように目を伏せていて、手を握りしめていた。何かを絞り出すみたいな声だった。

 隣の百花も足を止めてギョッとしたように目を開く。

 

「どうしたの? 私なにか変なこと言った」

 

「その子たちは、私たちと同じ、ただの子供だよ」

 

 百花は意味がわからなかったのか、考えるように顎に手を当てて首を傾げる。

 そしてあっけらかんとした声で続けた。

 

「同じなわけないでしょ」

 

「同じだよ」

 

「だって体にウィルス入ってて、そのうちガストレアになっちゃうんでしょ。人の形してるだけでガストレアと同じじゃないの? お母さんが言ってたよ」

 

「違うよ!」

 

 舞の言葉の速度が跳ね上がっていくのが、延珠には理解できなかった。なんでこんなに言い返すのか。だって、あのときは。

 そこで延珠はハッとする。

 逃げたくないのだ、もう。

 あのとき逃げたから、もう逃げたりはしないのだと、舞は勇気を振り絞っているのだ。

 

「──舞ちゃん!」

 

 百花と舞の間を切って離すように延珠は大声をあげてみせた。

 二人の視線が延珠を向いたのを見てから、延珠はばっと指で壁を指す。壁面には展示用のプリントが貼られていて、発電プラントで使用しているバイオ燃料についての説明が記載されていた。

 

「見るのだ! アオミドロで電気を作ってるらしいぞ。天誅ガールズ十三話でフナドロンが放電したのも、これが元になっていたりしてな! コーショーもきっちりしているとは流石だ……」

 

 延珠がわざとらしく感嘆の声を上げると、百花がちょこちょこ壁に近づいて来てプリントを読み始める。険悪な雰囲気も瞬く間に消える。どうやら百花は感情の波が長引かないタイプらしい。

 舞は何が起こったのかわからない顔をしていた。延珠に遮られた理由がわからないのだろう。

 

「延珠ちゃん、どうして……」

 

 舞の表情に延珠は胸が締め付けられる思いだった。

 違うんだ、舞ちゃん。自分は別に後ろ指を刺されてもいい。それは、まだ耐えられる。でも自分を守ろうとして大切な誰かが傷付くなんて絶対に耐えられない。

 自分の前に立って守ろうとするのではなく、ただ隣にいて欲しい。

 

「舞ちゃんも、そんなことよりもっと楽しいこと考えるのだ」

 

「そんなことって。それでいいの? このままで、それで楽しいって思えるの?」

 

「いいのだ。このままが」

 

 このまま誤魔化して、学校の面々がいる場所まで戻ろうと考えて。

 

 そのとき、延珠の強化された聴覚がぱしゅん、という空気が突き抜ける音を聞き咎めた。

 ハッとして、音のした方、通路奥へと視線を投げる。

 民警として、それ以前に外周区で暮らしていたときから聞き覚えのある音だった。サイレンサー付きの発砲音。だがなぜここで。

 

 疑問は直後に晴れる。

 天井の照明がパッと落ちて、廊下を薄い暗闇が支配する。非常口の蛍光誘導灯だけがかろうじて視界を支えていた。

 同時に頭上からけたたましい警報が鳴り出し、火災が起きたことを延珠たちに訴え出した。

 

「えっ、なにかな、避難訓練?」

 

 状況がすぐに飲み込めなかったのか百花が怯えた声を漏らす。

 

「違う」

 

「う、うん。私たちが来てるのに訓練とかしないと思う。はやく非常口に行こう」

 

 舞が延珠の言葉の端を引き継いだが、延珠が言いたかったのはそういうことではなくて。

 これは火災ではない。火の匂いはしない。

 何かが起こったのだ。銃を使うような出来事。あるいは使われる出来事が。

 延珠のイニシエーターとしての直感が、迫る危機の存在を敏感に嗅ぎつけていた。

 延珠は顔を顰めると、不安を振り払って百花に顔を向ける。

 

「逃げるのだ」

 

「え、どうしたの」

 

「いいから!」

 

 おっとりした雰囲気を崩さない百花に、延珠はつい叫んでしまう。

 延珠はさっと百花の手を取って、引っ張るように走り出した。延珠の態度から異常を察したのか舞も並ぶようにして通路を進む。何が起こったのか聞きたそうな表情だったが、何も言わないのは、延珠に尋ねれば異常に気づけた延珠自身の異常性が明らかになるからだろう。

 誘導灯に従って暗い通路を黙々と走るが、勾田小学校の面々から逃げ出すために施設の端っこまで来ていたらしく、目当ての非常扉は期待に外れて現れない。道中で天井の監視カメラと数台すれ違う。

 

 と、通路角から真っ白な塊が姿を現す。

 

「こちらです。延珠さん」

 

 凛とした声に、それが白いフードを被った白尽くしの少女だと認識が追いつく。

 誰だか気付いて、延珠は目を疑った。

 白絹めいた真っ白な髪に、透き通った肌。見間違えようがない。聖天子だ。いつもの純白のドレスとは違う装いだ。

 通路を曲がりざまに聖天子の前で止まると、手を引いていた百花が「もうダメ」と喘いで膝に手を突いた。肩で大きく息をしていて、汗ばんだ頬は赤くなっている。

 延珠は百花の背をさすりながら、聖天子に困惑の視線を投げた。

 

「なんでお主が……?」

 

 聖天子は自身の胸に手を当てる。

 

「お迎えに。里見さんにお願いされました。本当なら、見学が終わるまでそばで控えているつもりでしたが」

 

 蓮太郎の名前が出て、延珠の表情が明るくなる。

 本当に蓮太郎が? 妾を必要として……。

 

 思考に耽っているところ、延珠の袖が引かれた。

 見れば、人見知りの激しそうな引っ込み具合で百花が延珠に引っ付いていた。聖天子のことを警戒しているらしい。

 

「この人は?」

 

「え、ええっと……」

 

 延珠は言葉に詰まる。

 延珠だって聖天子が今お忍びで来ていることくらいわかっている。どう説明したらいいのか途方に暮れる。

 助けを求めて聖天子を見るが、彼女も目をぐるぐるさせていた。

 

「わ、私は……」

 

 やがて決心がついたのか、聖天子はキリッとした目で延珠を見た。

 

「私は延珠さんの母親です」

 

「えっ、はっ……!?」

 

 延珠は思わず呻く。

 容姿が違い過ぎる。いったい彼女の遺伝子のどこを受け継げば延珠が生まれるというのか。

 延珠は今に天を仰ぎそうになった。百花だっておかしいと思うはず。恐る恐る彼女に視線を向ける。

 

「延珠さんのお母さんだったんですね! あ。い、いつもお世話になっています……!」

 

 だが百花は納得したようだ。かしこまった感じで聖天子に微笑んでいた。

 聖天子は微笑みを返すと、何食わぬ顔で職員以外立ち入り禁止とステッカーされた扉を押し開ける。

 

「急ぎましょう」

 

「な、なにしてるのだ?」

 

「こちらの部屋からだと運搬用の裏口まですぐです」

 

「…………なんでそんなこと知ってるのだ」

 

「忍び込む際に使った経路ですから」

 

 延珠は聖天子の行動力に面食らった。

 

「忍び込む……?」

 

 舞が恐る恐る疑問を声に出すが、聖天子は曖昧な笑みで見事流し切る。ちょっと怖い。

 

 扉を一歩くぐると熱気と共に広い空間が待ち受ける。

 壁、天井にパイプが走り抜け、バルブと並んで計器類が取り付けられていた。踏み締めた金属製の格子の下にもパイプが伸びている。おそらくボイラー室の類。

 パイプからは吹き抜けるような重低音が鳴り響いていて、中で蒸気が移動しているのだろう。

 作業用の幅のある通路を踏み鳴らしめ、延珠たちは先を急ぐ。

 

 先頭を聖天子と並んで進みながらも、延珠は耳を澄ませていた。

 ガストレアウィルスによって強化された聴覚は、力を解放していない状態でも常人を遥かに超える知覚領域を発揮する。

 だから、領域の端で足音を捉えたとき、延珠は静止してやり過ごすことを選択した。

 

「みんな、止ま──」

 

 背後の百花たちに振り返って、手を伸ばそうとした延珠の動きがぴたりと止まる。ウサギ因子で強化された聴覚は耳を澄ます必要すらなく音源の位置を正確に捉えていた。

 延珠は顔を真っ青にする。それが高速で接近していることに気付いたから。

 風を切る轟音が一帯の空気を震わせる。

 

 災厄は直後に訪れる。

 

 人間大の何かが延珠のやや前方に降り立ったと知覚した瞬間、螺旋の暴風が突き抜ける。爆発的な運動量着弾による余波が嵐を生む。

 破滅的な大音量と共にパイプが見えない腕に引きちぎられたようにひしゃげて完膚なきまでに破断。無惨に破壊されたパイプから蒸気が勢いよく吹き漏れ、視界へ殺到する熱気に目を剥く。

 高熱蒸気は普通の人間が接触していいものではない。

 

 ほぼ反射の速度で力を解放。延珠の瞳が赤熱し、身を縛る重力が減衰したような錯覚。

 死に物狂いで近くにあった二つの腕を掴んで強引に後方へ跳躍する。

 延珠の細い腕が人間二人分の重量を確かに引き込み、迫る熱気を置き去りにして瞬時に距離を渡る。急激な加速感が全身を引き絞り、耳元で風が鳴る。

 肉体はひと呼吸する間もなくパイプの森を突っ切って、背中を突風が叩く。広い場所に出たのだ。

 延珠の肩を衝撃が突いて、肉体が跳ねる。強引な身体操縦と重量増加によって姿勢を制御できない。有り余った慣性に肉体を持っていかれる形で地面を転がる寸前、必死で二人を抱きかかえて歯を食いしばる。

 全身を地面に擦り付け焼けるような激痛。視界が数度回転して、ようやく静止。

 

 ハッとして跳ね起きる。

 傍を見やれば、倒れていたのは聖天子と舞だけだった。強引な移動で筋を痛めたのか顔をわずかに歪めている。だが他に怪我はない。

 掴めた手はこの二人だけ。

 

「うそだッ、百花ちゃんが……ッ」

 

 延珠は腹の奥から叫ぶ。届きもしないのに腕を伸ばす。指した先には無惨に破壊されたパイプの残骸と立ち込める高熱蒸気の白霧。

 

 そのとき、白霧の向こう側で影が揺れる。

 百花ではない。普通の人間が高熱蒸気に晒されて無事なわけがない。

 と、白霧が引いていく。施設が異常を察知して、蒸気の流入を抑止したのだ。

 

「みーつけた」

 

 閉塞空間に、聞き慣れない少女の声が響く。

 露わになった少女は、全身を甲冑めいた漆黒のエクサスケルトンで覆っていた。身長の倍ほどある長槍を肩に担ぎ、背には胴体をすっぽり隠せるほど大きな円盾。総重量を考えるまでもなく、普通の少女では纏えない代物だ。

 頭部までもが装甲で隠れて見えないが、おそらくその目は赤く輝いている。イニシエーターで間違いない。

 ブラッククロームの光沢を放つ槍にはべっとりと赤い血が塗りたくられていた。

 

 延珠はそこで息を呑んだ。

 

「あ……ああ……ッ」

 

 その少女の後ろに、百花がへたりこんでいた。生きている。怯え切った目で少女を見上げていた。姿勢を低くしたおかげで蒸気は直撃せずに済んだのだ。

 百花の姿を視界にとらえた瞬間には、覚醒を解除していた。

 少女が百花などどうでもよさげに腕をまっすぐ伸ばして、こちらを指す。

 

「聖天子サマですね。あなたを探していたんです」

 

 聖天子を……?

 

「変装がバレたーとか気にしなくていいですよ。私はあなたの外見気にしませんから。ニオイで判別しただけですので」

 

 咄嗟に聖天子の前に出るが、肩に聖天子の手が置かれて止まる。見上げれば、聖天子はこちらを見ずに。毅然とした態度で少女を睨みつけていた。

 

「何者です。名乗りなさい」

 

「ミハイル・トラヴァー。ミーシャで構いませんよ。大尉の……アンドレイ・リトヴィンツェフの道具のひとつと言えば、名乗りとしては十分ですかね」

 

 聖天子の顔つきが真っ青になる。

 

「火災はあなたが起こしたのですか?」

 

「この警報を鳴らしてるのは私たちですけど、火災なんて起こしてませんよ。危ないじゃないですか。邪魔な人間には退場していただこうというだけです」

 

 ミーシャは肩をすくませて、おどけてみせる。

 

「でもあなたは対象外です。逃すのは惜しい。あなたがいるといろいろ便利なんですよねー。怪我はさせないんで大人しくついてきてくれます?」

 

「テロリストの要求には応えません。恥を知りなさい」

 

「じゃ、怪我させて強引に連れて行きます。原型崩すとあなただって証明ができなくなるので困りますね。……んー、内臓なら大尉も許してくれるかも?」

 

 少女は極めて軽薄に、残忍な内容を口に出す。

 肩に置かれた聖天子の手が震えているのを延珠は知覚する。それでも聖天子は恐怖を顔には出していなかった。きっと、この状況を打開する方法を考えている。

 背後の舞は尻餅をついて、頭を抱えぎゅっと瞼を閉じていた。手足が震えているせいで立てないようだ。

 百花はもっとひどい状況だ。へたり込んだままなのは、手足に力が入らないから。まなじりから溢れ落ちる涙。唇を震わせて何かを言おうとするが、出るのはか細い呼気だけ。でも、百花が何を言いたいかなんて考えるまでもない。助けて、だ。

 

 やるべきことはわかっていた。

 延珠が力を解放して、ミーシャを倒す、ないしは抑えて聖天子たちが逃げるまでの時間を稼ぐこと。

 だが延珠は力を解放できずにいた。

 百花を助けたくない訳じゃない。そんなことあるはずがない。助けることは延珠の心の最奥が固く決めている。指し示した精神の磁針にブレはない。

 ただ、力を解放せずに助ける方法がないか、そんな思考が力の解放を邪魔していた。

 幸いにも、蒸気から逃れるために発動したあの瞬間は、百花には見られていないだろう。ミーシャの乱入でそれどころではなかった。きっとまだ、バレていない。

 だが力を見せれば、きっと百花と延珠の間にあった関係は消え去る。百花と延珠では『子供たち』に対する考え方が違うのも、生きていた世界が違うのも、もういやになるほどわかっていて。間に引かれた溝を跳び越える足なんてお互い持っていなくて。

 それでも守りたいと強く思っていて。

 それでも未だ迷い続けているのは、拒絶されるのが怖いから。

 

「やだ、おかあさん……ッ」

 

 百花の漏らした悲鳴が、ボイラー室に跳ね返る。

 ミーシャはそこではじめて存在に気づいたように、視線を足元で脱力する百花に投げる。

 

「うるさいですね。ぴぃぴぃ小鳥が囀っていて」

 

 本気の殺意に射抜かれた百花が凍りついたように静止。

 ミーシャが肩に担いだ槍を容易く掲げて、百花の頭上に振り上げる。黒槍の血化粧が百花の壮絶な表情を映し出し、これより招かれる死を宣告する。

 

「……潰しましょうか」

 

 超重量の先端が空気を切り裂き、絶対零度の唸りをあげる。あまねく生命を捻り潰す凶器の矛が、一切の容赦なく百花に振り落とされる。

 

 刹那、延珠の足が地面を蹴り、矮躯を神速の風が攫う。

 

 直後にギィンと断末魔の如き金属の絶叫が火花と共にボイラー室に弾けて轟く。

 大運動量の高速衝突によって空気が凄まじい勢いで押し出され、余波がパイプをひしゃげさせて軽怪音を鳴らす。

 

「同胞ッ?」

 

「えんじゅ、ちゃん……?」

 

 正面、甲冑越しに漏れ輝く赤眼と目が合う。

 蹴り上げた足に跳ね返る重量級の反動。延珠の靴底に仕込まれたバラニウムが黒槍を受け止めていた。

 延珠の両目は赤く染まっている。

 力を解放した延珠が超加速をもってミーシャと百花の間に割り込み、致命の一撃を防いだのだ。

 背後で、百花がうつろ声を漏らしていた。

 

「大丈夫だ。妾が、ちゃんと守るから……」

 

 返事はない。

 ミーシャが嘲笑うように鼻で笑う。

 

「ふっあはははッ、ニンゲンの前で力見せちゃダメじゃないですか! 見逃してあげてたのに!」

 

「なにがッ」

 

「後ろを見て! ──怯えられてますよ!」

 

 ミーシャの声に釣られて、延珠は首だけでさっと振り向く。

 大きな黒目と目が合う。恐怖で瞳孔が拡大している。

 へたりこんだまま、百花は怯えの眼差しを向けていた。きっと、その対象はミーシャだけではなく。

 延珠は赤目を伏せると、顔がこわばったのを自覚する。

 わかっていたことだ。

 わかっていたことだろう。

 

 挙げ足を強い力が押し込むのを知覚したときには、既に槍を蹴り返していた。

 踏み鳴らした地面が爆ぜたように粉塵を巻き上げる。イニシエーター特有の膂力が槍ごとミーシャの矮躯を後方へ吹き飛ばし、だが少女は中空で身を翻して綺麗に着地する。

 距離を開けて降り立ったミーシャが顎を跳ね上げる。甲冑越しで、距離もあるのに、延珠には彼女が睨んでいることがわかった。背中の盾を抜いて、盾槍を同時に構える。

 

「面白い。名乗りましょう。序列元百四十五位、モデル・ライノ。ミハイル・トラヴァー。わけあって男性名ですが、れっきとした『魔女の眷属』です」

 

 延珠は百花を巻き込まないように、歩いて離れる。

 床の金属格子は踏み締めるたびに高音を放つ。覚醒状態にある延珠の聴覚には悲鳴に聞こえた。

 そして静かな声で名乗る。

 

「序列、二百十位。モデル・ラビット。藍原延珠」

 

 延珠の名乗りに、ミーシャがニヤリとする。

 

「序列が全てではないとしても、格下ですね。残念ながら私の敵じゃない。……いやむしろ端っから負ける要素がない、弱い人に囲まれ腐ったあなたなんかには」

 

 延珠は目をきつく細める。聞き捨てならない言葉だった。

 

「弱い? 皆が」

 

「ええそうです。力だけを見て、あってはならない存在だと泣き叫ぶ賤しい小鳥だ。本質を理解せず、理解しようとせず、目を閉ざし、足を背け。それが全てと思い込めば、恐怖を直視できぬと怒りに踊り狂う。その目で憎しみを訴え、その喉で否定を吠え、その指先で殺意の引き金を引く。これを弱いと言わず何だと?」

 

「……ばかにするな」

 

「なんです? 聞こえませんね」

 

 延珠はミーシャを睨みあげる。

 

「妾のともだちを馬鹿にするな」

 

 ミーシャが勝ち誇った笑みを浮かべながら槍の先端をこちらに、延珠の背後に向ける。

 

「ともだちは化け物見る目であなたを見ませんよ?」

 

 一瞬で全身の産毛が粟立ち、戦意が臨界まで濃縮(コンセントレイト)。延珠の赤眼がカッと燃え猛り、視界に散る鬼火を幻視する。

 地を蹴り、弾丸の速度でミーシャへと疾走。反動で床の金属格子が歪むのも構わず、赤い眼光の尾を引いて彼我の距離が一瞬にして無になる。

 ミーシャが盾を身を隠すようにして構えるのと、延珠の踏み込んだ足が地面を砕くのは同時だった。

 

 跳ね上がった延珠の蹴り足が唸りをあげ、バラニウムシールドと激突。インパクト面が破裂してパァンという音が鳴り響き、撒き散らされる衝撃波が一帯の大気を吹き飛ばす。

 極大運動量を誇る延珠渾身の蹴りを受けてなお、ミーシャの盾は揺るがない。

 ミーシャが腰を落とし、踏み鳴らした地面が爆発する。反撃挙動に移行。

 視界の端で盾越しに引き絞られていた槍を捉えて、目で追う。カウンターで突き込まれる槍の速度はイニシエーターの超膂力により風を纏っている。貫かれれば死は確実。

 死に物狂いで身を翻し振り上げた延珠の回転蹴りが、唸りをあげて迫る槍に側面から衝突。思いがけず何の抵抗もなく槍が弾け退いて、空を跳ねる。あまりに軽すぎる。

 違う、これは。

 

 不意に蹴り足を鋭い痛みが襲う。

 

「つっかまーえた」

 

 怖気震えそうな嘲笑が延珠の耳朶を舐める。

 延珠の蹴り足を手甲の硬い指先が鷲掴みにしていた。槍を蹴られる寸前に投棄し、空いた手を伸ばしたのだ。

 しまったと思ったときには出鱈目な力で延珠の全身が引っ張り込まれる。視界が恐ろしい速度で横滑りし、全身を横殴りの衝撃が襲う。

 投げ出されたと思った直後、背中を凄まじい衝撃が殴る。矮躯が跳ね上がったように海老反りになり、耳元で金属のひしゃげる音。

 パイプ管に叩きつけられたと気付いたときには、剥がれ落ちるようにして仰向けに転がる。

 

 ハッとして目を開けると、黒騎士が盾を振り下ろしながら恐ろしい速度で落下。視界いっぱいに迫る側面の鋭利さに目を剥く。

 遮二無二足を振り上げ、間髪入れず靴底から蹴り返って弾ける重い反動と金属音。イニシエーター同士の力の激突で衝撃が背中越しに床へ伝わり、金属格子が歪み潰れて粉塵が巻き上がる。

 力の拮抗状態は長くは続かない。極大の圧力が延珠の矮躯を潰さんとのしかかり、骨格が軋み悲鳴をあげる。

 押し返せない。パワーはあちらが上。

 

 咄嗟に空いた足でミーシャの腹を蹴り飛ばすと、ミーシャが一転して後ろに飛び退く。

 延珠が追撃に一歩踏み込んだところで、

 

 突如、背後から襲いかかる破裂音と衝撃熱波。

 

 突然の事態に何もわからないままに前へ吹っ飛ばされて、顔面から金属格子の床に叩きつけられる。遅れて走る焼け付くような痛みに喘ぐ。

 背後のパイプが破裂し、爆発的に噴出した高熱蒸気が延珠の背中を押し出したのだ。

 高熱に晒されたコートの繊維は融解を起こし、しゅうしゅうと白煙を立ち昇らせていた。

 当然、高熱の触手は奥の柔肌まで届き、赤黒く焦げつく重度の火傷。だが即座に損傷が修復され、真っ赤な腫れ程度に収まり、元の白い肌に戻る。

 

「そんなの見ちゃったら、もうあなたなんて! 本当の自分を見せても平気だとでも思い違いしてますか? 本当の友達だから、大丈夫だって」

 

 ミーシャが腰から短刀二振りを片手だけで器用に抜きざま、腕を横へ振り放つ。手品じみた投擲で、二振りの短刀が空気を切り裂いて突き進む。

 狙う先を見て延珠は真っ青になった。

 短刀が突き進む軌道の先には百花と、彼女を連れ出そうと手を差し伸べる聖天子の姿があった。

 狙いこそ正確でなくとも、彼女の背後には高熱蒸気が流動するパイプがある。イニシエーターの膂力が加わった短刀はパイプ管を破壊し、噴き出た蒸気で彼女たちを焦がしてしまうだろう。

 

 考える間もなく延珠は跳ね上がるようにして地を蹴る。ひと呼吸もせずに短刀軌道上に躍り出て、無我夢中で振り放った回し蹴りが短刀を蹴り弾く。

 間髪入れず、前方から押し潰すような殺意の圧に延珠の脳髄が沸き立つ。

 悪寒がして顎を跳ね上げると、視界に甲冑越しの赤眼が飛び込んでくる。盾を構えたミーシャが地を砕きながらの突進。その速度、殺人級。

 延珠の後方にはまだ聖天子らがいる。回避は選択肢にない。迎え受けるしかない。

 

 腰を落とし、鬼人の如き踏みならし。床の金属格子が軽く鳴る。

 跳ね上げた爆速の蹴りが盾と真正面から激突。インパクトの瞬間、二者間に存在していた空気が高速で押し出されて爆音衝撃波が撒き散らされる。

 直後、蹴り足から駆け上がってくる過負荷。骨格が粉砕しそうなほどの馬力に全身を押し込まれ、接地していた片足が床材を歪ませ陥没。のみに飽き足らず、床下に敷設されていたパイプを圧砕して、噴き出る高熱蒸気が延珠の左右に噴き上がる。

 なおも押し込もうとするミーシャの万力に、延珠は歯を食いしばって耐える。

 垂直だった靴底と盾の干渉面が、押し込められて斜めに崩れ、押しつぶされるような感覚に延珠の歯ががちがちと鳴り出す。

 もはや明確に見下ろす形でミーシャが赤眼を歪ませる。

 

「あなたの負けです。もうあなたに居場所はない」

 

「違うッ。終わってなんかいない……ッ」

 

 延珠は力を振り絞って首を振る。声に出して否定しなければ限界だった。

 

「もう駄目ですよ。終わりです。やり直しなどできるわけがない」

 

「違うッ、違う……ッ」

 

「あなたを受け入れる居場所なんて、この世のどこにもない」

 

 喘ぐように吠える。

 

「妾には、いるッ。──蓮太郎がいる……ッ」

 

 ミーシャが軽薄な笑みを浮かべたのが、わかってしまう。

 

「おともだち、除外しましたね?」

 

 延珠はハッと目を見開く。

 

「あなた自身気づいているんだ。もう、おともだちはあなたを受け入れてはくれないのだと。この先、ずっと、ずっと」

 

「黙れ」

 

「黙らせればいいじゃないですか、その力でッ」

 

「黙れええええ──ッ」

 

 そのとき延珠の聴覚が金属の悲鳴を捉えた。

 反応はほぼ同時だった。

 直感を待たず盾を足場に自身を蹴飛ばし、真後ろに跳び退く。延珠だけでなくミーシャまでもが背後へ退き、直後に視界に噴き上がる白の帷。

 床下に埋設されていたパイプが破裂し、高熱蒸気を両者の間に噴出したのだ。

 視界が塞がれ、聴覚も蒸気の荒れ狂う音で機能しにくい。

 慌てて蒸気の帷の脇を抜けて回り込むと、向かい側の通路をミーシャが走り抜け遠ざかっていた。

 

「逃げるな……ッ」

 

 延珠は逃走の理由を深く考えず、地を蹴り上げ弾丸の速度であとを追う。

 ミーシャが振り返りざま、壁を走るパイプに盾側面を押しつけ、イニシエーターの膂力で容易く破断。

 外壁を破られたことで内圧が急激な変化を起こし、容器ごと爆発破裂。内部を流動していた高熱蒸気が真横に噴き出して延珠の進路を塞ぎ、ミーシャが姿を見通せない蒸気の向こう側に消す。

 

 だが蒸気は天井にまでは届いていない。

 イニシエーターの脚力で蒸気の帷をやすやすと飛び越え、視界に高速で迫る天井に、姿勢を翻して逆さまに接地する。激甚の運動量が重力を打ち消し、延珠の肉体を天井に縫い止める。

 逆さまの視界に飛び込んできた光景に、延珠は目を剥く。

 

 直下、甲冑越しの赤眼と目が合う。

 既にミーシャは投擲姿勢に入っていた。

 引き絞られたミーシャの右手には漆黒の長槍。だが延珠が蹴り飛ばしたはず。

 遅まきながら意図に気付く。先の蒸気による目眩しは槍回収の誤魔化しと、延珠の移動を誘導するためのものだったのだ。延珠はミーシャの殺戮曲芸(キルテクニック)にまんまとのせられた形。

 パワー特化型イニシエーターの規格外の筋力がぎりりと肉を軋ませたと知覚した直後、音を置き去りにした音速の槍が延珠めがけて放たれる。

 ここまでお膳立てされれば、並大抵のイニシエーターならば死は避けられない。

 並大抵ならば。

 

 延珠の両目がカッと赤熱。全身の細胞が騒がしく躍動する。

 黒槍が延珠の身を穿つよりも速く、天井を蹴って落雷の如く一閃降下。

 ソニックブームを起こし殺到する黒槍を、わずかな身の捩りで紙一重に回避。耳元をブオンと轟音が擦過した瞬間には、延珠の蹴りがミーシャの首筋を叩き折らんと唸りをあげていた。

 だが直前でミーシャが地を蹴り後ろに飛び退く。脚力任せの強引な回避。

 渾身の蹴り落としはミーシャの鼻先を掠めて、床のコンクリ面を踏み砕く。着弾の衝撃で砕けたコンクリ片が巻き上がる。

 

 怒気迸る赤瞳で、既に距離を開けていたミーシャを一瞥。

 ミーシャが盾を前にかざし防御姿勢をとった瞬間、延珠は地面を踏み鳴らしていた。

 腰を捻りざま跳ね上げた蹴り足は、舞い上がった瓦礫の一つに着弾。

 蹴り飛ばされたコンクリ片は弾丸の速度で盾に真正面から激突し、破砕音が弾ける。

 イニシエーターの蹴りに比べれば軽すぎる重量に盾が釣られて持ち上がり、わずかな間、ガードがあがる。

 そのわずかな時間は、スピード特化型イニシエーターからすれば致命の間隙。

 ミーシャが赤眼を見開いたときには、既に延珠の身は彼女の眼前へと躍り出ていた。

 

「やるッ。ですが──ッ」

 

 目が合う。甲冑越しの赤眼。

 だが彼女の焦点は延珠からは明確にそれていた。

 百番台という超高位序列者でさえ捕捉困難な速度。

 これが藍原延珠の絶対的速度領域。

 

「その口閉じてろ」

 

 神速に身を委ね、蹴り足を跳ね上げる。

 弧を描き薙ぎ払うような神速の回し蹴りが暴風を纏い重装甲ごと敵の腹を突き破らんと咆哮。

 スピード特化型イニシエーターの極大運動量が注がれた致命の一撃がミーシャの腹部装甲板に到達。瞬間、パァンという破裂音が鳴り轟いて、重量級のミーシャの肉体を容赦なく弾き飛ばす。吹っ飛んだミーシャは螺旋の暴風を撒き散らしながらボイラー室を突っ切って、パイプの森を突き破り、高熱蒸気が噴き出て姿を消す。

 膨れ上がった衝撃波が地面を駆け巡り大気を揺るがして延珠の髪とコートをはためかせる。叩きつけるような空気の壁に目を細める。

 

 確かな手応えを感じて、延珠は息を吐いた。

 甲冑越しとはいえ全力の蹴りを打ち込んだのだ。しばらくは起き上がれまい。

 この隙に、みんなを逃そう。

 

 振り返れば、壁を走るパイプからやや離れた位置に聖天子たちは避難していた。

 無事でよかったと、延珠は安堵する。

 力を解放したまま、軽くひとっ飛びするような気持ちで延珠は彼女たちの傍に駆け寄った。

 だが百花の姿をはっきりと視界に入れたとき、延珠の顔が曇る。

 百花は自身を庇うように胸の前で両手を握っていた。今も怯えているのか、肩が震えてしまっている。

 百花の隣に並んだ舞もまた、顔を伏せていた。

 と、聖天子が前に出て延珠を迎え入れる。

 

「延珠さん。お怪我は」

 

「へっちゃらなのだ。こんなものケガに入らないぞ」

 

「いけませんよ。治るからといって、痛いものは痛いのです。痛みを耐え続ければ、それは心で膿となって残り続けます」

 

「むぅ、本当に平気なのに……」

 

 延珠は頬を膨らませて抗議の声をあげた。

 聖天子は悲しそうに目を伏せると、白ジャケットを脱いで延珠の肩にかける。フードがついているタイプのジャケットなので、聖天子の顔が露わになってしまうのだが、当人は気にしてなさげだった。誰かに見つかったら大変だ。

 そこではたとする。まだ安全というわけではない。

 

「まだ仲間がいるかもしれない。早くここから逃げるのだ」

 

「えっ……で、でも……」

 

 百花が蚊の鳴くような声を漏らした。

 

「大丈夫。妾がちゃんとみんな守るのだ」

 

 延珠は安心させようとして、百花の方を向いて、彼女の手をとろうとする。

 だが、延珠の指先が触れようとした直前で、百花の手がさっと引かれる。

 延珠は怪訝に思って顔を上げた。

 

 赤い目で、見つめたのがいけなかった。

 

 百花は瞬きの仕方を忘れてしまったかのように凍りついていた。

 困惑にわななく唇。鼻をつくアドレナリンの香り。

 やってしまったと気付いても、遅い。

 

「えんじゅ、ちゃん。なんで……」

 

 延珠はどう答えていいものか分からなかった。ただ、無性に悲しくなって、視線を地面へそらす。

 そこでようやく、百花は事態を飲み込めたのだろう。

 

「うそつき」

 

 常人ならば聞き逃してしまうような小さなつぶやきだった。はっきりと声に出してすらいなかったかもしれない。

 しかし感覚器官が強化された延珠には、そのつぶやきが聞き逃せるはずもなかった。

 延珠はうつむいたまま瞼をぎゅっと閉めて一回だけ首を横に振ると、力の覚醒を解いてから顔を上げた。もう目の色は元に戻っている。

 そこで、百花もハッとした表情になる。

 

「あ……ち、ちがうの延珠ちゃん」

 

 顔をふるふると横に揺らして、縋るような顔で百花が喘ぐ。ちがうんだ。何かの間違いなんだ。本心じゃないんだ。

 その態度で、延珠も悟る。

 きっと、悪意を由来として放とうとして出た言葉ではなくて。

 つい出てしまったもので。

 だからこそ、それはどこまでいっても取り繕う要素のない純粋な本心だった。

 理屈に沿って出た言葉じゃない。延珠の何が嘘だったのか、きっと言った本人でさえよく分かっていない。

 でも嘘をついているという評価は、延珠の心の深い領域にまで届く。

 それくらいには正鵠を射た言葉だった。

 

「舞、ちゃ……」

 

 喉が無性に詰まったような感じがして、助けを求めて舞を見て、延珠は固まる。

 舞は怯えていた。

 足を背けることはしなかったが、きつく目を閉じていた。

 きっと見てしまえば、足まで背けてしまうから。

 必死に戦おうと勇気を振り絞っているが、舞は延珠に対する恐怖心と、そんな恐怖に負ける自分自身に負けているのが、もう十分すぎるほど延珠にはわかった。

 舞が、ゆっくりと目を開けて唇を震わせる。

 

「たすけ、てくれ、て……あ……」

 

 だが喉がひどく震えているせいで、声は言葉にならない。そんな自分に気づいて、舞が呆然とした表情になる。自分自身を、信じられなくなった表情。

 

「あれ、なんで……」

 

「いいのだ。怖い目にあった。なら怯えるのは当然だ。なにも、悪いことなんかじゃない」

 

 延珠は薄く笑ってみせると、赤くなった目で隣の聖天子を見上げる。

 

「ここにはもういられない。はやく離れないと」

 

「延珠さん。ですが」

 

 聖天子は延珠の目をじっと見つめて、沈痛げに顔を暗くする。

 

「いいのだ」

 

 延珠は首を振って、ツインテールが揺れる。

 

「いいのだ! もう、一度乗り越えたことなのだ。妾は舞ちゃんを、百花ちゃんを、みんなを守った。胸張って言えることだ! だから、いいのだ!」

 

「ですが」

 

「いいのだ。何もいうな。…………お願いだから、もうなにも」

 

『何処』にいけばいいのか、自分にはわかるから。

 蓮太郎の隣だ。

 同時に、舞の隣ではない。

 

 風が吹き込んできて、延珠の髪を吹き攫う。

 見れば視線の先で出口が開いていた。外の陽光がひどく眩しく見えて、延珠は目を閉ざし、足を背けた。

 その先に広がっているのは、自分の居場所ではない。

 

「あっちに出口がある。百花ちゃんを頼んだ。舞ちゃんにしか頼めないことだ」

 

「延珠ちゃん……」

 

「最後のお願いだ」

 

 思いがけず冷たい声。

 舞は虚を突かれたような顔になる。

 延珠は見ていられなくなって、隣の聖天子を見上げた。

 

「妾にちゃんと捕まれ。いいな?」

 

 有無を言わさぬ表情の延珠に聖天子は言葉を探すように唇を開きかけるが、すぐに引き結んだ。延珠が何もいうなと言ったのだから、延珠としてはありがたかった。

 延珠はプラントの奥に目をやる。

 ミーシャたちが聖天子の身を狙っている以上、聖天子と舞たちを一緒に連れて行くことはできない。

 別の出口を探しながら、敵の目を潜らなければ。

 

「ま……待って、延珠ちゃん……ッ」

 

 背後で、舞がこちらに手を伸ばそうとしているのがわかった。

 延珠は振り返らず、赤い目を見せず、笑ってみせる。本当に笑えたかどうかはわからないけれど。

 

「なんてことない。妾は平気だ」

 

 ぱしっと何かが割れる音がした。

 ブレスレットにヒビが入っていた。

 延珠は震える吐息を無視して、力を解放。聖天子を抱えて、闇の中に自ら身を投じた。

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