ブラック・ブレット8 君は泥より出て泥に染まらず 作:簑都薇
*
「…………ユーリャ……ッ?」
延珠が激しく狼狽して、声を震わせながら叫ぶ。
ユーリャが姿を現した途端の変化に、蓮太郎も釣られて緊張する。
敵対者の邂逅にはとても見えなかった。それどころか悲しみさえ漂っていた。敵とは知らず、どこかで知り合ったのか。
巻き上がった粉塵が陽光を遮って、屋上庭園を薄暗く閉じ込めていた。
かつて憩いの場だっただろう中庭は、人工芝を弾丸に踏み荒らされ、無惨に土くれをぶち撒けていた。灌水システムから漏れ出た水が足元を蚕食する。
垂れ下がった枝が特徴のシダレエンジュも今は暴風で薙ぎ倒され、根を晒している。せっかく開花したチョウ型の花が風圧に巻かれて一帯を舞い散る。
大嵐が直撃してもこうはならない。これら全てはイニシエーターという超常の暴力がもたらしたものだ。
延珠が髪を振り乱す。
「なんで、お主がこんな、……何をしているのだッ?」
ユーリャは質問には答えない。ただ目を薄く開けて、言葉の接ぎ穂を拾う。
「再会しないほうが互いに幸せだろうと、あのとき言いましたよね」
「ユーリャッ」
「ですが今は、こんな形とはいえあなたに会えて良かった。あなたには知る権利がある」
「何を言っているのだ……? わからないッ、お主のことなんにも!」
続く言葉はユーリャの口からは出なかった。
「──知る必要ありますかッ!」
「跳べ、延珠ッ」
脹れあがった殺意を察知して蓮太郎が叫ぶより早く、延珠が聖天子を抱えて跳躍。聖天子が悲鳴をあげた直後に風を切り裂く速度でミーシャが、たった先まで延珠のいた地点に着弾し、黒槍で足場を抉り散らかす。
延珠の着地位置を見定めてメイエルホリドがライフルを構えるのを、こちらも牽制射撃をばら撒き一歩引かせてキャンセル。退いたメイエルホリドの足元を銃弾が跳ねる。
無事に延珠がウッドデッキに膝を撓ませて着地すると、逃れた衝撃が足元の木材を砕き割る。
その頃には既にミーシャが回収した円盾を構えて追撃の姿勢に入っていた。
なおも混乱の表情をとる延珠を視界に掠めて、蓮太郎の喉が引き攣る。
迷っている、ユーリャの存在に。
迷いを解く時間はない。
「延珠ッ、敵だ! 今は……ッ」
ハッとして延珠がミーシャのタックルを回避するのと、蓮太郎の第六感が警鐘を鳴らすのが同時。
背後も見ずに横へ転がると、やにわに爪撃が蓮太郎の脇を擦過する。
跳ね起きて視線を投げれば、二爪を構えたユーリャが瞳を赤熱させて蓮太郎を睨みつけていた。
彼女の背後には三対六翼のエクサスケルトンに身を固めたリトヴィンツェフ。
「後があるというのか、お前たちに?」
*
視界を円盾が恐ろしい速度で過ったときには、延珠は聖天子を抱えて地を蹴り跳躍していた。
直後に叩き落とすような突風が延珠の身をすり抜ける。腕の中で聖天子が小さく悲鳴を漏らす。
重力と慣性力が相殺されて束の間の浮遊感。すぐに重力が肉体を掠めとって、凄まじい勢いで地面が迫ってくる。
力任せに足を地面に蹴り付け、墜落同然の着地に視界が揺れる。ぬかるんだ土を跳ね散らかしながら制動。あっという間に延珠も聖天子も服が泥に染まる。
ややもせず止まると、傍に抱えていた聖天子が真っ青な顔で膝を突く。度重なる跳躍は彼女の身に深刻な反動を与えていた。
寄ろうとしたら、聖天子が手のひらを見せて制止する。息を整えながら、かすれた声音を吐く。
「延珠さん、構わないでください。これ以上、足手纏いになるわけにはいきません」
「でもッ」
聖天子から目を離していたら、攫われるかもしれないのだ。どんな目に遭うか。
「わかっています。ですが、このままではあなたの身も危ういでしょう」
それに、と聖天子が視線を横に投げる。
視線の先には粉塵の帷が渦巻いていた。きっとこの中で、蓮太郎がユーリャと戦っているのだと延珠には直感できた。
「助けに行って、いいのか……? でも蓮太郎は、妾に何も…………」
聖天子はじっと見つめる。
「確かにそれが里見さんの願いかもしれません。では、あなたの望みはどうなるのですか」
「妾の……?」
束の間、思考が漂白された。
蓮太郎の力になりたかった。隣で戦い、互いに守るだけの力は──なんとしてでも守り切るという想いが自分にはあるのだから。
でもそれを蓮太郎は望んでいない。隣で戦うことを、許してはくれない。
相手が望んでもいないことを、望んでも、本当にいいのだろうか。
延珠が答えられないでいると、背後で気配が揺らいだ。
「あなたの望み。私には分かりますよ子ウサギちゃん」
甘ったるい声に振り返ると、甲冑から漏れ出たミーシャの眼光と目が合う。
延珠は一歩前に踏み出して、聖天子に離れるよう促す。背後で息を呑む音がして、意を汲んでくれたのか、すぐに聖天子は付近の物陰に身を隠す。
「それは普通であることだ。『みんな』で定義される輪の中にいたい。受け入れられたい。あるがまま、嘘など吐かずに。だが現実はそうじゃありません。どうしようもなく私たちは特別ですから。弱さを抱えた人間は、同種の弱さには厳しい」
「一緒にするな」
「一緒ですよ」
ふいにミーシャの赤眼が柔らかさを帯びる。
「わたし、あなたのこと好きです。ウサギさん」
延珠は思わず目を丸くしてしまう。どうして小比奈といい、この少女といい、どこか変な奴に好かれるのかと自分の運命を呪った。
「妾はお主なんて大嫌いだ」
「残念! 悲しいですよ、延珠ちゃん? これでも私、あなたに敬意を払っているのに」
「…………何を言ってるのだ?」
「自分の正体がバレてでも友人を守った。これができるイニシエーターはそう多くないんですよ。私だったら見捨ててます。きっと恐ろしかったでしょう。足だって少しは竦んだかもしれない。それでもあなたは一歩前へ、その足を進ませた……。結果は残念でしたが!」
思わず延珠は耳を疑う。あのとき確かにミーシャを倒していたはずだ。
喉が引き攣りそうになる。
「お主、見てたのか……ッ」
「意識はバッチリでしたよ。全部聞いてました。ひどい言葉をかけたあの子のことも……百花ちゃんでしたっけ。聞いた瞬間、飛び出してぶっ殺してあげようかと考えちゃいましたよ」
「お主はッ、どうしてそう残酷なことを言えるのだ!」
「健気ですねえ。あなたは怒りに身を任せてもいいんですよ。傷つけられたから傷つける。そういう論理で目を閉じてもいい。……楽ですよ? 私が保証します」
「妾は、お主たちみたいなやつからみんなを守るのが役目だ」
ミーシャが始末に負えないとばかりに首をすくめると、重量級の黒槍を軽々振り上げて、引き絞る臨戦態勢。
延珠も力を解放。全身の細胞が騒がしく目覚めのときを迎え、遅れて身を縛る重力が減衰したような錯覚。
ズキリと頭痛が鳴り出すのを、延珠は無視した。
*
二人の少女が目にも止まらぬスピードで飛びかかったと思ったら、反動による強烈な突風が聖天子の体を叩きつけた。
呻きを漏らしたときには延珠もミーシャも姿を消していた。
木材を踏み砕く音に意識が向いた。
「加勢しないのです?」
向き直ると、タクティカルベストを着込んだメイエルホリドがこちらに銃口を向けていた。
「必要ない。ミーシャで事足りる」
「ではあなたは、私を攫うのですか」
「ああ。あなたは重要な手札になる。無用な傷はつけたくない」
「──なるほど、確信しました。あなた方がリブラを掌握しているというのはうそですね」
メイエルホリドが目を細める。あたりに満ちた敵意の濃度が一段階上がる。
怖気付きそうになる心を奮い立たせて、キッと睨みつける。
「なぜそう思う」
「既に手札を揃えているのなら、こうも動く必要はありません。今のあなた方は完璧な手札には程遠い。違いますか?」
メイエルホリドは否定するそぶりも見せずただ鼻を鳴らした。
「そうだな。だがもう揃った」
「なんですって?」
「大尉の着用しているエクサスケルトン、名を『エンバー・サーペント』というらしい。火の蛇となるわけだ。何を思ってそう名付けたのかはわからんが、運命を感じるよ」
「……旧約聖書に登場する架空の動物ですね。あるいは、スラヴ神話か。どちらも破壊と混沌をもたらす存在ですが、それが?」
困惑していると、メイエルホリドが天を指す。
「『エンバー・サーペント』にはある機能が搭載されている。それは──司馬重工の衛星との単独リンク能力」
*
「──だめです、自壊プログラム作動しません。全衛星、こちらの制御一切受け付けません」
司馬重工第三分析室に、スタッフの悲鳴が反響する。
未織の睨みあげた壁スクリーンには、衛星の制御に関するデータが満載している。だが普段は青色を基調にしたディスプレイには、今や警告メッセージがひっきりなしに出現していた。
音頭を取っていた未織は、悔しさのあまり鉄扇を握り締める。司馬重工の誇るセキュリティがこうも簡単に侵されているのだ。
──誰だか知れへんけど、この借り必ず返したるからな……!
司馬重工を襲った電磁攻撃だったが、幸いにもバラニウム半導体の試験導入が功を奏し、いくつかの設備は動いていた。コンポーネントの損壊は免れなかったものの、スタッフの尽力で即座に復旧を遂げたのは司馬重工スタッフの面目躍如といったところ。
未織は名案を思いついて鉄扇をぴしゃりと広げる。
「じゃあ物理的に撃ち落とす! 付近の軌道上に他社の衛星あるやろ、確か博多の! こっちもハッキングなりして推進噴射させてぶつけるんや!」
「無茶苦茶言わないでくださいッ。大問題になりますよ!」
「あそこの社長の吠え面見たくない?」
「見たいですけどだめです!」
「落ち着け未織」
と、傍の菫が忠告の声をかけてきた。
「東京仙台間の現状を思い出せ。今衛星を撃ち落とせば無用な混乱を招く」
もっともな指摘に歯軋りする。
「じゃあ、同じ周波数で信号ばら撒くんは──」
「この被害状況では用意も難しいね。朝霞ちゃんのナビゲートを阻害しかねない」
「今、朝霞ちゃんは?」
「先ほど事故報告が上がった外周区発電所に誘導しています」
額に脂汗を滲ませたスタッフが、疑問を口にする。
「本当に朝霞さんを発電所に送ってよかったんですか? ビル内にまだ敵が潜んでいる可能性だってあるのでは」
「もう奴らはおらへんよ。狙いは試作機の衛星リンク機能で間違いない。というかこの状況でわざわざウチを襲う理由が他に見つからへん。アレの駆動機関の励起には相応のエネルギーが必要や。そこらの発電所で賄うことは可能やから、向かわせたのは悪手ではないはず。問題は間に合うかやけど。復旧に時間使わされたのが痛いわ」
「ですが、リトヴィンツェフは既にリブラを呼び出しているのですよね。衛星施設を占拠していないとはどう考えても……」
「ゾディアックを呼ぶだけなら、他に方法があるということだ」
菫が締め括るが、スタッフは理解しきれていない表情をしていた。
未織は悪化する状況に瞑目する。
今この侵攻を防ぐ一手が手元にはない。
だが。
「でもタダでは帰さへん……ッ」
齧り付くようにコンパネに飛びつくと、鉄扇を放り投げ、指を走らせる。
負荷と改ざんの発生源をガン無視して、あみだくじめいた侵入経路を特定。逆追跡にかかる──。
が、そこに報告が重なる。
「衛星にアップリンク確認。SX20Gエンバー・サーペントからです」
スタッフ一同声を失った。
「衛星から信号が直接照射されます。目標、旧栃木県北部、那須岳──リブラですッ」
*
「これでチェックだ。司馬重工」
モニターの青い光だけが照らす薄暗い小部屋で、マックスは端末を叩いて勝利を予告した。
データの送信完了を示すメッセを流し見ると、視線を別端末に移す。
衛星からの光学観測を映すモニターには、山岳を踏み越える縦長の巨体の姿があった。
一瞬、山が小ぶりなのかと縮尺を失念するが、那須岳の特徴である幅広の裾野は旧福島県端をもまたがる広大な連峰である。
たった先まで巨体を震わせていた、生理的嫌悪感を滲ませながら蠢いていた環形動物を思わせる両端の肢は、今は動きを鎮静化している。衛星からでは見えないが、腹の下で膨れ上がったウィルス嚢も膨張を止めているだろう。どうやら、『首』と『指輪』の効能は本物らしい。
「大尉。リブラを掌握しました。待機状態にしています」
『よくやった』
耳に嵌め込んだイヤホンからテノールの声が届く。
『お前は引き続き役目を果たせ』
「はい。あなたの望んだ役目に殉じます」
返答はなかった。
マックスは不満にも思わず、指先でホロディスプレイを操作してチャンネルを切り替える。
「サーニャ。今そっちは?」
「マークが聖天子とコンタクト中」
「里見蓮太郎とイニシエーターは狙えるか?」
「いつでも心臓を狙い撃てる。でも勘付きそう」
「わかった。お前は温存する。万が一のカバーに集中しろ」
「保険に聖天子を確保する?」
聖天子の存在は交渉材料足り得る。プランに必須ではないものの、確保して損にもならない。
マックスはかぶりを振る。
「深追いするものでもないだろう」
「そう。今日は風が強い。今のうちにリブラも爆発させたら?」
「馬鹿を言うなよ。それをすればすぐに仙台は攻撃を開始する。俺たちも巻き込まれる。自殺志願者じゃないんだから」
呆れ声に対してサーニャは何か言おうとしたが、ただ「そう」と返した。
それに、とマックスは言葉の接ぎ穂を拾う。
側に鎮座する煤だらけの木製ミニピアノ、その上に置かれた紙のファイルに目を落とす。
モノクロ画に写っているのはベラルーシの町だった。だが懐かしさなど湧かなかった。写真に収められた光景は破壊の跡でしかない。既に失われた町を見て湧く感情など怒り以外にない。
と、提供された東京エリアの内部資料に視線を移す。
それは異形というにはあまりに単純な肉塊だった。荒い解像度ながらも、ぶよぶよ突き出した極太短足は、マックスには生まれ損なった化け物の赤ん坊にも見えた。
「リブラの掌握は中間点に過ぎない。真に確保すべきは──」
*
瞬きを忘れているのを聖天子は自覚した。
「──衛星に?」
「本来は同型機を複数配置して、衛星との戦術データリンクを構築しビットを効果的に運用するものだったらしいが。つまり、東京エリア滅亡は自らの栄華によって引き起こされるわけだ」
メイエルホリドの皮肉も満足に返せない。
声の震えを抑えることがとうとうできなくなる。
「ですが、理解できません。『首』と『指輪』を使わずに、リブラをどうやって……ッ」
「ゾディアックを呼び出す手段は、他にもあるだろう」
答えはとっくに出ていた。
ゾディアックを呼び出す手段を、聖天子はその身を持って知っている。
「ありえません。リブラに対応するものはもう……ッ」
「──リブラに対応する『七星の遺産』は十年前既に消失した、か?」
『七星の遺産』──ゾディアックを呼び出す触媒となり得る十二の封印指定オブジェクト群。
そのうち一つが、かつて蛭子影胤の手で強奪され、東京エリアにゾディアック・スコーピオンを呼び出し大絶滅の危機をもたらしたのは記憶に新しい。
「そう思っていたのだから、思考から追いやったのも無理はない。だがそれは事実ではなかったのだよ。こちらも政治家どもから探し出すのには骨が折れたがな。ずいぶんと煤けたミニピアノだったが、今も弾ける」
そうか、リトヴィンツェフの活動は、東京エリア政治家の扇動ではなく──。
「結果引き起こされた悲劇も、俺たちは知っている。あなたの罪とは言うまいよ」
「ですが『遺産』には召喚能力はあっても支配する能力は……!」
リトヴィンツェフの真意に思い至って聖天子は絶句する。
「だから『首』と『指輪』も手に入れたのですね。ですが『遺産』は人間が利用できる代物ではないのです。『首』と『指輪』も同じこと。ゾディアックを御せるなど思い違いも甚だしい。その力はあなた方を滅ぼすだけです!」
瞬間、メイエルホリドの表情が壮絶に歪む。ベラルーシ人の口元から金属がひしゃげたような軋んだ引き攣り笑いが漏れ出した。
「そのセリフをよりにもよってあなたが吐くのか。東京エリアの長が……!」
突然の変化に、今の一言が彼の逆鱗に触れたのだと理解する。
チャンスだ、と交渉人としての自分が囁く。
このまま相手にこちらを糾弾させる流れを作れば、時間を稼ぐことも可能かもしれない。口を動かしている限り向こうは動かない。状況も変化しない。
いける──聖天子の確信は瞬く間にへし折られることになる。
「俺たちはあなた方が隠しているものを知っている。『遺産』のことではない。この地に根付く悪魔のことだ」
聖天子の瞳が誤魔化しようもなく見開かれる。なぜそれを。どこまで知っている?
「まさか、あなた方の目的は──」
そのとき、鋭い打戟音が屋上庭園を木霊した。