──つつかれたら、『から』にこもる。
それがいきものです。それがいきていくということなのです。
そんな一文目から始まる一冊の絵本。
それが、『から、から、から』だった。
──だって、いたいのはいやです。ひからびるのだっていやです。
だから、みんなみをちぢこませているのです。『そと』と、ふれないために。
羅列されていく『から』を持つ生き物たち。
得てして皆、殻にこもったまま。外に出ることの危険性を喚起する本文。
──そして、ひと。となりのこには『から』がなくて、わたしには『から』があります。
ふれられない。ひとだって、ふれられない。
「……ほんとだよ。私には『から』がある。あなただって、同じ。それはわかってるんでしょ?」
知っている。知っているはずだった。
何せ、そんな人と人とを阻む『から』があったから、俺は手痛い失敗をした。
それならば、首肯せざるを得なくて──。
「それは違うよっ!」
遮られた。
それは違うとばかりに、瑠璃は全力で首を振った。
「浜音くんだって知ってるでしょ!? ここに来て、マリーさんのお手伝いして──わたしと出会って──『から』なんてない。誰かに触れられる。それは、みんな同じなの──っ!」
一瞬で思考が引き戻される。
そうだ、半ば諦めたような格好でこの町についた俺は、瑠璃に興味を持った。
そんな一抹の興味、誰かに触れたいという願い。そのおかげで、今俺はここにいるんだ。
「……悪い、梨香。俺も共感はできるけど、認めることはできない」
「……そう」
何の気なしに、梨香は言い放つ。
上辺だけは、いつもと変わらないように思えた。
「まあ良いわ。あなたがそう思っているのなら、そうなんだろうし」
再び梨香は原稿へ。
俺達は、絵本を漁り始めたものの、それだけだった。
その後はただの一度も──俺達が部屋を出ていく「さようなら」まで──梨香は口を聞いてくれなかった。
* * *
「……今日の梨香ちゃん、ちょっと様子変だったよね」
「……いや、まあ……『から』が絡んでる以上、俺にもわかるっていうか……」
『から、から、から』。
あの絵本が与えてくるどうしようもない孤独感、それを俺は知っている。
そして、一度毒されてしまえば文字通り、「から」に囚われてしまうのだということも。
ただ、だからといって梨香が口にしていたこと全てに同意する気は無かった。
『クリザリッド』に来て、瑠璃やマリーさんに出会って、俺自身、少しは考えを改めた。
人に触れること、それが正しいとは言い切れない。だとしても、その温もりを知らずに否定し続けるのもまた、安易に認めて良いことじゃない。
「……そう、なんだ。浜音くんにも、そういう経験が、ね……」
何かを察したのか、そこで瑠璃は口をつぐんだ。
正直、触れては欲しくなかったから、その優しさがありがたい。
「まあ、とにかくさ。一旦お互いに頭を冷やすこと。それは大事だと思うんだ。わたしも熱くなっちゃったし……ね?」
「……ああ」
確かに一度、揉めたかもしれない。
だけれど、やがてはそれも時間が解決してくれる。お互い落ち着いてから、もう一度話せば良い。
その時は、頷いた。だって──それで良いと、俺自身納得してしまったから。
踏み込む勇気すら、無かったから。
* * *
「……なあ、ハマ。これを──見たか?」
それから数日の間、ノックをして。
それでも、梨香は一度として外には出てこなかった。
『あーもう! 梨香ちゃんは面倒臭いんだから……!』
瑠璃は諦めていない。今だって下の階で必死に彼女を連れ出す方法を模索しようとしている。
だけれど、俺は半ば──もう、それは不可能な気がしていた。
『から』に籠り、外との接触を避けている。だって、一歩踏み出してしまえば傷つくのだと知って、どうしてそうできただろう。
『それは違うよっ!』
もしかしたら、真っ向からの瑠璃の否定。
それが、梨香に踏み込みすぎたものだったから、そうやって、触れ合って、一度傷を作ってしまったから。だから、もう俺達とは接触したくない──そう考えていたとしても不思議じゃない。
「……これ、は……」
もう、お互いに不干渉でいることが一番良いのかもしれない、と。
そう思っていたのに。
「『クチナシ作、花火』──五万、いいね……?」
夜空に咲く、大輪の花。
そこには、以前梨香に見せられた花火が映っていた。
彼女はあの時の絵本を完成させて、投稿したのだ。
「……すごい、バズってる……」
プロフィールに移動してみると、以前は一万人と少しだったフォロワー数は二万を超えていた。
コメントも『どうして今まで見つけられなかったのか』だとか、好意的なものばかりだ。
そして、極めつけに一番最新の呟き。今の梨香がどう思っているのか。
『たくさんの人に見てもらえて、認めてもらえて嬉しい。次回作も頑張ります』
希望に満ち溢れた、今後の展望。
短く記されてはいれど、彼女が今回の出来事を喜ばしく思っていること。きっと、それは確かなのだ。
「……今日も、ダメだった」
戻ってきた瑠璃は、暗い表情をしていた。
ダメだった、と。その言葉から察するに、梨香は今日も引きこもったままらしい。
「……ずっと、このまま。部屋に閉じこもったまま──それって、すごい怖いことじゃないかな。だから、何とかしなきゃ……」
「……いや。でも、梨香は満足してそうだ。ほら、これ」
先程の呟きを瑠璃に見せる。途端、彼女は押し黙ってしまった。
「でも……でもさ。やっぱり、何とかするべきで……どうして、浜音くんはそんなに冷たいの!?」
「なっ……俺はただ、本人の意思を尊重すべきだと思って。大体、瑠璃がそうやって押し付けるから……っ!」
声が、次第に荒くなっていく。
喉がジンジンと痛んで、張り上げた声が鼓膜をビリビリと震わせて。
やがて、相手をなじる言葉が飛び出そうとした時、ふと過ぎった。
──浜音って、そういうこと言うんだ。
「……いや、何でもない。そうだな、確かに冷たかった」
自分の非を認める。この口論を収めるために。
激しく互いに言葉をぶつけ合って、その先にどんなことが起きてしまうのか──俺は、知ってしまっていたから。
「……そう、だね。わたしも言い過ぎた。ごめん」
どうにも気まずい空気が部屋中に充満する。
「……少しだけ、少しだけ、様子見をしよう。──どちらが正しいとも、今は言えない」
割って入ってきたマリーさんの口調はどこか苦々しげだ。
だからこそ、一旦は結論を遠ざけよう、と。
そう彼女は口にしていたのだけれど。もう触れなくて良いんじゃないか。
『認めてもらえて嬉しい』
未だ手元にある梨香の打った文章。
それを見ていると、無性にそう思えて仕方がなかった。
だってそうだ、彼女は実際に認めてもらえるだけの実力があって、そして、そんな現状に満足している。
俺自身は、自分に『から』があって、決して人には触れられないということ。
それを認めることができなかった。
だけれど、梨香がそれを認めて、『から』の中で生きていくのだと、そう受け止めているのだとしたら。
──だって、いたいのはいやです。ひからびるのだっていやです。
その生き方だってきっと、認められて然るべきだ。
たとえ、瑠璃がなんと言おうとも。
そう、思っていたのだけれど──。
『紙に色を乗せる。そうして思う。これは、認められるのかって』
瑠璃の呟きに喜色が滲んでいたのは、ほんの僅かな期間だった。