あなたの特別になりたい、ただそれだけ。

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咲野皐月さんの企画に参加させていただきました。普段は別名義で作品を書いています。最近スランプ気味で作品が書けていなかったので、久々に執筆できて楽しかったです〜!
楽しんでもらえたら嬉しいです。なにとぞよろしくお願いします。


Look at me.

 ──僕の神様である女と、僕の兄である男が、唇の熱を交わし合っているようすを見た。

 やわらかくはにかむその顔を、僕は真っ直ぐ見つめられなかった。きっとそれは、その笑顔は僕じゃなくて、僕と血を分け合ったもう一人の男に向けられているからだろう。

 兄の前でだけ少女の顔をする貴女が、それを特別なことだと思うこともなく受け入れる兄が、二人をただ眺めていることしかできない僕が、憎くて、情けなくて、口惜しくて、惨めで、気が狂いそうになる。それぐらい、貴女は、僕にとっての唯一神で、絶対だった。何もない僕が最後に縋る神様が、他の誰でもない、貴女だったのだ。貴女だけだったのだ。

 どうして、貴女は人間なんかになってしまった? 貴女はもっと崇高で高貴で、僕たちみたいな人間とは遠い遠い世界にいる人だと思っていたのに。貴女を人間に堕としたかったのは、僕の方だったのに。どうして、貴女は選ばれた人間とともに堕天してしまったのだろう。

 僕は貴女の脆さが好きだった。決して手の届かない太陽のような輝きを放ちながら、僕が手を伸ばせばここまで堕ちてきてくれるような優しさという弱さを抱えているのが好きだった。僕が心から願えば、全てを投げ出して僕だけを照らしてくれるんじゃないか、なんて思えてしまうような、貴女の甘さに溺れていたかっただけなのに。

 現実はそう甘くはなかった。貴女の、瀬田薫の脚本の中に、僕はいない。僕はただ、舞台『瀬田薫』のラブシーンを客席から眺めている、ただの観客。

 この舞台の上でふつうの少女みたいな笑い方をする貴女を、僕は好きになれなかった。いいや、それは違う。本当は好きだ。僕は貴女が好きだ。貴女の全てを知りたいし、貴女に全てを知ってほしい。きっと僕は、瀬田薫という少女の可憐な笑みを当たり前のように享受する兄が許せないだけだ。ああ、口惜しい。口惜しい。口惜しくてたまらない。

 

 だから殺した。

 

 その役を演じるべきは、僕だと思ったから。

 僕だって、貴女に焦がれた演者の端くれだ。兄の代わりをこなすことだって容易い。そもそも、僕の兄に中身なんてものはない。所詮、舞台を動かすための薄っぺらい容れ物。中身が変わろうが、別に同じことだ。

 僕と兄が双子だったことに、初めて喜びを覚えた。こんなの誰にもわかるはずがない。表情を少し変えただけで、僕は彼になれる。

 

「大丈夫。兄さんの分まで、僕があの人を幸せにするから」

 

 僕が語りかけたとて、死体は喋らない。当たり前の話だ。それでよかった。とりあえず、彼には僕になってもらってバカンスにでも行ってもらうことにしよう。この世界から兄が消えたら悲しむ人はたくさんいるだろうけど、僕が消えて悲しむ人なんているわけもない。よかったね、兄さん。これで安心して逝けるね。

 ああ、早く会いたいな。貴女に会いたいな。薫に会いたいな。キスをして、抱きしめて、セックスして。恋人になった貴女を僕で染め上げられるのが嬉しくて嬉しくて、ついにやけてしまう。

 いろんな貴女を僕のものにできるという事実で、目が冴える。時計が指すのは夜中の四時。瞼も重く、頭も回らないし、意識も曖昧。けれど、まるで遠足前のような高揚感が僕を寝かせてくれないのだ。

 君と会ったら、何をしようか。俺たちは恋人なんだから、少しずつ関係を深めていかなくちゃね。兄の口調を真似てみた。気持ちが悪い。僕はこれからこんな腑抜けた喋り方をしなければならないのか、気が遠くなる。

 でも、いつか。いつか、貴女と心の底から通じ合って。何もかもを分かち合えたのなら、伝えたいな。

 僕の、孤独な信仰を、ささやかな祈りを、揺るぎない愛を、誰にも明かしたことのない胸の内を。

 

「薫、遅れてごめん! 実はさ、乗る電車間違えちゃって……」

「フフ、構わないよ。電車を乗り間違えてしまうお茶目な君も……儚いね」

 

 今日は、貴女との、薫とのデートの日だ。僕を見るたび、ぱあ、と晴れやかになる表情が、いとおしい。ああ、恋人になった貴女はこんなにも可愛らしい人なんだな。胸が弾む。

 だからこそ、デートに遅れてしまった自分がひどく憎らしい。電車に乗り間違えた、なんて真っ赤な嘘で誤魔化すのも、正直気に食わない。本当は今日貴女とデートするはずだった男を然るべき場所に棄ててきたから遅れてしまったんだ。

 けれど、貴女は笑って許してくれた。こんな愚行すらも許されてしまう兄が、また憎くなった。

 

「それじゃあ、今日はどこへ行こうか。君の好きなアニメ映画を見るのもいいし、君が気になっていた新作ゲームをゲームセンターに遊びに行くのも儚いね。もしくは君が気になっていたパンケーキを食べに行くのも……」

「はは、そんなに俺のこと優先しなくたっていいよ。遅れてきた俺に主導権はなし! 薫が行きたいところに一緒に行こう」

 

 アニメ映画もゲームもパンケーキも、全てがどうでもいい。僕の目の前で他の男の話をしないでほしい、とさえ思ってしまう自分の嫉妬深さに、思わず乾いた笑いが出た。その男は、他の誰でもない今の僕自身なのにな。

 彼は、今まで誰にも染められなかった貴女を、随分と自分色に染めていたらしい。澄んだ紫の水槽に、ドブみたいな絵の具が落ちて、汚されていく。そんな光景が、僕の頭をジャックした。

 

「いいかい? 私が行きたいところは、君が行きたいところさ。私はね、君が楽しそうにしている姿が大好きなんだよ。君と一緒にいると、今まで知らなかった儚さに出会える。だからこそ、私は君と、君とだからできることを、一緒に楽しみたいんだ」

 

 貴女にこんなことを言わせる兄は、随分と罪な男だったのだろう。分かりたくないことを分からされているようで、苦しい。

 貴女から、僕が言って欲しかったことばかり包まれた言葉の花束が手渡されていく。僕ではない、兄の皮を被った僕に。

 こうなるって、分かってたはずなのに。何もかも兄と比べてしまって息が詰まるって、分かってたはずなのに。

 いや、違う。僕はもう僕じゃない。僕はもう死んだんだ。死んだ僕が、なんで劣等感を抱えている? そうだよ。俺は、俺だ。薫の恋人で、薫にたくさん愛されていて、アニメ映画が好きで、ゲームが好きで、パンケーキが好きな俺。決して僕みたいな卑屈で陰険で、なんの取り柄もない愚図なんかじゃない。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 僕は死んだ。

 ──やったあ! あの惨めで愚かでどうしようもない僕は死んだんだ!

 

 そうだと分かったら、気分も晴れてきた。今日は青空が綺麗な、絶好のデート日和だ。俺は君の手を取る。君はにこりとはにかむ。このかけがえのない瞬間が、愛おしく感じた。

 

「てか……夏の太陽って、眩しいよな。直視するもんじゃないや……」

「ふふっ、そうだね」

 

 気づけば俺は、季節の移ろいさえ忘れていたみたいだ。カラッとした日差しが俺たちを照らす。すると俺たちと同じ姿の影ができて、その影は寄り添い合うように重なっていた。嬉しくなって、写真に収める。

 君と過ごす夏の日が、鮮やかでかけがえのないものになりますように。そんなことを願いながら、光が反射してキラキラと輝く歩道を薫と手を繋いで歩き出した。

 

 あのデートから、一ヶ月が経った。あの後も俺たちは一緒に遊んで、一緒に眠って、たくさん同じ時を過ごした。こんな幸せに溢れた毎日を送っていいのかって不安になるぐらい、楽しい日々を送る。

 そういえば、今大学は夏休みで休講中なのか。そんなことすら忘れていた。最近忘れっぽくなったんだよな、俺。若年性認知症とかじゃないといいんだけど。

 今日は、同じく休講中の薫が家に遊びに来る。こうして家で遊ぶのなんて、いつぶりかな。もしかしたら初めてだったりして、なんて。

 チャイムが鳴る。薫がやってきたみたいだ。ドアを開けると、綺麗な白いワンピースに身を包んだ薫が立っていた。俺は思わず見惚れてしまう。

 

「フフ、気に入ってくれたようで何よりだよ! このワンピース、少し前に君が着て欲しいと言っていただろう? 茹だるような暑さと戦う君へ瀬田薫から贈る、ひと夏のプレゼントさ」

「ごめん。なんの、こと?」

 

 思い出せない。そんな記憶はない。白いワンピースを着て欲しいなんて、一言も言った覚えがない。

 

「これは君が私にプレゼントしてくれた、大切なワンピースじゃないか。薫のためにバイト代貯めて買ったんだ、と私に話してくれただろう? それすら、忘れてしまったのかい?」

「え、俺、バイト、とか、して……た?」

「そうさ。夏休みの期間もシフトを入れているって……っ、万が一のことがあったら大変だ。一度予定を確認した方が……」

 

 瞬間、けたたましく鳴り響く着信音。どうやら、薫の言っていたバイト先かららしい。バイトだかなんだか知らないが、薫との時間を邪魔する気なのか。耳の奥までつんざくような安っぽいメロディが、不快で仕様がなかった。

 

『おい君、今日のシフト──』

「……すみません、俺、今日付けでバイトやめます。ありがとうございました」

 

 薫との時間を、一秒たりとも無駄にしたくない。とにかく簡潔に話を済ませた。

 

「……え……ど、どうしたんだい? 君はあんなにバイトを頑張っていたじゃないか。それなのに、どうして急にやめるだなんて……」

「んー、薫以外どうでもいいから、かな」

「そう、か……その、なんだか、今日の君は……いや、なんでもないよ」

 

 薫は、何かを言いかけようとして黙り込んだ。俺の世界が薫で回っているのは当たり前のことなのに、なんで薫は疑問を抱くんだろうか。

 俺の世界は薫でできていて、薫の世界も俺でできていて。二人だけの宇宙がぐるぐると回って、二人だけの惑星を二人で旅して。俺たちはかけがえのない絶対で唯一で。きっと、そうだろ? そうだったはずだろ? そうじゃないなんてありえない。そうだと言わせてみせる。

 そこにいるべきは俺じゃないのに。なんの話だ。お前は誰だ。僕を見てよ。うるさい。黙れ。ああもう、邪魔が入ってばっかりだ。俺はただ、薫と一緒にいたいだけなのに。

 それからだろうか。俺たちの歯車が少しずつ噛み合わなくなっていったのは。薫の話が、理解できなくなっていったのは。

 

「やっぱり、ブラックコーヒーって美味しいよな」

「? 君は、砂糖とミルクたっぷりのコーヒーが好きだったような気がするけれど……」

 

「ピアノ? 俺弾いたことないから無理だよ。無茶だなあ、薫も」

「……君のピアノ演奏がきっかけで、私たちは出会ったはず、だよ」

 

「将来の夢? 薫の旦那さんかなー。この先もずっと薫の隣にいられれば、他に望むこともないっていうか」

「……そう、か。光栄だな。ピアニスト、は、もう、考えていないのかな」

 

「最近、君は私とばかり過ごすけれど……本当にそれでいいのかい? 君の友達が寂しい思いをしているんじゃないか?」

「別にいいよ。薫が隣にいればそれで満足」

 

 薫の表情が、だんだんと曇っていく。その寂しそうな横顔にかける言葉が、何も見つからなかった。俺が謝ろうとすると、薫はいつも優しく笑って気にしなくていいよ、と俺の頭を撫でた。

 「俺」の定義が、崩れていく。

 俺は誰なんだろう。俺はなんで薫と一緒にいるんだろう。俺を俺たらしめるのは一体何なんだろう。俺はなんで生きているんだろう。

 俺の中に、俺じゃない誰かが居座っているような気がしてならない。俺を誰かが作り替えているのか? それとも、俺が誰かを作り替えているのか?

 ああいやだ薫に嫌われたくない。薫とずっと一緒にいたい。薫の好きな俺になりたい。薫の好きだった俺になりたい。でも正解がわからない。俺は、俺じゃないから。

 

「ご、ごめ、ごめん、薫。なんか、俺、俺、薫の好きな俺に、なれてない、気がして。薫とのこと大事にしたいはずなのに、何も分からなくて、苦しくて、ごめん」

 

 きっと、薫の好きな俺はこんな風に惨めに泣きじゃくる俺じゃないんだろうなって、心の中で思った。思うだけじゃこのぐちゃぐちゃの感情をどうにもできなくて、ただ泣きじゃくることしかできない。

 こんな情けない俺でごめんなさい。かっこ悪い俺でごめんなさい。でも、俺は、薫に捨てられたくなくて。ようやく一緒になれたこの幸せを、なくしたくなくて。薫が、貴女が、ただ大好きなだけで。そんな俺を、貴女は抱きしめてくれていた。

 

「……君を不安にさせてしまって、本当にすまない。最近の君は私やいろんな子猫ちゃんたちと過ごした思い出を忘れてしまうことが多いような気がしてね。……私と一緒に過ごした君が消えていくようで、不安になってしまったんだ」

「でも、私はそれを理由にして目の前にいる君を見てあげられなかった。君に向き合わなかった。どんな君も君で、ブラックコーヒーが飲める君も、砂糖をたくさん入れるのが好きだった君も、君であることに変わりはないはずなのにね」

 

 貴女の笑顔は、やっぱり綺麗だ。この笑顔に、俺は、僕はずっと焦がれていた。その光に照らされたかった。その光をただただ独り占めしたかった。貴女の体温を感じる。それが、どれだけ幸せなことか、きっと忘れてしまっていたんだろう。

 本当にすまなかった、貴女は改めて口にする。いいんだ、貴女はちゃんと僕を見てくれたから。僕という人間が目の前にいるって、気づいてくれたから。僕が忘れかけていた僕を、見つけ出してくれたから。

 

「大好きだよ、綾太」

 

 ──ああ、違った。

 

「違う、違う違う違う。僕は綾太じゃない、そんな男の名前知らない、なあ、呼んでよ、呼んでくれよ、呼んでほしいよ、僕の名前を。分かるだろ、貴女なら分かるでしょう。僕が誰かなんて。言ってください。呼んでください。他の誰でもない、貴女の声で」

「な、何を言っているんだい、綾太? 君は一体、誰──」

「僕以外の名前を、口にしないで」

 

 ああやだうるさい僕以外の名前を呼ばないでくださいお願いします貴女の喉が僕以外の名前で震えるなんて嫌だそんな喉なら潰れて仕舞えばいい潰れろ潰れてくださいこれは祈りです貴女が僕以外の名前を呼ぶから僕が貴女の喉を潰してしまってるじゃないですか手加減なんてできないので早く僕の名前を呼んでください潰したくないよ潰させないでください。

 あれ、どうしよう。貴女が死んじゃう。嫌だ。ダメだ。手、離さなきゃ。くるしそう、どうしよう、こわい、こわい、こわい。そんなことしたくない。だいすきです。あいしてます。あなたがぼくのせかいのすべてです。

 

「香椎、綾仁」

「……そ、れ、は」

「僕の、名前、です」

 

 貴女の首に、赤い跡がついている。首に結ばれた赤い糸みたいで綺麗だな、って思った。

 

「りょうじ……くん」

 

 掠れた声が、僕の名前を呼ぶ。開いた瞳孔が、僕を見つめている。

 うれしい。うれしい。うれしいうれしいうれしい。これで両思いだ。僕たちは運命の赤い糸で結ばれた。これで、僕だけの神様とずうっといっしょだ。

 ああ、これから二人で過ごすとして兄さんのことはなんて言おうかな。終わりのないバカンス? 幸せな天国? まあ、別に言わなくてもいいか。もう僕たちには関係ない話だ。

 僕は貴女を抱きしめる。貴女からの返事はない。それでいい。僕たちなら、言葉がなくても通じ合えるから。その証拠に、ほら。貴女は、ちゃんと僕を抱き返してくれる。

 ああ、やっぱり、貴女の、瀬田薫の脆さって綺麗だな。こんな僕みたいな男さえ抱きしめてしまう甘さ、優しさ、神格性が、僕を虜にしてやまない。僕が貴女の最愛の恋人を手にかけて、貴女の最愛の恋人を装って貴女に近づいた最低最悪なクズだって分かってるのに、突き放せない。なぜかって? 瀬田薫は神様だから。そんな貴女だから、僕は貴女を好きになったんだ。

 ああ、神様。僕だけの親愛なる神様。僕は、貴女を、心の底から愛しています。

 ──だいすき!


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