詳細につきましては後日、活動報告にて告知させていただきますので是非ご覧いただけますと幸いです。
「梨香ちゃんって、外で遊ばないの?」
「ずっと机にへばりついて、なにやってんのさ」
机、絵。
私の世界は、それだけで一杯になっていた。
視界を埋めるものは常に二つだけ、たまにかかる声すらも、どこか遠くて。
ただ、必死だった。幾度となく紙の上でペンを走らせ、私の
それを繰り返していく、日々で。
「──梨香、あなた、あまりクラスに馴染めてないんですってね?」
小学五年生のときの三者面談。その帰り道だったと思う。
振り返った先にあったのは、不安げなお母さんの表情だった。
「……私には、絵本があって」
「でも、それだけじゃ生きてはいけないわ」
生来、私は絵本が好きだった。
その大判いっぱいに躍る色に、堪らなく惹かれていて。
その影響で絵を描き始めた。初めて自分の絵本を描いたのは、幼稚園児の時だったと思う。
明け暮れて、明け暮れ続けた。大好きだったから。その行為がひたすら好きだったから。
「助けてくれる人がいなきゃ、この先大変よ?」
それだから、必要なもの以外はいらないのだ、と。
きっぱりと切り捨てられるような──独りでも良いと胸を張っていられるような強い人間だったら、きっと、ここで横に首を振れたのだろう。
「……そう、だね」
その時の私は、頷いてしまった。
確かに絵を描くことは好きだ。だけれど、耐えかねたから。
並ぶ二つの影は夕日に照らされて、くっきりと形を為す。
それでも、その間にぽっかりとできあがった空白が、たまらなく気まずくて。
きっと、私は母ですら自分を見てくれなくなるその日を──恐れていた。
変な娘だって、そう思われて。
どちらかに振り切れれば良い。
描くなら描けばいい、でも、誰かには見て欲しい──
そして、今のままじゃそれが両立できないのだとしたらきっと、私は変わらなければいけなかった。
「ねぇ、もしも今のところに馴染めないんだったら、中学はもっと別のところにする?」
だからこそ、と言うべきか。
そんなお母さんの提案は、もしかしたら、私が望んでいた答えだったのかもしれなくて。
今、私を見てくれる人はいない。それなら、見てくれる人がいそうな場所に飛び込めば良いのだ。
「……そう。良いかも、しれない。そしたら、たぶん──」
顔を作って、笑ってみせた。
私自身にも、それが良いのだと言い聞かせてみせた。
「──いっしょに、なれるから」
みんなと一緒、馴染んだ普通の女の子。
私を受け入れてくれる、そんな環境が──あるのかもって。
「……これで全部、かな」
封のされたダンボール箱、いっぱいに詰められているのはスケッチブックだ。
中学受験をするのだと決めた日。閉じたダンボールは、小学生の私が抱えるには重すぎたことを覚えている。
一度目に
* * *
「谷口さんさ、いつも、ずっと描いてるよね?」
中学に入ってから、部活というものが始まった。
そこで、四月になってから私は慌ててダンボールを開くことになる。
積み重なったスケッチブックたちは、すっかり埃を被っていて、開くだけでも煙たくて。
それでも、一年半ぶりにその続きが埋められるというのが、その時は随分と嬉しかったものだ。
「……好き、なので。描くの」
「そう、ならちょうどよかったよ」
だけれど、私が入った美術部は、さして活発に活動をしない場所だった。
もちろん、受験までして入った中学には、私を外に連れ出そうとする人も、むやみに構ってくる人もいなかったけれど、裏を返せばそれは、皆が自分のことで精一杯だということの証左だ。
だからこそ、息抜きの場所というのは必要だったのだろう。
『昨日のさ、《キラピュア》最新話って見た?』
『見た見た、良かったよね。二人同時変身、次の部誌はそれ描こうかな』
描こうかな、と無理やり美術部らしい話題に繋げてはみるものの、私は周囲の人達が実際にそうやって絵を描いているところを見たことなんてほとんどなくて。
実際のところ、ここはただ雑談をするための場所に成れ果てているのだ。
「学祭のポスター、谷口さんが描いてくれない? こういうの得意でしょ?」
そんな部活での、初めての部活らしいイベント。
三年生の部長が、私を見つめていた。得意でしょ、と仕事を振ってくれた。
その時の私が有頂天になっていたことは言うまでもない。
というのも、分割されたテーブルの誰も座らない場所で、その隅っこで黙々と絵を描き続けてきた頑張りが認められたからなのだと、無邪気なことに私は信じ切っていたのだから。
「ぜ、ぜひ……受けさせてください……!」
慣れず出した大きな声に、舌の根が乾く。
「そ、そう……? まあ、やる気がある分には嬉しいかな。それじゃあ、わかんないことがあったら聞いてね」
要項について書かれた紙を置いていくと、部長は自分の定位置に戻ってしまう。
そんな彼女のことなんてもはやどうでもよくて。私は食い入るように渡された紙を見つめていた。
曰く、ここで描いた絵は壁画として学祭の期間中展示されるらしい、皆の目に触れる仕事だ。
それならば──きっと、お母さんだって誇らしいだろう。私は皆に見てもらえるだろう。
その時のことを想像すると、嬉しくて嬉しくて、頬が緩んだ。
「梨香、何か良いことでもあったの?」
「うん。あった……!」
胸の高鳴りは止まないまま、電車に揺られて家に帰って一番に。
お母さんに声高に報告して、私は駆け込むようにして自分の部屋に飛び込んだ。
本棚に所狭しと詰め込まれた絵本の数々、その一つ一つを手に取り捲り、表現の海に身を揺蕩わせる。要項に記されていたことは、校舎を入れることと、日程を入れること。
日程は後から書き加えるとして、大事なのは校舎をどのように表現するか──その一点に尽きる。
赤、青、緑──ページを捲るたびに視界を躍る色彩の渦。
その中で、私は何を汲み取れば良いか。写実的なものも嫌いじゃないのは確かだ。
それでも、メルヘンチックな、現実にはあり得ない、ふわふわとした色彩、線、曖昧な境目。
重要な役目だからこそ、気を張っていた。
それでも、滅多にない機会だからこそ、私が選び取ったのは──自分の好きにやることだった。
机には収まらない紙を床に広げる。
染め上げるために、筆に絵の具を。先にペンで大体の位置取りをする──なんて、そんな間すらも惜しい。初めの一色は、叩きつけるようにして描かれた赤だった。
そこから、幾重にも幾重にも色を重ねていく。
感覚に身を任せるままだ。ある程度の輪郭だけは保ちつつ、既に塗った場所だろうと、絵の具同士が混ざり合おうともお構いなしに──むしろ、混ざれば混ざるほどに厚みが出るから。
塗りたくり、塗りたくり、塗りたくっていく。
一日、一日、一日と、過ぎていく。
完成と呼べるかは、私にもわからなかった。
どれだけ描きこんでも、決して満足できないのだから。
それでも、やりきったのだ、と。
締め切り当日、ずっと向き合って来た紙面を慎重に丸めて、私は学校に向かった。
満たされていたことに、違いはなかった。
「これだと日程が読み取りづらいね」
違いはなかったのだけれど。
開口一番に、私が持ってきた絵を見て部長が発したのはそんな言葉だった。
「でも、すごい描き込まれてるし……まあ、良いんじゃない? すごいやる気とか、感じるし」
ぱっと机の上の絵を丸めると、部長は持ち去ってしまう。
その背中を見つめていながら、ふと唇がわなないた。
──それだけ、ですか。
出ない。言葉にならないまま、掠れた呼気が漏れた。
呆けたようにして、ただその背中を見送ること。自分の苦労を誇るでもなく、随所に散らばらせた工夫を語るでもなく、私にできたことはそれだけだった。
* * *
「ねぇ、学祭のパンフ見た?」
「見たー。今年のさ、フクザツっていうの? なんか、変わってるよね」
漏れ聞こえてくる会話に聞き耳を立てつつ、視線はたった今配られたパンフレットに。
正直、気が気じゃない。配られたそれの表紙には、私の描いた絵がそのまま使われていたのだから。
一応、描いた人間の名前、というのは私の要望でペンネームにさせてもらっている。
──『クチナシ』。
どうにも、自分の名前がそのまま出るのは恥ずかしかったから、もじったものを使った。
ただ、今はそんなことなんてどうでもよくて。
「にしてもさ、この辺とか、何なんだろ」
「それ。むしろ、ちょっと不気味って感じだよねー」
くしゃり、と。
強く握りしめたパンフレットに、皺が刻まれてよれた。
そのまま、表紙すら見ずに引っ掴んで、カバンに無理やり突っ込む。
とにかく、この場にいたくなかったから──。
「──っ!」
蹴り飛ばすように椅子から立ち上がって、教室を飛び出した。
道中、巡り合う生徒たち、幾人かはパンフレットを持っている──丸めている子もいる。
その唇が紡ぐ音を理解したくなんかなくて、どんな話題が繰り広げられてるのかも知らないまま、その間を縫うようにして走った。
外は雨が降っていたけれど、傘を取ることすら頭になくて。
ぽつぽつと、降りしきる雨が視界を濡らす。じっとりと水気を含んだ前髪が視界を塞いで、それがまた気持ち悪かったから、強引に振り払うように、大きく腕を振った。
「ぜぇ……はぁ……っ」
吸い込んだ空気は、湿り気を帯びていて。
普段の潮香を纏ったものとは違って、不快だった。
跳ねた鼓動は、ちっとも収まらない。むしろ、沸々と湧き上がってくるように胸中で燻っていた感情が、余計に刺激されたかのように血液と一緒に全身を駆け巡っていて、指先がジンジンとした。
顔を上げる。
その先にあった掲示板に貼られていたものを見て、私は息を呑んだ。
私の描いたポスターだ。無数の水滴が表面のビニールに張り付いて、色はわかりづらかったけれど、私が見間違えるわけがない。
『まあ、良いんじゃない?』
『なんか、変わってるよね』
『むしろ、ちょっと不気味って感じだよねー』
手をかけてしまえば、いとも容易くビニールは破れた。
勢いに任せるまま、起きた衝動に任せるままに引き裂いた。
もう保護するものがなくなったポスターに降りしきる雨、滲んだインクが混ざり合って、私の知らないものへと、次第に変わっていく。
もしも、これを見たらお母さんはどう思うだろう。
私を見てくれる人は、どう思うだろう。
周りの人達にそう映ったように、変な絵を描く、変な子だって、そう思われるんじゃ──。
「ああ──ッ!」
雨に濡れて、すっかりもろくなった紙には、きっとそれだけで十分だったのだろう。
爪を突き立て、一気に破り捨てようとした時だった。
「待てっ!」
私の腕が強引に掴まれる。
静止した相手が誰か、顔を上げた先にいたのは女性だった。
「描き手を……踏みにじるなっ!」
パンクファッションとでも言うのだろうか。
どこか、不良らしい金髪を後ろでくくった女性。鬼のような形相で私を睨んで、怒鳴りつけてきた。
描き手のことを考えろって、そういう説教だったのだろうけど──。
「描いたの私だからっ! 自分のをどうしたって良いじゃんかっ!」
描いたのは私。だから、どうしたっていい。
日々が滲む、描いてきた日々が、視界の中でぼやけて霞んでいった。
ただ、瞬いたその一瞬が──積み重ねてきた日々の中での起伏が、不意に私の手を止めた。
「そんなら、尚更だっ!」
決して、女性は私の手を離そうとしない。
だけれど、もう私の手には力なんてこもっちゃいなかった。
きっと、知ってしまったから。一時の羞恥が麻痺させてしまった胸を張り裂かんとせんその痛みを。
「……むり、だよ」
気づいてしまった痛みに、目をつむり──これ以上、私の
「……私、には……」
これ以上作品を傷つけられないという意味か、これ以上は描けないという意味か。
その言葉が、どちらの意味を含んでいたかは、私にも定かではなかった。
「……いいや。できる」
腕を握りしめる感触が弱まって、今度は手を取られた。
凍えてしまいそうなぐらい、雨に濡れてきた中で、唯一私が寄りかかることのできる縁、温もりがそこにあった。
「失礼、申し遅れたが、アタシはマリー。絵本作家を目指している。それで、もし良ければだが──」
ぎゅっと、両の手で私のそれを力強く握ると、彼女は私の目を真っ直ぐに捉えて、口にした。
「──アンタの絵が、欲しい。アタシのアシスタントをしてみないか?」
真っ直ぐに、
その日、頷いた時、土砂降りの雨がしきりに濡らすアスファルトの真ん中で。
私は、彼女の──マリーさんのアシスタントになった。
そして、それが私と『クリザリッド山手』との出会いだった。
* * *
「梨香、そこの色塗り頼めるか?」
「もちろんです、マリーさん」
受け取ったまだ色の塗られていないラフ。
輪郭は曖昧なままでいい、ただその上に色を重ねていき、世界に奥行きを持たせていく。
それが、私の表現だった。
「……ありがとう。やっぱり梨香に頼むと安心できる。特に──色彩感覚が良い」
完成した絵を見てマリーさんはほぅと息を漏らす。
ここ──『クリザリッド山手』でアシスタントとして働き始めてから一ヶ月ほど、未熟さを指摘される回数よりも、こうして褒めてもらえる機会の方がずっと多い。
もちろん、作品を制作するという動機に自己満足が絡んでいるのは確かで。
それでも、こうして褒めてもらえる──見てもらえる、というのは全く違った感覚を私に与えてくれた。
「色彩感覚が豊かなヤツってのは往々にして、美しく世界を捉えられているんだ。そういった意味じゃ梨香、アンタのそれは才能だよ」
マリーさんにそう話しかけられたのは、賞に上げる絵本を完成させて、その打ち上げとして居酒屋でご飯を奢ってもらっていた時だった。
普段なら褒めてもらえたら胸が躍っていた、もっと描かせてくれと、そう思えた──のだけれど。
──違う。
私が捉えている世界が美しいだなんて、そんなことは決してなくて。
むしろ、描いていたものはその真逆、逃げ込んだ先、逃げて、逃げて、逃げた先で私が捉えた理想。
ああ、こんなところにならいてもいいなって──そう思えるような、私
「……そう、だったら嬉しいです」
口を衝いて出た言葉、そっと上辺をなぞる言葉。
中学生にもなってようやく少しはわかるようになってきた、相手を持ち上げるための嘘だ。
「ああ。十分、お前には才能がある」
そうやって、少し酔いが入ったマリーさんがわしわしと頭を撫でてきて。
私の手の中で、握りしめていたコップが震えた。
ぽちゃん、と。跳ねた水滴が起こした波紋。マリーさんから目を逸らすようにして、私はずっと視線を落としていた。
* * *
「──本当、ですかっ!?」
その電話にマリーさんが出た時も、私はアシスタントとして彼女の作業場にいた。
今までにないぐらい大きな、それこそ出会った時と同じぐらいの唐突に響いた大声に驚いてしまってペン先が震えてしまったことをよく覚えている。
「梨香、デビューが決まった……!」
机に手をついて、顔も近くて。
そんな至近距離で喜色よりも、驚いたような表情を浮かべながら嬉しいニュースを伝えてくるマリーさんは、まだ現実を受け止めきれていないようで。
私もぽかんと呆けたまま、その話を聞いたのを覚えている。
「良かった……本当に、おめでとうございます……!」
それは、心から漏れた本音だった。
ずっと一緒に絵を描いてきた相手──唯一、私を
……嬉しいことに決まっていた、はずだった。
「梨香、あとどれぐらいで上がる!?」
「えっと……あとっ……」
急く、急かされるままに筆を走らせる。
ちらと隣に視線をやれば、山積みになった原稿。描いて、描いて──どれだけ描いてもなお、ちっともそれは目減りしない。
「ここのページ、リテイク頼めるか?」
そうして、一度描いたページをまた突き返される時もある。
デビューが決まってからというものの、目に見えてマリーさんは忙しくなった。
今までのように、賞に向けた締め切りが薄っすらと決まっていて、最悪そこに間に合わなくても次があるからと伸び伸びとやっていけるようなものでもなく、動かせないものとして確かに目の前に定まっていて、強く人を急かすものとして。
「ああ──クソっ!」
マリーさんは拘る人だ。
こと自分の作品においては、極限まで妥協をしようとはしない。
だからこそ、締め切りが迫るにつれて、納得するものができなくても妥協をしようとはしないから、ただひたすらに自分の体を削るのだ。それこそ、何徹もしながらエナジードリンクで誤魔化して。
「……梨香、今日はもう帰って大丈夫だ」
「でも、だいぶ作業が残っててっ……」
「これ以上は親御さんも心配するだろ? あとはアタシに任せとけ」
そうやって強がって、無理矢理にでも私を帰そうとするから。
そんなマリーさんを見ているのが堪らなくなってしまったのだ。
「マリーさん。私、今日からここの一階に住むことにしたから。遅くまでいても大丈夫」
「なっ!? 何もそこまでしろとは……」
「大丈夫、赤城さんにも話を通したし、両親にも学校に通いやすくするためってことにして、許可は取ったから」
少しでも力になれたら、と。
ここに──『クリザリッド山手』に住むことにして、それをマリーさんに伝える時、私は随分と軽い調子で言ったと思う。それだけ、彼女が気負わないように、と。
それぐらいの配慮は私にもできたつもりだった。
「……リテイクだ。編集から……締め切りがっ……」
だけれど。
結論から言ってしまえば、ちっとも状況は好転しなかった。
「描かなきゃ。描かなきゃ、思われちまう──アタシはできないやつなんだって……」
──見限られる。
小学生の頃、三者面談の日の帰り道。
夕焼けに染まる帰り道に、母親を前にして私の中で浮かんだ言葉。それを、マリーさんが口にした。
追い立てられたような──もう逃げ場がないような、そんな表情を彼女はしていた。
信じたくなかった。
だって、マリーさんは誰も見てくれない中で、唯一私を
言うなれば、彼女は私にとっての道しるべ。それに近しい存在だったのだ。
だというのに、今は彼女自身が壁にぶつかっていた。それこそ──。
「……梨香、もう少し急げるか?」
私を
* * *
「──”つつかれたら、『から』にこもる”……」
思わず、その一節を口に出してしまう。
私が「それ」と出会ったのは、マリーさんの絵本を仕上げる参考にするため、他の絵本を漁っていた時だった。
『から、から、から』──と。
異質さを放つそのタイトルに惹かれるまま、手に取って。
ページを捲っていく中で、『から』を持つ生き物たちが私の視界に飛び込んでは消えていく。
──だって、いたいのはいやです。ひからびるのだっていやです。
だから、みんな『み』をちぢこませているのです。『そと』と、ふれないために。
まるで貝のように、とでも言うのだろうか。
そうやって、海の底の底でひっそりと、息を潜めて決して外と触れずに過ごしていく──。
「……いいな」
直後、私が驚いたのはそんな言葉がぽつりと自分の口を衝いて出たからだった。
それはきっと、恐ろしいことなのだと思う。
そうやって、人と触れ合わずに生きていくなんて、ほら、もしもお母さんやマリーさんが聞いたらどう思うだろう。
おかしい。正しい生き方だとは到底思えない。
そんな子からは皆、当然目を逸らすだろう。……いや。そんなことをしたら目を逸らす以前に、自分から引っ込んでしまったら、誰からも見てもらえない。
こんなのはあり得ないことだと断じてしまいたくて。
いっそ笑い飛ばして、一瞬感じた恐ろしさを遠ざけたくて。
遠ざけたかったのに……確かだったのだ。たった一言でも、私の口からそれを肯定する言葉が漏れたことは。
だから、その時はそっと本棚に戻してしまったけれど。
私が再びその背表紙に指をかけたのは、出会った日から数えて、そう遠くない時だった。
「……終わんのかよ、これ……」
忘れもしない。ひょんなことから漏れた一言。
それをマリーさんが口にしたのは、リテイク締め切り、その前日の深夜だった。
普段は士気を落とさないため、何よりも諦めないことを信条にしているマリーさんが絶対に言わないであろうこと。
「……どうして、そういうこと言うんですか」
きっと、お互いに疲れすぎていたのだと思う。
だからこそ──私だって噛みついてしまった。今になって思えば、それがいけなかったのだ。
「どうしてって……そりゃ、このペースだ! 間に合うわけがっ……!」
「だから、私が手伝ってるんじゃないですか!? 散々間に合うようにって!」
「だからって……じゃあ現状、間に合ってないだろ!?」
マリーさんの机の上には原稿が山積み。
そして、私の机の上にも……原稿が積まれていた。
「大体、マリーさんは拘りすぎなんですっ!」
こだわることは美徳だ。どれだけ時間をかけようと、作品を完成させたい──そんなマリーさんの気持ちもわかる。
だけれど、私は完成させることそのものに、大して境界線を引いていない。
ある程度自分で満足できれば、それで良いのだとそう思っていたから。
これのどちらが悪いか、なんて。のちになっても私は評価できないままでいる。
というよりも、こんなのは考え方の違いだとか、その程度の問題でしかなくて。
そうやって、善悪を決められるものじゃない。
ただ、互いに熱くなっていた。
そうして、マリーさんは──そう、言い放ってしまった。
「わからないだろうなっ! 梨香──お前に、私のこだわりはっ!」
「──っ!」
はっきりと拒絶された瞬間だった。
咄嗟に言い返そうとしたのに、ぱくぱくと口を動かしたところで、喉がきゅっと締め付けられたようで、抜けた空気が掠れた音を立てるのみで。
そんなこと言われたって、私にどうにかできるわけがなかった。
「じゃあ、もういいよっ!」
出会った時と同じように声を張り上げて、立ち上がった。
ガンとぶつかった、机からペンが落ちて、飛び散ったインクが掠めて、私の指先を赤く染めた。
ミシリ、と。踏みつけて軋んで、そのまま折れた感触がしたけれど、無視して駆け出した。
一段飛ばすように階段を下り、ドアを開いて自分の部屋に駆け込む。
扉を閉めた瞬間のジンジンとした指先の感触が止むまでの間に、マリーさんは追ってこなかった。
「……なん、だ」
それで、悟ってしまったのだ。
「あなたも、
* * *
中途半端に『から』の外に出たせいだ。
だから、こんな痛みを負ってしまった。
マリーさんと喧嘩別れして、自分の部屋に閉じこもるようになって一ヶ月程が経つ。
マリーさんは、何日も何日も部屋を訪ねてきた。
『なあ、梨香。話がしたい』
だけれど、鍵をかけて、ずっと閉じこもって。拒絶している内にまた忙しくなったのか来なくなった。そうやっている内に私は知ってしまったのだ。
『から』に閉じこもっていれば、どれだけ良いかって。
だって、傷つかない。痛くない。
人の顔色を伺ったり、失望させないかななんて、神経をすり減らしたりしなくてよくて。
好きな時に、好きなようにしていればよかった。
──そして、ひと。となりのこには『から』がなくて、わたしには『から』があります。
ふれられない。ひとだって、ふれられない。
人と触れて、私はどうなった?
マリーさんと出会った時は、それこそ私を
だというのに、最後は──決別した時の言葉は、私には彼女のことがわかっていないのだと、そうやって、私を引き剥がすものだった。
あんなに、近づけたと思ったのに──結局のところ、少しも触れられていなくて。
じゃあいいやって、私はもう触れなくていいやって、ここにいる方が都合が良くって。
いくらでもある時間の中で、資料用に溜め込んだ絵本を、私は読み続けた。
時折、模写してみて──そして、いつしか自分でも描き始めた。
マリーさんみたいにアシスタントなんかいなくたって、私一人で十分じゃないか。
こうしていても、楽しいよ。だって、傷つかずに済むんだもの。私の”好き”だけで、世界を形作れるんだもの。だから、ずっとここにいたっていい。こじ開けてくれるな──触れるな。
そうやって断ち切った、外部との関わり。
* * *
また、私を
『手のかかった素敵な絵ですね!』
元々は活動を記録していくために始めたSNS。
中学を卒業して、通信制の高校に入って、こういったインターネット上のコミュニティーがあるのだと私は知った。
ほんの好奇心で始めたものだったのだけれど。
『こういう絵、好きです。フォローさせていただきます!』
次第に、フォロワーは増えていった。
凄まじく多いというわけでもない。ただ、中堅程度の有名人といった感じで、『クチナシ』はその名を広めていく。
──フォロワー一万人。
中学の頃にいた美術部よりも、それどころか学校全員よりもずっとたくさんの人が、私にはついてくれていた。だというのに──。
『それは違うよっ!』
──瑠璃。
無遠慮な彼女は、私のことを間違っていると。
はっきりと、そう断じてきたのだ。
彼女を部屋から追い出して、床に散乱していた絵本を再び積み上げる。
全く、無遠慮な子はこれだから嫌いだ。常に距離が近くて、こうやって触れてくるから。
もしかしたら、マリーさんの差し金だったのかもしれない。
だとしたら、尚更無駄なことだ。もう今の私には、『から』があるのだから。
キーボードを叩く指先は我ながらハイペースで、苛立ちがまだ残っていた。
一日一回の『クチナシ』の確認。イレギュラーなことがあっても日課は済ませておきたかったから、SNSを開いて。
「……え」
私は、戸惑ってしまった。
フォロワー数が前日よりも100人ほど増えている。
つい先日上げた絵に二万いいねがついている。
「……はは」
これがどういう状況にあるのか、わたしは知っていた──バズっている、というやつだ。
『先鋭的な色彩表現、絵の具で描いているようだが、完成しているようにも未完成なままにも見える。良い絵だった』
私でも知っているような有名な画家が、私の投稿を引用して感想を述べてくれていた。
それも、的確に。これがきっかけで、だから伸びたのだろう。
「……やっぱり、正しかった」
瑠璃の言ってることが間違っていたんだ。
たとえ、彼女が私を否定したって──ここには、肯定してくれる人しかいない。
『今回の絵も素敵です!』
『この絵を見て、過去投稿も追わせてもらいました。次も期待しています』
期待、されている。
皆が、
それなら、早いところ次を描こう。もっと、褒めてもらえるようなものを。
モチベーションは上昇気味、この上なく調子だって良かった。
良かった、のだ。
『くしゃくしゃ、丸めて放る。描けない、私には』
『こんなの、認められるかもわからないのに』