月が綺麗な夜に、おれをきみに焼き付けて。

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月を見よ、死を想え

 ブチっと切れたロープの輪っかが、大きな満月に重なって見えた。

 

 夏の夜は、ムシムシしていて嫌いだ。こんな暑い中上着を着てきた自分はホントにバカだな、と思いながら、頼りなくちぎれたロープの輪っかを覗き込んでみる。すると、ロープの中に月の光がさして、影で作られたもう一つの満月ができた。ちょっと嬉しい。ああ、今日も月が綺麗だなあ。

 あちゃあ、今回も失敗しちゃったなあ。相変わらず好きになれないくるくるとした髪の毛をいじりながら、笑ってみる。

 計画性がない自殺はこれで三回目。木に括ったロープで首吊り自殺、のはずがロープの糸が切れて失敗。また、今日も死ねなかった。

 なんだか意味もなく生きていて、意味もなく死のうとしている。おれの人生なんて、だいたいそんなものだ。

 こうなったきっかけはなんだったか、あまり覚えていない。ただ、どうにも生きていたくなくて、自分が存在していることがイヤで仕方がなかったのだと思う。

 仕方なく、帰路を歩む。やっぱり夜は嫌いだな。なんかこう、暗い気持ちになる。ぱあっと太陽が照らしてくれたらいいのになあ、真っ黒な空も、真っ黒なおれも。

 別に帰り道は暗くない。むしろ、ビルや飲み屋でギラギラと光っている。でも、それはおれにとっての太陽ではなくて、むしろ光を奪っていく禍々しい暗闇みたいで。

 特に、毎日のようにライブやコンサート、演劇が行われているらしいこのホールの前を通るのは苦痛で仕方がない。なんだか、おれに足りてないもの全部ここにありますよー、って言われてる気がする。まあ、エンターテインメントを楽しめる心があったのなら、こんな風に死のうとしないだろうし、ごもっともなんだけど。

 でもね、ここを通るのが一番イヤな理由は、ここから出てくる人はみんな幸せそうに笑っているからなんだ。なんていうか、自分がひどく惨めに感じてしまって。

 昔のおれは他人の幸せを喜べる人だったはずなのに。他人の幸せを祈れる人だったはずなのに。欠けてしまった大切なものが、もう手に入らない気がして、苦しい。

 苦しい。苦しい。苦しい。どうしておれはこんなにもダメなんだろう。どうしておれはこうなってしまったんだろう。おれはなんで生きてしまっているんだろう。

 ああダメだダメだ。ぐるぐる思考が止まらない。こうなるともうどうにもならなくて、その場でうずくまって思考の渦から解放されるのを待つしかない。もしくは。

 

「大丈夫だよ」

 

 とん、とん、と優しく背中を撫でられる。荒くなった息が、少しずつ落ち着いていく。ぐわんぐわんと揺れた視界が、だんだんとくっきりとしていく。

 大丈夫、大丈夫。お日様みたいな優しい声で、そう語りかけられて。さっきまであちこちのたうち回っていたはずのこころは、いつの間にかとくとくといつもみたいに脈打つようになった。

 

「す、すみません、ありがと、ございます、もう、大丈夫、です」

「そうか、ならよかった」

 

 なんてことないような顔をして優しく笑うその人は、まるで太陽のように見えた。おかしいなあ、今は月が出てるはずなのに。でも、たしかにきみは太陽だった。

 駅まで送ろうか? お日様は手を差し伸べる。おれはその手を掴むのが怖くて、つい引っこめてしまう。そのまま三分ぐらい経った。

 でも、目の前のお日様はまだおれを照らし続ける。カッコイイポーズを取りながら子猫ちゃんをひとりにはしておけないさ、と語る姿は実に様になっていた。

 おれ、全然猫とかじゃないのに……哺乳類ってことぐらいしか共通項ないのに……猫ってよりかは、なんだろう。猫じゃらしに近い……? ヒョロヒョロしてて、無駄に長いところとか、いや、そうじゃないよね。

 恐る恐る家はもう近くだから大丈夫です、と伝えると、お日様は安心したように笑って気をつけて帰るんだよ、と優しく手を振ってくれた。その後ろ姿を見ていたおれはきっと、もうすでにきみの眩しい光にあてられてしまっていたのかもしれない。

 

「あ、あの!」

「な、名前が……知りたい、です」

「きみの、名前が」

 

 きみは振り返る。おれの目を見る。時が止まる。ああ、今日は月が綺麗だ。

 とある満月の夜。おれは初めて太陽の名前を知った。

 

 

 きみに会いたい。それだけで、おれはまたあのギラギラした街の中できみを待っていた。ああなんだか、待ち伏せみたいで恥ずかしいな。

 こうなるぐらいなら連絡先を聞いておけばよかったなあ、と後悔する。でも、出会ってすぐに連絡先を聞いてくる男なんてキモすぎるし絶対無理だけど。

 ……勇気を出して、きみの名前を呼んでみた。声が上ずる。変なところでひっくり返って、喉がキュってする。こんなんじゃ、きみに笑われてしまう。だから、もう一度呼ぶんだ。ちゃんと、きみの名前を。

 

「せ、瀬田薫……ちゃん」

「おや、私を待っていてくれたのかい?」

「わぁ!?」

 

 まさかの本人登場に、ついひっくり返ってしまう。一番困るタイミングの登場に混乱したおれは、よくわからないことを口走っていた。

 

「あっあの、試しに薫ちゃんって呼んでみただけなので、その、イヤだったら、イヤって言ってくれれば、直します、ハイ……」

「フフ、大丈夫さ。君の好きなように呼んでくれて構わないよ。むしろあまりちゃん付けで呼ばれたことがないからね……新鮮で嬉しいよ!」

「や、やさしい……」

 

 あー、もしかしてきみは太陽であり天使なのかな。そう思ってしまった。これが巷で言う神対応なのだろうか。こんな気の利いた言葉がスラリと言えてしまうきみは、おれだけじゃなくてみんなの太陽なんだろうな。

 きみが、より眩しくなる。思わず目を細めてしまうぐらいに、眩い。月の下の太陽は、今日も変わらずうつくしかった。

 

「その……薫ちゃんは。ここ、よく来るんですか」

「ああ。一ヶ月先、あそこのホールでやる予定の舞台の練習のためにね。そういえば……私が役者であることは君に伝えていなかったかな」

「ハイ、初耳……デス」

 

 そっか、やっぱり。これだけ立ち振る舞いがキチンとしているから、普通の人ではないだろうと薄々感じていたけど、役者さんかあ。あ、普通の人じゃないって言うのはおれみたいな社会不適合者のことを指してるわけじゃなくて、もっとこう、お星様みたいなカリスマがある人のことを指してて……おれ、何一人で言い訳してるんだろう。

 

「カッコいい、ですね」

「フフ、ありがとう。お金を払ってお客さんに来てもらう以上、中途半端な演技はできないからね。より儚く、より瀬田薫らしく、役を表現できるよう精進しているところさ」

「す、すごい……です。さすがプロ、って感じですね」

 

 でも、きみが役者だということは、おれを苦しめるあの幸せな笑顔たちを作っている人だということでもある。胸が苦しくなった。何勝手に苦しんでるんだろうな、悪いのは全部おれなのに。

 

「そうだ、ここで出会ったのも何かの縁。君にもチケットをプレゼントしようじゃないか! もちろんこの私、瀬田薫のサイン付きでね」

「え、あ、大丈夫……です。その頃には多分おれ、死んでるから」

 

 随分と軽く返してしまった。薫ちゃんは、大きく目を見開いておれを見ている。

 

「死……? す、すまない、差し支えなければ理由を教えてもらえるかな……」

「別に病気とかがあるわけじゃないんです。ただ、おれが勝手に死のうとしてるだけで」

「それは……自死、ということかい?」

 

 おれは頷く。薫ちゃんは、それ以上何も聞いてこなかった。でも、表情はさっきと比べて曇っている。不安そうに泳ぐ瞳は、優しくおれを見つめていた。

 

「子猫ちゃん。きっと君は私とあまり歳が変わらないだろう? 私が十八だとしたら、君は……」

「はい、十九です。来月で二十歳になる、みたいです。薫ちゃん、おれの一個年下だったんですね。大人っぽいから、同い年か年上かと思いました」

「……そうだね」

 

 きみは笑わない。むしろ、より表情が厳しくなる。おれは知っている。これからきみが口にする言葉を。何度も言われてきたその言葉を。

 

「出会ってばかりの私が、君にこんなことを言うのは無責任だと思う。けれど……私は、君に生きて欲しいと思うよ」

 

 ああ、よかった。やっぱり、きみも普通の人間だ。この世界で明日も生きたいと願える、普通の人間。おれがなりたくてもなれなかった、普通の人間だ。

 普通の人間の中でも、きみは立派な人間だな。出会ってばかりの、こんなろくでなしの浅はかな希死念慮にすらこころを痛めて、おれが生きる明日を願ってくれる、優しい人。そんな優しい人が幸せになれる世界になったらいいなって、勝手に思ってしまった。

 

「ありがとう。でも、考えは変わらないつもりです」

「……そうか」

「だから、おれが死ぬ時まで、よかったら仲良くしてください……なんておこがましいですよね、勝手に死んでろって話ですよね……はは」

「そんなことないよ。何、死ぬ時までじゃあまりにも時間が短すぎるからね、その後も儚い交友を続けようじゃないか!」

「て、天国でも仲良くしてくれるんですか! 光栄だなあ……」

 

 きみは優しいな。痛いくらい優しいな。こんなおれに寄り添おうと紡いでくれる言葉は、あたたかくていたい。やっぱり、きみはどこまでも太陽だ。

 きみとおれが出会ったのは、神様のいたずらなのだろうか。おれみたいな羽虫と、きみみたいな太陽。本来だったら、出会うはずのない二人だ。

 でも、もしこれがイタズラだったら神様は薫ちゃんに厳しすぎるかなあ。薫ちゃんくらい優しかったら、たとえちょっとしか話さなかった相手がポックリ死んだとしても、ちゃんと悲しんでくれそうだ。

 だから。

 

「薫ちゃん」

「また、会いましょうね」

 

 ……こうして逢瀬を重ねていけば、こんなおれでもきみの呪いになりうるかもしれない。そうわかった瞬間、心臓がドクンと脈打った。

 我ながら、実に悪趣味だと思う。これはきっと、自分を照らしてくれた太陽に抱く感情ではない。でも、おれはきみの中に何かを遺してみたいと、そう思ってしまった。きみという人間をもっと知りたいと、強く思ってしまった。

 それはきっと、きみという生き物がこの世界の誰よりもうつくしいと思ったから。そんな君に、おれを焼き付けたくなった。それだけ。ただ、それだけ。

 

 

 それから、おれたちは少しずつ逢瀬を重ねた。きみはどんな時もキラキラまぶしくて、つい目が眩んでしまう。そんな光に灼かれる時間が、おれは好きだった。

 きみを満月とするのなら、おれは欠けた月。きみは、おれに足りないものを全部持ってて、キラキラ輝いてる。足りないものだらけで真っ暗なおれと違って。

 

「この一ヶ月間、いろんなことがあったね。君と過ごす毎日、とても儚かったよ」

「ふふ、そうだね。薫ちゃんといっぱい過ごせて、嬉しかったなあ」

 

 ある日は、一緒に遊園地に行ったり。映画館で、一緒に映画を見たりもしたなあ。ホラー映画に怯える薫ちゃんがかわいくて、ちょっとだけ嬉しくなったっけ。

 薫ちゃんは、いつもおれの前を歩く。おれは、そんな薫ちゃんについていく。手を引いてくれる人がいるのって、こんなに幸せなんだな。幸せで、たまらないんだな。

 きみと過ごして、きみにおれが刻まれていく。おれと過ごして、おれにきみが刻まれていく。少しずつ二人のつながりが深くなって、すごく嬉しかった。きみのことが、より大好きになっていった。

 

「──くんは、私と過ごすことで少しは生きたいと思ってくれたかな。なんて聞いたら、君は怒るかな」

「怒ったりなんてしないよ。薫ちゃんと生きるのは、すごく楽しかった」

 

 薫ちゃんは、いつも優しくて、まぶしい。明るくて、まっすぐで、綺麗で。ああ、すきだ。だいすきだ。

 だからね、薫ちゃんには、ずっとおれを理解しないでいて欲しい。そう思ってしまった。薫ちゃんを、おれで穢したくないから。

 でもね、ちょっとでもおれのせいで薫ちゃんが傷ついてくれたらいいなあ、なんて思ってるおれもいる。ああ、おれってこんなに性格悪かったっけ。きみにとって思い出したくもないトラウマみたいな最悪な男になることを夢にしてる男が、性格がいいわけないか。自嘲するように笑ってみた。

 

「ここからは、月がよく見えない?」

「ああ、本当だね……とても綺麗だ。こんな素敵な場所を教えてくれてありがとう! 今日は、どうしてここに連れてきてくれたんだい?」

「それは──薫ちゃんにサプライズプレゼントをしたいと思ったから」

 

 ねえ、薫ちゃん。夏目漱石はアイラブユーをなんて訳したんだっけ。こんな綺麗な満月の日には、なんていうんだっけ。きっと、きみならわかるはずだよ。

 

「ねえ、薫ちゃん」

「ふふ、なんだい? 子猫ちゃ──」

「月が、綺麗ですね」

 

 そう告って、ふわりと月の王国へと飛び立つ。くっきりとした空の中、まんまるな月に照らされるきみは、たしかにおれを見つめている。

 きみがおれの名前を呼ぶ。苦しそうに、それはもうひどく、苦しそうに喉が震える。その瞳からは星屑が溢れ、おれを救おうと伸ばした手は空を泳ぐ。

 綺麗ですね。とっても、綺麗ですね。それはもう、月なんかより、よっぽど。

 おれはもうじき月の国に行っちゃうけど。いつでも、きみのそばにいます。きみの傷口として、永遠に。

 満月の日には、おれを思い出してね。月が綺麗な日は、おれを思い出してね。そしたら、おれも月の国から返事するよ。

 ──きみを、愛していますって。


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