晩夏一香 作:悲しみ
この季節にしては珍しく、朝から空は曇天だった。とはいえ蒸し暑さを気にしている暇はない。待ちに待った休日、俺はいつものように訓練所で修練用模型と対峙していた。
もはやルーティンと化した訓練形式に惰性を感じているのは事実。しかし相棒となる武器を持たない俺は、師を作ることは出来ない。自己鍛錬が唯一の道だということだ。
緩んだ気を引き締めるように頬を強く叩く。
「ひゃっ」
と同時に、背後から気の抜けた声が聞こえた。
「ケセラ?」
「あーびっくりした…もしかして気づいてた?」
褐色の少女が恨みがましい表情でこちらを見上げている。いつもみたく俺に不意打ちしようとしたが、今回はあいにくのタイミングだったようだ。そんな顔で主張されても困る。
「今から依頼か?」
彼女の疑問にはスルーして話題を変える。悪戯が失敗した時のケセラのいじけは割と長い。早く別の話をするのが吉である。
「うん、そうだよ。マノも聞いてるかもだけど、最近
「ケセラにとっては稼ぎ時だな」
「ご名答!」
運良く話題転換に成功。機嫌を直した様子を見て密かにホッとしていると、ケセラは思い出したかのように手を打った。
「そういえば、二十日は空いてる? マノと模擬戦したいな」
「ああ、伝言で聞いたよ。その日は大丈夫だ。むしろ俺からも頼みたい」
「やった!じゃあ決まり。負けた時用にケーキの準備しといてよ?」
「いーや、足掻かせてもらう」
「ふふ。楽しみにしてるね」
これが強者の余裕だろうか。楽しそうに顔を綻ばせながら、ケセラは軽い足取りで去って行った。
…威勢の良い言葉を言ったものの、ケーキ製作は確定とみていいだろう。ケセラに甘い物好きの印象は無いが、俺の菓子には大いにテンションを上げてくれる。作り手冥利に尽きるとはこのことだ。
思えば最近はケセラに手製の菓子を振る舞っていない。腕によりをかけようか………うん? 俺、めっちゃ負け腰みたいになってない?
いやいや、負け=料理のルールを廃してしまえばいい。勝っても振る舞うという精神で望んだら、たとえ戦う前に準備していても負けマインドとはならないだろう。
強くなることにそれほど興味は無い。だが負けるよりは勝つ方が良いに決まってる。それに亀の歩みであっても、俺とて日々進歩しているのである。
実戦形式であるからこそ見える視点は少なかず存在し、今後の目標を明確にするのにやはり模擬戦は最適だ。
「何棒立ちしてるのよ」
丸めた紙で、頭を軽く叩かれる。気づけば目の前にライズが居た。
「……なんで?」
「居たら悪いってこと?」
「いやっ!そう言うわけじゃないんだが…」
ライズは専用の鍛錬場を持っているので、『塔』管轄のこの訓練所に来る必要は無いはずだ。説明しようにも、顔をしかめるライズに動揺している自分もいて、結局しどろもどろになりながら口ごもる。するとライズは不機嫌そうな表情をふっと崩した。
「冗談よ。ほら、これ」
丸めた紙をぴらりとのばして俺に差し出す。文頭には『召集』と書かれていた。
「
「それは…大変だな」
『傷の塔』には大きく分けて二つの階級がある。
一つは大多数の塔士が位置する一般的な階級。そしてもう一方は、塔に多大な貢献をしたり、大きな戦果を上げた者に与えられる上位階級。俺は前者、ライズは後者の階級に属している。
全て聞いた話であるが、上位階級を与えられた塔士には様々な特権があるらしい。俺たちが普段使っている通用口とは異なる豪華絢爛なエントランス、いわゆる
以前にライズからこのことに関する愚痴を聞いたことがあったので、同情の意を込めて返答する。すると彼女は疲れたように肩を落とした。
「別に依頼自体はいいんだけどね、
「俺には縁のない世界だな」
「向上心が無いわねぇ」
「ライズの話を聞いてると、実力があっても就きたいと思えないんだけど…」
「それは……ぐうの音も出ないわ」
ライズは柔らかく笑った。剣を握っていない彼女の風貌は深窓の令嬢と言った方が当てはまる。「彼女が豪剣を振るう」という未だに拭えない違和感に硬直して、そんな俺の顔をライズは不思議そうに覗き込む。
「近いうち、いつものお礼として夕食に行かないか? 奢らせてくれ」
誤魔化すようにそう言った。ライズはほんの少しだけ目を見開いたかと思うと、数秒の沈黙の後、無表情に言い放つ。
「結構よ」
「そうか。すまないな、急に誘ったりして」
「…ううん、これは私の意地みたいなものだから」
淡黄の瞳が俺を見据える時には、彼女はいつもの勝ち気な顔に戻っていた。
「もしお礼がしたいっていうのなら、証明してくれないかしら? 貴方が嘲笑される存在じゃないってことを。…私の信条が間違っていたと思わせるくらいの活躍を見てみたいものね」
「ゔっ。それは高くついたな…」
防戦一方の会話を続けていると、ふと辺りが俺たちを中心にざわめいていることに気づく。向けられた感情は疑問と嫉みが半々と言ったところ。ライズと俺の知名度の差がよく分かる。…いや、性格には彼女の高い世評と俺の悪評の落差、と言った方が正しいかもしれない。
「マノ未満の努力しかしてないくせに」
ぽつりとライズの口から零れた一言は、周囲のざわめきによってかき消される。彼女の顔は初めて会った時と同じくらいに鋭くて、俺は聞き返すことができなかった。
「そろそろ行ってくるわ」
「…あぁ、了解」
「ん」
ライズが拳を差し出してくる。すぐに合点がいって、自分の拳を突き合わせた。
「「息の緒に」」
ーー
「マノ!こっちこっち!」
街外れの静寂を快活な声が破った。俺を見つけるや否や、ぴょんぴょんと跳ねて手招きする少年に苦笑する。俺と一緒に訓練するのが楽しみだったのだろうか。そう思いつつも、やはり露骨な好意は良い意味で照れくさい。
彼は以前、レストランでの勤務中に俺に槍の指南を頼んできた。槍使いの塔士に頼めばいいものを、こいつはあえて俺を選んだのだ。
様々な武器を齧っている俺は槍もある程度修めているが、もちろん実戦という面では本職に全く敵わない。しかしその分、基礎は徹底して学んだつもりだ。
せっかくのご指名の無駄にさせないためにも、その全てをこの少年に注いでやろうという魂胆である。
「すまん、待ってた………か?」
軽く手を上げて応えた後、少年に話しかけようとしたその手前。俺は言葉を失った。
少年の隣で、目を見張るほどの美人が控えめに咲いていた。
白磁の肌は怖いほどに滑らかで、艶めく髪にくらっとさせられる。薄い
「大丈夫!オレも今、ちょうど依頼が終わったところ!」
「………あぁ。この、方は?」
なんとか言葉を絞り出すと、少年は思い出したと言いたげな表情を一つ、紹介するようにその人に手を向けた。
「この人はセルフィエさん!一緒に依頼をやったんだ」
少年の言葉に頷いて、こちらに一歩近づくと、
「ご紹介に預かりました、セルフィエです。お見知りおきを…と言ったら、固すぎますかね」
ふわりと笑った。低めの声はむしろ心地よく、性別を問わずにあらゆる人を魅了するだろう美が、そこにはあった。
なんとかこちらも自己紹介を済ませる。見惚れないために極力セルフィエの方を向かないようにしながら、少年に詳しく経緯を尋ねると。
「オレさ、小さいやつだけど
「いやいや、僕が要らないくらいに強かったよ。模擬戦したら僕の方が負けちゃうと思うな」
「マジ? やった!マノのおかげかもな!今からマノに教わって、もっと強くなってやるぞ…」
なんの緊張も無くセルフィエと会話をする少年をつい凝視してしまう。俺がおかしいのか?そんなことは無いと思うんだけどなあ…
チラ見されていたことに気づいて綻ぶように微笑む美貌は誰がどう見ても
話が一段落したころ、セルフィエは黒く染まっていく空を見上げて言葉を漏らす。
「もうこんな時間」
「帰るのかー?」
「そうだね。早く
セルフィエが何気なく取り出した拳大の瓶。それを一目見て、俺の脳は瞬く間にフリーズした。
言葉を失うなんてものじゃない。その中でゲル状に蠢いている、ヘドロのような物体は、
「…はっ?」
「な、なんで還してないんだよ」
生者に仇なす人類の天敵、イミタリの厄介な点は死なないという特性にある。細切れに斬り刻むか燃やして灰にすることでイミタリを
よってそのまま試料のように瓶に詰めるなどもっての外で、絶世の美貌がその「異常」を為すことで、不気味さに拍車がかかっている。
「あぁ、僕の本職は学者でして」
こともなげに呟いて、セルフィエは瓶の中を凝視する。官能的なほどに蕩けきった興味が、蠢く
「知りたいです。この摩訶不思議な怪物の正体が、生態が、全てが。僕はこのために生まれてきたと言っていい。…これは貴重なサンプルなんですよ」
一度こちらに貼り付けた笑みを浮かべてから、また瓶の中に釘付けになる。
既視感があった。いや、既視感と呼ぶにはあまりにも身近な感覚。たった一つの物に虜にされて、その光があまりにもまばゆくて、人生を奪われてしまう感覚。
「生物であるかも怪しいこの
なるほど、これが同族嫌悪か。
心を蝕んでいた絶世の美への衝動が次第に薄れていく。ようやく見えた明確な人間性に、安心する気持ちもあった。そんなことを呑気に考えている自分の脳天に、
突如雷が落ちたかのような事変。
「———美しい」
「ッ逃げろ!!」
悲鳴のように叫ぶ。瞬く間に体積を数倍に膨らませてセルフィエを飲み込んだゲル状の怪物がうねりを上げる。
その惨劇を初めて目の当たりにしたのだろう、混乱した顔で動けない少年の両肩を跡が付くくらい強く握って、
「塔へ行ってくれ!今すぐ助けを呼ばないとまずいなんてもんじゃない!」
「…あ、ああどうしよう、セルフィエさん」
「このままじゃ俺たちもろとも飲み込まれるぞ!!」
必死の気迫に当てられて、少年はびくりと肩を跳ねさせる。その顔は青よりも青く。彼は理解しがたい光景が現実であると気づいてしまった。
「俺はここに残ってこの化け物を食い止める。だからお前は早く塔に報告するんだ」
「で、でもそれじゃマノが」
「お前に
混乱が収まらないうちに追い出してやった。迷う足取りに「早く!」と追い討ちをかけると、少年はやっと塔へ向かって走り出す。
「…さて」
「僕…ぼく?何が起きた?現状はどうなっている?分からない。わからないわからないわからないわからない」
仮に俺が戦闘を選び、その限られた時間にこの怪物を倒せなかった場合。少年は俺もろとも間違いなく殺される。その最悪の事態だけは避けられたわけだ。
ほっと吐いた息は安心なのか絶望なのか分からない。
「セルフィエ」は死んだ。イミタリに飲み込まれた人間は助からない。俺の前でうわ言をこぼすモノは、『
頭の中を疑問符が埋めている。なぜ不活性のイミタリが暴走した? なぜ一目散にセルフィエを狙った?
「体、が、違和感がある。おかしい。でもわからない。調べないと、丁度いい実験群が欲しい、今はわからなくても、きっと知ることが。僕と他の
断言できることはただ一つ。この化け物の標的は、俺である。
「参ったな」
絶体絶命という言葉が陳腐に聞こえるくらいの状況だ。此処は街の外れ、中心部の塔からは遠く離れている。少年が助けを呼んでくれたとて、到着まで持ちこたえることは不可能だ。マラグマは等しく、上位の塔士に匹敵する強さを持っているのだから。
眼前、歩み寄る存在に敵う道理は存在せず、俺はまな板の鯉である。
背負った武器を引き抜いて、切先を
「…本当に、自分でもどうかと思うよ」
悦びだ。
死にたくない。あの日の突きを為すまでは死ねないからだ。そう思っていたのも所詮は建前だったのかもしれない。
命を担保にした一回きりのチャンスに、限りなく神経が研ぎ澄まされていくのを感じる。集中は深く、呼吸は重く穏やかに。極限だからこそあの感覚を思い出せる。そう思い込む。
俺はぎりぎりまで1インチたりとも動かない。
セルフィエだった化物の手が刃のごとく、薄く硬くなって俺の首を狙う。相手の姿は見ない。合わせるのは息遣いのみ、自分の視点は武器の切先から離さない。
跳ねる心臓が痛いほどに生を実感させてくれる。その痛みも歪な悦びも、全てをただ一撃のために強く強く濃縮させて!
(——失敗だ)
身を押す高揚感を得られない。
俺が凶刃に斬り刻まれるまで瞬き一回分。研ぎ澄ました精神は、この一瞬を未練がましく延ばす。
「食い止める」なんて口を利いておいて、俺は一撃の下に首を刎ねられて死ぬことになる。それは確定した未来だ。だからもう諦めないといけない。
本能よ、どうか口を閉じてくれ。「届け」と叫ぶのを止めてくれ。死の間際に心を昂らせないでくれ。燃ゆる執着は燻って、心はまるで、煙のような。
煙。ふと、
「———間に合った」
「…痛いなぁ。ね″ぇ、貴女は誰です? 邪魔? 僕の邪魔をするためだけに貴女は?」
「ふむ、乗っ取られてすぐのようだね。よかった。ならば悲劇は、ただの悪い夢に変えてしまおう」
「は? 貴女何を言って——」
女は
見慣れぬ和装が小柄な体躯にいやに似合っており、幾重にも重なったその服は不思議と重さを感じさせない。東洋の系譜を感じさせる容貌とは裏腹に、髪は灰と白のアッシュカラー。独特の色を素直に美しいと思う。
特筆すべきは手に握られた、女の身長を超すほどの長い棒。先端は燻って静かに燃えており、鼻腔を撫でる香りはそこから発されたものであった。
「冥土の土産にするといい」
女は棒を構える。ひどく穏やかな声をしていた。
「知っているかい。香の匂いは、不死を成仏させるのさ」
地を蹴った。当然、マラグマは迫る女に殺意を抱いて、彼女に腕を振り上げる。その手は熊手のごとく三又に裂けて、硬く鋭く、女を四等分にしようとうなりをあげる。
女は棒をゆっくりと振り抜く。
「ッ!?」
一瞬の鍔迫り合いを制したのは、小柄な女の方だった。
数合の打ち合い、女は舞のように体を揺らめかせている。顔を苦悶に染めているのは敵ばかりで、俺は眼前の光景にただ見入っていた。
その所作はどれも容易に目で追えるほどの速さ。俺はこれよりもっと力強く、もっと速い戦いを知っているはずだ。
それなのに。これは何だ? なぜ彼女の振り払った先に
どうして俺は、こんなにも高揚しているんだ?
ひときわ鋭い音が響いて、二人は弾かれたように距離を取った。棒の先端から洩れる煙は文字通り軌跡となって、先の打ち合いの余韻を見せている。芸術作品のようだった。
「終わりにしようか」
女は淡く燃える尖端を相手に向けた。あまりにも低く、腰を落とす。
傲慢な言葉に苛立ちを隠さず、化け物は弾丸のごとく彼女に飛びかかる。
(…嘘だ)
理性が警鐘を上げている。あり得ない。そんな訳が無い。だって
人の業を超えた、全てを貫く絶対の一突が、無限に夢見た俺の生きる意味は、
眼前、相手の心臓を突き抜けた。
「よし」
くたりと力無く横たわるセルフィエに近づいて、女はその呼吸を確認して頷く。彼女が武器としていた棒は突きによって粉状に砕けており、先端の火も消えて灰になっていた。
女は思い出したかのように「あっ」と呟き、俺の方を振り向いて小さく笑う。赤褐色と黒のオッドアイは、不気味なほど彼女に合っていた。
「助けられてよかったよ。怪我は…無さそうだね。まさか大英国に来た初日にこんな事が起きるとは思っていなかったが———」
「弟子にしてください」
女の両手を包み込む。女の前に跪いて、人生で一番真剣な声で言う。
十年ぶりに俺の前に現れた絶技が、脳裏に焼き付いて離れない。もう駄目だ、俺は無理だ、そんな事をされてしまえばおしまいだ。この人を絶対に逃してはならない。本能がけたたましく彼女を求めている。
念を押すように顔を見上げる。彼女の目から、理知の光は消えていた。
「……へ?」
これにてプロローグは終了です。ここまで読んでくださりありがとうございます。
続きは万が一需要があれば投稿しようと思います…