遠く、波音が聞こえる。
山手の坂道を上るにも近頃は蝉時雨が辺りを覆っていたから随分と久々に思えた。
纏わりつく空気は乾きつつある、射し込む日は弱々しくなってきている。
確実に、夏の終わりは近づいてきていた。
「ありがとね、浜音くん。買い出し、付き合ってもらって」
「……いや、今のところ足を引っ張ってるのは俺だし……」
瑠璃から視線を逸らすように、俺は両手にぶら下げたレジ袋を再度持ち直した。
こそばゆかったから──というよりも、情けなかったから。
というのも、ここ数日間梨香に届けようと絵本づくりをしていて、ちっとも俺は貢献できていないのだ。案外すんなりといった前回と比べると、文章が紡げない今回は難産気味だった。
「まあ、誰にだってスランプに陥ることはあるよ。あんまり気にしすぎないこと。それが、早く立ち直る方法だと思うし」
そうやって、瑠璃は優しい言葉をかけてくれる。
こうやって買い出しに誘ってくれたのだって、俺の気分転換という側面が強かったのだろう。
一人で書いているのなら、スランプから立ち直るまで待ったっていい。だけれど、今回は皆でやっていることなのだ。
俺一人が立ち止まったままでいて解決できる問題ではなくて。
それでも、名乗り出た以上は逃げるなんてもってのほかだった。
「……そうだな。多分、治るさ」
ぽつりと吐き出した言葉。
坂道を上っているせいか、荒げた呼吸混じりに押し出されたそれは、ちっとも余裕ぶったものではなくなっていて。それでも、強がりたかったのだ。
ものづくりにはそれぞれの領分がある。俺自身の問題は、俺が解決しなければならない。
できるからと虚勢を張ったにも関わらず、帰途につく中で俺は俯いていた。
西日が射し込み、目の前に落ちた影。それが、やたらと目につく中で進んだ。
足を──引きずるようにして。
* * *
『寝られない。描けない自分が憎い』
『色を重ねても重ねても、いつまで経っても腑に落ちない』
『描けないのに、明日は来るから。うずくまるだけで精一杯だ』
もう、夜遅かった。
クチナシの呟きが更新されると机の端に置いたスマホが鳴る。その度に、はっと目覚めるのだ。
周りを見てみれば、マリーさんは仮眠を取っていて、瑠璃の机はもぬけの殻。
作業が一番遅れているのは俺なのだから寝ている場合ではない、と。頬を叩いて気合を入れた、けれど。
そうだとしても、進捗は芳しくなかった。
──”ヤドカリくんは歩いていきます。「ねぇ、お魚さん。乗せてくれませんか?」”
主人公のヤドカリが目指すのは水上。そのために、海の生き物たちに声をかけて、水底を歩くことしかできない彼は進んでいく。
だけれど、引っ込み思案なことには違いないのだ。
「……この表現だと、少し社交的すぎるか……」
今しがた書いた原稿を丸めて放る。
主人公のありようは、どこか俺と似ていて。「から」にこもっていた生活から藻掻いて抜け出そうとして、その先で目指していた景色を見ようとしている。
重なるがゆえに、書けないのだ。
『君の表現はストレートすぎる。あまりにも感情が剥き出しなのです。作品と作者は常に距離を取る必要がある。過剰な感情移入は異物をもたらしますから』
以前、マリーさんの原稿を手伝った時に担当編集の才田さんから言われた言葉が脳裏をよぎる。
あまりにも感情が乗りすぎている、だからこそ、独りよがりな作品になってしまっているのだと、真っ向から否定された。
瑠璃もマリーさんも頑張っていて、そうして届けたい相手が──梨香がいて。
だけれど、俺があまりにも独りよがりなものを書いてしまったらどうだろう。
全体のバランスが崩れてしまう──
そう思えばこそ、筆が進まなかった。
「……ん、お疲れ、浜音くん。調子はどう?」
その時だった。
先程まで席を外していた瑠璃が戻ってきたかと思うと、俺の隣で原稿を覗き込んできた。
「……まあ、何とか」
「何とかなってるならいいんだけど……あんまり根は詰めすぎない方が良いよ?」
出会った時からずっと、瑠璃はとにかく距離感を詰めてきた。ただ、相手を知るために。
そんな彼女だからこそ、きっと俺が今どんな状態にあるか、強がりを吐いているだけ、ということにも気づいているに違いない。
「瑠璃の方はどうなんだ?」
「まあ、しごかれながらも頑張ってるって感じ。やっぱり、マリーさんも梨香ちゃんもすごいよ。あたしには全然届かない場所にいる気がする」
そうやって伸びをする瑠璃は遠い目をしている。
それでも、俺からしてみればそんな彼女の存在だって遠いものだ。
少なくとも、俺が今やっているのはものづくりの真似事に過ぎない。これで食っていく覚悟もなければ、作業だって進まなくて。
だからこそ、余計に思うのだ。迷惑をかけちゃいけない──ここで、自力で完成させなければいけないって。向こうは、俺よりもずっと必死なのだから。
「ねぇ、浜音くん」
そんなことを考えていた矢先だった。
「……どうしたんだよ、それ」
不意に頬をつついてくると、瑠璃は微笑んでみせた。
「ううん、少しだけ着いてきて欲しい場所があって。今、良いかな?」
「それって、何の──」
「ほらほら、つべこべ言わないで! 行くよっ!」
強く手を引かれて、勢いのまま立ち上がってしまう。
「行くよ」と言ったが最後、瑠璃は待ってくれなかった。
「おい、待てよ!」
初めてここに来た時、雨中立ち尽くしていた瑠璃を追いかけていた時と同じように、先に飛び出していった彼女を追って階段を下る。
ねじ込むようにして靴を履き、飛び出していった外では、既に歩道まで降りていた瑠璃が手を降っていた。
「こっちこっち! きっと、気に入るからさ!」
原稿にもう少し着手していたかった──だとか、色々と思うところはあったものの、こうやって飛び出してきてしまっては仕方がない。
もうかなり遅い時間だと言うのに、瑠璃は軽快に跳ね回ると、俺が歩道まで降りてきた途端に、また駆け出した。
こうなってしまえばもう、ヤケクソだ。
街灯が夜道を照らす中、駆ける。ただ、彼女の背を追って。
腕を振り上げ、地面を蹴り上げ、一歩一歩、寝不足で身体が重いのなんて気にしてる暇すらなくて。
纏わりつく夜風がつんと潮香を纏ってきた頃に、ようやく瑠璃は立ち止まった。
「……案外体力あるんだな。疲れたよ」
「絵本作家は体力勝負だからね」
ちっとも息を切らさないままで瑠璃が待っていたのは、以前も来た「港の見える丘公園」の中腹だった。
生い茂る木々の中で、石造りの小屋が中央には立っている。セミも鳴いていなければ、人っ子ひとりおらず、街の喧騒から外れた静かな場所だった。
「……それで。結局、俺をここに呼んで何がしたいんだ」
見たところ、周囲に何かがあるわけでもなく。
俺を呼んで彼女が何をしようとしているのか──それを察することはできなくて。
答える代わりに、瑠璃は俺に向かって真っ直ぐに視線を向けてくる。
ぱっちりとした瞳に映り込んだ俺は顔を強張らせている。既に彼女は俺のことを見透かしてしまっているような気がして。
「浜音くん、困ってるでしょ」
そして、案の定というべきか。
瑠璃はどうやら、俺が置かれている状況を知っているようだった。
「……まあ、そう、だけど……」
もはや、これ以上取り繕う方が難しかった。
周囲は静まり返っていたから、ぽつりと吐き出した言葉でさえ、十分に響いて。
「……何と言うか怖いんだ。また、やらかすんじゃないかって」
今、書けない理由。それを最も的確に表してしまう言葉は「怖い」──それに尽きた。
「俺の書いているものが人に届けていいものなのか、わからないんだ」
ほんの一つの言葉で人はすれ違って、つつかれて痛みを知って。
だからこそ、もっと慎重になるべきなんじゃないかって、踏み出すことすらままならなくて。
弱みを吐き出せば吐き出すほど、余計に情けない存在に自分が思えてくる。
それでも、聞き終えた瑠璃は表情一つ変えることなく呟いた。
「仕方ないよ。だって、あたしたちは書いてるんだもん」
それは、どこか割り切ったような口調ではあったけれど、それは彼女が描くことに向き合ってきたから。それゆえに、あっさりと出た言葉だったのだろう。
「浜音くん、ものづくりって何だと思う?」
聞かれてもすぐに、答えは出てこなかった。
黙り込む俺の前で、「答え合わせだよ」とでも言うように、人差し指を立てて瑠璃は教えてくれる。
「感じること──嬉しい、悲しい──もっと複雑なことも人は経験して、捉えて。それが身体を追い越すの。溜め込んでおけないぐらい膨れ上がって、どこかにぶつけたいって衝動になる」
どこか覚えのある言葉ではあった。
「諦めたくない」というマリーさんの強い意志、それに当てられて紡いだ一節。
あまりにも強い感情を覚えた時、自分で咀嚼するよりも先に生の感情として記されること。
それは経験として、俺の中にあったから。
「ぶつけることはね、誰かに受け取ってもらうことと同じ。ものづくりってさ、人との繋がりを求めることと同じなんだ」
だけれど、大事なのは記した後だ。
『君には見えていない。これを手に取る、相手の顔が』
まだ俺は怖い。瑠璃の言う通り、書くことは、衝動をぶつけることは、誰かに受け取ってもらうことだから。そうやって繋がりを求めるのも、俺の作品を受け取って、相手がどんな風に思うのか、考えることも。
──そして、ひと。となりのこには『から』がなくて、わたしには『から』があります。
ふれられない。ひとだって、ふれられない。
結局は、真の意味で人に触れることはできないのだから。
言葉一つで、相手の感情がどんな風に変わるのか──なんて、俺にはわからないのだから。
だから、「から」に答えを求めた。その中にいれば絶対安全だって高をくくっていた、はずなのに──。
「……じゃあ、どうすれば良いんだよっ……」
繋がりを求めてしまった。
瑠璃に興味を抱いて、マリーさんに歩み寄ってもらって、今は梨香に向き合おうとして。
だというのに、都合が悪くなると「から」の存在を思い出して、また一歩引こうとしてしまう。
「……怖い、怖いんだよ。俺の接し方は正しいのか……ちゃんと、変われてるのか──何もわからなくて……」
弱音の上に、更に弱音を吐いて。こんな時でも、瑠璃から俺はどう見えているのか──なんて、過剰なほどに人と自分との距離を見定めようとしていた。
「……良かったのか? こんなに中途半端な俺が、『から』の外に出ようとして……」
否定だろうと肯定だろうと、とにかく答えが欲しかった。
だからこそ、問いかけた。教えてくれと詰め寄った。
「……それはさ、浜音くんにしかわからないことだよ」
こんなことを聞かれたって、答えられるわけがない。
瑠璃にあしらわれてしまったような気がして、だけれど、それが至極当然なことのようにも思えてしまって、全身から力が抜けていくようだった。
ジンジンと瞼が傷んで、開いた口はすっかり乾ききっていて、感覚なんて曖昧で。
「──なっ」
不意に、俺の両肩に手が触れた。
伝わってきた熱に思わず身体が強張り、そうして、振り向いた先で。
「でもね、確かめる方法はあるよ」
俺の身体を支えるようにしながらも、継がれた瑠璃の言葉。
それに釣られるようにして、俺は空を向いた。
「一度──顔を上げてみて」
──瞬いていた。
無数の星が、無限の光彩が、空一面を覆っていた。
澄んだ黒に散りばめて、霞ませる雲を貫いて。遠く、遥か遠くから降りしきる光が、俺の視界を鮮やかに色づける。
「それってさ、『から』の中にいても、見れるもの?」
深い海の底から見上げたとしても、それはきっと光の束にしかならなくて。
「から」の中からなんて、見つけることすらできないもので。
瑠璃の問いに首を振る。今、こうやって大地を踏んでいなければ、俺はその麓で捉えることなんて、できていないのだから。
「『から』の外に出て、顔を上げてみればわかるでしょ。外の世界と繋がってるんだ──って。一人じゃないことがわかるから、あたしはここに来るのが好き」
「好き」──彼女がその言葉を使う理由は言うまでもなく伝わった。
今、こうやって二人占めするにはもったいないぐらいの星々が、ここでは俺達を取り囲んでいたのだから。
「何があったのかは聞かないけど、一度手を伸ばしたから、触れようとしたから、その苦しみをあなたは知った。つつかれて、『から』にこもって」
手痛い失敗を犯した。それが嫌で家を飛び出して、学校にすら通わず、逃げ出してきた。
外に出たことで、俺は確かに一度、痛い目にあったのだ。
「それでもね、あたしやマリーさん、梨香ちゃんと出会って、あなたは書く意味を得た。もう一度、書き始められたんでしょ?」
『アタシはハマの表現が好きだ』
『正直で、自分の内面を描き出したもの──浜音くんらしい表現で、あたしは好きだと思った』
どうして、忘れかけていたのだろう。
ここに来て、認められて、今みたいな居場所を得て。
「から」には相対させられた、才田さんは認めてくれなかった。
募っていく焦りの中で、俺はまた繋がることを恐れた。
「だから、今回は大丈夫。あたしはあの時、浜音くんの気持ちを受け取った──繋がったんだもの」
それでも、「から」の外に出てようやく、出会えた人がいた。
俺が紡いだものを受け取って、繋がったと言ってくれる人と出会えた。
「あなたは、書けるよ」
足はまだ震えていて、怖いことには違いない。
今回書いたものが梨香には届かないかもしれない──そういうリスクだって、確かにある。
それでも、たとえ痛みと隣り合わせだったとしても、つつかれたとしても、「から」の外にしか広がっていない景色があることを知ったから。
「……そう、だな」
それに向かって進むことは、恐れて引っ込むよりもずっと──価値のあることだ。
「書くよ。梨香にも教えなきゃいけないもんな。外には──こんなに綺麗なものがあるんだって」
何せ、たった今、俺自身が立ち会っているのだから。
満点の星空に、認めてくれる人──「から」の中にいては、決して出会えなかったものに。
「きっと、良いことがあるんだって」
過去に囚われていた自分がこうして知れたように、梨香だってわかってくれるはずだから。
悴んでいた指先は、すっかりと動くようになっていた。
* * *
『少し、最近の投稿頻度低くないですか?』
──描けない。
『少し、パースが歪んでる?』
──わからない。
『表現が一辺倒に偏りつつあって、近頃は新鮮さが感じられない』
──認められない。
「……DM?」
描いて、投稿して、描いて、投稿して、描けなくて。
いつまで経っても完成しないものだから、私の中ではずっと空気が張り詰めていた中で。
唐突に、通知音が鳴った。
「……誰からだろ」
コメントには全て目を通しているけれど、DMを使って感想を送ってくるユーザーというのは珍しい。
もしかしたら荒らしかもしれない、とか。そんな可能性はあったけれど、どちらにせよちっとも描けてはいないのだから、見る分には関係がなかった。
「……え?」
開いた瞬間に、思わず声が漏れる。
何せ、送り主のアイコンは初期設定、そして、名前のところには──。
「……鴨目、瑠璃──本名アカ……」
今はマリーさんのアシスタントをしていて、そして、少し前まではこの部屋に通っていた少女のものが記されていた。
添付されていたのは音声ファイルだ。怪訝に思いつつも、再生ボタンをクリックして──。
『あたし、あなたの作品が好き!』
その瞬間、響いた大音量に私はたじろいでしまった。
そこで途切れた音声から考えるに、伝えたかったのはそれだけのようで。
だとすれば、尚更意味がわからない。
「……何がしたいわけ?」
冷やかしだとしたらたちが悪い。
込み上げてきた怒りに突き動かされるままに、ドアノブに手をかける。
と、その瞬間にようやく今、彼女とは折り合いが悪いことを思い出す。
無視だ。こういうのはブロックに限る、と。机に戻ろうとした時だった。
「……ん?」
私は、ドアの前に何やら置かれているらしいことに気がついた。
他に物音が聞こえてこないか、しっかりと確認してからドアを開け、件のものを部屋に引っ張り込んでからすぐに閉じる。そして、何が置かれていたのかドアにもたれかかりながらも、確認した瞬間だった。
「なっ……」
それは、私にとっては確かに見覚えがあるもの。
表紙に描かれているデフォルメされたヤドカリ──間違いなく、マリーさんと描いていた絵本だ。
鼓動が早まる、視界が狭まる、思い出されてしまう、あの時、あの瞬間が。
思わず、手放そうとして──だけれど、それを制止したのは一つの気づきだった。
「色が、塗られてる……?」
確か、私がこれを手放したのはペン入れの段階だったはず。
決して、こんな状態ではなかったから。思わず、ページを捲った瞬間だった。
「っ」
思わず、私は息を呑んだ。
深海から水面へ、鮮やかなグラデーションの中で描かれた青。
そこで泳ぎ回る魚たちは、大胆なぐらい色鮮やかで、一見すると調和を乱しているように見えるけれど、自由な彩りがあった。
どこか、見覚えのある塗り方──というよりも、これはほとんど私の塗りに近い。
どのページを見てもそう、誰がこんなことをしたのか。
一瞬、マリーさんかと思ったけれど、彼女は拘りが強い。間違いなく、自分の塗りを優先する人だ。
だとしたら、残る候補は一人しかいなかった。
「……瑠璃、なんだ」
私の描き方を入念に調べてきたのが見て取れる。ところどころ荒削りだけれど、必死で再現しようとしているのだ、と。
ここまで私に近い描き方をできる子がもうマリーさんのところにはいるのだ。
「……じゃあ、いらないじゃん、私」
もう、とうの昔に終わったことだというのに、今更そんな言葉が口を衝いて出た。
もしも、あの時マリーさんと仲直りできていたら、こんな風に今も一緒に絵本を描けていたのかもしれない──なんて。そんなのは、たらればでしかないわけだけれど。
見ているだけでも胸が締め付けられるようだったから、手放そうとした時だった。
「……文章?」
確か、私とマリーさんがこの絵本を作っていた頃は、まだプロットしか存在していなかったはず。
誰が書いたのか、好奇心に駆られ、文字列を目で追ってしまう。
──"知ってますか? 海の上に咲く花があるんです”
何となく、マリーさんが使う表現とは違う気がした。
彼女はもっと、わかりやすい言葉を使うから。これは、良くも悪くも書き手のクセが出ている。
描かれているのはヤドカリの冒険だ。色々な海の生き物に出会って、花火を見ることを目指す──筋書きこそ、変わっていなかったけれど。
──”なら、乗せてくださいと、そう言うのがヤドカリは怖かったのです”
──”「から」に隠れていた方が、どれだけ楽だったでしょう”
ひしひしと伝わってくるネガティブさ。
執拗なまでに出てくる「から」。書き手の目星は付いた。きっと、瑠璃と一緒にいた男の子──浜音が書いたものだ。
ヤドカリは話しかける度に悩む、時には本当に殻にこもってしまう。
それほどまでに引っ込み思案で、過剰なまでに他者を恐れていて。だというのに、何故か歩みを止めることはない。それが不思議でたまらなかったから、読み進める手を止めることはできなくて。
そして、辿り着いた。
──”水鳥の背から、ヤドカリはその景色を見ました”
──”空に咲く大輪の花、無数の色彩が咲いては降り注ぎます”
ようやくヤドカリは水上に飛び出して、その景色を見ることができた。
最後に続く一文は、今までとは真逆で。
──”「から」の外に出て、良かった”
「から」の外に出なければ、見られないものがあるのだ、と。簡潔に、そう伝えてくるものだった。私はどうだったろう。外に出て、何を得た?
小学校でも、中学校でも、描いたものを理解してくれる人はほとんどいなかった。
私は一時、描く意味すら曖昧なままで、ある意味独りよがりなままで描き続けていた。
『──アンタの絵が、欲しい。アタシのアシスタントをしてみないか?』
それでも、必要としてくれる人が目の前に現れた。
幾度となく褒めてくれて、私の力を存分に振るえて、そんな心地の良い居場所。
だけれど、それはもう取られてしまったようで。
ぽたり、と。落ちた雫がページを滲ませた。
震える指先で、最後のページを捲り、そこにあった景色を私は見た。
本来なら、そこにあったのはヤドカリが見たであろう花火。
それでも、最後のページだけは線画が残されたまま、手つかずの状態で。
まじまじと見つめている内に、挟まっていたものがするりと床に滑り落ちる。
「……そっか」
それを見て、私はようやく意図を理解した。
「描いて、良いんだ」
私の描き方を認めて、真似てくれて。
私の置かれた状況を理解して、文章を綴ってくれて。
そもそも、私をここに連れてきてくれて。
そんな人達が、用意してくれた居場所があるのだとしたら──。
これは、インターネットに上げるものでもなんでもない。
認められるためではなく、自分で自分を認めるため──そのために描いて良いのだ。
机に持っていき、筆を取る。
一心不乱に色を塗りたくり、重ね、広げていった。
まるで、色彩の海に揺蕩っているかのように、次から次へと私の前に色が現れる。
暗い部屋の中でも、視界だけは彩られて──そして。
大輪の花火が、そこに現れた。
* * *
「……来てくれたんだ」
「ん、答え合わせのために、ね」
絵本を完成させて、梨香に届けてから一晩が経って。
様子を確認するまでもなく、彼女はマリーさんの部屋に現れた。
以前の部屋着とは違って、今日は制服を着ていて、ボサボサだった髪も幾分か整っている。
一応は外に出る、ということで身だしなみを整えてきてくれたのだろうか。
「梨香……その……なんて言えば良いか……」
そんな中で、マリーさんは明らかに取り乱していた。
いつもよりずっと歯切れ悪く、言葉を口にする。
「取り敢えず、みんな集まったんだから、場所を移そうよ」
どこか妙な空気が蔓延しそうになったのを瑠璃が阻止する。
「ここじゃ花火はできないから、ね?」
* * *
中庭に行くと、そこには既にバケツが据え付けられていて。
以前の買い出しの時に瑠璃が買ってきた大量の花火が並べられていた。
「梨香ちゃん、持ってきてくれた?」
「もちろん」
そして、梨香がつまんでいる線香花火。
それは、絵本と一緒に瑠璃が届けたいと言っていたものだった。
「久々なんだからさ、楽しい再会にしなきゃ! さ、点火しよ! 点火!」
相変わらず気まずそうな顔でいるマリーさんに線香花火を持たせ、それから俺の方を向くと瑠璃は頬を膨らませる。
「浜音くん、どうしてそんな遠くにいるの?」
「いや、俺は……最後まで迷惑かけちゃってたし……」
結局、絵本づくりにおいて一番時間をかけたのは俺が書いた文章だ。
少しばかり情けなくて、距離を取ってしまっていたけれど、そんなのお構い無しに、瑠璃は俺にも花火を持たせてくる。
「ダメだよ。浜音くんだって功労者なんだから!」
最初は自分のものに火を点けて。
それを分け合う形で、各々線香花火に点火させていく。
山手の夜はどこか静かだ。しばらくは皆無言のまま、パチパチと、火花が弾ける音だけが響いて。
「……これ、私の手まで燃えちゃわない?」
不意に、梨香がひどく天然じみたことを言った。
「その心配はない。恐らくは達する前に燃え尽きるはずだ」
「その割にはマリーさん、手震えてるよ」
笑いが伝播していって、一気に空気は緩んでいく。
それで、ようやく許されたかのように梨香は続けざまに口を開いた。
「案外、マリーさんだって完璧じゃないんだってこと。私、忘れてた。同じ人なんだから、ずっと互いを傷つけないままでいるなんて、無理な話だったのにね」
「……いや、アタシにも非はある。もっと、普段から相談してればよかったよ。同じ仕事仲間として、さ」
恐れて、閉じこもっているだけじゃ関係性は進展しないままだ。
それでも、ひょんなことで一歩、互いに踏み出してみたら思いの外、言葉は互いに通っていく。
「ちゃんと不摂生とかしてない? 近頃は寝れてるの?」
「……まあ、昔より少しはマシになったかな」
「なら良かった。瑠璃も良いアシスタントみたいだしね」
微笑みかけられて、瑠璃はご満悦といった様子だった
「まあ、自分が好きになった絵の研究にだったら、時間を惜しんでる場合じゃないし」
「好き……好き、なんだ。ありがとね」
返事こそ素っ気ないものだったけれど、梨香は何度もその言葉を反芻する、「好き」、と。
そして、その度に頬に朱が刺し、表情が綻んでいくのだ。
「そして、こんな景色があるって教えてくれた人──浜音。確かにさ、『から』も居心地は良かったよ」
パチパチと、火が弾けていく中で、一際強い光を放った瞬間。
皆の持つものがそれぞれ交わって、眩く夜闇が照らされて。
「でも、こうしているのも悪くない──そこそこ、楽しいことに違いない」
ぽとり、と。火種が落ちた。それを惜しむようにか、空を見上げながらぽつんと梨香は呟く。
「また、やり直せたらなって。虫が良すぎるかな」
その声は、僅かな震えを帯びていた。
きっと、彼女にとっても勇気を出した歩み寄りだったことは想像に難くなかった、けれど。
「もちろん、やり直せて当然だよ」
瑠璃は、返事と共に梨香の手を取って、次に俺の手もぎゅっと握りしめた。
「一緒にいる人は、多ければ多いほど楽しいから。傷つく分だけ、もっと深く相手に触れられるから。あたしは、みんなと一緒にいるのが好き」
俺を、マリーさんを、そして、梨香を。
それぞれに視線を向けると、瑠璃は満面の笑みを浮かべてみせる。
「おかえり、梨香ちゃん。ようこそ、浜音くん──みんなで、やっていこうよ」
瑠璃がまた新しい線香花火を取り出し、火を点ける。
一人ずつ配られていき、また一際周囲が照らされた。
星空にも負けない眩さ、重なっていく無数の光彩。
また、線香花火が始まったその中で梨香が呟いた言葉は、決して花火に遮られることもなく、はっきりと届いた。
「──いっしょ。それも悪くない、かも」